続・近松秋江「黒髪」への誘い、4月の中公文庫のこと

 前回の記事で紹介した荒川洋治氏の「忘れられる過去」が、4月刊の『文庫の読書』(中公文庫)に入った(pp.24-29)。単行本の『忘れられる過去』、その文庫版の『忘れられる過去』、そして『文学は実学である』(みすず書房2020)にも収められてきたエセーである。
 当該の文章は、岩波文庫版の近松秋江『黒髪 他二篇』所収の「黒髪」について書いたという体裁になっており、文末にも「一九五二年、岩波文庫」とある。東京堂書店神田神保町店が、『文庫の読書』発売に合わせて「荒川洋治『文庫の読書』フェア 荒川洋治が選ぶ文庫100」を展開しているが、そこで配布されていたチラシには、岩波文庫版ではなく、現下新本での入手が可能な文芸文庫版の近松秋江『黒髪・別れたる妻に送る手紙』を挙げ、「同書(『文庫の読書』)で言及した作品が収録される別レーベルの文庫です」と注記しているのだけれども、しかし、荒川氏は「忘れられる過去」の冒頭で、

 近松秋江(一八七六-一九四四)の「黒髪」は、大正一一年の作品である。岩波文庫『黒髪 他二篇』の他、講談社文芸文庫『黒髪・別れたる妻に送る手紙』(一九九七)などに収録。新字新仮名で引用。(p.24)

と書いている。よって引用部は、旧字旧仮名の岩波文庫版ではなく、新字新仮名を採用した文芸文庫所収版と全同となっており(ルビが附された箇所も同じ)、しかも荒川氏は、岩波文庫所収の「他二篇」には特に触れていないので、「別レーベル」ということにあえて拘る必要もない。つまり、文芸文庫版『黒髪・別れたる妻に送る手紙』所収の「黒髪」について書いた文章、とみなしてもまったく問題はない。
 なぜこんなことを諄々と述べたのかというと、秋江の「黒髪」その他の作品にはどうも「異版」があるらしい、ということを知ったからだ。
 中島国彦氏は、近松秋江『別れたる妻に送る手紙 他二篇』(岩波文庫)巻末の「本文庫版のテキストについて」(1992年11月)で、次のように書いている。

 文学者が折に触れ自作に手を入れ修訂するのは自然だが、文学者の持つ〈興〉〈感興〉をエネルギー源として執筆活動を続けて来た近松秋江の諸作品は、他の文学者の作品以上に本文の手入れが激しく、そこに多くの問題が生まれている。(略)改稿の追跡は、作品の内容的価値とすぐさま直接つながらないことも多いが、秋江作品の場合は、改稿過程に作品の成長とその本質が内包されており、眼が離せないものになっているのである。(p.223)

