ラフカディオ・ハーン「平家蟹」のことなど

 昨秋、休みを取って4日間帰省してきた。その折に、熊本市中央区安政町に在る「小泉八雲熊本旧居」を約8年ぶりで訪れた。
 ラフカディオ・ハーン小泉八雲/1850-1904)が旧制の第五高等学校に赴任するため、妻セツと共に熊本に到着したのは明治二十四(1891)年11月19日のこと。その数日後、2人は市内の手取本町34番地に在った赤星晋策宅を借りて住むようになった。翌明治二十五年の11月には、坪井西堀端町に転居することとなるのだが、「熊本旧居」は、手取本町にあった家の「一部を切り取り現在地に移築保存し」たもので、「昭和43年には熊本市有形文化財に指定され、平成7年に解体復原され」たという(パンフレットから)。
 NHK朝ドラ(2025年度後期)の「ばけばけ」効果――なにを隠そう、わたしも録画して缺かさず見ている――もあってか、多くの人たちがひっきりなしに訪れていた。その再訪時に気づいた(前回はうっかり見落としたか)のだが、旧居内には「平家蟹」の標本も2体展示されていた。
 「平家蟹」は、まさにこのタイトルの随筆が、ハーンの『骨董』におさめられている。
 作品集『骨董』(Kotto)がロンドン、ニューヨークのマックミラン社から出版されたのは1902年のことで、9篇の再話体の伝説・怪談集「古い物語」と、11篇の随筆とから成っている。再話小説のほうには「幽霊滝の伝説」「茶わんのなか」「常識」*1など名高い怪談も含まれている。特に前2者はいま読んでも恐ろしい。「茶わんのなか」(平井呈一訳がよく知られており、これは紀田順一郎編『謎の物語』にもおさめられた)については「こわい話、おそろしい話」で以前紹介した。
 「平家蟹」は、その随筆のなかの一篇である。わたしが初めてこれを読んだのは岩波文庫旧版の平井呈一訳で、のちに平川祐弘氏訳(『怪談・骨董』河出文庫2024←『個人完訳 小泉八雲コレクション 骨董・怪談』河出書房新社2014)でも読んだ。
 いま手許に有るのは、昨夏出たばかりの岩波文庫改版(平井の「訳者解説」はそのままに、円城塔氏による「解説」があらたに附されている)であるが、そこから一寸引用して置く。

 ところで、この海岸(壇ノ浦のこと―引用者)でとれる、この奇怪な蟹は、「平家蟹」と呼ばれている。なぜ、そんな名がついたかというのに、この土地の伝説に、この海で溺れて死んだ平家の士卒の亡霊が、こんな形になってあらわれたと言い伝えられているのである。死物狂いのかれらの憤恚苦悶(ふんいくもん)の形相が、この蟹の甲羅に、今もってあらわれているといわれているのである。しかし、この伝説のもつ、ロマンティックなおもしろ味を味わうためには、諸君は、壇の浦合戦の古い錦絵――物すごい鉄の仮面をかぶり、おそろしい大きな目をした鎧武者をかいた、昔の色刷りの錦絵に通じておかなくてはいけない。(p.115)

 この随筆はまさに随筆と云うべく、ハーンが、長州から自宅に届けられた「蟹の箱」を切っ掛けとして気の向くままに記した一篇で、知人に描いてもらったというイラストも相俟って、わたしには愛らしい小品のようにおもえる。だが、「甲殻類恐怖症(ことに蟹が駄目!)」だという春日武彦氏はこの作品について、「個人的な意見」と前置きしつつも、「題材としては面白いのに、エッセイとしては退屈で凡庸だ」と評している。

 一応ここで平家蟹について説明しておくと、学名は Heikeopsis japonica で、シーボルト命名している。甲羅の表面の凹凸が、さながら怒っている人名のように見える。その事実と、瀬戸内海や九州沿岸に多く分布していることから、壇ノ浦の戦いで海に消えた平家の武者たちの霊が蟹の甲羅に浮かび出ているという伝説が生まれ、そこから平家蟹という名称が生まれた。
 個人的な意見を申せば、エッセイ「平家蟹」(略)は、せっかくの題材なのにつまらない。内容に奥行きが欠け、しかも文章が曖昧で分かりにくいのだ。冴えた考察とか、独特の視点といったものもない。(略)
 日本的なグロテスクさ(ハーン自身による作中での表現―引用者)と指摘されても、どうもよく分からない。そこを丁寧に説明しなければエッセイの意味がないと思うのだけれど、そのような作業は行われない。ゴシック建築に備わっている空想の怪物たちの姿を想像してみれば、平家蟹の「顔」は日本的(あるいは日本人的?)なトーンを帯びているような気がしないでもないが、やはり説明不足である。根付とかそういった工芸品には、なるほど造形として平家蟹のセンスに通じたものがある。でもそのあたりはもう少し掘り下げてみるべきではないのか。(略)
 KOTTOにもKWAIDANにも、蛍だの猫だの蝶だの蚊だの蟻だのを扱った博物学誌的なエッセイが収録されているが、そちらは「平家蟹」ほど不明瞭な文章ではない。ただし、やはり面白くない。良いエッセイにあるような豊かさやユニークな省察などがない。きわめて月並みだ。
 率直に申して、ハーンの文章は怪談話こそ面白いがそれ以外は読むのが少々苦痛である。
春日武彦『怪談の真髄―ラフカディオ・ハーンを読みなおす』筑摩書房2026:211-14)

