辻邦生『西行花伝』

 今年は年始から“大作づいている”とでもいおうか、意識的に長篇小説に取り組んでいる。
 たとえば1月末から2月末にかけては、ドストエフスキー原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫、三巻本)を8年ぶりで読んでいた(27日間かけて読了した)。その間、新聞書評に惹かれて偶々読んだ児島青『本なら売るほど(1)』(KADOKAWA2025)の第4話「201号入居者あり」(pp.87-126)に、まさにその新潮文庫版カラキョーが登場したことには驚いた。
 5月には、著者の生誕100年を意識してのことでもあったが、辻邦生西行花伝』(新潮文庫2011改版←新潮文庫1999←新潮社1995)を手に取って、かなりの時間(3週間ほど)をかけて読み通した。こちらも読んでいる最中に、Eテレ「心おどる あの人の本棚(3)」(4月15日放送、録画を視聴)で角幡唯介氏が紹介しているのをたまさか目にして驚かされたものだった。辻の「作り込んだ世界観に嵌まった」という角幡氏は、自身の本棚にある文庫版の『西行花伝』を取り出してみせながら、「すごい傑作」、「構成もそうだし、文章表現もそうだし、テーマ性」も含めて「この小説としての完成度の高さがすごすぎ」る、と語っていた。ちなみに、NHKテキストの『心おどる あの人の本棚』pp.25-34(角幡氏のパート)には、『西行花伝』を含めて辻の作品は紹介されていない。
 『西行花伝』(以下『花伝』)は、西行*1(元永元1118年-建久元1190年、俗名・佐藤義清〈のりきよ〉)の生涯を、西行自身をも含めた様々な語り手たちの独語や述懐をとおして重層的に描き出した作品である――と、ごく大雑把に言ってしまえばそのように纏めることができる。言語表現はあくまで今様=当世風であって、例を出せばきりがないのだけれど、二三挙げておけば、まずは西住上人の語りに、

人々は爆笑し、歓声をあげ、鳥羽離宮という場所柄も忘れた陽気なお祭り騒ぎになったのでした。(「三の帖」p.132)

というくだりが有る。しかしここにみえる「爆笑」は、「比較的新しいことばで、昭和時代に入ってから一般化したものと考えられ」る(飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から』新潮文庫2017←三省堂2014:54)。
 また、西行による(架空の)書翰を和らげた部分には、

私から宮大工へ、宮大工から木彫(ほりもの)師へ、私の力が運ばれ、伝達され、木彫師の鑿(のみ)を伝って欄間の天女の透し彫りに変成してゆく。(「十八の帖」p.676)

と有るのだが、この「宮大工」は、

 わたしは法隆寺の棟梁です。代々法隆寺の修繕や解体を仕事にしてきたんです。昔は『宮大工』とはよばずに『寺社番匠(じしゃばんしょう)』と言っていたそうです。これが明治の廃仏毀釈政策をさかいめに社より上にあった寺がなくなり、『宮大工』と呼ばれるようになったんです。(西岡常一『木に学べ―法隆寺薬師寺の美』小学館ライブラリー1991←小学館1988:10*2

という証言に随えば、こちらも近代以降の表現だということになる。それでも、ほとんど違和感を抱くことなく読み進められるのは、なにも作者の力業による訣ではなく、細部まで描き込まれた道具立てへの凝りようや、視覚や嗅覚などの五感にうったえかけて来るような書きぶりによるのだろう。そも当時の口語を復原できるはずなどないのだし、そういった点にあまりに拘りすぎると、かえっていささか感興を殺ぐことにもなりかねない。
 さて辻は、謎の多い西行の出家について、待賢門院璋子(康和三1101年-久安元1145年)への「かなわぬ恋」にその直接の原因があったとみたうえで物語を構成している。別のところでも次のように書く。

 西行が出家した理由は古来恋愛説、無常説などさまざまあるが、私は角田文衞氏が言われているように待賢門院との一瞬の禁じられた恋が決定的なものに思え、小説では、それを中心に描いた。(「ある恋の行方 『西行花伝』のパースペクティヴ」*3『物語の海へ―辻邦生自作を語る』中央公論新社2019所収:328)

