コリン・ウィルソンが語るアナトール・フランス

 学研パブリッシング(当時)が手がけていた文庫レーベルに、「学研M文庫」というのがあった。特に歴史小説や戦史ものを出していたことで知られるが、わたしにとっては、酒井潔『悪魔学大全(1)(2)』、アンソロジスト東雅夫氏の編纂にかかる「伝奇ノ匣」シリーズや「幻妖の匣」*1種村季弘偽書作家列伝』『澁澤さん家で午後五時にお茶を』、加藤郁乎『後方見聞録』、それから安原顯編『ジャンル別文庫本ベスト1000』『ジャンル別映画ベスト1000』等を刊行したことが印象に残っており、――やや大げさにいうと――青春期の読書体験の一頁を彩ってくれた、忘れ難いレーベルである。そう云えば、後藤明生(訳)『雨月物語』、立野信之『叛乱』というのもあった。
 五、六年前、この文庫に入ったコリン・ウィルソン柴田元幸監訳『超読書体験(上)(下)』(2000年9月刊行)を、遅れ馳せながら古本で入手して読んだ。わたしの記憶が確かならば、これは創刊ラインナップの一冊だったかとおもう。『超読書体験』という邦題は、そのころ何かしら「チョー」をつけて表現するのが若年層のあいだにそろそろ定着しつつあったことが背景にあるのか、その少し以前(遡ること四、五年前)の『「超」勉強法』ブームに肖ってのことなのかは判らないけれども、刊行当時は実用書と誤認した所為もあってか、完全に「スルー」していた。しかし実際に手に取って読んでみると、これがすこぶる面白かったのである。
 そもそもこの本は、もとの邦題を『わが青春わが読書』(原題は”THE BOOKS IN MY LIFE”)といい、元版は1997年に刊行されている。「訳者あとがき」(柴田元幸氏)によると、安原顯コリン・ウィルソンに直接手紙を出して、日本の読者向けに自身の読書遍歴についての本を書きおろして欲しい、と依頼したところ、一年ほど経ってから安原の許にタイプ原稿が届き、それを十人がかりで訳したのが、すなわちこの本であるという。
 単行本が刊行されて間もないころには、出久根達郎氏が、同書について次のように書いている。

アウトサイダー』(中村保男訳・集英社)などの著者で、作家・哲学者のコリン・ウィルソンの本棚には、どのような書物が並んでいるのだろう?
 現在、自宅には二万から三万冊の本があるという。新刊もあれば、古書もある。「車で走っていて、どこか小さな町を通りかかるたびに、私たちは古本屋を見つけてどっさり本を積んで帰った」「子供のころからずっと、私は古本を買うのが大好きだった」。
 コリン・ウィルソンの『わが青春わが読書』(柴田元幸監訳・学研)は、一千枚の長編エッセイである。
 ウィルソンの最初の読書が、ミッキー・マウスドナルド・ダックの漫画であり、スーパーマンのような超人物語であり、そして十代では『トム・ソーヤーの冒険』であったという告白は、なあんだ、と意外な感じである。
 天才の「書棚」は、われわれ常人とは全く異なった構成であろう、という先入観念を、ものの見事に裏切られる。
 われわれと同じ本を読んでいるのだが、しかしウィルソンの話は、面白い。当り前すぎる話だから、面白いのである。ウィルソンの著書としては珍しく気楽に読める。
出久根達郎「本棚公開」『人は地上にあり』文春文庫2002←『書棚の隅っこ』リブリオ出版1999所収:75-76)

 出久根氏が引用しているの(2箇所)は、いずれも第一章「何冊あれば本は多すぎるか?」(柴田訳)にみえる文章だが、この本は全部で二十六章からなる。担当した訳者(敬称略)とともにそれぞれの章題を示すと次のとおりである。

1.何冊あれば本は多すぎるか?(柴田元幸) 2.ウィルソンをめぐる真実(柴田元幸) 3.トム・ソーヤー(畔柳和代) 4.ロマンティストになるまで(飯塚浩芳) 5.シャーロック・ホームズ―人間的な超人(江崎聡子) 6.科学―そしてニヒリズム(都甲幸治) 7.ジェフェリー・ファーノルの華麗なる冒険(岸本佐知子) 8.日記をつけるということ(岸本佐知子) 9.『ファウスト』と「理不尽な朗報」(大久保譲) 10.セックスと「永遠の女性」(柴田元幸) 11.プラトンと性の幻想(都甲幸治) 12.ショー(小山太一) 13.エリオットとピュトンの尾(飯塚浩芳) 14.ジョイス(前山佳朱彦) 15.人格からの脱出―アーネスト・ヘミングウェイの謎(高吉一郎) 16.デイヴィッド・リンゼイアルクトゥルスへの旅』(柴田元幸) 17.ドストエフスキー(畔柳和代) 18.ニーチェ(坂口緑) 19.ジェイムズ兄弟(高吉一郎) 20.エルンスト・カッシーラー(坂口緑) 21.サルトル(前山佳朱彦) 22.ユイスマンス―究極のデカダン大久保譲) 23.ゾラとモーパッサン(畔柳和代) 24.レオニード・アンドレーエフ(江崎聡子) 25.ミハイル・アルツイバーシェフ(都甲幸治) 26.アナトール・フランス小山太一) あとがき 第七度の集中(柴田元幸

 このように各章が独立した内容となっており、どこからでも読める構成になっているのだが、結びの章が「アナトール・フランス」になっているのは、この本を初めて披いたとき、いささか意外に感じたことだった。
 わたしは以前(約十一年前)、荒川洋治氏の「読書のようす」(『忘れられる過去』朝日文庫所収)に触発され*2、フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』(以下『ボナール』)を買って読んだくちだが(この件はここで書いた)、結局いまに至るまで、フランスの小説は、この一作しか読んでいない。
 しかしウィルソンの『超読書体験』を読み、フランスの作品としては少くともあと一つ、『タイス』だけは、生涯のうちに読んでおきたいとおもっている。
 さてウィルソンは、E.M.フォースターの『小説の諸相』*3のなかに、フランスの『タイス』に関する独特なコメントを見いだす。「構造上、この小説は十字型あるいは砂時計の形をしている、とフォースターは述べていた。冒頭、聖者のごとき禁欲主義者パフヌティウスは美妓タイスを堕地獄から救おうという考えにとり憑かれているが、結末ではタイスが聖女となり、地獄に堕ちるのはパフヌティウスなのである」(下巻p.239)。続けてウィルソンは書く。

 私は図書館に駆けつけ、『タイス』を借りた。オレンジ色の装丁の全集の一冊だ。期待以上に驚異的な本だった。フランスが信じられないほど博識なのはのっけから明らかだった。それに、絢爛たる知性はショーを思わせた。フランスの存在にもっと早く気づかなかったのが不思議でならなかった。(同前p.239)

 『タイス』については、林達夫が『文藝復興』(中公文庫1981)の「書籍の周囲―5.『タイス』の饗宴―哲学的対話文学について―」(pp.196-206)*4で、その圧巻というべき「饗宴」部がブロシャール『ギリシア懐疑学派』に依っていること(フランス本人がその「手の内」を明かしているという)に触れ、「実は『タイス』の「饗宴」をはじめて読んだときにも、私の念頭に絶えず浮かんでいたのは、ほかならぬプラトンの哲学料理の逸品『饗宴』Symposionであった」(p.199)と書いていたのをおもい出すが(「『タイス』の饗宴」は、のちに中川久定編『林達夫評論集』岩波文庫1982〈pp.147-59〉や、高橋英夫編『林達夫芸術論集』講談社文芸文庫2009〈pp.96-107〉にも収められた)、この「饗宴」部の内容は、ウィルソンが前掲書のpp.243-44でややくわしく紹介していて、彼もまた、「フランスがプラトンの『饗宴』を念頭に置いていることは明らかである」(p.244)と述べている。
 ウィルソンはこの『タイス』に「圧倒され」、「これほど偉大な小説はそうざらにないと思った」(p.247)。さらに『ボナール』も読み、「『タイス』ほど圧倒的ではないにせよ、これも見事な作品」(p.250)だと感じる。そしてその冒頭部については、「フランスはほとんどディケンズ風ともいえる雰囲気を醸し出」している(p.251)と評する。またウィルソンは、次のようにも述べている。

