『橋本多佳子全句集』

 わたしが橋本多佳子や西東三鬼に興味を抱いたのは、十二、三年前に松本清張の「月光」『強き蟻』を読んだからだが、穂村弘氏は「私の読書日記」(「週刊文春」2019.10.3号)でこれと逆のことを述べている。すなわち穂村氏は、多佳子や三鬼の句集を入りくちにして清張の「月光」や『強き蟻』に関心を持ったのだという。もっとも「月光」は、句作の困しみや厳しさなどについて述べたものというよりもむしろ、多佳子と三鬼との関係について描いたもの、つまりゴシップ的な好奇心に応えるものであったと思う(だからといって、この作品を嫌いなわけではないが)。
 今年は、多佳子の生誕120年に当る*1。そこでこの数日、穂村氏が読書日記で紹介していた『橋本多佳子全句集』(角川ソフィア文庫2018)*2にお気に入りの革カバーをかけ、何処へ行くにもそれを携え、閑さえあれば披いていた。
 ひらき癖がついたせいか、「蟇(ひき)いでゝ女あるじに見(まみ)えけり」の句ばかり目に入るのが何となく可笑しかったが*3、「ゆくもまたかへるも祇園囃子の中」「子守唄そこに狐がうづくまり」「農婦帰る青田をいでて青田中」「木犀や記憶を死まで追ひつめる」「冬の旅日当ればそこに立ちどまる」「薔薇崩る切るに躊躇の長かりき」「蜂もがく生きるためにか死ぬためにか」「プールサイドの椅子身をぬらさざる孤り」「何の躊躇独楽に紐まき投げんとして」「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」など、孤独感や逡巡を感じさせる句がことに好みにあった。
 穂村氏は、多佳子の句に「孤独と誇り高さ、そしてナルシシズム」を感じ取っており、それらの「すべての源には、ただ一人で自らの宿命に対峙するという意識があるようだ」(p.130)と評している。その「宿命」というのは、穂村氏が直前で「いなびかり北よりすれば北を見る」の句を取り上げて、

「いなびかり」が「北」からしたのに南を見る者はいない。だから、この反応は当たり前なのだ。にも拘わらず、どうしてこんなに恰好いいのだろう。これが南や西や東では成立しないことはわかる。「北よりすれば北を見る」という反射的行為の中に、一瞬の宿命の暗示を見ているような感覚がある。(同前)

と記したことを受けたものだ。
 なお『全句集』所収、山口誓子の「解説 附多佳子ノート」*4によると、多佳子の作風に「ナルシシズム」がみられることは、当時の批評家らによっても「指摘」されてきたというが、誓子は、それは与謝野晶子の歌にうかがえる自己陶酔とは違って「自己愛惜と言うべきもの」だ(p.530)、と記す*5
 東直子氏も、「朝日新聞」(2018.9.15付)の「文庫この新刊!」で『橋本多佳子全句集』を挙げており、

「乳母車夏の怒濤によこむきに」「いなびかり北よりすれば北を見る」等、激しさと冷静さを併せ持つ橋本多佳子の独自の俳句作品に魅かれていたので、気軽に持ち運べる文庫版の全句集がとてもうれしい。

と書いていたし、「毎日新聞」(2018.10.14付)の「今週の本棚・新刊」も『橋本多佳子全句集』について、

 師の山口誓子が「一処一情」と評したように、対象と位置をきびしく選ぶ句が多い。「しやぼん玉窓なき廈(いへ)の壁のぼる」「いなびかり北よりすれば北を見る」「春空に鞠(まり)とゞまるは落つるとき」の視覚も鋭い。「白桃に入れし刃先の種を割る」。手元を見つめるシンプルな美しさがある。

と述べている。評者がこぞって「いなびかり」の句を択んでいるのが興味深い。これは「北を見る」の詞書をもつ一連の句のひとつであって、ほかにも「いなびかり遅れて沼の光りけり」「いなびかりひとの言葉の切れ切れて」などの佳句がそこに含まれる。
 ところで、藤沢桓夫に、「俳人橋本多佳子」(『大阪自叙伝』中公文庫1981*6)という文章があり、藤沢は次のように書いている。

 ここで思い出したが、その頃(「昭和十二、三年頃」―引用者、以下同)新潮社から出ていた「日の出」という大衆雑誌に私は「大阪五人娘」という長篇を連載することになり、その時の私の担当者が、後に樋口一葉の研究者として知られ、現在渋い良い短篇を書いている作家の和田芳恵氏だったが、雑誌の口絵に使う写真に、私が大阪の女学生たちと一緒にいるところを撮りたいという先方の注文で、私は当時帝塚山学院の女学生だった弥栄子(藤沢の母方の叔父石浜純太郎〈敦煌学・西夏語学者〉の娘、松本弥栄子のこと)の学友たち四五人にカメラに入ってもらったが、その一人のどこか岡田嘉子に似た少女が多佳子さんの長女の淳子さんだった。
 とにかく、そんな因縁から、いつとはなしに私は多佳子さんと知り合うようになるのだが、まだ当時は多佳子さんが兄事していた山口誓子氏も多佳子さんも水原秋桜子氏主宰の「馬酔木」に客員の形で参加していた時代だった。そして、多佳子さんは夫君と死別して間がなかったと記憶する。
 長身の多佳子さんは文字通りの容姿端麗の人だった。彼女の俳句の清楚なあでやかさ、形のよさがぴったりの才色兼備の佳人と言ってよかった。(p.279)

 『全句集』巻末の年譜によれば、一九三五(昭和10)年9月のところに「誓子に従い「馬醉木」へ同人加入、以後俳号を「多佳子」とする」(p.555)とある。ちなみにそれ以前の俳号は「多佳女」、さらにその前は「多加女」であった。また藤沢は前掲の文章で、「帝塚山の、学院から北へ二町ほどしか離れていない高野線の線路から一町東の位置に、多佳子さんの住居があった」(p.278)と書いており、さきの年譜によると、多佳子が「大阪市住吉区帝塚山へ転居」したのは一九二九(昭和4)年11月のことで、その直後に誓子と初めて面晤している。
 藤沢の文章は次のように結ばれる。

 (多佳子が)奈良県のあやめ池へ引っ越してから*7も、多佳子さんは時どき私の家へ遊びに来てくれた。色紙や短冊に気軽に自分の句を書いて行ってくれることも多かった。彼女らしい美しい字を書くひとだった。それらの句の幾つかをここにしるして故人を偲びたい。

 もの書けるひと日は紫蘇に指をそめ
 蓮散華美しきものまた壊る
 秋風にあさがほひらく紺張りて
 炉より火花ひとりの刻をさっと捨つ

(pp.281-82)

 ただしこの四句、『全句集』に収めるものとは若干の異同が有る。「蓮散華」「秋風に」の句は全同だが、「もの書ける」「炉より火花」の句は、それぞれ「もの書けるひと日は指を紫蘇にそめ」「炉より立ちひとりの刻をさつと捨つ」、となっている。

橋本多佳子全句集 (角川ソフィア文庫)

橋本多佳子全句集 (角川ソフィア文庫)

*1:三鬼はその一歳下であるから、来年生誕120年を迎えることになる。

*2:穂村氏は同誌で、「本と名のつくものの中でも文庫版の全句集は最高だ。何故なら、優れた作者が一生涯に作った作品のすべてを手の中に収めることができるから。その安心感と喜びは大きい。小説ではこうはいかない。短詩型の魅力の一つだろう。/橋本多佳子と云えば、「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」などで知られた伝説的な女流俳人だが、改めてその魅力に痺れた」(p.130)と書いている。

*3:三鬼の句に、「橋本多佳子邸にて」の詞書をもつ「ぱくと蚊を呑む蝦蟇お嬢さんの留守」というのがある。

*4:初出は『橋本多佳子句集』(角川文庫1960)。

*5:同じく誓子によれば、「多佳子の美しさのことを言うひとがあると、多佳子はいつも私には美しさはありません雰囲気があるだけですというのを常とした」(同前p.529)という。