 「角田文衞氏が言われているように」とあるのは、辻が「西行をめぐる歳月」(『物語の海へ』所収:325-27)*4で触れた、角田の『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄―』(朝日選書1985*5)をさすのだろう。『花伝』巻末にも書名が挙げられている(p.775)。
 その本自体は未読だが、白洲正子が面白いことを書いている。

 先日、角田文衞氏の『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書)を読んで、「申すも恐ある上﨟」(『源平盛衰記』「崇徳院の事」に出る表現―引用者)とは、鳥羽天皇中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。角田氏は極めて慎重で、そんなことは一つも書いてはいられない。が、実にくわしくしらべていられるので、読者はいやでもそう思わざるを得ない。著者にとっては大成功といえようが、巧妙な語り口にのせられた読者の方も、悪い気持はしない。それというのも、待賢門院が、非常に魅力のある人物だからで、たとえ盛衰記の逸話がフィクションであるにせよ、西行が「永遠の女性」として熱愛し、崇拝したことに、疑いをはさむ余地はないのである。(『西行新潮文庫1995←新潮社1988:52)

 しかしたとえば、鎌倉期に成立した『西行物語』は、出家のきっかけを佐藤憲康の死にあるとみる。そのくだりを引く。

 さて憲康は、
「朝は誰も、急ぎ鳥羽殿へ参るべきなり。うち寄り、誘ひ給へ」とて、七条大宮にとどまりけり。
 義清、次の朝、憲康を誘はむとて、大宮にうち寄りたりければ、門のほとりに人多く立ち騒ぎ、内にもさまざまに悲しむ声聞ゆれば、「あやし」と思ひて、急ぎ進み寄り、「何事ならむ」と思へば、
「殿は今宵、寝死にに死なせ給ひぬ」
とて、十九になる妻、七十有余なる母、後、枕に倒れ伏して泣き悲しむ。
 これを見るに、かきくらす心地して、「かくあらむとて、思はざる外の世のはかなき事を語りける」と思ふにも、はじめて驚くべき事ならねども、あやなしといふも愚かなり。わが身を身ともおぼえず、いとど疎ましき方のみしげくて、
 朝有紅顔誇世路 夕成白骨朽郊原
と口ずさび、少水の魚に心を澄まし、屠所の羊に思ひをかけ、やがてここにて髻(もとどり)切らまほしく思へども、「今一度、竜顔をも拝し、御暇をも申さむ」と思ひて、駒に鞭をすすめて参りけり。
 そもそもこの人は、義清には二年の兄にて、二十七ぞかし。老少不定の習ひといひながら、あはれにおぼえて、
 越えぬればまたもこの世に帰り来ぬ死出の山路ぞ悲しかりける
 世の中を夢と見る見るはかなくもなほ驚かぬわが心かな
 年月をいかでわが身に送りけむ昨日見し人今日はなき世に
(桑原博史『西行物語 全訳注』講談社学術文庫1981:50-51)

 『花伝』「六の帖」にみえる描写(pp.214-15)は、どうやら上記を下敷きにしたとおぼしいが、だからといって、それが出家の直接のきっかけになったとは看做していない。『西行物語』の訳注によると、これまでに唱えられた「出家の理由」に関する説は次の如くである。

 なお、佐藤義清の出家の原因は、四つの説にわけて考えられる。
一、 一般厭世説
二、 恋愛原因説
三、 政治原因説
四、 総合原因説
西行物語』をはじめ『撰集抄』などの説話集は、第一の説に属する。第二の説は、一般には信じられていないが根強い考えで、『源平盛衰記』の文章からはじまっている。第三の説は、藤岡作太郎氏の『西行論』から提唱されてきた。現在は、そのどれということなく、第四の総合原因説だ、というのが定説である。(同前pp.56-57)