 のちにフランスは、『シルヴェストル・ボナール』が売れたのは感傷性のおかげだといってこの本を嫌うようになる。それは疑いもなく事実である。しかしこの本が、感傷性が全面的に成功しているごく珍しい一例であることもまた事実なのだ。(p.256)

 もっともウィルソンは、この章の末尾でフランスの「最大の欠点」についても分析しているのだが、若き日の彼にとって、フランスが大きな影響を与えた作家であることを認めるにやぶさかではない。
 とまれウィルソンのこの文章を読むとすぐ、わたしは『ボナール』を再読したくなって、矢も楯もたまらず近所の古書肆に赴き、文庫版をふたたび購ったのである。250円だった。11年前に買ったのは1975年刊の初刷で(確か400円だった)、まだカバーのない時代の岩波文庫だった(赤い帯だけが巻いてあり、こちらは実家に置いてきた)が、再読するために買ったのは1989年刊の第4刷で、すでにカバー附きとなっている。ちなみに珍しいことに、カバー表紙の内容紹介に「多くの書物から深い知識を得たのち、その空さしを知った懐疑派アナトール・フランス(1844-1924)の世界がここにある」という誤記があるが、これは後刷で直ったようである。
 『ボナール』は大きく二部にわかれていて、十一年前の初読時には浮世離れした「第一部 薪」に惹かれたものだが、再読時はむしろ、ボナールが人との交わりによって現実へと回帰してゆく「第二部 ジャンヌ・アレクサンドル」をおもしろく感じた。わたし自身の環境の変化にもよるのかもしれないが、いずれにしても、小説を再読三読する愉しみは、こういうところにも有る。特に、次のようなやり取りがなんと心に響いたことか。

「たくさんのご本でございますね。ボナール先生、先生はこれをみんなお読みになったのでございますか」
「悲しいことにみんな読みました。だからこそ何にも知らないのです。何しろどの本もほかの本と矛盾しないものは一冊もない、したがってみんなを知ればどう考えてよいのかわからなくなる。私はそんな状態にいるのです」
(伊吹武彦訳『シルヴェストル・ボナールの罪』岩波文庫:185)

 さきに言及した林達夫は、「書籍の周囲―1.文献学者 失われた天主教文化―新村出氏の『南蛮広記』を読む―」*5で、『ボナール』について次の如く述べている。

 かくて文献学者は、諷刺家の嗤笑に反して、この世における最も尊敬すべきまた最も愛すべき存在の一つたるを失わないのである。そうして人もし真の文献学者の典型を示して貰いたいと言うなら、私はアナトール・フランスシルヴェストル・ボナールを指して彼を見よと言いたい。およそ世界にこの老文献学者以上に愛すべき人間があるであろうか。文献学者に豊かな想像力と大いなる好奇心と美の感情と表現の才能とがないとは、誰が言いし言葉ぞ。学士院会員(マンブル・ド・ランスティテュ)シルヴェストル・ボナールの存在は、まことに文献学の強みであるのみならず、また彼あるが故に、文献学がその胸にかき抱いている多くのエルマゴラの偏癖と罪過――もしあるなら――は充分に償われ、また大目に容赦されるであろう。(『文藝復興』中公文庫1981:149-50)

 別のところでは、「フランス語で最初にわたくしが独力で読んだ作品は、アナトール・フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』である」(「フランス語事始め」*6高橋英夫編『林達夫芸術論集』講談社文芸文庫2009所収:94)と書く林のことだから、『ボナール』自体への思い入れも相当強かったに違いない。
 フランスの作品でもう一つ印象に残っているのは(こちらもむろん読んではいないのだが)、木下杢太郎の名篇「残響」*7に出て来る「パリに於けるベルジュレエ君」である。杢太郎はその随筆(「残響」については、以前ここで触れた)の冒頭ちかくで、次の如く述べている。

 アナトオル・フランスの小説に「パリに於けるベルジュレエ君」というのがある。田舎の大学の先生がパリのソルボンに招聘せられることになってからの話であるが、その中ではいろんな人が勝手に猶太(ユダヤ)人論やドレェフィユス事件の批評をしていて、ベルジュレエ君がどんな人かはっきりとしない。この間フランス人にきいたらこの類作では田舎とパリとで環境や人物に著しい差のあるのを書きわけているということだが、残念ながら、前の部分を読んでいない。(「残響」岩阪恵子選『木下杢太郎随筆集』講談社文芸文庫2016所収:87)

 この「パリに於けるベルジュレエ君」が『現代史』という一連の著作の一部であることを知ったのも、ウィルソンの本のおかげだった。

パリに出ていく地方大学教授ムッシュー・ベルジュレを主人公にした『現代史』四部作(私の一番好きな批評家エドマンド・ウィルソンはこれをフランスの最高傑作としている)を支えたのはマダム・アルマンだった。(『超読書体験(下)』p.257)

 『ボナール』巻末に附いている「略年表」によると、『現代史』四部作が著された年は次の如くである。

一八九七年――『現代史』第一巻・第二巻。年末ドレーフュス事件が起り、アナトール・フランスは進歩派としての思想的立場をとりはじめる。
一八九九年――『現代史』第三巻。『赤いゆり』劇化上演。『ピエール・ノジエール』。
一九〇一年――『現代史』第四巻。『クランクビーユ』、権力に対する庶民の反抗を描く。(p.299)

 邦訳の『現代史』も、いつかは文庫化して欲しいものである。

*1:「伝奇ノ匣」を冠した本は十冊ほど出ており、うち六冊ほどを所有している。後者の「幻妖の匣」もシリーズ化する予定だったのかもしれないが、わたしの知るかぎり、『赤江瀑名作選』のただ一冊にとどまる。

*2:一昨年、『忘れられる過去』をはじめとした既刊エセー集のうちから択ばれた諸篇と、単行本未収録の諸篇とを合わせた荒川洋治『文学は実学である』(みすず書房)が出たが、「読書のようす」はそこには収められていない。

*3:フォースターの著作も、このところ邦訳が相次いで出ている。今年六月刊行の井上義夫編訳『E.M.フォースター短篇集』、そして今月出たばかりの小野寺健訳『インドへの道』など。『小説の諸相』にも古い邦訳はあるが、そろそろ文庫化するか新訳で出すかして欲しい……。

*4:初出は1927年3月30日付『東京朝日新聞』(!)で、それを改稿したものという。

*5:初出は1925年11月「思想」49号。

*6:初出は「新潮」1954年5月号。

*7:1937年頃に書かれた。

橋川文三「昭和超国家主義の諸相」

 ことし生誕百年を迎えた橋川文三(1922-83)の著作を、このところじっくり読む、あるいは読み返すなどしている。ちなみにいうと、「文三」の読みは両様あるようだが、「ぶんぞう」ではなく「ぶんそう」が本来ではないかと思われる。この五月に講談社丸善ジュンク堂との合同企画で復刊された、橋川の『柳田国男―その人間と思想―』(講談社学術文庫)の奥付の著者名の読みが「ぶんぞう」だったので、念のために記しておく。なおこの文庫は、橋川の生前(1977年)に刊行されているが、その初刷りでも「ぶんぞう」となっていた(復刊に際して新たに組み替えられているが、そのままだった)。

 わたしが橋川の著作を読みはじめたのは古い話ではなくて、中島岳志編『橋川文三セレクション』(岩波現代文庫2011)がそのきっかけだった。今もおもい出すが、ひどく寒い日の夕刻のことで、或る人がやって来るのを待つ間、京都・四条河原町ブックファースト(現在は閉店)にて、当時出たばかりのこの本を平台に見いだして購ったのである。橋川の名は渡辺京二氏などの著作によって、あるいは『日本の百年』(ちくま学芸文庫2007-08)の編著者の一人として知っていたし、橋川の「乃木伝説の思想」は、レポートを書く必要から読んだことはあった*1ものの、さまで関心はなかったが、中身をぱらぱら見てみると、どうやら「竹内好」「太宰治」「三島由紀夫」などについての人物論やら回想記やらを収めているらしかったので、興味を懐いて買ってきたのだった。

