赤線と青線

三日まえに観た『洲崎パラダイス・赤信号』の記事で、「赤線」「青線」というコトバにふれた。この言葉について書いてある本が、夫々どういう説明をしているのか気になったので、ちょっと調べてみた。出来れば、一次資料に当るべきなのであろうが、取り敢えず、手許にある本を見てみることにした。
現代“死語”ノート〈2〉1977‐1999 (岩波新書)

〈青線〉
飲食店の営業許可を得て、〈赤線〉と同じ売春を行なっていた地域のこと。東京でいえば、新宿花園町の飲み屋街である。飲んだ勢いで店の女の子と……というわけだが、〈赤線〉との差は、酒中心ということか。
小林信彦『現代〈死語〉ノートⅡ―1977〜1999―』岩波新書2000,pp.216-17)

上は「ボーナス・ノート」、一九五二(昭和二十七年)の項から。

●赤線・青線―昭和二一年一月占領軍(GHQ)は公娼制度廃止を指令した。しかし、十二月の内務省通達は、特殊飲食店を認め、娼婦の自由意思による売春を許可した。警察が地図の上に赤線で囲ったことから赤線と呼ばれた。東京の吉原、玉ノ井などがそれ。三十五年四月の売春防止法実施で赤線の灯は消えた。青線は、飲食店の営業許可だけで、実質的には売春兼業をしている飲食店街のこと。
(榊原昭二『昭和語―60年世相史』朝日文庫1986,p.91)※昭和21年(1946)の項より。

明治・大正・昭和の新語・流行語辞典
【赤線】
一二月二日、内務省通達で、風致上支障のない地域に限って特殊飲食店を許可し、売春婦の自由意志(ママ)で売春を認めた。警察はその地域を赤鉛筆で囲ったところから「赤線地帯」「赤線地域」と呼ばれ、略して「赤線」となった。旧吉原や旧私娼窟の玉の井などがそれである。その他、地方の「いわゆる赤線」も集団売春地区であった。◆一九五八年、売春防止法によって「赤線」は廃止された。『朝日新聞』(一九五八年三月一五日天声人語)に「”赤線”の灯は、きょう十五日で全国的に消える」とある。
【青線】
「赤線」に対して、もぐりの集団売春地帯を指す俗称。毎日新聞記者の造語。歌舞伎町と花園町(今の三光町)など、都内に六ヵ所あった。
米川明彦編著『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』三省堂2002,p.166)

これも先に挙げたものと同じく、一九四六年=昭和二一年の項にある。

いろの辞典
あかせん[赤線]=昭和二十一年(1946)、GHQ民主化政策の一環として「公娼廃止命令」を発令。これで、長く続いた遊郭の歴史は一応幕を閉じたが、政府は性風俗の混乱を防ぐ為にと称して、従来の遊廓や売春地区を『特殊飲食街』として指定し、その区域内での売春行為を黙認することにした。営業許可区域が警察署の地図上に赤い線で記されたことから、この地域は通称『赤線地帯』略して『赤線』と呼ばれた。またこの地域の周辺には、赤線に向かわせるために男達を呼びとめる地帯が形成され、『青線地帯』と呼ばれた。当時、『赤線』は都内に16か所あった。
(小松奎文編著『いろの辞典【改訂版】』文芸社2000,p.22)

ここでは、「青線」の定義が、何故かおおかたのものとは違う。

明治九年、警視庁からの通達で、各警察署は管内の地図の遊廓の部分を、朱筆でもって囲むことになった。これが、赤線のいわれなんです。といっても、赤線地帯という呼びかたがおこなわれたのは、やはり戦争に敗れてからでしょう。
昭和三十一年五月二十一日、売春防止法が成立したときに、東京には十六ヵ所の赤線があった。溝口健二の「赤線地帯」のモデルになった洲崎、吉行淳之介五木寛之が小説に書いた新宿二丁目、江戸からの権威を伝える吉原、おなじく落語の「居残り」の舞台である品川、おなじく江戸時代からの千住、永井荷風の「濹東綺譚」で有名な玉の井、おなじく荷風が戯曲に書いた向島の鳩の町、亀戸、亀有、立石、新小岩、小岩と新小岩のあいだの千葉街道にあった東京パレス、東京急行目蒲線の駅名に残っている武蔵新田、八王子、立川の錦町、おなじく立川の羽衣町、この十六ヵ所で、それぞれに公認された娼家がかたまっていたわけだ。
それに対して青線は、いずれも敗戦後にできた売春街で、公認はされなかったが、既成事実を楯にして、いわばお目こぼしを願っていたわけですな。赤線地帯と区別するのに、どう呼ぶべきか、という話が出たとき、警視庁づめの新聞記者のひとりが、青線はどうだ、といったのが始まりだそうだ。これは新宿二丁目、おなじく三光町、おなじく歌舞伎町、北品川、亀有、吉祥寺の武蔵八丁街の六ヵ所があった。(中略)
青線はあくまでも飲み屋という名目だから、一階にはカウンターがあって酒を飲ませて、二階が売春の場所になっていた。(都筑道夫『昨日のツヅキです』新潮文庫1987より「赤と青」,pp.112-14)