 寺澤行忠氏は、「たしかに恋愛問題が出家の直接の誘因であった可能性は、かなりあったと考えられる」ことを一応は認めつつも、「ただ西行と待賢門院璋子がそのような関係にあったのかどうか、その事実を裏付けることはできない。西行自身は、自ら詠んだ歌の中に、恋の対象が特定できるような痕跡を、まったく残していない」(『西行―歌と旅と人生』新潮選書2024:30)と述べている。無難なところとしては、「直接」「間接」の別を問わず、上記の四の説を採ることになるのだろう。
 これに加えて、「そもそも西行の歌はいつ詠まれたのか、はっきりしないものが多い。伝記研究には有用であるところから、詞書などによって詠まれた時期や場所が特定できる歌が、多く取り上げられるが、詠まれた場所、あるいは詠まれた折の事情がわからない歌の方が、はるかに多い」という(寺澤前掲「はじめに」p.7)。
 たとえば、小林秀雄もかつて紹介した名高い歌として、『聞書集』所収の「地獄絵を見て」と題する連作がある。「見るも憂しいかにかすべき我心かゝる報い(むくひ)の罪やありける」に始まる二十七首のこの連作について、白洲正子は、西行が「再度みちのくへ旅をした後の(晩年の―引用者)歌であることは(略)想像はつく」(白洲前掲p.322)と書いているが、一般的にはこれらも、「いつごろ詠まれた歌か、まったくわからない」(寺澤前掲p.112)とされる。
 『花伝』には、西行をはじめ寂然や慈円の歌があまた引用されるが、上記の様に、いつの作か分らぬものについては、他の人物の回想部分に出すなど、巧妙に処理しているように見受けられる。
 一方、詞書などがあることで作歌時期を比定できそうなものについては、入念な調査を経て日にちを特定しているように感じる。たとえば次のようなくだり。

 西行がようやく新院のあとに追いつくことができたのは、その翌日の夜のことである。新院は船岡山の知足院で出家されたあと、仁和寺の御第五の宮覚性法親王のもとに行かれそこに閉居されていたのであった。
 すべては手おくれであった。どうせこうなるのならどうして早く出家をなさらなかったのか。重仁親王への思いを断ち切ろうとなさらなかったのか――西行はただ明るい月を見て無念の思いを嚙むしかなかった。
 西行がのちに書き残して私のもとに送ったのはこのときのことである。

 世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪(みぐし)おろして、仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨(けんげんあざり)出であひたり。月明(あ)かくて詠みける
 かかる世に かげも変らず すむ月を 見るわが身さへ 恨めしきかな

(「十三の帖」pp.521-22)

 まず、文中の「新院」は崇徳院(元永二1119年-長寛二1164年)のこと。「本院」(鳥羽院)に対する称である。崇徳院については、源顕兼編『古事談』「第二臣節」に次の如くあることがよく知られる。

五四 待賢門院に白河院密通し崇徳天皇誕生の事
 待賢門院は、白川院(ママ)御猶子(ゆうし)の儀にて入内せしめ給ふ。その間、法皇、密通せしめ給ふ。人皆これを知るか。崇徳院は白川院の御胤子(いんし)と云々。鳥羽院もその由を知ろしめして、「叔父子(おじこ)」とぞ申さしめ給ひける。これにより大略不快にて止ましめ給ひをはんぬ、と云々。
 鳥羽院、最後にも惟方(これかた)〔時に廷尉佐〕を召して「汝ばかりぞと思ひて仰せらるるなり。閉眼の後、あな賢(かしこ)、新院にみすな」と仰せ事ありけり。案のごとく新院「見奉らん」と仰せられけれど、「御遺言の旨候ふ」とて、懸け廻らし入れ奉らず、と云々。(伊東玉美校訂・訳『古事談(上)』ちくま学芸文庫2021:334-35)