*6:朝日新聞社1974年刊を文庫化したもの。

*7:多佳子が「奈良県生駒郡伏見村字菅原(現奈良市あやめ池)へ疎開」したのは、年譜によると一九四四(昭和19)年5月のこと。

「シバヤ」――『加藤武 芝居語り』餘話

 前回引用した市川安紀『加藤武 芝居語り』(筑摩書房2019)は、小林信彦氏の「本音を申せば」(「週刊文春」2019.8.15・22合併号)でも紹介されており、そこで小林氏は、「この〈芝居語り〉は「キネマ旬報」の連載のつもりで始めたが、加藤さんの死(二〇一五年)によって挫折し、本で出版する、という形になったのではないかと思う」(p.68)などと述べているが、その最初の方で、

 両親が清元(きよもと)好きということもあり、小さい時から芝居(しばや*1と発音してるのが下町っ子らしい、私の祖母もそう発音していた)が好きであった。特に歌舞伎が大好きで、兄たちと同じ泰明(たいめい)小学校に入った。この〈泰明小学校〉というところで、加藤武さんが芝居のエリートであることがわかる。(同前p.68)

と書いている。「しばやと発音してる」というのは加藤武のことだと読めるが、わたしが一読したかぎりでは、それをうかがわせるような記述は見当らなかった(そそっかしいわたしが見落しているだけかもしれないが)。
 ただ同書は、六代目尾上菊五郎新橋演舞場での挨拶(1945.5.25)に言及していて、その発言内容を引いた所に、

 あっしはね、東京が焼け野原になっても、筵小屋をおっ建ててでも、芝や(芝居)を続けてまいります。どうぞしとつ、お前さんたちもね、火の中くぐっても観てやってくんなさい。(『加藤武 芝居語り』p.30、「芝や」の「や」、「しとつ」の「し」に傍点)

というくだりがみえ、六代目菊五郎が「しばや」と発音していたことは確かなようだ*2
 「しばや」と言った/を耳にしたかどうかは、固有名の「諸鈍シバヤ」(旧暦九月九日に奄美で行われる)などは別にして、山の手か下町かという地域性よりもむしろ、江戸期か明治期かあるいはそれ以降かという時代の違いに依るところが大きいだろうと思う。
 例えば、岡本綺堂は次のように書いている。

 演劇を我国では一般に「芝居」という。しかし江戸時代に「シバイ」という人は少い。知識階級の人は格別、一般の江戸人はみな訛って「シバヤ」と云っていた。その習慣が東京にまで伝わって、明治の初期から中期の頃までは、矢はりシバヤという人が残っていた。殊に下町の婦人などにはそれが多かった。
 私が二十歳の時、ある宴会の席上で一人の年増芸妓に逢った。その芸妓は私の膳の前に坐って、芝居の話などをしていたが、そのうちに彼女は私の顔を眺めながら突然にこんなことを訊いた。
「あなた、お国はどちら?」
「東京。」
「そうでしょう。そんならなぜさっきからシバイなんて変なことを云うの。あれはシバヤと云うんですよ。」
 叱られて、私は恐縮した。実際、明治二十四、五年の頃までは、花明柳暗の巷でシバイなどというと、お国はどちらと訊かれるくらいであった。それがいつか消滅して、今日では一般にシバイと正しく云うようになった。今日の芸妓に向ってシバヤなどと云ったら、あべこべにお国はどちらと訊かれるであろう。思えば、今昔の感に堪えない。
(「劇の名称」『綺堂随筆 江戸のことば』河出文庫2003:26-27*3

 これによれば、昭和初頭はすでに、東京でも「シバイ」が一般的になっていたようなのだ。江戸期には「シバヤ」とよく言われたというのは、国語辞典を引いてみれば直ぐにわかることで、例えば新村出編『広辞苑【第七版】』は「しば‐や【芝屋】」を立項し、「(シバヰの訛か)芝居。また、芝居小屋。浄、本朝廿四孝「京、大坂の―で甲斐の国の女子の鬼と、狂言にしたげな」」との語釈を施している。『日本国語大辞典【第二版】』も「しば-や【芝居・芝屋】」を採録しており、「「しばい(芝居)」をいう江戸の語。明治期にも広く用いられていた」と説く。これによれば、広辞苑の引く本朝廿四孝のシバヤの表記は「芝屋」であることが知られ、また「東海道中膝栗毛」四・上から「舞台さアへ、かけだいていやるにゃア、このしばやアならないぞ」、「浮世風呂」二・下からは「芝居(シバヤ)でする忠臣蔵をお見」という用例を拾っている。
 戦後の文章にも、「シバヤ」の出て来るものはあるが、往時を回顧した文章などに限られるようである。例えば、木村荘八は次のように記している。

 時の經つたことはわからなくなることの多いものです――それにしても、或る時祖母に連れられて、「船」に乘つて行つた「道」は、何處をどう行つたものかさつぱり見當がつきません。両國から出て、四ツ目の牡丹を見に行つたのかも知れませんが、その船で途中、夕立に逢ひました。船は篠つく雨の中にとまを立てて、或る橋の下に一時しぶきをよけました(後年小猿七之助の噺を聞いたり芝居を見たりすると、きまつてこの時のことを思ひ出します)。そして結局その日は、あとで、淺草へ行きました。――淺草へ行つてから先きのことだけを一つ、おぼえてゐるのです。
 それは芝居で、天からもや\/した光つた雲のやうなものが下りて來て、その下で人の戰ふシバヤを見ました。
 これが私の見た、私のおぼえてゐる、一番古い「芝居」です。
(「芝居見」『南縁隨筆』河出市民文庫1951:7-8*4

 荘八は、このように一箇所だけ意図的に「シバヤ」と表記しているのであり、これは芝居好きの「祖母」の口吻がそうであったか、もしくは幼時に周囲から聞くかしたのを、そのまま写し取ったものであったろう。

加藤武 芝居語り (単行本)

加藤武 芝居語り (単行本)

江戸のことば (河出文庫)

江戸のことば (河出文庫)

*1:この「しばや」に傍点有り。

*2:加藤の話しぶりについては、「ひ」が「し」になってしまう、という特徴はあったようで、同書には「築地に生まれ育ち、「どうかひとつ」を「どうかしとつ」になってしまう江戸っ子(加藤のこと)の周りには、常に芸能の匂いがあった」(p.14)とある。