 わたしには、いまその「改稿過程」をあきらかにする用意はもちろんないのだが、前回の文章をあげた後、恰もよし、近松秋江『霜凍る宵―「黒髪」三部作・雑誌初出版』(東都我刊我書房2023)が刊行されたのを知った。そこで早速、この本を取寄せた。同書は“後の「黒髪」”連作、すなわち「黒髪」「狂亂」「霜凍る宵」を収めており、初出の形に従って、「霜凍る宵」を、正篇と「霜凍る宵 續篇」とに分けている(このあたりの事情については前回の記事を参照のこと)。それぞれの初出誌・発表年月は次の通り。「黒髪」(「改造」大正十一年一月)、「狂亂」(「改造」大正十一年四月)、「霜凍る宵」(「新小説」大正十一年五月)、「霜凍る宵 續篇」(「「新小説」大正十一年七月」)。
 ただし注意すべきは(そしてやや残念なのは)、まず、「初出版」とはいえ原則として「新字新仮名」に改めているということ(少くとも「旧仮名」は残して欲しかったが、致し方ないだろうか)。もっとも校正漏れゆえか、「念を押すやうに」(「黒髪」p.19)と旧仮名づかいの残ったところも幾らか有る。
 第二に、明らかな誤脱が少なからずみられるのだが、それが初出誌に由来するものかどうか判断し難いということ。編集の際に生じたミスであることも否定できない。だから、意味が通じないと判断したところには、「ママ」注記などを附してくれるとなおよかった。
 この二点目について、「黒髪」一~三を見てみると、たとえば次の如くである(以下、我刊我書房版を「初」、岩波文庫版を「岩」とする。漢数字は節)。
 「紙白粉でを拭く」(一、初)「紙白粉で顔を拭く」(岩)、「と云ってもいゝくらの女」(一、初)「と云つてもいゝくらゐの女」(岩)、「高い思われるのは」(一、初)「高く思はれるのは」(岩)、「両頬をおうて」(一、初)「両頰をおほうて」(岩)、「女は九日の初に」(二、初)「女は九月の初に」(岩)、「あそこにいないとえば」(二、初)「あそこにいないと云へば」(岩)、「定めていない」(三、初)「定めてゐない」(岩)、「違えちゃけ可ないよ」(三、初)「違へちや可けないよ」(岩)、「すぐ居合あわせた俥」(三、初)「すぐ居合はす俥」(岩)、「小い*1(にきび)」(三、初)「小さい面皰(にきび)」(岩)、「女中ばかりの歩くとはちがう」(三、初)「女中ばかりの歩くのとは違ふ」(岩)、「ところどころに織りた縮緬の羽織」(三、初)「ところ/\゛に織り出した黑縮緬の羽織」(岩)……。
 とは云い條、「初出版」を三作ともすべて一冊で読めるようにしてくれたのは劃期的なこと。それに、①ルビがあることによって読みを確定できるところもあるし、②後の版で意図的に改められたであろう点、にも幾つか気づかされる。
 ただし、岩波文庫版の「黒髪」は何に拠ったか不明である。最初に述べたとおり文芸文庫版はこれに同じだが(新字新仮名に改めただけ)、文芸文庫版は巻末に「『日本現代文学全集45 近松秋江葛西善蔵集』(昭和四十年十月 講談社刊)を底本として使用し、新かなづかいにして若干ふりがなを加えた」とあるのみで、肝心のその現代文学全集の底本がそもそも判らない。
 しかしヒントはあって、前掲の文章で中島国彦氏は、「別れた妻に送る手紙」について、

本文庫(岩波文庫)の本文は、その表記やルビの付け方からみて、この「創元選書」版(昭和二十二年七月刊『黒髪』のこと)を底本にしていると思われるが、細部にはわずかの異同がある。(p.225)

と述べている。岩波文庫版『別れた(る)妻に送る手紙 他二篇』は1953年1月刊、同文庫版『黒髪 他二篇』は前年の1952年3月刊。とすれば、後者所収「黑髮」も同じく1947年刊の創元選書版所収の「黒髪」を底本としている可能性がたかい。それでも、創元選書が出たのは秋江歿後のことだから、この創元選書が何を底本としているかを探らなくてはならない……とまあ、どんどん溯ってゆくとキリがない。だからこそ、「表記」の面白さにまず惹かれた者としては(そしてまとまった時間をなかなかとれない身としては)、近松秋江『霜凍る宵―「黒髪」三部作・雑誌初出版』の刊行は、ありがたいことなのだ。
 以下、とりあえず「黒髪」一~三について、①ルビがあることで読みを確定できるところ、②後版で意図的に改められたであろう点、をそれぞれざっと眺めてみることにする(漢数字は節、ページ数はことわりのない限り我刊我書房版)。
 まず①には、次の様な例が有る。

口元なども屡々彼地(あちら)の女にあるやうに(仮名遣いママ)(一、p.11)

 岩波=文芸文庫版にルビなし。前回の記事で指示詞の漢字の宛て方について述べた通り、この用字はいかにも秋江らしい。

ひとりでに淡紅(とき)色を呈して、(一、p.11)

商売柄に似ぬ地味(こうとう)な好みから、(一、p.12)

これから行ってみたところで爲方(せんかた)もない(字体はママ)。(二、p.14)

心あたりもなく爲方(せんかた)なく(同じく字体ママ)(二、p.14)