 有名な話ではあるが、校訂者の伊東氏によれば「『古事談』以外未見である」(p.336)そうで、真偽ももちろん不明。しかし、こういった鳥羽院崇徳院との確執が、保元の乱の遠因になったともされる。『花伝』「四の帖」は、待賢門院堀河(堀河局)*6の語りをとおして西行の姿が描かれる章だが、ここにも、「鳥羽の帝と女院のあいだにお生れ遊ばされた御子――間もなく崇徳の帝になられるお方を鳥羽の帝はつねに「叔父子」とお呼びなされていたことは、側近にはよく知られていた事実でございました。(略)女院白河法皇さまと夜ごと逢瀬を楽しまれ、その御胤を女院が宿されるとしますと、その御子は、なるほど形の上では鳥羽の帝の御子ではございますが、実のところは、叔父に当られる方になるわけで、それで、この御子を「叔父子」とお呼びになったのでございます」(pp.138-39)というくだりがみえる。
 ちなみに、『花伝』のひとつの読みどころとなるのが、「十三の帖」から「十六の帖」に至る部分、すなわち、保元の乱で敗れた崇徳院の「讃岐配流」を経て、西行によるかの有名な「四国白峰鎮魂」へと至る條であって、そこでは、不本意にも争いに巻き込まれざるをえなかった崇徳院の悲劇が、哀切きわまる筆致で描かれる。
 さきの話に戻ると、「十三の帖」の引用部冒頭、「西行がようやく新院のあとに追いつくことができたのは、その翌日の夜のこと」とある「その翌日」は、「保元元年(1156)七月十二日」だと読めて、『花伝』では西行が「このときのこと」について「かかる世に~」の歌を詠んだことになっている。これについては、宇津木言行校注『山家集』(角川ソフィア文庫2018)の当該歌の「補注」に、

 この歌は保元元年(一一五六)七月一三日以降、一五日前後に詠まれたかと推測されていたのは誤り。七月一一日暁の合戦で崇徳院は白河殿を脱し、弟宮である仁和寺の御室・覚性法親王の許へ逃れた(愚管抄)。ときに鳥羽院にいた覚性へ書状で保護を願うも固辞され(兵範記)、一二日に院は出家(百錬抄)。世間的には一二日時点で院の存否・在所は不分明だったが、一三日には仁和寺潜幸が発覚、同日に寛遍法務の土橋旧房に身柄を移され、勅定による源重成の守護のもとに後白河院方に拘束された(兵範記)。土橋房は藤原顕季が建立した仁和寺の院家・最勝院に属し(平安遺文三五七九号)、後に妙心寺が創建された花園の地にあった(仁和寺諸院家記)。七月二三日に崇徳院は寛遍の房より源重成に警護されて鳥羽辺で乗船し、讃岐に配流された(兵範記、百錬抄)。従って、出家して北院にいた崇徳院西行が訪問したのは七月一二日夜に限定される。世間では在所不分明であった時点で極秘の情報を得て西行崇徳院のもとに駆けつけたと考えられる。(pp.363-64)

と有るから、「七月十二日」のこととみて矛盾はないようである。『花伝』は巧みにフィクションを織り交ぜながらも、そういった細かなところでは手を抜いていない訣である。
 なお「かかる世に~」の歌に関しては、『花伝』の解説(「『声』と化した『花』」*7)を担当した高橋英夫が、著書で次の如く述べている。

 西行崇徳院との関係は、徳大寺家、待賢門院との縁故で生じたものである。しかし見すごせないのは、院に対する同情、共感にしても人間的・歌道的な範囲を超えなかったことである。院を動かし、最後には打ち倒した政治については、西行はいかなる同情、共感も発動させていない。それは崇徳院と対立抗争した相手側、鳥羽院に対しても同様である。政治に近い場所にいながら、政治の次元での完璧な空白が西行を特徴づけている。
 そのことは崇徳院の悲運を詠じた「かかる世に」を見ても明らかだと思う。政治的激変と帝王の運命の大逆転は、一方で眼と「心」を灼(や)かずにはいない。他方ふりかえってみれば、大政変を照らしているの月の光はいささかも変りなく、澄みわたっている。それもまた「心」に沁みてくる。どちらも確実に眼の前にあり、どちらも否定することができない。そのことを西行は、二つのものの間に置かれてしまった「わが身」が恨めしい、としか言い表すことができなかった。(略)鳥羽院の立場も、崇徳院の心事も分る。だがそこまでであって、その先は西行の領域ではなかった。これが、政治を拒否した西行のゆくべき道、とるべき行動というものであった、と考えるほかはない。
 保元の乱は政治の中に武士が決定的に進出する節目を形づくったという意味で大きな事件である。このとき、武士出身の西行は、進出する勢力にことさら合流・接近・癒着したのではなかった。何かそれはもどかしいようでもある。西行の明確な政治的判断が読めないからである。だがこういうもどかしさは、西行が自ら選びとった政治的な「無」、つまり本質的な出世遁世の「隠」に不可避な特性である、と受けとるのがよいのだろう。(高橋英夫西行岩波新書1993:82-84)