*3:初出は「西郷山房随筆其一」(「舞台」1933.10.1)。

*4:初出は「歌舞伎 三十年記念號」(1951.3)。

『浮雲』、そして『放浪記』のこと

 2019年は成瀬巳喜男の歿後五十年に当る*1。そこで今年は、(これまでのところ)『歌行燈』(1943)、『めし』(1951)、『浮雲』(1955)、『放浪記』(1962)の四本を再鑑賞している。『歌行燈』『放浪記』は三度目、『めし』は四度目、『浮雲』は五度目の鑑賞だ。『めし』浮雲』はスクリーンで観たこともある。
 特に『浮雲』は、成瀬の命日である「七月二日」に観ることがかなったのだった。
 『浮雲』は、「日本映画史上に残る名作」などと言われたりして、映画番付には必ずといってよいほど登場する作品なので、邦画にさほど興味のない方でもご存じかもしれない。
 もちろん、これが名作であることを認めるにやぶさかではない積りだが、それでも、わたし個人としては――あくまで「極私的」な好悪という「超論理」の基準に則るものだが――、成瀬映画のベストテンに挙げるのは、やや躊躇われる(さらにいえば、同じ浮雲でも、アキ・カウリスマキの『浮き雲』の方が好きだ)。ことに、『鶴八鶴次郎』(1938)や『銀座化粧』(1951)、『稲妻』(1952)に『流れる』(1956)、そして『乱れる』(1964)など、成瀬のほかの名作品群にいったん触れてしまうと、『浮雲』はむしろ異端に属する作品なのでは?とさえ、思えてくるのである。
 とは云い條、『浮雲』は都合五度も観てしまっているわけだが(ここには三度目の鑑賞記録を記した)、こうして何度も観ていると、細かい点に気づいてしまうものである。
 例えば、高峰秀子森雅之との温泉での入浴シーンがある。この場面で高峰は左、森は右にいる。この配置は、作品の初めの方から大体そのようになっていて、高峰と森とが肩を並べて郊外を歩くシーン、千駄ヶ谷駅から二人で歩いて来るシーンとも、高峰が左、森が右である。
 ところがその入浴シーンから約8分後、今度は森が岡田茉莉子に浮気して二人きりで入浴する展開となり、そこでは森が左、岡田が右になっている。そのすぐ後に階段を二人でおりる場面も同様。この後、高峰と岡田とが対峙する場面があり、それを経た後、高峰と森とが二人でいる場面の配置がそれまでとは逆――すなわち高峰が右、森が左となる。この配置がしばらく続き、岡田が加東大介に殺されて退場した後も逆になっている。しかし、末尾の方で、高峰と森とが二人で鹿児島へ行く場面――高峰が束の間の幸福を得るくだりで、ようやく当初の配置(高峰が左、森が右)へと戻るのである。
 ちなみに言うと、入浴シークェンスにそれぞれ脱衣場のカットが挿入されているのだが、森の著物(左にある)と高峰の著物(右にある)のカットは、それを左から(つまり森のが前に来るように)撮っている一方で、森の著物(左にある)と岡田の著物(右にある)のカットは、それを右から(つまり岡田のが前に来るように)撮っている、という違いがある。
 それがどうした、と言われればそれまでなのだが、こういった人物配置にもなんらかの拘りがあったのだとすると、そのような観方も、なかなか面白い。
 ところで、今泉容子『〔改訂増補〕映画の文法―日本映画のショット分析』(彩流社2019)*2という入門書があって、「ショット分析 タイトル」の項で『浮雲』を取上げている。そこでは、『浮雲』冒頭に、林芙美子の未発表の詩(詳しくは同書p.274の注参照)の一節「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」が「挿入タイトル」として引用されていることに言及したうえで、「悲劇的な要素をもつ映画であることを暗示する」(p.273)と書かれているのだが、わたしが観た『浮雲』は、確か五度とも、その挿入タイトルは作品の末尾に配されていた。
 山田宏一氏も、『映画的な、あまりに映画的な 日本映画について私が学んだ二、三の事柄1』(ワイズ出版映画文庫2015)*3で、

林芙美子の原作小説にはないこの映画のラスト(愛と憎しみの果てに、男は女の死を慟哭して悲しむ)は水木洋子の脚本にもとづくオリジナルとのこと。「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」という原作者の林芙美子の墓碑銘にもなっているせつなくも美しい引用が、エンドマークのかわりに余韻を残し、薄幸の女の人生に涙をさそうという幕切れである。(p.226*4

と書いているのだが、今泉氏の書くように、エピグラフ風に冒頭に置かれるヴァージョンもあるということなのか知らん。
 この「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」は、林芙美子原作の成瀬映画『放浪記』でも、作品の最後に回想シークェンス(親子三人の行商場面)があって、そこに当該の文字が被さるような形で表示されて了わる。
 せっかくなので、その『放浪記』についても述べておきたく思う。この作品も主演は高峰秀子で、これはまさに、彼女のためにあるような作品だといっていい。高峰は、林芙美子(役名は林ふみ子)を、少女時代から晩年に至るまで演じ分けながら、林に感情移入させるのではなくむしろ人間としての生々しさに目を背けさせるように仕向けているのではないかと思わせるほど、その「いやらしさ」の側面を強調してみせる。自信なげで猫背気味に歩いてみせる様子から、だんだんと自信に満ち溢れた様子になってゆく演技の妙はさることながら、何かというと悪態をつき、成り上がるためには手段を択ばないという厭らしい人間くささを刻印している。
 高峰自身も、ふみ子を演ずるに当って、「人間臭さ。美と醜は表現しても、下品と紙一重で抑えること」「初めは泥くさい少女でも「放浪記」出版からラストにかけて、きたえられた一種の人柄と品を出すこと」等を目指したといい(高峰秀子『わたしの渡世日記(下)』文春文庫1998*5:344)、それがみごとに成功しているように思われるのである。
 もっとも高峰は、この作品に対する当時の批評が、「林芙美子に似ている/似ていない」という次元の話に止まったことに批判的に言及している。高峰は、『放浪記』を自伝的作品ではなくて一個の文学作品として理解しようと努めたようである。

 ところが、である。「放浪記」完成後の私に関する批評は、成瀬巳喜男にとっても私にとっても、まさに啞然とするようなことに終始したのである。それは映画そのものの批評というより、ただ「本物の林芙美子に似ている」「似ていない」「原作者をバカにした扮装だ」「林さんはあんな人じゃなかったろう」と、あくまでも生前の林芙美子にこだわった言葉ばかりだった。(略)「高峰秀子はミスキャストでダメ」ときめつけられたほうが、いっそ諦めがつくというものである。(略)要約すれば、成瀬監督と私は、はじめから「放浪記」をひとつの文学作品として理解し、その映画化に当たって、文学少女の執念と、その生きざまを描こうとしたのに対して、観る側の人々は「林芙美子の自伝映画」を観ようと思って劇場に足を運んだということだろう。そして、映画の中の林芙美子に仰天し、かんじんの映画鑑賞がそっちのけになり、「似てる」「いや、似てない」という、私としては問題にもしていなかったところだけが、印象に残ったということなのだろう。(高峰前掲、pp.345-47)

 しかし、後世の批評でも(いな、「後世の批評だからこそ」というべきか)、等身大の「林芙美子」自身を描いたもの、という見方が主流を占めるように思う。もっとも、それは、そのような見立てをすることによって、むしろ「映画そのものの批評」となり得ているわけだが。
 例えば榎並重行氏は、高峰が演技で表現したことを林の「俗物性」と表現し、次のように書いている。

『放浪記』では、むしろ表情変化の運動性を遅くし、表情の肌理をひとつひとつ定着させるような演技様態を取る高峰が見られるだろう。その終盤には、作家として成功を収めた林の暮らし振りが付け加えられ、原稿の依頼を断ると成功していい気になっていると陰口を叩かれるからすべて引き受けているとか、母親にいかにも時代劇に出てきそうな楽隠居然とした羽織を着せて原稿待ちの編集者たちの目に触れるように坐っているよう言いつけるとか、林の俗物性と疲労を引き出した後、彼女が書きかけの原稿に突伏して眠り、映画の冒頭につながる両親と行商の旅路にある幼年時代の自らの姿を夢見るかのような場面でもって終わるように、映画『放浪記』は林の『放浪記』を、いわば林自身の夢のなかで回顧され、自己劇化された物語として、呈示していた。高峰の遅らせ気味の表情・運動には、それ故、『放浪記』に込められた林の自己劇化を印づけ、林がそこに読み取られることを望んだであろう健気さや一途さを拭い去り、むしろほとんど俗物性すれすれの図太さを、その表情の肌理のなかに観客が捉え得るようにする批評性の遅延が、混入されていよう。こうした批評性は、当然にも、演技を映像上の描写や表現の手段ではなく、観客の知覚に働きかける運動性の課題の解決の実行として、把握していない限り、起こり得ない。成瀬映画における高峰秀子という俳優の重要性は、この点においてまぎれもなく際立っている。(『異貌の成瀬巳喜男―映画における生態心理学の創発洋泉社2008:222)

 また小林信彦氏は「本音を申せば」で、「林芙美子は、写真で見る彼女は、セクシーである。(『放浪記』の)高峰秀子は滑稽なメーキャップにしていたが、これは、いくらか誇張しているように思われる」(「週刊文春」2019.7.25:51)と書いており、こちらも林との比較において評している。
 さらに市川安紀氏は、高峰が「嫌な女」としての林を演じたことについて述べている。加藤武の貴重な撮影裏話とともに紹介しよう。