 以上、いずれも岩波=文芸文庫版にルビなし。「為方」は「しかた」とも読みうるところ。これについてはたとえば「狂亂」五で、岩波文庫版は「飛びまはつても爲方(しかた)がない」(p.75)と態々ルビを振っているのだが、初出版の方は、「飛び舞わっても爲方(せんかた)がない」(p.80、同じく字体はママ)となっている。その他、たとえば「狂亂」六でも岩波は複数箇所の「爲方」に「しかた」とルビを振っている一方、初出版はいずれも「せんかた」となっている。少くとも初出版で「せんかた」とルビが振られているところは、それに随って読むべきではないか。
 また、

繰返しいって越(よこ)したにもかゝわらず(二、p.14)

女から越(よこ)したので、(三、p.15)

の2例はやや特殊か(①と、次に述べる②に跨る例とみてよいか)。これらは岩波版で「繰返しいつて寄越したにもかゝはらず」(p.9)「女から寄越したので」(p.10)となっているが、初出版を誤脱とするのは早計で、秋江の用字法としては「越(よこ)す」が本来であった蓋然性がたかい。というのは、「狂亂」二に「金だけ長い間送って越す」とあるところ、岩波版は「越(おこ)す」とルビを振っているが(p.60)、初出版はこちらにも「越(よこ)す」と振っているからだ(p.65)。岩波版のルビも、初出版に随って改めるべきではなかろうか。
 つづいて②に関していうと、たとえば、

電車の通ってる(二、p.14)

「私をよく覚えてたねえ」(三、p.21)

すらりとした姿が立ってた。(三、p.23)

といったいくぶん口語的な表現――小説作品でいうと獅子文六が多用するような――が、岩波版でそれぞれ、「電車の通つてゐる」(p.9)、「私をよく覺えてゐたねえ。」(p.16)、「すらりとした姿が立つてゐた。」(p.17)となっていることが挙げられる。これがかりに1か所だけであったならば、誤脱(初出誌の誤植もしくは転記ミス)で済ませてもよいだろうが、複数箇所にわたるので、偶然ではないと判断されるわけである。
 こういったものはほかにもある。以下3例挙げておく。まず、

「あの、お電話っせ」(三、p.18)

「今日そこから何処へおいでやすのす」(三、p.19)

これらは岩波版で、「あの、お電話つせ。」(p.13)、「今日そこから何處へおいでやすのす。」(p.13)となっていて、こちらも意図的に改変したものと察しられる。
 それから、

なるけそこに近いに宿を取りたい(二、p.15。「近いに」はママ)

「(上略)都合して成るけ早くおいで」(三、p.22)

 これらは岩波版で「なるたけそこに近い處に宿を取りたい」(p.10)、「(上略)都合して成るたけ早くおいで。」(p.17)となっており、「なるだけ」(初):「なるたけ」(岩)という対応がみられるし、また、

そして京都に着いたのは(三、p.17)

女に京都まで見送られて(三、p.23)

 こちらは岩波版では、「そして京都驛に着いたのは」(p.12)、「女に京都驛まで見送られて」(p.18)。いずれも「驛」が挿入されているのである。
 三部作を通して比較すると、さらに精しい傾向がみえてくるであろう。ここではあくまで、「黒髪」一~三に限って比べてみたにすぎない。
――
 荒川氏『文庫の読書』に触れたので、4月に出た中公文庫について少し述べておく。
 まず『文庫の読書』に、岩田一男『英単語記憶術』(ちくま文庫2014)について書かれた「会話のライバル」という文章が収められているのだが(pp.280-82*2)、そこに、

 半世紀前は、たとえば privacy (プライバシー)ということばは一般的には知られていなかった。プライバシーという概念そのものが日本にはなかったのだ。それで本書では、「三島由紀夫の『宴のあと』をめぐる紛争で有名になったプライバシー」という説明がある。こういうところには時代を感じる。でもそれも勉強になる。(p.281)

とある。同じく4月に出た小島信夫『小説作法』(中公文庫)には、「モデルとプライバシイ」(pp.40-47)という一文が見える。初出は「週刊読書人」(1961.4.3)なのだそうで、まさに『宴のあと』事件の渦中に書かれている。小島のこの文章は、