 帰宅後、冒頭の「歴史意識の問題」からして引きこまれるように読んだ。文体はあくまで明晰、とは云え正直にいって、此方の力量が不足している所為もあって、一読しただけでは趣意をくみ取りにくい文章もあったが、「西郷隆盛の反動性と革命性」の先見性には驚かされたものだし、「昭和超国家主義の諸相」を読み了えたときには、かつてこんなにすごい思想家がいたのか、とさえおもった。いま改めて考えてみると、「思想家」というよりはむしろ、そこにアカデミズム史学的な手さばきを看取したのかもしれない。そして何より、それまで誰もが忌避してきた人物を学問的な対象とした点こそが、橋川の真骨頂であるように感じた。そういった学問的態度は、政治思想史の方面では、たとえば故松本健一氏、中島岳志氏らがその衣鉢を継いでおり、また社会学の方面では、佐藤卓己言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書2004)、竹内洋佐藤卓己編『日本主義的教養の時代―大学批判の古層』(柏書房2006)*2などの研究に継承されていると感じる。

 こうしたゆくたてがあって、橋川の著作を入手したくなったわけだが、岩波現代文庫に入った橋川の『黄禍物語』(2000年刊)もすでに版元品切れのようだったし(結局、2016年ころに古書肆で購った)、当時新本で入手できたのは『日本浪曼派批判序説』(講談社文芸文庫1998)、『昭和維新試論』(ちくま学芸文庫2007)くらいのものだった。古本でも、未來社の『増補 日本浪曼派批判序説』はよく見つかるものの、その他の著作はなかなか見つけられずにいた*3。全十巻の著作集(増補版)も幾度か見かけたが、おいそれと手が出るような値段ではなかった。ところがその後、『昭和維新試論』(講談社学術文庫2013)、『西郷隆盛紀行』(文春学藝ライブラリー2014)、『ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫2015)、『幕末明治人物誌』(中公文庫2017)……と、橋川著の復刊や文庫化が(『幕末明治人物誌』は文庫オリジナル)相次いだのであった。またこの間には、宮嶋繁明氏の『橋川文三 日本浪曼派の精神』(弦書房2014)、『橋川文三 野戦攻城の思想』(弦書房2020)という決定的な評伝も刊行された*4

 そしてこのほど、気鋭の批評家である杉田俊介氏が「すばる」誌上で2年弱にわたって連載した記事をまとめた、『橋川文三とその浪曼』(河出書房新社2022)も出た。同書は、保田與重郎丸山眞男柳田国男三島由紀夫と橋川との「対決」を論じており、「橋川と竹内好西郷隆盛北一輝との思想的な対決について論じ」た続篇的な『橋川文三とその革命(仮題)』もいずれ出す(「あとがきにかえて」)とのことなので、こちらも愉しみに待ちたい。

 今回わたしが再読したもののなかには、「昭和超国家主義の諸相」も含まれる。これはもともと、橋川文三編『現代日本思想大系31 超国家主義筑摩書房1964)の解説として書かれたものだが、橋川文三著/筒井清忠編・解説『昭和ナショナリズムの諸相』(名古屋大学出版会1994)の冒頭にも収められて、独立した論考としてますます評価を高めた文章である*5

 いまこれを読み返してみて、まず感じたのは、予見に充ちた文章であるということだった。それは『昭和維新試論』などの著作群も同様だが、論考の今日的な意義がなおも失われていないことを意味するのだろう。たとえば次のような箇所。

 もちろん、テロリズムは、国家主義にのみ結びつく行動ではなく、政治にのみ特有の現象でさえない。それは、人間存在のもっと奥深い衝動とひろく結びついた行動であり、一般的にいえば、人間の生衝動そのものに根源的にねざした行動とさえいえるはずである。人間という恐るべき生物が、絶対的な自己表現にかりたてられる場合に、しばしば選択する手段の一つといってよい。そして、人間が絶対の意識にとらえられやすい領域の一つが宗教であり、他の一つが政治であるとするなら(もう一つ、エロスの領域があるが)、テロリズムは、その二つの領域に同時に相渉る行動様式の一つとみることもできるであろう。そしてまた、それが人間行動の極限形態として、自殺と相表裏するものであることが認められるとするなら、その両者の様式を規定するものとして、テロリズムの文化形態(カルチュア)ということを言ってもかまわないであろう。(「昭和超国家主義の諸相」『橋川文三セレクション』所収:139)

 しかしドストエフスキーにおける戦争思想もまた、北(一輝―引用者)の場合と同じように、謎めいており、神秘的でさえあった。彼にとって、いわばロシアの戦争は戦争一般とは異質であり、人類救済という特別の意味を与えられたものであった。なぜなら、ロシアの神は、一般・普遍の神ではなく、まさにロシアの神だからである。この奇怪な論理は、『悪霊』の論理の中の超民族主義者シャートフとスタヴローギンの対話の言葉を聞けば、いくらか理解することができよう。(同p.177)

 よく知られていることだが、「昭和超国家主義の諸相」は、丸山眞男超国家主義の論理と心理」に異議申し立てをしている。この丸山論文は、1946年5月号の「世界」に掲載された記念碑的文章で、近年では杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー2010)にも収められたし、また、丸山(1914年生)の生誕百年を記念して刊行された、丸山眞男著/古矢旬編『超国家主義の論理と心理 他八篇』(岩波文庫2015)でも手軽に読めるようになった。ここで丸山は、昭和の超国家主義について、それが「凡そ近代国家に共通するナショナリズムと」区別されるのは、「そうした(武力的膨張の)衝動がヨリ強度であり、発現のし方がヨリ露骨であったという以上に、その対外膨脹乃至対内抑圧の精神的起動力に質的相違が見出される」(岩波文庫版pp.13-14)からだと述べたうえで、その「質的分析」に話を移しているのだが、これに対して橋川は、

それはいわば日本超国家主義ファシズム一般から区別する特質の分析であって、日本の超国家主義を日本の国家主義一般から区別する視点ではないといえよう。ないしは、日本の超国家主義的支配と、その明治絶対主義的支配との区別に対応するような、日本ナショナリズムの運動の変化を解明するにはあまりにも包括的な視点であるといえよう。(前掲p.137)

と反駁を加えている。ここで恐らくは、「日本の国家主義一般」「明治絶対主義的支配」に対して、橋川が何らかの積極的な意義を見いだしているのではあるまいか、と若干の疑念を懐く読み手も出て来ることだろう。たとえば、いわゆる司馬史観などと親和性のある「思想」を橋川が開陳し始めるのではないか、と。しかし、橋川が周到なのは、つづけて、

 こうした疑念を私がいだくのは、丸山のアプローチによっては、明治以降における日本ナショナリズムのいわば健全で進歩的なモメントが無視されてしまうのではないか、というような理由からではない。(p.137)

と書いているからだ。もっとも、宮嶋繁明氏によれば、これは「橋川一流のレトリックの彩(あや)」だろうという。「すぐ後ろの丸山への反措定を強調しようとする主旨があったのは事実であろうが、一方で、このパラグラフは、橋川の希求する「あたたかい思想」につながる志向性を内包していた、とわたしには思われる」(『橋川文三 野戦攻城の思想』弦書房:158)。一体どういうことか。

 すなわち、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」などの日本ファシズム論に対する批判に抗する丸山自身の弁明に配慮した発言と思える。なぜなら丸山は、『日本の思想』(一九六一年)の「あとがき」で、日本ファシズムや日本ナショナリズムに関する自分の分析は、日本の精神構造なり日本人の行動様式の欠陥や病理の診断として一般に受け取られていて、明確な誤解は、「もっぱら欠陥や病理だけを暴露したとか、西欧近代を「理想」化して、それとの落差で日本の思想的伝統を裁いた」といったたぐいがあると、強く反発した。

 橋川は、丸山のこれらの反発を意識して、「昭和超国家主義の諸相」を書く際に、上述の「欠陥や病理だけを暴露した」との受け取られ方、つまり、「健全で進歩的なモメントが無視される」のとは異なった箇所からの「疑念」であることを、強調したかったのではないだろうか。(略)

 ここで橋川が、あえて論理の陰に隠しこんでしまったともいえる前掲の発言の裏側には、橋川の論理以前の感性、心情としての丸山への違和感が潜んでいた。つまり、橋川においては、超国家主義あるいは日本のナショナリズムに、一方で、「健全で進歩的なモメント」を、求めようとしていたことは否定すべくもないことだと思われる。(宮嶋前掲pp.158-59)

 橋川の文章独特の「わかりにくさ」、趣意のくみ取りにくさの由来は、そういうところにもあるのではないかと考える。

 さて、さらに丸山が超国家主義の発現形態について、

 天皇万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。欽定憲法天皇の主体的製作ではなく、まさに「統治の洪範を紹述」したものとされる。かくて天皇も亦、無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っているのである。天皇の存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖皇宗もろとも一体となってはじめて上に述べたような内容的価値の絶対的体現と考えられる。天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。(略)