 杉村(春子)がハンセン病患者を演じた豊田四郎監督『小島の春』(四〇年)は、少女時代の高峰秀子が杉村の芝居に感動し、演技開眼した作品として知られる。その高峰が、作家林芙美子の自伝的映画に主演したのが、成瀬巳喜男監督の『放浪記』(六二年)だ。
 これに先立つ菊田一夫の脚本・演出による舞台版(六一年初演)は森光子の生涯の当たり役となったが、貪欲な懸命さで観客の共感を呼ぶ芙美子像をつくり上げた森とは異なり、高峰は人間の醜さもあざとさもむき出しのまま、貧乏のどん底から流行作家にのし上がる“嫌な女”として演じた。おそらく実際の芙美子はこちらに近かったのでは、と思わせる迫力だ。森との芙美子像の違いが実に興味深い。
 加藤(武)はこの『放浪記』で成瀬映画に初出演。伊藤雄之助らと共に、芙美子を取り巻く文学仲間の一人を演じた。ちなみに(加藤と)麻布時代の同輩で知的な二枚目で鳴らした仲谷昇も映画出演が多いが、本作では芙美子が最初に惚れるインテリの優男役。芙美子と二人で暮らす部屋にぬけぬけと美女の草笛光子を連れ込むという、しょうもない二股男である。
 高峰が主演し、夫の松山善三が監督した『名もなく貧しく美しく』にも加藤は出演していたが、高峰と現場で顔を合わせるのは『放浪記』が初めてだった。

「このときは宝塚映画でね。宝塚の撮影所って、劇場と温泉と遊園地ぐらいで、周りには何もないんですよ。初めて成瀬さんのセットに大緊張で入っていって〈よろしくお願いします〉って言ったら、キャメラの横に座ってた高峰さんがじーっと俺のこと見て、〈あ、日活の悪役が来た〉って。ボソッとひと言だけ。ひゃー、参った。よく観てたんだね。あとはもう全然、口もきかない。黙ってスッと行っちゃった。余計なことは何も言わないけど、鋭くて面白い人だよね、高峰さんは。
 中村メイコから聞いたのはね、やっぱり成瀬さんの映画だったかな、撮影が長引いて、天下の二枚目の上原謙さんが、さすがにくたびれてしゃがんでたんだって。そしたら高峰さんが〈しゃがみ上原~、しゃがみ上原~〉って。ニコリともしないで小声で呟いたんだって。もう大ウケ。あと仲代達矢から聞いたのは、成瀬さんの映画で仲代が高峰さんを殴らなきゃいけないシーンがあって、高峰さんが〈ぶっていいよ〉って言うから本当にビシャーッと引っぱたいたら、ぶたれたまんま〈……芝居はヘタだけど力あるんだねぇ〉って。そのままスーッと行っちゃったんだってさ。おっかしいよねぇ。

(市川安紀『加藤武 芝居語り』筑摩書房2019:109-11)

 文中に、「芙美子が最初に惚れるインテリの優男」を仲谷昇が演じた、とあるが、芙美子が「最初に惚れ」た(そしてその後も忘れることがなかった)のは、芙美子を東京に連れて来たのに自身は因島に帰ってしまったという「香取さん」だろう。これは事実に基づいていて、岡野軍一という男である。
 仲谷の演じた伊達にもやはりモデルがいて、詩人・俳優の田辺若男がそれに当るだろう。第三の男となる宝田明=福地(春日太一氏による宝田氏へのインタヴューが興味深い*6)のモデルは詩人の野村吉哉、そして、生涯連れ添うことになる小林桂樹=藤山のモデルは画学生だった手塚緑敏だろう。
 ちなみに高峰は、この緑敏からバラの花束を贈られたことを著書で明かしている。

 ただ、「放浪記」封切り後、思いがけず、林芙美子の夫君であった林緑敏から「故人が観たらきっと喜んだことと思います。彼女に代わってお礼を申し上げます」という手紙にそえられて、美しいバラの花束が届いたことだけが、私の唯一の気慰めになった。(高峰前掲、pp.347-48)

 さきに、成瀬・高峰が、『放浪記』を林芙美子の自伝映画の積りでつくったわけではないことを見たが、劇中の原作からの引用ひとつをとってみても、それはうかがい知られるところである。例えば――、
 まずは原作と同じところを挙げると、劇中で「四月×日 水の流れのような、薄いショールを、街を歩く娘さんたちがしている。一つあんなのを欲しいものだ」、「十月×日 夜更けて(谷中の―原作にあり)墓地の方へ散歩をする。本当に死にたいなんて考えないのだけれど、死にたいと心やすく言ってみる。〔以下独白〕それでなんとなく気がすむのだ。気がすむということは、一番金のかからない楽しみだ。(「本当に」から「楽しみだ」までは原作になし)石屋の新しい石の白さが馬鹿に軽そうに見える。いつかは、私もお墓(原作は「墓石」)になるときが来る。何時かは……。私はお化けになれるものだろうか……。お化けは何も食べる必要がないし、下宿代にせめられる心配もない。肉親に対する感情。恩返しをしなければならないというつまらぬ呵責。みんな煙の如し。まだ無縁な、誰のお墓(原作は「墓石」)になるとも判らない、新しい石に囲まれて、石屋さんは平和に眠っている。朝になれば、また槌をふるって、コツコツと石を刻んで金に替えるのだ。いずれの商売も同じことだ。石に腰をかけていると、お尻がしんしんと冷い」というのは、文言も月も原作その通り(それぞれ、岩波文庫版2014の「第一部」p.34、「第三部」pp.415-16、以下同様。但し、原作の「第一部」~「第三部」は時系列に沿ったものでは全くない)で、後者では、福地(原作では野村)との結婚を決意する独白がそれに続くところまでそっくり同じである。
 しかし一方で、「九月×日 茅場町の交叉点からちょっと右へ入ったところに、イワヰという株屋がみつかった」、「十月×日 私は毎日玩具のセルロイドの色塗りに通っている。日給は七十五銭*7也の女工さんになって今日で二ケ月(原作は四ケ月)」、「七月×日 童謠をつくってみた。売れるかどうかは判らない。当てにすることは一切やめにして、ただ無茶苦茶に書く。私の思いはそれだけだ」等といった箇所は、文言はほぼ同じだが、原作ではそれぞれ「第二部」六月×日(p.200)、「第一部」十一月×日(p.43)、「第三部」十月×日(p.415)となっていて、劇中で辻褄を合わせるために月を変えている。
 さらに劇中で、高峰が仲谷(伊達)と初めて出会う場がカフェーであるが、そういった事実はないようだし、高峰は草笛光子(日夏)と仲谷を取り合った挙句、伊藤雄之助(白坂)が間をとりもつ形で「二人」という同人雑誌をつくることになるが、実際に林が友谷静栄と「二人」を出すに至るまでにそのような経緯はないようだ。また原作の「印刷工の松田さん」(「第一部」p.47)は、劇中の加東大介(安岡)がそれに当るだろうが、実際には最後まで友人として附き合った関係ではなさそうだし、改変した箇所は少なからずあるとおぼしい。ここでついでに述べておくと、岩波文庫の『放浪記』が、友谷の歿年を1950年とした(p.73)ことについて、廣畑研二『林芙美子 全文業録――未完の放浪』(論創社2019)は、「これは誤植でもなければ誤解でもない、意味不明の過ち。これでは芙美子より先に亡くなったことになってしまう」(p.245)と「苦言を呈して」いる。廣畑著によれば、友谷は1991年まで、93歳の長命を保ったようである。
 映画版『放浪記』が原作のどこを採ってどこを捨てたかという取捨選択や、どこをどのように変えたかというのを引き較べ、いちいち検べてみるのも一興かもしれない。

〔改訂増補〕 映画の文法;日本映画のショット分析

〔改訂増補〕 映画の文法;日本映画のショット分析

わたしの渡世日記 下 (文春文庫)

わたしの渡世日記 下 (文春文庫)

異貌の成瀬巳喜男

異貌の成瀬巳喜男

加藤武 芝居語り (単行本)

加藤武 芝居語り (単行本)