 このごろ、人の口からプライバシイということを時々きくたびに、おやおや、ムズカシイ単語が日常に使われだしたと思っていた。モデル問題とかんけいがあるらしいとは分っていたが、ジャーナリズムから外れたところで暮していたので、ただ騒がしいことだなと思ったくらいだった。(p.40)

と書き起されている。
 さらに同月刊の、中央公論新社編『対談 日本の文学―素顔の文豪たち』(中公文庫)*3に収める「田山花袋とその周辺」(田山瑞穂×平野謙、1970.3.14)の冒頭では平野が、「プライバシー」について、「いま、やかましくいわれているプライバシーにふれる点が多いわけですね。ところが、いわゆる私小説家といわれる人たちには、自分からプライバシーを公開するというような傾向があって…」(p.51)と語っている。
 ところで、この『対談 日本の文学』に収める「里見弴をめぐって」(里見弴×伊藤整、1968.6.15)には、次のようなやり取りがみえる。

伊藤 ところで「縁談窶(えんだんやつれ)」、ようございますね。あれは、実に鎌倉の雰囲気がいたします。例の小津安二郎監督のような人に撮らせたい作品ですね。
里見 題名は忘れましたが、映画にしているんですよ。しかも僕はそれを知らなかった。晩年親しくなってから撮ったと白状したんだけど、その時分は知らない人だから、けしからん奴がいると……。
伊藤 作者にはわかりますね。
里見 まるで俺の「縁談窶」そっくりじゃないかというんで、初めて会った時、いきなり僕は言ったんですよ。「あなた、人の作品盗んで、随分ひどいよ」って。「やあやあ」なんて言ってごまかしていたけどね。(p.158)

 里見の「縁談窶」は、丸谷才一が作品の内容は認めつつ、タイトルについて「エンダン『ル』」としか読めないじゃないか、と難詰していたことを思い出す。講談社文芸文庫版『恋ごころ』で読めたが、すでに版元品切となっている。それがこの4月、小津のメモリアルイヤー(生誕120年、歿後60年)に因んで*4(そして里見の歿後40年でもある)、里見弴/武藤康史編『里見弴 小津映画原作集 彼岸花秋日和』(中公文庫)の第二部「『晩春』をめぐって」に再び収められたのだった(武藤氏は、『晩春』のみならずモチーフが『秋日和』に似ていることにも言及している)。
 わたしもこれで、実に14年ぶりで再読しているところだ。なお編者の武藤氏によれば、「「縁談窶」全文が伏せ字を埋めて印刷されるのは今回が初めて」(p.349、詳細は同書に就かれたい)だという。
 このように、4月刊の中公文庫は互いにリンクするところがあって、まさに「芋蔓式」読書にうってつけなのだ。
 ちなみに小島の『小説作法』にも、秋江に触れた文章が収めてある。「いかに宇野浩二が語ったかを私が語る」(pp.341-64、初出は「早稲田文学」1985.8)というのがそれで、小島は、

「蔵の中」の序文で、(宇野は)近松秋江論というのをやるんだけども、それがものすごく手がこんでるわけです。(略)あっちからこっちから、短い序文の中に文壇のことから、近松自身のことから――近松もある程度宣伝しなければならない、自分は近松を全面的に人間として、大変な人間だと思ってる。変わった一途な人間でヘンな興味をもってる。だけど小説家としては、そうバカにならない恐ろしいところもあるかもしれないぞという、そういう全部を込めたことを序文に書いているわけですね。だから非常に手がこんでいるわけですよ。(pp.347-48)

などと語っている。

*1:「小い」というのは、秋江元来の送り仮名法だったとおもわれる。たとえば「靑草」五に、「小(ちさ)い芝居小屋」(『別れたる妻に送る手紙 他二篇』岩波文庫所収p.193)とある。

*2:初出は「モルゲン」二〇一五年三月号。『過去をもつ人』(みすず書房2016)に収む。

*3:中央公論社版『日本の文学』(全80巻)の月報対談を再編輯した三分冊の第一冊。毎月刊行予定。

*4:小津映画の原作小説といえば、その前月には大佛次郎『宗方姉妹(むねかたきょうだい)』が、やはり中公文庫で復刊されている。