 「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を強めて行く――この循環過程は、日清・日露戦争より満州事変・支那事変を経て太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって行った。(岩波文庫版pp.35-37)

と結論し、あくまで明治期以来の「連続性」を強調したことに対して橋川は、

あの太平洋戦争期に実在したものは、明治国家以降の支配原理としての「縦軸の無限性、云々」ではなく、まさに超国家主義そのものであったのではないか、ということになるであろう。(前掲p.138)

と述べ、明治期以降の国家主義とは完全に「断絶」されたものとして、昭和の「超国家主義」を位置づけてみせたのであった。

 ただし橋川はその五年前(1959年)には、「『戦争体験』論の意味」*6中島岳志 杉田俊介責任編集『橋川文三 社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える』河出書房新社2022:196-213)で、前引の丸山論文の「天皇を中心とし、…縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである」というくだりを紹介し、

そのような国家存在の論理構造に対応して、国民の心理においては「縦軸の無限性」への依存が、一種の無限戦争のイメージを作り出していたと考えられる。(略)太平洋戦争は「無限の縦軸」としての国体理念が、そのまま戦争体制として凝結したことを意味した。さきに明治維新において、国民諸階層のエネルギーが個体としての国家に集約したと述べたが、敗戦は、国体という擬歴史的理念に結晶したエネルギーそのもののトータルな挫折を意味した。(pp.211-12)

云々と丸山理論を援用しているので、五年間で大きく立場を変えたことになる。そしてそれはちょうど、橋川と丸山とが思想的に「訣別」する時期に重なっている*7

 では、その「超国家主義」は、どういった担い手によってなされたか。橋川はいう。

 ごく大雑把に図式化していえば、私は日本の超国家主義は、朝日(平吾)・中岡(艮一)・小沼(正)といった青年たちを原初的な形態とし、北一輝(別の意味では石原莞爾)において正統な完成形態に到達するものと考え、井上日召橘孝三郎らはその一種中間的な形象とみなしている。その基準は何かといえば、明治的な伝統的国家主義からの超越・飛翔の水準がその一つであり、もう一つは、伝統破壊の原動力としての、カリスマ的能力の大小ということである。(前掲「諸相」p.156)

 これが当該論文のひとつの結論である。橋川は、これらの人物のうち特に朝日、井上、北、橘らのパーソナリティーについて分析を加えたうえで、超国家主義を「現状のトータルな変革をめざした革命運動であった」(p.159)と捉え*8、「いわゆる超国家主義の中には、たんに国家主義の極端形態というばかりでなく、むしろなんらかの形で、現実の国家を超越した価値を追求するという形態が含まれている」(同p.199)と概括することになるのだが、たとえば朝日のパーソナリティーにかんしては、ラスウェルの言説などをもとに「父親憎悪」といった動機を見いだしていく。

 もっともこれだけでは、在り来りな(そして、ややうさん臭い)俗流の心理学的解釈にとどまるといえるだろう。しかし、ここで橋川は、これにつづけて、

 しかし朝日の行動がどのような深層心理的動機にもとづいたものであったにせよ、そのことと「死の叫び声」(朝日の遺書を指す―引用者)に表現された思想とは直接関係はなさそうである。彼がいかにいかがわしい人間であったにせよ、「死の叫び声」がその後の日本超国家主義の歴史に「もっとも早い先駆」としての地位を占めることは疑いえないはずである。(同前p.151)

と記しているのであって、橋川の史学者としての眼は、この様な記述からもうかがい知ることが出来る。ただ、そのことに自覚的でありながら、橋川のこの論文は、朝日や井上の思想を政治思想史の流れのなかに位置づけることに成功しているとは必ずしもいえない。

 こういった「限界」については、杉田俊介氏が次のように評している。

 けれども「諸相」論文の段階では、橋川の超国家主義論が十分うまくいったとはいえなかった。(略)「諸相」論文での橋川は、問題をあまりにも心理主義的にとらえ過ぎ、それを精神病理学的な問題、あるいは同時代の青年たちの実存的煩悶の問題として片付けてしまったのであり、その結果として、超国家主義の「思想」をも疑似カリスマたちの特異なメンタリティの次元に回収してしまうのである。あたかも、橋川自身の丸山眞男というカリスマへの心酔の根深さ(そしてその批判の重要性)を逆説的に示すかのように。

 それは次のような致命的なアポリアを告げてもいるだろう――近代日本においては、近代的天皇(国体)以外に人民統合のリソースを創出しえなかったのであり、その裏面として、ファシズムが「下」からの大衆運動として広範に展開することすらなく(右翼的思想集団が軍部や官僚となし崩しに野合する、というパターンに収束してしまう)、あとは、疑似カリスマたちの人格性に依拠したそれ自体が疑似的な革命を夢見ることしかできなかった、と。(『橋川文三とその浪曼』河出書房新社:151-52)

 この指摘は、同著pp.238-39でも言葉を変えてなされているが、杉田氏は、橋川のこの様な限界は、思想的な成熟を経て、『昭和維新試論』である程度は克服されたとみている。

 それでも、「昭和超国家主義の諸相」の問題提起がきわめて斬新なものであったということに変りはないだろうし、後世に与えた影響も大きかったようである。

 たとえば、『昭和ナショナリズムの諸相』の編者である筒井清忠氏は、筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(上)』(ちくま新書2022)の第1講「丸山眞男橋川文三―昭和超国家主義論の転換」*9で、『日本浪曼派批判序説』「乃木伝説の思想」「小泉三申論」と併せてこの「諸相」をも取り上げており、「こうして橋川は超国家主義の再検討を通して丸山的な近代主義的研究視角をブレイクスルーしたが、その影響は大きく、これ以降の超国家主義研究は評者も含めて(『二・二六事件青年将校吉川弘文館、二〇一四)橋川に大きく負うことになったのであった」(pp.29-30)と書いている。

 さらに筒井氏は、近著『天皇・コロナ・ポピュリズム――昭和史から見る現代日本』(ちくま新書2022)の「第8章「大正デモクラシー」から「昭和軍国主義へ」」でも橋川の研究に言及しており、「筆者の視点も基本的にはほぼこの延長線上にある。明治の伝統的な国家主義は、大正期を経て昭和になると明確に変質した新しいナショナリズムになったという視角を保持しておかないと、昭和の超国家主義は理解できないと思われる」(p.141)と述べ、「昭和初期の超国家主義運動の担い手の実態を知るためにはむしろ第二世代の人々のほうが研究対象として重要だ」(p.147)という観点から、橋川が「中間的な形象」と看做した井上・橘らを、北も含めて「超国家主義の第一世代」と位置づけ直している。

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 橋川の『ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫)も、今のところ新本で入手可能のようだ。『ナショナリズム』は、村上一郎(1975年に自刃)の慫慂によって書かれたものであるが、橋川自身は「敗退の記録」「中途半端な記述におわった」と述べ、失敗作と看做している。それにもかかわらず、橋川の著作のなかでも、これは格段に読みやすい本に仕上がっているとおもう。

 ところで、橋川と村上とは、しばしば対蹠的な人物として比較される。たとえば竹内洋氏は、村上一郎岩波茂雄と出版文化―近代日本の教養主義』(講談社学術文庫2013)の「学術文庫版イントロ 村上一郎と『岩波茂雄』」で、

 わたしは、そのころ(1960年代初頭―引用者)傾倒していた橋川文三(政治思想史家、一九二二~八三)から社会科学的なものを引き算したのが村上一郎で、村上はそのぶん情念の炎の温度が格段に高いが、逆に橋川文三の文体と論理は冷たく燃えているなどと思ったものである。そんなわけで当時のわたしは必ずしも村上の著作の熱心な読者とはいいがたかった。(p.8)

と述懐しているし、渡辺京二氏は、村上一郎『幕末―非命の維新者』(中公文庫2017)の「解説 草莽の哀れ」で、

 しかし村上さんは、のちには三島割腹事件にただならぬ共感を示したお方であり、この文庫本に収録されている対談を読んでもわかるのように(ママ)、国学ナショナリズムの権化とでも言うべき保田與重郎と、最後までコミットした人であった。橋川文三さんは戦時中は熱烈な保田信者であった人だが、戦後は『日本浪曼派批判序説』を著わして、己れの内なる政治的ロマン主義を克服した。彼は村上の著作集の解説の中でも、村上の保田への傾倒にふれ、「要するに私は日本ロマン派=保田與重郎とは、どういったらいいか、ともかく切れていたいのである」と書いている。