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

*1:そしてまた、市川雷蔵の歿後五十年でもある。雷蔵の方は、今夏以降、少しずつだが「眠狂四郎」シリーズを観なおしている。

*2:旧版は2003年刊。

*3:元版は『山田宏一の日本映画誌』、1997年刊。その増補改訂版。

*4:初出は「毎日新聞」日曜版、1995年とのこと(日付不詳)。

*5:単行本は朝日新聞社1976年刊。

*6:同様のことは宝田氏自身、のむみち編『銀幕に愛をこめて―ぼくはゴジラの同期生』(筑摩書房2018)でも述べていたはずである。

*7:正確には劇中の文字は「銭」は俗体で、金偏を除いた右部のみ。

加藤典洋『日本風景論』のことから

 この五月に亡くなった加藤典洋氏の『日本風景論』(講談社文芸文庫2000)を読んでいると、というか、そこに収められた「武蔵野の消滅」なる論考に惹かれて読んでみると、国木田独歩の「忘れえぬ人々」にも言及していたので、嬉しくなった。
 加藤氏は木股知史氏の論を援用しつつ、柄谷行人氏が「風景の発見」で論じた二つの風景――「明治期以前に、見出されるまでもなくあった風景」と、「新たに見出された「風景としての風景」」――のほかに、「第三の「風景」」、すなわち「たんなる風景」というものが明治初期に見出されたのであって、「忘れえぬ人々」にはそれが表れている、と説く。そのことは「武蔵野」でも同様だとして、「国木田のような奇怪な視線の持主」を「新人」と呼んだうえで、

 とにかく、この新人は、それまで「風景」とはこのようなものだと教えこまれてきた文化コード、それに準拠する名勝地の景観にはどのような魅力も感じず、むしろ何のへんてつもない、と思われてきた景観、落葉林、雑木林の広がる平野、都市と田舎の間に横たわる境界地域に魅力を感じる。ここでは、どのようなわけからであれ、とにかくこうした新人類が現れ、「たんなる風景」として「武蔵野」を発見していることが重要なのである(因みにいえば『武蔵野』には、「忘れえぬ人々」と並んで「郊外」という小品も収められている)。(『日本風景論』p.178)

と論じている。これを前提として、「忘れえぬ人々」に登場する大津と秋山とが「別に何の肩書もない」名刺を交換するの(前回のエントリ参照)は、「確信的な無名者、「無名」という肩書き、「何者でもない」という肩書きをもつ、第三の範疇に属する新人」(p.182)であることを意味する、と述べる。そしてこの「新人」が、「彼と何のかかわりもない無関係者、彼個人に帰属するある理由から「忘れ得ぬ人」となっている、そうした人々の映像を思い浮かべる」(p.183)。それこそが、「忘れえぬ人々」の本質だという。
 続けて加藤氏は、以下のように記す。

「忘れ得ぬ人」は、「これらの人々」として語られ、「そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡に立つこれらの人々」と言い直される。国木田の言いあてようとするのは、既知のものが未知のものとして見えはじめるというある事態であり、いわば「たんなる風景」としての「これらの人々」の発見が、ここで語られようとしている。彼は「文学」(内面)の言葉でしか語れないが、言いたいのは「風景」のほうだ。「文学」(内面=忘れてかなうまじき人)に解消されないものがある。意味に解消されない「たんなる風景」がある。自分はそれを言いたい。それがここにいう「風景」、「風景としての人」、「忘れ得ぬ人」の意味なのである。(p.183)

 「これらの人々」は、加藤氏によって「ただの人」(p.214)と言い換えられるが、この解釈も、荒木優太氏の「偶然的遭遇」論と並んで、なかなか魅力的である。
 加藤氏の論は、「人は二重人格、三重人格、スパイのような存在でなければ、いま「ただの人」でいることはできないのではないだろうか。そうでなければ、「武蔵野」のない世界に、「武蔵野」を見て生きてゆくことは、いま、たぶん不可能なのである」(p.214)といった一文で結ばれる。
―――
 さて「武蔵野」は、第二章が、独歩自身の日記の一部――明治二十九(1896)年の秋の初めから翌年の春にかけての記述の一部――を引用する形式になっている。この日記というのは、「一八九三年(明治二六)年〈ママ〉二月から一八九七年五月までの日記「欺かざるの記」」を指し、「(独歩)没後に田山花袋・田村江東・斎藤弔花の校訂により公刊された(『前篇』一九〇八年一〇月、『後篇』一九〇九年一月)」(岩波文庫版『武蔵野』の注より、p.259)。
 当時は日記の公刊を心待ちにしていた者も多かったようで、たとえば近松秋江は、明治四十一(1908)年七月七日に、

 私は(略)此度遺稿出版として上梓せられやうとしてゐる(国木田)氏の『欺かざるの記』や『病牀録』やに對して非常な渇望を抱いて居る。『欺かざるの記』既に題を聞いただけで氏が單純な藝術の人でなく、如何に精神の人、思想の人、性格の人であるかゞ分るではないか。氏は人の師たることの出來る人である。師といふのは小説の先生をいふのではない。(「性格の人國木田獨歩」『文壇無駄話』河出文庫1955:46)

と書いている。
 ただし、「武蔵野」の第二章に引かれる『欺かざるの記』は、原文そのままではないし、意図的に省かれた箇所もある。これに関して、前田愛は次のように述べる。

 『武蔵野』の第二章には、秋から春にかけての季節のうつりかわりを録した『欺かざるの記』の記事が抄録されているが(多少の異動〈ママ〉がある)、当然のことながら信子*1への想いを表白した部分は切りすてられている。たとえば、「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なほ目さめぬが如し」という九月十九日の記事の後には、こういう記事がつづくのだ。「夢に彼の女を見たり。彼の女曰く君に帰る程に雑誌を起し給へといへり。『薄弱よ、爾の名は女なり』女性の品性に誠実を欠くは薄弱なるが故なり。吾未だ高尚なる女を見ず。女子は下劣なる者なり」。(「国木田独歩『武蔵野』―玉川上水」『幻景の街―文学の都市を歩く』岩波現代文庫2006〈小学館1986〉:66-67)

 「武蔵野」が『欺かざるの記』から最初に引用するのは、これに遡ること2週間弱の九月七日の條であり、以下の如く引用されている。

九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ風を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく、――」(岩波文庫版p.6)

 この箇所も、『欺かざるの記』とはかなりの異同がある。赤坂憲雄氏は次のように記す。

 たとえば、独歩にならって、まず九月七日の記事から始めることにしよう。「武蔵野」と『欺かざるの記』を並べてみる。「武蔵野」には、以下のように日記からの抜き書きが示されている。すなわち、「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ風を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく」と。これに対応する『欺かざるの記』の記述は、「昨日も今日も南風強く吹き、雲霧忽ち起り、突然雨至るかと見れば日光雲間よりもれて青葉を照らすなど、気まぐれの秋の空の美はしさ」である。注意を促しておきたいのは、附加された「林影一時に煌めく」という箇所である。(『武蔵野をよむ』岩波新書2018:36)

 赤坂氏がなぜ「林影一時に煌めく」に着目しているのかは、実際に『武蔵野をよむ』の本文にあたって頂くとして、ここで注目したいのは、「降りみ降らずみ」(降ったり降らなかったり)という表現である。こちらも、上で見て分るとおり、『欺かざるの記』には出て来ていない。
「降りみ降らずみ」は、直前の「雲を送りつ風を払ひつ」に対応するものとして導き出された形式であろうが、むしろ、和歌や俳句で用いられる表現だと思う。
 散文に用いたのは、独歩がその嚆矢――とはいわないまでも、かなり夙い例だったのではなかろうか。
 後年には、たとえば山田風太郎が、昭和十九(1944)年、昭和二十(1945)年の日記でこの表現を用いている(ちなみに昭和十九年年九月十七日以降の日記には、「晴れみ曇りみ」「降りみ晴れみ」「降りみ照りみ」等といった表現も出て来る)。

二月二十四日
 ○陰気なる日。雲暗澹として雨降りみ降らずみ。昨日正木君の持って来てくれた二月分の給料袋をあけると五十円十八銭也。(山田風太郎『戦中派虫けら日記―滅失への青春』ちくま文庫1998:300)

七月一日(日) 雨
 ○終日霧雨ふりみふらずみ。午後荷物運搬作業。
山田風太郎『戦中派不戦日記』講談社文庫1985:250)

 「降りみ降らずみ」を用いた散文として、私にとってとりわけ印象深いのは、杉本秀太郎「どくだみの花」(初出は「海燕」1982年7月号)である。この随筆の冒頭に、「降りみ降らずみ」が出て来る。すなわち次のようである。