 指摘はいちいちもっともで、反論の餘地はまったくないのだけれど、しかしそれでもなおわたしは、――これも随筆である「天の川叙情(ロマンス)」は別格として――「平家蟹」といった小品も、愛らしくおもえて好きである。
 小泉凡監修『小泉八雲の妖怪図鑑』(三才ブックス2025)という本には、pp.70-71に「平家蟹」が取りあげられており、ハーン自らがスケッチした平家蟹のイラストが*2嘉永六(1853)年刊の狂歌絵本、天明老人編/竜閑齋画『狂歌百物語』の画とともに掲載されている。ちなみに『狂歌百物語』には、「平家蟹を題材にした狂歌が45首」おさめられているという。
 ハーン「平家蟹」の後にも、平家蟹にインスピレーションを受けた作品などがすくなからず世に出ている。
 たとえば、五人づれ『五足の靴』(岩波文庫2007)の一節。著者の「五人づれ」とは、『明星』主宰の与謝野鉄幹(寛)、その同人の北原白秋、平野萬里、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇の五人をさす。『五足の靴』は、五人が明治四十(1907)年7~8月、九州北西部を歴遊した際の詩歌を交えた紀行文で、「東京二六新聞」に29回にわたって掲載された作品*3である。その「赤間が関」に、次の様なくだりが有る(8月8日付)。文中B生とあるのは萬里のこと。

 壇の浦町を過ぎて平家蟹を見た。B生は歩きながら一詩を作る。

 うしなはれたるそのかみの
 栄華や如何に。いたづらに
 歯をくひしばる平家蟹。』
 腕(かひな)の鋏刀(はさみ)、色じろの
 甲良(かふら)に刻む、人の面(おも)、
 無念のおもひ、平家蟹。』
 氏(うぢ)高うして蟹となる
 惨たるものゝ運命を
 咀(のろ―ママ。或は「詛」カ―引用者)はざらむや、平家蟹。』
 源氏の末よ、人間よ、
 わが一族ぞ海に生く。
 今こそしのべ、平家蟹。』
 海にしあれば、人の世の
 うつりかはりを知らずして、
 ひたすら怒る平家蟹。』
 ひとたび立てば、天(あめ)が下
 清盛の世にかへすべき
 未来を想ふ、平家蟹。』(pp.12-13)

 そしてこの4年後、すなわち明治四十四(1911)年の9月に、岡本綺堂の執筆した戯曲が「平家蟹」であった(翌明治四十五年4月、浪花座で初演)。この「戯曲 平家蟹」は、東雅夫編『伝奇ノ匣2 岡本綺堂―妖術伝奇集』(学研M文庫2002)で読むことが出来る(pp.490-518)。官女・玉虫の、源氏に対する恐るべき復讐の念を描いている。鬼気迫る一節を引く。

玉虫 今鳴る鐘は酉(とり)の刻……。平家の方々が見ゆるころじゃ。
(縁に出てあたりを視る。垣のかげより大いなる平家蟹這いいず。)
玉虫 おお、新中納言殿……。こよいも時刻をたがえずに、ようぞまいられた。これへ……これへ……。(檜扇にてさしまねけば、蟹は縁の下へ這い寄る。)余の方々はなんとされた。つねよりも遅いことじゃ。
(上のかたの木かげよりも、おなじく平家蟹あらわる。)
玉虫 おお、能登どのか。今宵は知盛の卿に先を越されましたぞ。(打笑む。)
(左右よりつづいて二三匹、四五匹の蟹あらわれいず。)
玉虫 おお、教盛(のりもり)の卿、行盛の卿……。有盛、経盛、業盛(なりもり)の方々……。みな打揃うて見えられましたの。(縁に腰をかける。)このごろの短か夜とは云いながら、あすの朝まではまだまだ長い。今宵はなにを語って明かしましょうぞ。(蟹にむかって問い、又うなずく。)毎夜毎夜の物語も、つまるところは平家の恨みじゃ。この恨みは一年二年、五年十年語りつづけても、容易に尽きることではあるまい。(蟹を見て、ひとりうなずく。)そうじゃ、そうじゃ。源氏が栄えてあるかぎりは、平家の恨みは消え失せまい。おお、それで思い出した。最前浜辺で宗清にゆき逢い、その物語によるときは、景清は姿をかえて鎌倉にくだり、家重代の痣丸に源氏の血を染めるとのことでござりまするぞ。ほほ、勇ましい覚悟ではござりませぬか。万一、景清が仕損じても、平家一門の呪詛(のろい)によって、源氏のゆくすえも大方は知れて居りまする。(云いかけて、又うなずく。)おお、云うまでもござらぬ。まず当のかたきの義経をほろぼして、次は範頼……次は頼朝……。おお、まだある。頼朝には頼家という小倅があるとやら……これも、助けては置かれぬ奴、勿論呪い殺しまする。その弟(おとと)も……又その子も……その孫も……。二代三代四代の末までも執念く祟って、かりにも源氏の血をひくやからは、男も女も根絶しにして見せましょうぞ。
(云う声はしだいにうわ嗄〈が〉れて、鬢髪〈びんぱつ〉そよぎ、顔色すさまじ、下の方の木かげより以前の雨月忍び出て、息をのんで内の様子を窺う。玉虫はかくとも知らず、更に祭壇のかたを指さす。)(pp.506-07)