 私はそういう村上さんの右翼に通じかねない国学ナショナリストの姿勢、おなじく武断に通じかねない東国ますらお振りを一貫して敬遠していて、これまでその系統の著書も読んで来ていない。この『幕末』も依頼を受けたときまだ読んでいなかった。ためらいはそういう事情から生じた。この人の熱い、あるいは熱すぎる心にシンクロできる自信がなかったのである。(p.292)

と述べている*10

*1:それに触発されて、森鷗外「興津弥五右衛門」を読んだのだった。ちなみに鷗外の方は、今年「歿後100年」を迎えた。

*2:竹内・佐藤編著は、まともな学問対象としては見なされてこなかった「蓑田胸喜」について考察している。

*3:単なる依怙地にすぎないが、ネット古書肆ではなく足で見つけたかったのだ。

*4:宮嶋氏には『三島由紀夫橋川文三』という著作もある。同書が2005年に出ており、2011年に新装復刊されたということは、そこから遡及する形で知った。

*5:この『昭和ナショナリズムの諸相』は、今年五月に名古屋大学出版会の「リ・アーカイヴ叢書」の一冊として復刊されており、新本としての入手も容易になった。

*6:初出:『現代の発見』第二巻、春秋社1959。『橋川文三著作集5』に収む。

*7:「丸山は、一九六一年十月から六三年四月まで、東京大学から、米国、カナダ、イギリス、スウェーデン、スペイン、フランスへの出張を命じられる。この丸山の不在中に、吉本隆明の「丸山真男論」が、一九六二年から六三年にかけて発表された。丸山のスランプ発言は、一九五八年のことだが、それが、表現媒体に如実に表出してくるのは、一九六〇年代の前半で、外遊で不在だったこともあり、顕著に書かれたものが減少している。そして、スランプに陥った丸山と入れ替わるようにして橋川の活躍が始まる。/このあたりを境にして、橋川と丸山との明確な思想的な訣別が加速する」(宮嶋前掲p.136)。ただし、宮嶋氏が次のように書いていることにも注意。「(橋川は)丸山の鬼っ子ではあったが、しかし、本来、思想の継承とは、批判的に乗り越えていくものだとすれば、丸山シューレの面々よりも橋川のほうが、本当の意味での、丸山の思想的継承者であったといえるかもしれない」(同p.143)。もっとも、橋川はたとえば『昭和維新試論』で、丸山の「個人析出のさまざまなパターン――近代日本をケースとして」による分析を好意的に取り上げるなどしており(講談社学術文庫版pp.109-19)、もちろん、そのすべてに対して批判的であったわけではない。

*8:ただし、橋川は「もちろん、ここで「革命」というのは、価値判断なしにいわれて」いる(p.159)とつけくわえている。

*9:近現代史ブックレビュー【第8回】橋川文三の学問・思想の全体像を明らかにした書」『Wedge infinity』2021.10.15付をもとにした文章だという。

*10:ちなみに渡辺氏は、橋川文三ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫2015)の「解説 抑制と暗い炎」で、橋川の文体について、「端正・温和で、論述のしかたも、扱う問題について客観的に広く展望・紹介するといった風でありながら、その底には苛烈で、時とすればほとんど魔的と形容したい断定が匿されていた。彼の抑制された外面の蔭には、歴史つまり人びとの生きて来た事実の亀裂にのぞく深淵を見てしまった者の、暗い炎が激しく燃えさかっていたのである」(pp.248-49)と評している。竹内氏の「冷たく燃えている」という評言と響き合うようで、興味ふかい。

『小出楢重随筆集』のことなど

 かつてわたしは、植村達男『本のある風景』(勁草出版サービスセンター1978)を2冊持っていた。その後――といってももう十五年ほど前の話になるが――、初刷の方は知人に差し上げた。いま手許にあるのは1982年刊の第2刷で、ビニールカバーの下に抹茶色の帯が巻かれている。たしか天神橋筋の天牛書店で購った。初刷はどこかの古書市で入手したもので、そちらは帯が橙色だったと記憶する。
 110ページ強のごく薄い本ではあるが、この「本の本」は、まさに滋味掬すべき随筆集だ。一篇一篇がほどよい短さなのもよい。巻頭には栗栖継エスペラントの仲間のために」、野呂邦暢「『本のある風景』に寄せて」という二つの序文が収められ、野呂が寄せた序文の一節は、帯文にも引用されている*1
 同書で、特に何度も言及されるのが小出楢重だ。前半部の「『枯木のある風景』」「待つ話」「小出楢重の随筆」、野呂が序文で「とりわけ味わいが深い」(p.4)と評した「金木犀の香り」――とそれから、末尾の「小出楢重谷崎潤一郎のことなど」のあわせて五篇に、楢重は登場する。そもそもこの本は、カバー挿画が楢重の手掛けた谷崎潤一郎『蓼喰ふ蟲』の挿絵の一枚だし、モノクロの口絵も楢重の「枯木のある風景」なのである。
 ところで谷崎の『蓼喰ふ蟲』に楢重が描いた挿絵は、岩波文庫版(1970年改版)『蓼喰う虫』ですべて(83葉)見ることができる。
 これらの挿絵ならびに『蓼喰ふ蟲』自体については、楢重の孫である小出龍太郎氏が、興味深い推論を披露している。それによると「定説では、『蓼喰ふ虫』の登場人物は谷崎家をもとに想定されたといわれている」が、「物語の大きな部分、あるいは全体が、小出家と関連しているのではないか」(「『蓼喰ふ虫』と小出家」『小出楢重谷崎潤一郎―小説「蓼喰ふ虫」の真相』春風社2006:72-73)。そして、『蓼喰ふ蟲』に出て来る主人公一家の息子、「小学校の四年へ行っている弘」(「その二」岩波文庫p.18)は、楢重の長男・泰弘をモデルにしているのではないか、という。これが正しいとするなら、たとえば松本清張のように、『蓼喰ふ蟲』を「私小説」と断じた上で評価を下すのは根拠を失うことにもなる。
 そして小出氏によれば、挿絵を担当した楢重は、作品の展開に見合った挿絵をそのつど描いたのではなく、

むしろ逆に、楢重がこの小説の裏の主題(男女の対立)を谷崎にあらかじめ仄めかしていたとは考えられないだろうか。楢重は自分が語った話が書かれていると気づいていたのではないか。本作品には「双頭の蛇」や「一人の裸体に男女(夫婦)二人の頭部」といった、まさに二元性を意味する挿絵が描かれている。こんな奥深い問題を、打ち合わせもなしに、さらりと描いて見せるなどという芸当ができただろうか。(p.94)

という。そのほかこれらの挿絵には面白い問題が色々とあって、『小出楢重谷崎潤一郎』所収の明里千章氏論文「『蓼喰ふ虫』挿絵の方法」によると、たとえば自作絵画を下敷きにした挿絵がみられたり、洲本の街を描いた挿絵(「その十」岩波文庫p.87)では草津旅行時に自身が撮影した写真をもとにしていたりするのだそうだ(明里氏が指摘するように、作中の登場人物と被写体の女性とが同じポーズをとっているのも――偶然ではあろうが――興味深い)。
 植村氏の随筆集に話を戻すが、これを読んでいると、無性に楢重の随筆が読みたくなってくる。
 その「金木犀の香り」には、楢重歿後に刊行された随筆集『大切な雰囲気』(昭森社1936)を鎌倉の古書肆に見出したおりの興奮について記しているが、わたしもこれを某古書肆の店頭で見かけたことがある。しかし、かなり値が張ることもあって、ちょっと手が出(せ)なかった*2
 けれども表題の「大切な雰囲気」を含めて、楢重のおもだった随筆は、芳賀徹編『小出楢重随筆集』(岩波文庫1987)で読むことができるので、とりあえずはこの一冊で十分満足している。こちらも同じく、十年以上前に天神橋の天牛書店で購ったものだ。
 編者の芳賀氏が、「近代日本の画家が書いた文章としては、互いに水と油そのままに性質が違うにしても、東(東京)の日本画鏑木清方と西(大阪)の洋画家小出楢重の作をもっておそらく最上とする」(「解説」p.370)云々と評するように、楢重を名文家だと認める者は多い。
 たとえば森銑三も、