 降りみ降らずみの夕まぐれに、芍薬が雨滴を含んで三輪、五輪、うなだれている。抱き起こしてのぞき込むと、早く何とかしてください、という声が聞こえた。(「どくだみの花」『半日半夜―杉本秀太郎エッセイ集』講談社文芸文庫2005所収:188)

 この「どくだみの花」について、「数あるなかで、かねがね私がこれぞ杉本秀太郎のベストワンと思い定めている作品」だと断言するのが、杉本氏の旧い友人・山田稔氏である。山田氏は、杉本氏への追悼文ともいえる「「どくだみの花」のことなど」(『こないだ』編集工房ノア2018所収、初出は「海鳴り」28、2016年6月)で、「どくだみの花」餘話というべき挿話を披露している。杉本氏の文章中で、名前を出さずに「先生」とだけ呼んでいる人物が生島遼一であるということ、生島自身は名前を出してほしかったと云っていたこと、杉本氏から届いた葉書、そしてそこに書かれた言葉のことなど。生島が「芍薬の歌」なる随筆を書いた、というのはこの文章で知ったのだったが、ともかく、山田氏の「「どくだみの花」のことなど」も、実に秀れた作品なのである。
 「「どくだみの花」のことなど」については、『こないだ』を評した坪内祐三氏も「まさに絶品」「少し辛口の名文」と書いているし、井波律子氏も『こないだ』評(「毎日新聞」2018.8.7付)で、やはり「「どくだみの花」のことなど」を真っ先に取り上げ、「過剰な思い入れなく、淡々と綴られているにもかかわらず、今は亡き大切な友人の姿がくっきりと描きだされ、みごとである」(『書物の愉しみ―井波律子書評集』岩波書店2019:503-04)と称賛している。
 そういえば、生島遼一『春夏秋冬』(講談社文芸文庫2013)の解説「生島遼一のスティル」(山田稔)も、解説というよりは、むしろ「ポルトレの名手」(坪内氏)としての山田氏の才能がよく表れた佳品だといえる。後には、『天野さんの傘』(編集工房ノア2015)に収められた。

日本風景論 (講談社文芸文庫)

日本風景論 (講談社文芸文庫)

武蔵野 (岩波文庫)

武蔵野 (岩波文庫)

文壇無駄話 (1955年) (河出文庫)

文壇無駄話 (1955年) (河出文庫)

幻景の街―文学の都市を歩く (岩波現代文庫)

幻景の街―文学の都市を歩く (岩波現代文庫)

武蔵野をよむ (岩波新書)

武蔵野をよむ (岩波新書)

戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)

戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

半日半夜 杉本秀太郎エッセイ集 (講談社文芸文庫)

半日半夜 杉本秀太郎エッセイ集 (講談社文芸文庫)

こないだ

こないだ

書物の愉しみ 井波律子書評集

書物の愉しみ 井波律子書評集

*1:独歩が不本意な形で結婚生活の破綻を迎えたその相手、すなわち元妻の佐々城信子。

国木田独歩「忘れえぬ人々」

 武蔵野の西端に少しばかり縁が出来たこともあって、このところ、国木田独歩『武蔵野』(岩波文庫2006改版)を持ち歩いて読んでいた。これは表題作のほかに十七篇を収めた短篇集で、そのうちとりわけ心に残ったのが、「忘れえぬ人々」である。
 「忘れえぬ人々」も武蔵野を舞台とする作品で、作中には、たとえば「春先とはいえ、寒い寒い霙まじりの風が広い武蔵野を荒れに荒れて終夜(よもすがら)、真闇(まっくら)な溝口の町の上を哮え狂った」(p.155)といった描写がみられる。
 山田太一氏は武蔵野の「溝の口のはずれ」に住んでいる(いた?)そうで、「武蔵溝ノ口の家」(『月日の残像』新潮文庫2016)で「忘れえぬ人々」の冒頭部分を引用しつつ、「いい短篇で全部引用したいがそうもいかない。(作中に出て来る宿屋の)亀屋は数年前まで婚礼や法事などに使われる亀屋会館となって続いていたが、ある年とりこわされてマンションになってしまった」(p.17)と書いている。
 阿部昭*1も、「忘れえぬ人々」を好きな短篇のひとつとして挙げていて、次の如く述べる。

 独歩の短編からどれか一つ、というのは無理な注文であるが、私がときどき覗いてみたくなるのは、二十七歳の年に『武蔵野』についで書かれた『忘れえぬ人々』である。覗くというのは、冒頭の堂々たる風格をもった叙景、またそれに続く宿屋の帳場の場面だけでも、私にはしばし時を忘れるに十分だからである。そこを読むと、なにか自分もそんなうらぶれた旅人姿で一夜の宿を探しているような、心もとない気持ちになる。そして、自分もそんな宿屋に一晩厄介になりたいような、人恋しい気持ちになる。懐かしいと言っても、しんみりすると言っても足りない、鷗外や漱石と同じ、日本人の血にひそむ郷愁を掻き立てずにはおかぬものが、やはりここにもある。(『短編小説礼讃』岩波新書1986:59)

 阿部は、これに続けて「忘れえぬ人々」の冒頭部を引用し、「亀屋の主人(あるじ)」の描写について高く評価する。さらに作品全体としては、

 『忘れえぬ人々』は、主人公のメッセージにそむかず、読む者に人がこの世にあることの不思議さをしみじみと感じさせる。そしてまた、その結びには若い独歩の文学への自覚と決意がうかがわれる。(同前p.64)

と評している。ここで、「忘れえぬ人々」の梗概を述べておこう。
 三月初旬の晩、武蔵野溝口の亀屋を訪れた二十七、八の無名の文学者・大津弁二郎(独歩自身がモデルかと思われる)が、隣室の客で二十五、六の画家の秋山松之助とたまたま相知ることになり、自室に来た秋山と「美術論から文学論から宗教論まで」語り合う。そのとき大津の手許にあった草稿に秋山が眼をとめる。表紙には「忘れ得ぬ人々」と書かれており、秋山はそれを見せてほしいとせがむ。大津は、草稿は見せずに詳細を語って聞かせることにする。その表題の意味するところは、「忘れ得ぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」。すなわち「忘れて叶うまじき人」は、親や子・知人だけでなく、自分が世話になった教師先輩の類をさすが、「忘れ得ぬ人」は、まったくの赤の他人なのに「終(つい)に忘れてしまうことの出来ない人」のことである。大津は、旅先などで見かけたりすれちがったりした「忘れ得ぬ人」を幾人も挙げた。
 それから二年後のこと。大津と秋山との交際は全く絶えてしまっている。大津は雨の降る晩、ひとり机に向かって瞑想していた。机上には、「忘れ得ぬ人」の原稿が置いてある。だが、その最後に「忘れ得ぬ人」として書き加えてあったのは、すっかり打ち解けて深更まで語り合った秋山ではなく、「亀屋の主人」だった――。
 さて、朝刊連載記事をまとめた堀江敏幸『傍らにいた人』(日本経済新聞出版社2018)は、国内外の小説(短篇がとくに多い)についての随想集であるが、劈頭の「傍点のある風景」は「忘れえぬ人々」を端緒として叙述を始めており、その末尾の方で次のように記している。

 すべての語りが終わったあと、作者(独歩)の分身を思わせる大津の心の光景のなかで、主要な人物とは見えなかった男(亀屋の主人のこと)に印象的な傍点が振られた理由については、独歩の文学全体に、また彼の短かった生涯の出来事に照らしてみれば、それらしい説明が可能になるだろう。
 けれど私は、ひとりの読み手として、こうした解釈の誘惑からいったん離れてみたいとも思うのだ。読書をつうじて形成された記憶のなかで振られる後付けの傍点の意味を、深追いしないこと。書物のどこかで淡い影とすれちがっていた事実を、ありのままに受け入れること。その瞬間、頬をなでていたかもしれない、言葉の空気のかすかな流れを見逃していた情けなさと出会い直せた不思議を、大切にしておきたいのである。(p.13)