都筑氏によれば、明治九年には「赤線」という言葉がすでに存在したのだそうである。他の記事は、「赤線」が生れたのは戦後だ、とでも言いたげな書きぶりである。
「赤線」は明治九年に生れた言葉である、という説が存在することについては、竹村民郎も言及している。

性の用語集 (講談社現代新書)
一九四六年が「赤線」のルーツであるとする広岡(敬一―引用者)説はよくある説の一つであり、一般的にはこうした説が流布している。これに異説を主張しているのは、風俗研究家で映画『赤線』(一九五八年)の製作者である小野常徳である。

『赤線』の言葉の由来は案外古い。明治九年二月二十四日に公布された『貸座敷並娼妓規則』で業態地域が指定された時、地図に朱筆で境界線をひいた。(「売春ノート―売春婦は全国で約二十万人」『えろちか』復刊第二号、一九七三年)

井上章一&関西性欲研究会『性の用語集』講談社現代新書2004,竹村民郎「赤線」.p.303)

但し、竹村氏は続けて以下のように述べる。

筆者が調べたところでは、小野説を傍証するものはない。例えば警視庁編『警視庁年表』(一九六八年)の一八七六年の事項にも「赤線」の由来については記されていない。ここからわかるのは、第一に「赤線」のルーツはいずれにせよ警察用語であったこと。第二は戦後遊廓は廃止されたが、跡地での売買春は黙認されたこと。業者と娼婦は「特殊喫茶」「貸座敷」「給仕」「仲居」などの名目で営業をつづけたことである。(同上)

なお竹村氏は、「青線」については、以下の如く述べている。

「青線地域」が出現したのは、一九四八年であった(警視庁編さん委員会編『警視庁史 昭和中編(上)』一九七八年)。小野常徳によれば「青線」のことばの由来はこうである。「戦後新宿花園町の一画に満州からの引揚者が陣どって、階下が料理屋で二階で売春していた」状況を「毎日新聞の記者が、それじゃ青線と書こうじゃないかというので書き出した」(「性風俗取締りの変遷―小野常徳氏に聞く」『性・思想・制度・法 ジュリスト増刊』一九七〇年)。(同,p.305)

このあいだ参照した、『昭和33年』からも引用しておこう。

昭和33年 (ちくま新書)
戦後占領軍の命令で、公娼制度は廃止となった。しかし特殊飲食店と名称を変えて、業態は実質的には生き残る。日本政府は営業許可区域を定め、警察から風俗営業許可を取ることを条件に、営業の存続を認めた。これが俗に赤線地帯と呼ばれた。
ほかに青線という区域もあった。バー、キャバレーなどの飲食店が集中し、ホステスとの即席恋愛あり。赤線と違って非合法の風俗地帯だが、食品衛生法に則り保健所の許可を得て営業していた。赤線は性病対策が万全だが、青線はちょっとやばい。でも料金は安いという、顧客が思い迷う選択肢を提供していた。
(布施克彦『昭和33年』ちくま新書2006,pp.146-47)

また、『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)には、

あおせん-くいき【青線区域】〔名〕特殊飲食店の営業許可により公認の売春行為をしていた赤線地帯の周辺で、営業許可なしの売春を行なっていた飲食店街のこと。警察などの地図に青線で示したところからいう。
あかせん-くいき【赤線区域】〔名〕特殊飲食店として営業を許可された私娼街のあった地区。公娼制度が廃止された昭和二一年(一九四六)から、同三二年(一九五七)「売春防止法」が実施されるまで続いた。警察などの地図にこの地区を赤線で示したところからいう。赤線。赤線地帯。

とあるのだが、「あおせんくいき」の、「警察などの地図に青線で示したところからいう」という説明は、いったい何が根拠となっているのだろうか。
ついでに。小沢昭一『珍奇絶倫 小沢大写真館』(ちくま文庫)pp.199-244には、一九七四年当時の旧赤線地帯の写真がたくさん載っている。