 私は画家中の随筆家として、第一に小出楢重を取る。その文は、文人の文を学ばずして自ら一家を成し、奔放でそれで要を得ており、大阪人らしいユーモアに充ちていて、徹頭徹尾愉快である。小出氏の如きは獲(え)がたい随筆家だったと思う。(「素人の手に成った書物」/森銑三柴田宵曲『書物』岩波文庫1997所収←白揚社1944〔1948新版〕:134)

と書いているし、岩波文庫が刊行された直後には、阿部昭が次の如く記している。

――以下は、今度岩波文庫の一冊に加えられた小出楢重の随筆の話である。昭和の六十年間、楢重の文章はつとに隠れた熱心なファンを持っていたようで、私などはせいぜいこの十年ほどの新参にすぎないが、それでも楢重に名随筆あることを知る人は意外に少ないようなので、機会をとらえては吹聴の文を綴ってきた。それがようやく現物が手軽に読めるようになったのだから、あとはもう「皆さん大いに読まれるがいいでしょう」と言えば済む。ついでに、教科書などにもどしどし採り入れたらいいと思う。(略)
 文章というものが、いかに書いた人間の体臭までも生々しく伝える、妖しいまでに柔軟自在な生きものであるか、かつまた書いた時の筆写の気分如何で微苦笑、渋面、憂鬱、かんしゃく等々の百面相を帯びるものであるか、さらにはまたそれを読む人間の心のしこりをときほぐすものであるか、――したたかな日本語の好見本で全ページが埋まっている。随筆漫筆なればこそだ、書いた当人が楽しんで書いたればこそだ、それも「私などは上等のものも勿論好きだが、あらゆる下等のものに対してより多くの親しみを感じる事が出来る」(『下手もの漫談』)と言い切ってはばからぬ、自由な精神の持主なればこそである。(「陽気な怪談」『挽歌と記録』講談社1988:179-82,初出『図書』昭和六十二(1987)年十二月号)

 さらに阿部は、「大阪のことはどんな文学者に尋ねるよりも、まず小出楢重に訊け、というくらいに私は思っている」(p.184)とまで言い切っている。ちなみに上引の「下手もの漫談」は、岩波文庫のpp.172-85に収める。
 さて『本のある風景』には、先述のとおり「小出楢重の随筆」というそのものずばりの文章が収められてあるのだが、そこには、「私が、楢重の随筆に初めて接し、これが縁で深入りしてしまうことになった」作品(p.19)として、「雑念」が挙げられている。この「雑念」も、岩波文庫は採っている(pp.53-56)。
 また植村氏の「小出楢重谷崎潤一郎のことなど」は、楢重の『大切な雰囲気』に寄せられた谷崎の序文を全文引用したうえで、宇野浩二『枯木のある風景』にも説き及んでいる。
 宇野の『枯木のある風景』は、昨年このブログでも触れたことがある(「宇野浩二のこと―生誕130年」)が、植村氏もいうように、登場人物の古泉圭造は楢重をモデルとしており、また島木新吉は鍋井克之をモデルにしている。さらに作中の「浪華洋画研究所」は、楢重や鍋井らが大正十三(1924)年に創設した「信濃橋洋画研究所」のことであろうし、八田弥作や入井市造といったほかの登場人物も、津田青楓、黒田重太郎、国枝金三あたりの実在の画家をもとにしているのかも知れない。
 『枯木のある風景』がやや特異なのは(あくまでこの作品が発表された当時において、であるが)、古泉の人となりやその画風・芸術観、夭折の「真相」が、周囲の島木、八田、入井の回想や語り、思考の過程のなかから次第に泛び上がって来る、ということで、広義のミステリ小説のような味わいがある。実際に宇野は、楢重には一、二度しか会ったことがないらしく、鍋井の話を聞いて、『枯木のある風景』の構想を練ったらしい*3
 このことについて小田光雄氏は、以下の如く書いている。

 これ(『枯木のある風景』)は大阪出身の小出楢重をモデルにした小説であり、小出と宇野の共通の友人の洋画家鍋井克之から、小出の晩年の話を聞き、彼の画集や随筆集などを参考資料とし、小説に仕立てたものだ。宇野が参照したのはいずれも未見であるが、小出の『楢重随筆』(中央美術社、昭和二年)、『めでたき風景』(創元社、昭和五年)、『小出楢重画集』(春風会、昭和七年)などだったと思われる。(「宇野浩二小出楢重、森谷均」*4『古本屋散策』論創社2019所収:292)

 また、水上勉の『宇野浩二伝』によると、

(宇野は)『二つの道』の後記でも、「楽屋を打ち明けると、『枯木のある風景』をかいた画家は小出楢重で、その親友は鍋井克之であるが、まつたく空想の作品である」と書く。(中公文庫版〔1979〕下巻p.180)

と、「まつたく空想の作品」などと宇野一流の?表現で煙に巻いているようだが、肝心なところは確かにそうだとしても、ディテール、たとえば、島木が古泉から聞いたとする「骨人」「胃のサボタアジュ」という話の内容は、楢重の随筆「骨人」(『小出楢重随筆集』所収pp.74-78)、「胃腑漫談」(同pp.43-48)の梗概になっていたりするので、全体としては、細かな事実を積み上げていったところに生れた空想、と云い得るかもしれない。
 一方で楢重は、宇野について、

 挿絵を試みようかという心になった因縁が宇野氏にありながら、そして最近再び話が宇野氏との間に持ち上ったのだが、それだのに氏のものをまだ描く機会がないのも妙な因縁である。(「挿絵の雑談」『小出楢重随筆集』所収p.365)

と述べており、両者は結局すれ違ったままで終るのだが、もしも楢重が宇野の作品の挿絵を担当することがあったとするなら、果してどのような作品が生れたであろうか、と夢想する。
 楢重歿後に発表された宇野の『枯木のある風景』は、一時期精神に異常をきたしていた宇野のカムバックを世間に印象づけた作品で、その作風を一変させたという点でも劃期をなしたことで知られる。
 当時改造社の編集者だった徳広巌城、すなわち上林暁は、六年かけて宇野からこの『枯木のある風景』の原稿をようやく取りつけている。上林がいなければ、名作『枯木のある風景』はあるいは生れえなかったのかも知れない。
 上林の労苦と宇野の懊悩とは、『宇野浩二全集』の月報のために書かれて『宇野浩二回想』にも収められた、「『枯木のある風景』まで」を読むとよくわかるが、これはつい最近出たオリジナル文庫の上林曉/山本善行編『文と本と旅と―上林曉精選随筆集』(中公文庫2022)の末尾に収められ(「『枯木のある風景』の出来るまで」)、手軽に読むことができるようになった。
 その一節を引いて結びとしよう。

 私は今に、六年かかって「枯木のある風景」を取ったことを、記者時代の手柄話にしている。宇野氏にしても、六年間自分を見捨てないで足を運んだ私の労を徳として、私に渡してくれたのであったろう。(中公文庫版pp.337-38)

*1:帯文はさらにもう一つ、小島直記『出世を急がぬ男たち』に収める『本のある風景』評の一節も引用している。

*2:ちなみにこの本は1975年に昭森社から覆刻刊行されているが、その覆刻版の方は見たことがない。

*3:附言すれば、『枯木のある風景』の初版本(1934年白水社刊)の装釘も鍋井が担っている。

*4:2010年5月発表。

『文天祥』『劉裕』文庫化のこと

 かつて人物往来社から刊行されていた宮崎市定監修「中国人物叢書」(第一期、全十二巻)の著者名およびタイトルは、それぞれ下記のとおりである(第一回配本は④の宮崎著)。

①永田英正『項羽』/②狩野直禎『諸葛孔明』/③吉川忠夫『劉裕』/④宮崎市定『隋の煬帝』/⑤藤善眞澄『安禄山』/⑥礪波護『馮道』/⑦梅原郁『文天祥』/⑧勝藤猛『忽必烈汗』/⑨谷口規矩雄『朱元璋』/⑩寺田隆信『永楽帝』/⑪堀川哲男『林則徐』/⑫近藤秀樹『曾国藩