 「印象的な傍点が振られ」る、というのは堀江氏独特の言い回しであるが、これは次の記述を受けたものである。

 私は実際に、思い出されてはじめて、なるほどその折の景色のなかに目立たない傍点が打たれていたのだと気づかされるような影たちと、何度も遭遇してきた。ただし、現実世界ではなく、書物の頁の風景の中で。
 読み流していた言葉の右隣に、じつはあぶり出しの手法で見えない傍点が振られていて、時間の火をかけるとそれが黒い点になって浮かびあがる。濃淡は、めぐる季節によっても変化する。(p.11)

 荒木優太氏は、「亀屋の主人」が忘れ得ぬ人として選ばれた理由について、次のような解釈を与えている。「それらしい説明」どころか、得心のゆく見立てであるように思えたので、最後に紹介しておきたい。

 大津は「忘れ得ぬ人々」という題名の原稿に、「秋山」の名ではなく「亀屋の主人」と書き込んでいたことが小説の末尾で明らかになる。あたかも、「名刺の交換」を済ませたような縁故*2の外にこそ求めるべき出会いがあったかのように。(中略)
 彼らの肩書なき名刺は、実際の無名性や有名性を隠す謙虚さの表れなどではなく、単なる「ハイカラー」である可能性がある。そうであるのならば、「秋山」ではなく「亀屋の主人」が特別な対象として選ばれたことも理解できる。仮に再会せずとも「秋山」は都会のネットワークに通じており――少なくとも大津は「東京」の人間でネットワークを予感できる、〈場所性〉の問題――、純粋な偶然的遭遇は、その外部のたまたま立ち寄った「亀屋の主人」の方に認められるからだ。(『仮説的偶然文学論―〈触れ‐合うこと〉の主題系』月曜社2018:141-42)

武蔵野 (岩波文庫)

武蔵野 (岩波文庫)

月日の残像 (新潮文庫)

月日の残像 (新潮文庫)

短編小説礼讃 (岩波新書 黄版 347)

短編小説礼讃 (岩波新書 黄版 347)

傍らにいた人

傍らにいた人

仮説的偶然文学論 (哲学への扉)

仮説的偶然文学論 (哲学への扉)

*1:ことしが歿後三十年に当る。

*2:秋山が大津の部屋に押し掛けた時点で、二人は「別に何の肩書もない」名刺の交換を済ませている。

和田誠『快盗ルビイ』

 和田誠快盗ルビイ』(1988,ビクター=サンダンス・カンパニー)を観た。同年の「キネ旬」ベスト10の作品。
 同じく和田による『真夜中まで』(1999)を観たときにも思ったが、監督の「映画愛」がストレートに伝わってくる作品だ。ワイルダー風であり、また、「巻き込まれ型」という意味でヒッチコック風でもあり、なかなかしゃれている。小泉今日子の魅力がはじける正統派の「アイドル映画」だけれども、そのスタイルは一種の「肉づけ」にすぎず、根本のところでは、映画好きが自分の好きなように、あくまで愉しんで撮っているふうなところに惹かれる。
 原作はヘンリー・スレッサーの『快盗ルビイ・マーチンスン』という連作小説。語り手ボビイと、その従兄で天才的な犯罪者・ルビイとが、数々の奇想天外な犯罪を計画するも、ちょっとした綻びによってどれもこれも失敗に終るといったお話。
 スレッサーといえば、ヒッチコックがその作品の多くを映像化している。劇中、加藤留美快盗ルビイ小泉今日子)の蔵書の一部が映るのだが、そのなかに、チャンドラーの『湖中の女』や山田宏一『映画的なあまりに映画的な―美女と犯罪』(単行本)などにまじって、スレッサーの『うまい犯罪、しゃれた殺人』(ポケミス版)が見えるのは、自己言及的でおもしろい。ルビイはこういう小説を夜な夜な読んでいて、そこから犯罪のヒントを得ているのだろう、などと想像すると愉しい。
 原作は主人公が男だが、映画では加藤留美=ルビイという女の子に置き換えられている。和田の述懐によると、「うんと若い頃に「ヒッチコック・マガジン」で読んだ読切短篇シリーズの「快盗ルビイ・マーチンスン」」を「六〇年にハヤカワ・ミステリとして出版された時にすぐ買っ」たのだとかで、「短篇集だけど連作だから一本につなげることもできるなあと」考えたというが(和田誠『シネマ今昔問答・望郷篇』新書館2005:p.237)、「「快盗ルビイ」の主役を女性にしたのは(略)直接の影響は実は「虹を掴む男」なの」だ、という(同p.238)。
 ジェイムズ・サーバーの短篇集『虹をつかむ男』は、鳴海四郎訳が「ハヤカワepi文庫」に入っている(2014年刊)が、これはもともと早川書房の「異色作家短篇集」に収められていた。表題の短篇は、しがない中年男が妄想のなかでは英雄となって目覚ましい活躍をするという、古くさい言い方だが「男のロマン」を体現したような作品。ついでにいうと、『快盗ルビイ』の劇中には、ルビイの蔵書として、「異色作家短篇集」のうちの一冊、ロバート・ブロック/小笠原豊樹訳『血は冷たく流れる』も映り込んでいる。
 さて和田が、ここで「直接の影響」を受けた作品として挙げているのは、そのサーバーの原作ではなく、ノーマン・Z・マクロードの映画版(1947年製作)をさす*1。主役の中年男、ウォルター・ミティは映画では出版社の校正係ということになっており、ダニー・ケイが演じている。彼の妄想の世界=白昼夢にロザリンド(ヴァージニア・メイヨ)がいつも登場するのだが――ロザリンドはサーバーの原作には出て来ない――、その女性が現実の世界に現れることで、ウォルターは宝石の争奪戦に否応なく巻き込まれてしまう。ジェラール・フィリップ主演の名作、ルネ・クレール夜ごとの美女』(1952)には、この『虹を掴む男』を意識したと思しきところが多分にある。
 『虹を掴む男』のロザリンドは劇中では犯罪者ではないが、その小悪魔的魅力が『快盗ルビイ』の小泉の役柄に投影されている。ウォルターは母親との二人暮らし――こういう細かな設定も原作にはない――、ルビイの相棒となる林徹=真田広之も、やはり水野久美扮する母親との二人暮らしで、いわゆる「マザコン」という位置づけ。しかしラストで、それまでルビイが提案していた犯罪計画を、初めて徹の方から提案することになる。これは母親依存からの独立を意味しているのだろうが、『虹を掴む男』のウォルターも最後に母親から自立するという筋立てで、そのような点でも、『快盗ルビイ』は同作を踏襲しているといえる。
 ところで真田は、『柳生一族の陰謀』(1978)しかり『里見八犬伝』(1983)しかり、それまでは二枚目のアクション俳優としての活躍が目立っていたが、『快盗ルビイ』では三枚目を巧く演じている。それはまさに、巧く、というほかない。和田は、真田に三枚目を演じさせることを申しわけなく思っていたというが、「ぼくが「キャメラの前で(自転車ごと)転んでカラカラ回る車輪が画面いっぱいになるように」って注文すると(真田が)その通りやってくれる」(和田前掲p.241)、「ぼくが現場で思いついて「仰向きで寝ている姿勢から瞬時に正座できる?」ってきいてやって貰ったんですが、見事に決まりましたね」(同p.242)とも述べている。そもそもずば抜けた運動神経がないことには、このような藝当ができるはずもない。
 和田はさらに、キャスティングを決めた上で脚本を書き進めたとも語っており、それゆえに、めいめいが所を得た動きをしている。小泉、真田はもとより、たとえば輸入雑貨店主役の天本英世。見るからに怪しげで偏屈そうなのだが、実は善人。小泉に、「あの顔見たでしょ。悪人の顔よ。陰でだれかいじめたりしてるわ。それとも、夜中に怪しい薬を発明してるのよ」と、“楽屋落ち”めいたせりふを言わせるのだから可笑しい。ちなみに和田は、「高品格さんも出て欲しかったけど、ぴったりの役がなかった」(同p.243)とも振り返っている(高品は1994年歿)。
 小道具やセットにも注目したい。まずおもしろく思ったのが、銃を構えたハンフリー・ボガードの巨大なパネル。林母子の住むマンションの最上階にルビイが引っ越してくる。クレーンがパネルを上階に引き上げている。それが母子の部屋の窓越しにゆらゆらと見える。まるで白昼夢を見ているかのごとく、徹がポカンとそれを見詰めている。母親が、徹の様子のおかしさに気づいたころには、パネルはすっかり引き上げられてしまっている。この絶妙さ。その後、ルビイと徹とが「密談」するのをアオリで撮る場面があり、ボガードの構える銃が二人に突きつけられているように映っているのもおもしろい。ほかに、細かいけれども、冒頭で徹の枕許に置いてある角川文庫版(旧版)の星新一『ごたごた気流』。所収の「重なった情景」などは、これから徹の身の回りに起こる出来事を暗示しているようでもある。しかも旧版の装釘・挿画は、和田誠自身が手がけているのだ。この遊び心がまたおもしろい。
 セットも随所に工夫が見られて、和田は後に「星空を豆電球吊って作った」(前掲p.250)、「稲妻は照明部の助手さん担当で、アークライトを光らせ」た(p.309)、などと語っている。マンション屋上の夕景をつくり出すのにも色々と苦労があったらしいが、ルビイと徹とが屋上で語り合うシーンは、後の名作、相米慎二『東京上空いらっしゃいませ』(1990)にもつながるような美しい場面である。
 クレジットタイトルでは、二人が次の犯罪について愉しげに語りあう場面の長回しが続く。その果てないおしゃべりが、いつまでもいつまでも続いてほしい、と願わずにはいられない。

