ウォー『黒いいたずら』復刊のこと

 今秋とある新本屋に立寄ったところ、白水Uブックスの創刊40年を記念するフェアが展開されており、そこにイーヴリン・ウォー吉田健一=訳『黒いいたずら』が出ていたので愕いた。長らく版元品切れとなっていたはずの本であった。
 奥付をみると、「1984年11月10日 第1刷発行/2023年6月15日 第2刷発行」となっていた(このたび「オンデマンド印刷・製本で製作され」たものと云う)から、かなり長い間増刷されることなく品切れになっていたものとおもわれる。この本は、もともと吉田健一が1964年に訳出したもので、訳者解説の末尾にも「昭和三十九年七月」とある。
 同書の存在をはじめに知ったのは、小林信彦『本は寝ころんで』(文春文庫1997←文藝春秋1994)によってであった。小林氏はこれを、フレドリック・ブラウンやリチャード・フッカーの諸作品と共に「海外ユーモア小説・ベストテン」の一つとして挙げ、

 イヴリン・ウォーが日本で読まれているかどうか、ぼくは知らない。特殊な人以外は読んでいないような気がする。
 小説もトイレットペーパーも同じ消耗品、という文化風土において、とにかく、「黒いいたずら」が書店の棚にあるのは奇蹟に近い。イヴリン・ウォー入門書としても、イングリッシュ・ヒューマー入門書としても絶好の一冊だ。内容に触れるのはやめよう。吉田健一の訳と解説(日本の文化を差別しているラストの一行がすごい)もよい。実に不親切な解説だが。(pp.35-36)

と書いていた。わたしがこれを目にしたのは、世間にインターネットがさほど普及していなかった頃のこと。「内容に触れるのはやめよう」「日本の文化を差別している(訳者による)ラストの一行がすごい」などと云った思わせぶりな書き方も手伝って、余計に気になってしまったものだった。小林氏は94年時点で「書店の棚にあるのは奇蹟に近い」と書いているが、わたしがこの本を読んだ2000年前後には、すでにuブックス版も入手が困難だったとおもう。
 それから約7年後に、大阪・淡路の古本屋でW.A.グロータース/柴田武『誤訳―ほんやく文化論』(三省堂新書1967)を200円で拾った。その冒頭でグロータースは、吉田訳の『黒いいたずら』をさんざん槍玉にあげていた。『誤訳』の書かれた当時はUブックスはまだ刊行されていなかったから、グロータースが参照したのは1964年に刊行された元本(白水社刊)である。
 一寸具体的にその中身をみてみると、次の如くである。

わたしも、この作家(イーヴリン・ウォーのこと―引用者)はもっと読まれていいと考えている点で丸谷(才一)氏と意見が一致するが、丸谷氏が「非常に優れた翻訳」と言っている『黒いいたずら』(白水社 昭和三九)――”Black Mischief” の訳――を手にして読んでみて驚いた。本文の最初から誤訳また誤訳である。全体として、いい加減な仕事という印象を受けた。二、三その証拠を並べてみよう。
 この小説は、アザニア国皇帝がインド人秘書を相手に布告文の口述をするところから始まる。口述をやめて、ちょっとおしゃべりをしたあと、
「それで、どこまでいったんだっけ。」
と皇帝が尋ねたのに対し、秘書が、
「逃げて行きましたものについてのお言葉は書かないのでございますね。」(八ペ七行)(’ The last eight words in reproof of the fugitives were an interpolation? ’)と答える。 interpolation は「書かない」ではなくて、むしろ「書く」こと、無関係なことの書き入れである。(略)
 すぐ次の段落(九ペ三行)に、
「複雑な烙印が押してある牛の群れ」
とある「複雑な」は、原文では elaborately(細かく仕上げた、念入りな)である。
 一行おいて(九ペ五行)、
「共同で粗末な畑を耕して」
とあるが、原文は cultivated it in irregular communal holdings だから、「でこぼこした共有地を耕して」というのがもとの意味である。(pp.2-4)

「二、三」の例をと云いながら、グロータースはその後もいくつかの誤訳あるいは脱落のある箇所を指摘したうえで、「文学の翻訳について大事な点は、語学的な正確さよりは新しい文体の創造であるということ、これはもっともなことである。しかし、言語学者として言いたいことは、語学上の正確さが無視されては、いい文体も何もないということである」(pp.5-6)と述べている。
『誤訳』はこのように、名訳とされてきたものを手厳しく批判したから、刊行当時かなりの反響があったらしい。たとえば、以前「『小出楢重随筆集』のことなど」で紹介した植村達男『本のある風景』(勁草出版サービスセンター1978)にも、その書評が収められている。
 ただしこれには後日譚があって、谷沢永一が次のように書いていた。

▽ベルギー生まれの神父で日本滞在十数年のグロータースが、日本語の細かいニュアンスまで理解できると自称して『わたしは日本人になりたい』(昭和三十九年・筑摩書房)や『誤訳』(四十二年・三省堂新書)などを刊行、現代の翻訳小説に勇ましく噛みつき、野次馬の喝采を博したことがある。だが、その直後に都立大助教授・永川玲二が「ほんやく文化の悲惨と栄光」(『展望』四十二年十二月号)を書き、グロータースこそ吉田健一などの苦心の名訳を“誤訳”と錯覚する文学的不感症にすぎないと反証した。
丸谷才一の「誤訳について」(『文藝』一月号によれば、永川論文に答えるよう『展望』編集部がいくらすすめてもグロータースは応じなかったそうだ。こういう問題では沈黙こそ敗北だ。(『紙つぶて(全)』文春文庫1986:158-59*1

 谷沢の書きぶりも少し意地悪のようにおもえるが、永川の論文を――直ちには読めないとしても――角地幸男「吉田健一と翻訳の文体」における引用などでみてみると、なるほど確かに、少くとも一点目の interpolation の訳し方については、永川のほうに分がありそうだ。
 とまれわたしは、この吉田訳『黒いいたずら』を本屋で見つけるなりいそいそと購入し、さっそく読んだのだったが、噂にたがわず、すこぶるつきのおもしろさだった。現代的な観点からすると、たしかに人種差別的な描写も目につくけれど、それはあくまで言葉(訳語)の表現上でのことであって、吉田も訳者あとがきで「この小説には、何々というものは、ということがない。それは先入主が働いていないということと同じであって」(p.308)云々と書いているとおり、ウォー自身が偏見や予断をもって書いていたのではないことは判る。
 ちなみにこの『黒いいたずら』は、1931年5月に書き始められ、ウォーは当初「約三週間で用意できる」と張り切っていたそうだが、実際には「完成するのに八カ月かか」り、最終的に手を入れたのは、翌32年5月21日のことだという(フィリップ・イード/高儀進訳『イーヴリン・ウォー伝 人生再訪』白水社2018*2:258-59)。
※ウォーの作品については、「イーヴリン・ウォー『ラブド・ワン』のことなど」にも記したことがある。

*1:日付は1972年3月23日。「自作自注最終版」ではp.280。

*2:訳者の高儀氏は2020年に亡くなったから、これは最晩年の訳業ということになる。