 偶然なのか、タイミングを合せたのかどうかは定かでないが、このうちの二冊――③吉川忠夫『劉裕』と⑦梅原郁『文天祥』とが、この5月に文庫化された。
 吉川著(1966年5月刊)は再文庫化で、かつて(1989年8月)中公文庫に入ったことがあるが、長らく品切れとなっており、今回は法蔵館文庫に収まった。一方、梅原著(1966年6月刊)は初の文庫化で、ちくま学芸文庫に入った。わたしは、両著ともこのたびの文庫版で初めて読むことを得た。
 ④宮崎著、⑤藤善著、⑥礪波著、⑩寺田著、⑪堀川著も中公文庫に入ったことがあって(うち⑤、⑪は現物未確認)、また①永田著や②狩野著はPHP文庫に入ったことがあるようだが(両著とも現物は未確認)、この叢書が法蔵館文庫、ちくま学芸文庫に収録されたのはいずれも初めてのことではないか。(※⑧勝藤著も『フビライ汗』と改題されて中公文庫に入った由。重力の二時氏にご教示賜りました。コメント欄ご参看
 この叢書が刊行されるに至ったに就ては、そもそも次のような背景ならびに経緯があるという。

 宮崎市定監修と銘うたれた「中国人物叢書」第一期全十二巻が、人物往来社によって企画され、著者(宮崎市定のこと―引用者)に相談をもちかけられたのは、著者が定年退職される直前のことであった。その当時、吉川弘文館から刊行されて好評を博し、すでに百冊をこえる大叢書となっていた日本史の「人物叢書」に範をとる「中国人物叢書」は、同じ人物往来社で企画された時代史概説のシリーズ「東洋の歴史」全十三巻(著者を筆頭とする四人が監修)と対にして、同時進行で編集が行なわれたのである。
 こと中国史に関しては、どの時代の概説でも見事に書ける、と自他ともに許されていた著者は、こういった規模の大きい企画の際には、ほかの執筆予定のメンバー諸氏の希望を優先的に考慮し、残された巻を引受けられるのが常であった。「東洋の歴史」で、第九巻『清帝国の繁栄』と第十一巻『中国のめざめ』との二巻分を書き下ろされることになったのも、その結果なのであった。
 そして「中国人物叢書」で『隋の煬帝』を担当されることになったのも、多分にそのような配慮が働いた結果なのであるが、この場合には、著者は殊のほか乗り気であった。(礪波護「解説」、宮崎市定『隋の煬帝』中公文庫1987←人物往来社1965:267-68)

 また寺田隆信氏によると、「この『叢書』は一期と二期をあわせ全二四冊で構成されているが、宮崎市定先生の退官を記念したいとの、秘めた意図をもって企画されたと記憶している。こうした受業生の下心を何もかもお見とおしのうえで、知らぬ顔で監修を引きうけていただいた先生は、昨年五月に道山に帰られ、間もなく三回忌を迎えようとしている。往時を回顧し、あらためて追慕の念がつのるのを禁じえない」(「文庫版あとがき」『永楽帝』中公文庫1997*1:279)という。
 このたび初めて文庫化された『文天祥』は、著者の梅原郁氏の「三回忌にあわせるかのように(略)再刊され」た(小島毅「解説 状元宰相の実像を描いた物語―梅原郁のメッセージ」)ものである。「叢書」に収められた他の作品と同様、主役(梅原著であれば文天祥)のみならず、賈似道(かじどう)、呂文煥(りょぶんかん)、忽必烈(フビライ)、劉整、伯顔(バヤン)、張弘範、等といった同時代の人物群像を活写しており、加之、読みものとしての面白さが追求されている。たとえば「江西に帰った文天祥の上にいかなる出来事が起るであろうか。章を改めて彼の周辺を眺めてみたい」(p.52)など、恰も章回小説を思わせるような書きぶりである。とりわけ読みどころとなるのは、船を手にいれた文天祥一行が元側の追手から遁れる「虎口を逃れて」(p.178)の節以降で、一篇のドラマをみているかのような臨場感に充ちている(結果が判っているにも拘わらずハラハラさせられる)。
 『文天祥』の主要登場人物のひとりである賈似道に就ては、宮崎市定南宋末の宰相賈似道」(礪波護編『中国史の名君と宰相』中公文庫2011)を併せて読むと参考になる*2。初出は『東洋史研究』第六巻第三号(1941年5月)だそうで、悪名高いこの南宋末の宰相の知られざる一面を描く。改めて宮崎のこの一文を読み直してみると、その表現などから、梅原氏がそれを参照したフシが窺えて面白かった。その例を二、三引いてみよう(引用は原文ママ)。

 度宗即位の翌咸淳元年、賈似道は太師を加え魏国公に封ぜられ、同三年平章軍国重事に任ぜられ、私第を西湖の葛嶺に賜わり五日一朝の殊遇を与えられた。此に於いて南宋政府には二重体系が成立し、賈似道は葛嶺の私第に於いて、館客廖瑩中(りょうえいちゅう)と計って庶政を裁決し、臨安朝廷の百僚は成を仰いで盲判を押し、両所の連絡には堂吏翁応龍(おうおうりゅう)が当った。(宮崎p.90)

 彼(賈似道)は三日に一度、のちには五日に一度、舟を仕立てて宮城に伺候(しこう)するだけで、あとは国政の一切を葛嶺の邸宅でとりしきった。重要な法令はすべて賈似道と腹心の廖瑩中(りょうえいちゅう)、翁応竜(おうおうりゅう)の三人によってお膳立てがされ、政府高官はそれにめくら判を捺(お)すにすぎなかった。(梅原p.76)

 次の例は、襄陽・樊城陥落のくだりに出て来る一文である。

襄陽なき宋の防禦は、セダンを突破されたるマジノ線であった。(宮崎p.95)

とまれセダンの城砦はおちた。パリは指呼(しこ)の間にあった。(梅原p.117)

 このような譬えは、宮崎の文章が書かれた1941年時点では(この前年の出来事なので)たしかに生々しい描写であったに違いないが、梅原著の出た1966年はどうであったか。当時の中年層には、ある種の懐かしさをもって受け取られていたのだろうか。
 その一方で、次の如く見解を異にする部分も有る。

 先に忽必烈の侵入に際して、賈似道が割地と歳幣を約して和を請い、忽必烈を欺きて撤兵せしめたる後、その約を果さなかったという旧来の説は真実でない。鄂州の軍中にて和睦の下交渉が行われたのは事実であるが、之は寧ろ賈似道が蒙古の意向を探らんと誘いの手をかけたと見る可きで、忽必烈もこの提議を真に受けず、遂に和議は流産の儘、物分れとなったのである。忽必烈は開平に帰りて自立して大元皇帝の位につき、東方蒙古帝国を建設し、略々曩日(のうじつ)の金宋対立の形勢が再現すると、幕下の親宋論者郝経(かくけい)を宋に派遣し、新に宋に対し若干の要求を提出して、その反応を見んとした。賈似道は恐らく人心の動揺を慮り、且は国情を探知せられんことを恐れ、郝経を真州に拘留して都に入らしめなかった。(宮崎p.92)

 開慶元年(一二五九)の鄂州(がくしゅう)の役(えき)で、総司令官賈似道は、忽必烈と密約を結び、毎年多額の金品を贈与することを条件として兵をひいてもらった。蒙古撃退の功績を華々しく喧伝(けんでん)するために、彼はこのことをひた隠しに隠した。これが図にあたって、衆望をあつめ、宰相の位についた彼としては、いま郝経が真相をばらし、約束の履行を迫ると困った立場にたたされる。だから郝経を幽閉したのだと言うのが最も一般的な種明かしである。一方、鄂州で忽必烈と賈似道が密約を結んだ確証はどこにもない、彼は郝経が南宋に来て人心を攪乱させ、また南宋の内情を蒙古に伝えるのを惧(おそ)れたにすぎないという反論もある。いずれにしても、公式の使節が理由もなしに幽閉されては、忽必烈としても黙ってはいられない。(梅原p.96)