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虹を掴む男 [DVD]

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*1:『虹をつかむ男』は、2013年にも『LIFE!』というタイトルで映画化されている。もっとも、こちらも原作とはかなり異なる。

本との出会い

 本というものの面白さの一つは、数カ月(ときには一年以上)かけてやっとのことで読み了える大部の作品よりも、片々たる小册の方に心を鷲づかみにされる瞬間がある、ということであろう。あるいはまた、大枚はたいて購った本ではなく、古書肆の店頭百均に転がっていた本こそが生涯の一册となり得る場合もある、ということだろう。
 そうしてそれは、読者の側では決して豫測できない。本との出会いはいつも唐突である。もっともそれには大きく二種類あって、一読ないし読後ただちに電撃に見舞われたような気持になることもあれば、後々ふりかえってみて、あの本との出会いがあったればこそだと深く感じ入ることもある。前者は即効性、後者は遅効性と取り敢えずは言えるだろうが、本質においてそれらは同じである。
 そのような本との出会いについて語ることは愉しいし、書かれた文章を読むのも実に愉しい。
 例えば吉川幸次郎は、ある本との出会いについて次のように記している。

 私が宣長を読みだしたのは、決して久しいことではない。昭和十三年の夏、関西には大水害があった。私は夙川の母の安否を案じ、食糧をもって見舞いに出かけた。家は濁水につかっていたけれども、母は無事であった。私は翌日京都に帰ることとし、阪急夙川駅前の小さな書店で、岩波文庫本「うひ山ぶみ」一冊をあがなった。水害を記念せんがためである。
 しかしこの半ば好奇心から購った小さな書物は、帰途の車中で、私を魅了した。宣長国学の方法は、すなわち私の中国研究の方法であった。そうして私が年来、私の方法の理論として考えていたものを、この書物ははっきりと説きつくしている。私は私の方法の誤っていなかったことを知り、百万の援軍を得た思いをすると共に、先きを越されたというくやしさをさえ感じたのであった。(「本居宣長―世界的日本人―」『詩文選』講談社文芸文庫1991所収:59-60*1

 ちなみに文中の「大水害」とは、谷崎潤一郎細雪』中巻(四~十)にも描かれた阪神地方の大水害をさす。とまれ、およそ本好きであれば、たれしも吉川の記述に心惹かれるところがあるのではなかろうか。
 吉川はこの後も、「私が宣長を知り、驚き、嘆服するに至ったのは、今からちょうど三十年前の昭和十三年、いわゆる関西の大水害に、夙川の母のすまいも水につかったのを見舞っての帰り、電車の中の時間をもてあましてはと、阪急駅前の小さな本屋の乏しい棚を物色して、数冊の岩波文庫の中から、「うひ山ぶみ」を、おおむねは好奇心からえらんだのを、読み、驚嘆したという、偶然の機会によること、かつて別の文章に書いたごとくである」(「鈴舎私淑言―宣長のために―」『本居宣長筑摩書房1977:p.5)と述べ、あるいはまた、「日本の十八世紀の「読書の学」に接しはじめたのは、中国のそれに接したのよりおそく、三十代になってからである。新刊が乏しい戦時中、水害にあった母を見舞っての帰り、宣長の「うひ山ふみ」を、電車の中の読書とすべく、駅前の本屋で買ったのを、さいしょのきっかけとすること、二三ど他の文章に書いた」(『読書の学』二十五、ちくま学芸文庫版2007:p.235)云々と、当時のことを幾度か振り返っているが、くりかえし言及するところをみると、当人にとってこの出会いは、それだけ深く印象に刻まれた出来事であったということに他ならない。
 歴史に「もし」を持ち出すのは無意味であることを承知の上でいうが、もしも吉川がそのとき宣長に出会っていなければ、吉川版『本居宣長』や『仁斎・徂徠・宣長』は書かれなかったであろうし、雄篇『読書の学』は、たとえ書かれていたとしても、いささかその魅力を減ずる作品となっていたであろう。かかる意味において、『うひ山ふみ』という小さな本との出会いは、吉川のその後の人生を確かに変えたのである。
 その吉川の著作に心を動かされたのが足立巻一だった。足立は次のように記している。

 わたしは『うひ山ぶみ』を学生のころから読んだといったけれど、言=事=心を説いたくだりの深い意味を悟っていたわけではなかった。それを知ったのは戦後のことで、それも吉川幸次郎先生によって教えられた。(「『うひ山ぶみ』逍遥」『人の世やちまた』編集工房ノア1985:p.250)

 わたしは吉川幸次郎先生の『本居宣長』によって、『うひ山ぶみ』ひいては宣長の世界についての理解を格段に深めることができた。それも先生が中国文学の碩学だったからこそ、それまでの宣長学者のだれもが触れなかった新しい宣長を照らし出し、それもきわめて格調の高い名文で表現されたのだと思う。余人は及ばない。(同前p.252)

 こうして本と本、人と人とが繋がってゆくこともまた、読書の醍醐味だといえる。
 さて、本との出会いを語った文章ということで、最近いたく感銘したのが、金井雄二『短編小説をひらく喜び』(港の人2019)であった。
 まずは劈頭、次のような力勁い文章に逢著して、大いに励まされた。

 「本は読まなければいけない」と断言しよう。「本は読んだほうがいい」とか「読まなくても生きていけるから読まない」とか、そうではなく、「本は読まなければいけない」のだ。ご飯も食べなくてはいけない。お風呂に入らなければいけない。排泄もしなければいけない。ならば、「本は読まなければいけない」のだ。(pp.13-14)

 著者は、主として若い人たちに向けてこの本をものしたようだが、どの章も、全世代の本好きたちを鼓舞することばに溢れている。「あとがき」には「岩波新書阿部昭の『短編小説礼讃』という名著があるが、それには遠く及ばない」(p.209)とあるけれど、これはいわば謙辞で、「読書の悦び」を自身の読書遍歴に重ね合わせつつ素直に衒いなく、なおかつ自在に語った本であるから、こちらとしても、読んでいてすこぶる気持がよい。
 それに触発されるところ多々あり、マラマッド「借金」や尾崎一雄「華燭の日」、阿部昭「自転車」などは、この本を読んだお蔭でゆっくり読む機会をえた。これらの短篇が「呼び水」となって、それからそれへと短篇集を手に取っている。
 その過程で、また心に残る出会いがあったのだが、それについて語るのは他日を期することとしたい。

本居宣長 (1977年)

本居宣長 (1977年)

読書の学 (ちくま学芸文庫)

読書の学 (ちくま学芸文庫)

人の世やちまた (1985年) (ノア叢書〈8〉)

人の世やちまた (1985年) (ノア叢書〈8〉)

短編小説をひらく喜び

短編小説をひらく喜び

*1:初出は昭和十六年十月「新風土」。