 この様な「もどかしさ」、あるいはデタッチメントとでも呼ぶべきものが、果してどこまで西行の真意を穿っているのかは分らないが、争乱の世をつぶさに眺め、時の権力者たちと不即不離の関係を保ちつづけた西行は、後世を生きる多くの人の心を惹きつけてやまないようだ。
 たとえば角川春樹氏は、以下の如く語っている。

角川 西行(平安末期の歌人)の生き方が「聖と俗の環流」なんですね。西行は一般的に「数寄者」「漂泊の歌人」といったイメージで捉えられていますが、じつは出家したあとも平清盛勧進文書を送るなど、鳥羽院崇徳院後白河院といった時の権力者との交流を続け、僧籍にありながら武術を究め、十七歳年上のかつての思い人、待賢門院璋子のことで思い煩う「俗人」であり続けたんです。(略)二十三歳で西行が出家したあと、璋子も四十二歳で落飾(貴族が髪を剃り落として仏門に入ること)するんですが、西行が京都の嵯峨に庵を結んだのは、璋子が住む法金剛院が近かったからといわれています。西行は璋子の無聊を慰めるためにしばしば法金剛院を訪ねるんですね。何のための出家だかわかりゃしない(笑)。しかし、このように「俗」と「聖」に引き裂かれた西行だからこそ、彼の歌が人の心を打ったと私には思えます。西行を目標にした松尾芭蕉にもそれがあります。(伊藤彰彦『完全版 最後の角川春樹河出文庫2025←『最後の角川春樹毎日新聞出版2021:121-22)

 『花伝』では、こういった西行の聖―俗の往還についても余さず描かれている。辻は、さきに紹介した「ある恋の行方―『西行花伝』のパースペクティヴ」で、「西行の多くの謎のなかで(略)最も難解と思えたのは、出家した一歌人が、どうして時代の転換を劃する争乱のさなかで、世を支配する権力者に、かくも近い立場を保つことができたのか、またそれを保ちつづけたのか、という点だった」(『物語の海へ―辻邦生自作を語る』p.328)と書いているが、これについては自ら、

 鳥羽院崇徳院の対立が険悪化する宮廷に西行がしばしば姿を現わすのは(鳥羽院崩御に際会したのも決して偶然ではなかったに違いない)ただ待賢門院の御子崇徳院を、不幸な運命に向かわせないためであった。その意味では、崇徳院が、藤原兄弟の抗争という権力の力学に巻き込まれないように懸命の奔走をするのは、ひたすら亡き女院への愛の、いわば投影と見ていいものだった。
 そう考えなければ、なぜ保元の乱の直前まで西行が朝廷方の藤原忠実崇徳院側の藤原頼長との間を行ったりきたりする必要があったか、説明がつかなくなる。(同前p.331)

という「解答」を与えている。
 ここにも根柢に「女院への愛」があるわけだが、『花伝』が面白いのは、西行が、「歌による政治(まつりごと)」「この世の価値(かちまけ)や秩序(ととのい)の上に、こうした歌の世界が置かれ、人々の精神(こころ)がそこを実在(まこと)の場(ありか)として生きる」こと(「十五の帖」p.565)を新院に期待していた――とすること、誤解をおそれずに云えば、「武断」を超えた/を包摂しうる「文治」は可能かという問題を追求した求道者として、西行を描いているからではないかとおもう。

*1:ちなみに「西行」は号であって、僧名は円位。

*2:なおこの88年刊の元版が、Eテレ「心おどる あの人の本棚(5)」の鈴木敏夫氏の回(4月29日放送)に、はっきりそれと判る形で映り込んでいた。

*3:初出は『国文學』一九九四年七月号。

*4:初出は「波」一九九一年六月号。

*5:元版は1975年で、タイトルは本題と副題とが逆の『椒庭秘抄―待賢門院璋子の生涯―』だったようだ。

*6:永治二年(1142)に待賢門院が落飾した際(「八の帖」)、堀河も尼になったとされている。

*7:この解説文は、高橋英夫『ロマネスクの透明度―近・現代作家論集』(鳥影社2006)にも、「声と化した『花』―辻邦生」(pp.183-93)として収められている。