 さらにその2年後、即ち大正二(1913)年の9月20~28日には、南方熊楠が「日刊不二」に「平家蟹の話」を連載している。その一部を引く。

 七月十二日の本紙三面堺大浜水族館の記に平家蟹の話があった。この平家蟹という物、所によって名が異(かわ)る。『本草啓蒙』に、「一名島村蟹(摂州)、武文蟹(同上)、清経蟹(豊前長門)、治部少輔蟹(勢州)、長田〈おさだ〉蟹(加州)、鬼蟹、夷〈えびす〉蟹(備前)。摂州、四国、九州にみなあり、小蟹なり。甲大いさ一寸に近し。東国には大いなるものありという。足は細くして長きと短きと雑〈まじ〉りて常の蟹に異なり。甲に眉目口鼻の状〈さま〉宛然として怨悪の態に似たり。後奈良帝享禄四年摂州尼崎合戦の時、島村弾正左右衛門貴則の霊この蟹に化すと言い伝う。しかれども唐土〈もろこし〉にもありて、『蟹譜』に、「背殻〈こうら〉の鬼の状〈かお〉のごときものは、眉目口鼻の分布明白にして、常にこれを宝翫〈めであそ〉ぶ」と言い、野記に鬼面蟹の名あり」と見ゆ。
 平家蟹の学名ドリッペ*4・ヤポニクス、これはシーボルトが日本で初めて見て付けた名だが、種こそ違え、同様な鬼面の蟹は外国にも多い。例せば、英国の仮面蟹(めんがに)は、ドリッペ属でなくコリステス属のもので、容体(かたち)よほど平家蟹と違うが、やはり甲に鬼面相がある。ただし平家蟹ほど厳(いかめ)しくない。(略)
 右様の人間勝手の思い付きで、この蟹の甲紋を西海に全滅した平家の怨霊に擬(よそ)えて平家蟹と名づけたが、地方によって種々の人の怨霊に托(かこつ)けて命名されおるは、上に『本草啓蒙』から引いた通りだ。(略)
 『和漢三才図会』に、元弘の乱に秦武文(はたのたけふみ)兵庫で死んで蟹となったのが、兵庫や明石にあり、俗に武文蟹と言う、大きさ尺に近く螯(はさみ)赤く白紋あり、と見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい。(「平家蟹の話」*5中沢新一責任編集・解題『南方熊楠コレクション2 南方民俗学河出文庫1991所収:143-45)

 なお、伊藤慎吾・飯倉義之・広川英一郎『怪人熊楠、妖怪を語る』(三弥井書店2019)の「熊楠妖怪名彙」pp.105-06にも上記の一部が引かれている。ところで、この『怪人熊楠、妖怪を語る』巻末の「熊楠妖怪関連年表」を参照すると、大正二年9月の項に〈「平家蟹の話」発表 *『日刊不二』連載〉とあって、同年11月の項には〈「平家蟹の話」発表 *『不二』4掲載〉とある(p.117)。後者は別のものではなくて、連載をひとつに纏めたもの、ということなのだろうか。

*1:「常識」は、呉智英氏の『ホントの話―誰も語らなかった現代社会学全十八講』(小学館文庫2003←小学館2001)がとり上げていたと記憶する。20年ほど前、呉氏が大学へ講演に来られた際、ハーン「常識」をめぐる見解について挙手して質疑したことがいまでは懐かしい。

*2:そういえばこの絵は、池田雅之『小泉八雲―今、日本人に伝えたいこと』(平凡社新書2025)のカバー写真にもあしらわれている。

*3:新聞掲載後、長い間埋もれており、戦後になって発掘したのが野田宇太郎であったという。

*4:先に春日氏の文章から引いた属名のHeikeopsis(ヘイケガニ属)は、どうやら近年になってからの呼称であるらしく、また熊楠のいう「ドリッペ」(Dorippidae)は属名ではなく、上位分類の科名(ヘイケガニ科)に当るらしい。

*5:底本は平凡社版『南方熊楠全集 第六巻』。