 梅原氏は、宮崎が「真実でない」と一蹴した「旧来の説」をむしろ「最も一般的な種明かしである」として紹介し、宮崎の説を、あくまで「反論」として紹介するにとどめているようにみえる。
 『文天祥』は本文の末尾に、天祥が自身の信念をうたいあげたことで名高い「正気(せいき)の歌」の全文をかかげてその解釈を示し、「おわりに」の「日本人と文天祥」という節では、江戸初期の儒学者・浅見絅斎が、『靖献遺言(せいけんいげん)』で「正気の歌」を注釈つきで載せていることにも触れている(pp.283-84)。
 『靖献遺言』は、「忠臣義士の遺文ならびに評論」「尊王思想」といったその内容の性格ゆえに戦後はほとんど顧みられなくなっていたが、近年、近藤啓吾訳注『靖献遺言』(講談社学術文庫2018)が刊行され、手に取りやすくなったのはありがたいことである。この「巻の五」が文天祥に充てられていて、「正気の歌」は、『文天祥』所収のものとは若干文言を違える形でpp.213-22に収められている。なお『靖献遺言』にみえる天祥の伝は、近藤氏によれば、「依拠するものは頗る複雑にて、『続通鑑綱目』『宋史』本伝『歴史綱鑑補』の当該記事を取捨補合して文を成しているが、やはりその核心となっているのは、『続通鑑綱目』であるといってよい」(p.203)という。
 さて一方、吉川忠夫『劉裕』は「江南の英雄 宋の武帝」の副題をもち、こちらもやはり読みものとしての面白さを重視している。ただし掉尾をかざる「沈約(しんやく)独語」は、吉川氏自身、「主に『宋書』巻末の沈約自序(しんやくじじょ)と『宋書』各巻の史臣論(ししんろん)にもとづいて書いたが、材料はそれだけにとどまらず、沈約になぞらえた私の劉裕論と考えていただけばよい」(p.229)と述べるように、同書の総括となっており、また、劉裕がなぜ権力を掌握するに至ったか、そして皇帝の座についたあと彼の心境がいかに変化したかと云うことにまで説き及んだ人物評論にもなっている。
 餘談にわたるが、当初、この法蔵館文庫版『劉裕』を書店で見かけたとき、時代も近いうえにカバー絵の構図も似ていることから、昨秋文庫化された森三樹三郎『梁の武帝―仏教王朝の悲劇』(法蔵館文庫)の姉妹篇であるかの如くに思っていたが(沈約の評語も本文中にさしはさまれる)、森著は1956年に平楽寺書店から「サーラ叢書」として刊行されたものであって、「中国人物叢書」と直接のつながりはなさそうである。なお船山徹氏の文庫版解説によれば、「梁の武帝と仏教の関わりについての研究は今や極めて豊富である」(p.214)といい、こちらはこの七十年近くの間に研究がかなり進展したことが察しられるが、宋の武帝すなわち劉裕のほうは、どうもそうでなさそうである。二度目の文庫化にあたり、吉川氏の訂した箇所が「ごくごくわずかにとどまる」(p.245)という事実が、そのことを物語っている。
 ちなみに、中国の南北朝時代通史を扱った新書としてはおそらく初めての本、会田大輔『南北朝時代五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書2021)では、pp.69-75に劉裕の人物像が描かれているが、巻末の参考文献一覧によれば、このあたりは主として吉川著を参照したようである。さらに蕭衍(梁の武帝)は会田著pp.175-84に登場するが、その一部は森著にもとづいているとおぼしい。
 とまれ、劉裕文天祥と――その生きぬいた時代はまったく異なるけれども、激動の時代の波に翻弄された二人の物語を読み較べてみると、色々と面白いのである。根っからの武人で「学がない」ことが一種のコンプレックスというか屈折した感情の淵源になっていたらしい劉裕と、状元として天才的な能力を有しながらも節を屈しなかったため悲劇に見舞われた文天祥と、その対蹠的な生涯の物語は、栄光と没落とがもたらす人間のさまざまな普遍的な感情を、いまに伝えているように思われる。

*1:ただし、このあとがきが書かれたのは1996年末のこと。

*2:宮崎の京大での卒業論文がまさに「南宋末の宰相賈似道」で、中公文庫所収の文章はそのダイジェスト版といった趣だろうか。

実録怪談の名手・鈴木鼓村

 「怪を語れば怪至る」の典型としてしばしば言及される怪談のひとつに、「田中河内介(たなかかわちのすけ)」というものがある。これは、大正期の或る怪談会で、幕末の勤王派・田中河内介の最期について語ろうとした者が、同じ言葉をくり返したあげく結末を語り畢えることのないまま死んで了った――という「実話」をさす。
 朝里樹『日本現代怪異事典』(笠間書院2018)は「田中河内介の最期」を立項し(pp.229-30)、その挿話の梗概について述べたあと、

 この話は池田彌三郎著『日本の幽霊』に載り、池田氏の父親が実際に体験した話であったという。また同書によれば徳川夢声が書いた『同行二人』という著作にはまた別の形でこの話が載っているとのことだが、それは確認できず*1。(p.230)

と説く。朝里樹『日本現代怪異事典 副読本』(笠間書院2019)pp.53-54にもこの話への簡単な言及があるし、朝里樹『つい、見たくなる怪異な世界』(三笠書房王様文庫2021)は、出典を明記しない形でこの話を紹介している(「なぜか最後まで話せない――「「田中河内介の最期」」pp.89-93)。
 東雅夫編『文豪怪談傑作選特別篇 文藝怪談実話』(ちくま文庫2008)は「史上最恐の怪談実話!?―田中河内介異聞」という独立した章を設け、徳川夢声「田中河内介」「続、田中河内介」、池田彌三郎「異説田中河内介」、長田幹彦「亡父の姿」、鈴木鼓村「怪談が生む怪談」を収める。
 夢声によると、これは「谷中(向島)の百花園」で起こった出来事だったというが、池田彌三郎(の父親)によれば、実際には「京橋の橋向こう」の画博堂での出来事であったという。東編著から孫引きすると、

 父の主張によると、京橋の橋向こうにあった書画屋の画博堂という家での話で、怪談百物語といった程の、こった趣向ではなかったが、やはり同好者が怪談を持ち寄って、かわりがわり話し合った時の出来ごとで、画博堂の入り口には、盆提灯を飾りつけるくらいのことはしたのだそうだ。
 ――夢声さんがその場に居合わせたというわけではないんだろう。私の方のは、現に私がこの耳でじかに聞いていたんだし、(語り手が)死んだところまでこの目で見たんだからね。話がそれからそれへと、しまいに都合よく向島へ行ってしまったのさ。――父はこう主張してやまなかった。(『文藝怪談実話』pp.152-53)

 これは池田の父親の証言の方が正しい。その場に居合わせていた鈴木鼓村(1875-1931)もそう書いているからだ。
 鼓村がこの出来事について記した「怪談が生む怪談」は、雨田光平編『鼓村襍記』(古賀書店1944)に収められている。まずはその冒頭近く――、

 大正三年七月十二日、この日は、東京の盆の草市である。東京は新で盆をやるので、盆とはいへど梅雨あがりの、朝よりどんよりおほひかぶさつた憂欝な天氣だつた。家にゐてもべつとり脂肪汗がにじむやうで、街全體がけだるく疲れてゐた。その日はかねてから計畫のあつた通り、日本橋區東中通り(今は電車通り具足町の角)美術店松井畫博堂の四階で化物の繪の展覽會が開會された(同月廿六日で終つてゐる)。(略)そして初日の怪談會にはすべての方面に渡つて招待状を發送したものだつた。(p.327)

 そこに集った者たちはというと、以下の通り。

 さてその晩になると夕方から續々と大變な人が集まつて來て、皆は一驚しながら、こんなに集まつちや怪談も凄くなからうと口々にいひあつた。集合した顔ぶれは無慮六十何名といふ盛會でまづ第一に美術家岩村透男爵、黒田清輝畫伯、岡田三郎助畫伯同じく八千代夫人、辻永、長谷川時雨女史、柳川春葉、泉鏡花市川左團次市川猿之助松本幸四郎河合武雄喜多村緑郎吉井勇、長田秀雄、幹彦兄弟、谷崎潤一郎岡本綺堂等の人々と云ふ連中だ。
 劈頭をうけたまはつて高座に姿を現したのは文壇の名物男阪本紅蓮洞(ママ)氏で、滑稽をまじへた化物談一席、續いて日本カフエーの元祖でプランタンの主人洋畫家松山省三氏の郷里廣島のすごい話、次に私の鈴鹿峠の話*2等があつていつか會場はしんみりした氣分に引入れられてゐた。(pp.328-29)

 こういった錚々たる面々が立ち会うなかで催された怪談会の最中、事件は起こった。
 朝里氏の『日本現代怪異事典』によれば、「さまざまな理由により座の人々がいなくなる中、男は延々と本題に入らない話を繰り返していたが、偶然周りに誰もいなくなったそのとき、小机にうつぶせになったまま死んでしまっていた」(p.230)という。再話体の「なぜか最後まで話せない――「「田中河内介の最期」」もこれとほぼ同じ描写となっている。
 しかし鼓村の記述に拠ると、当時の状況はかなり異なる。次の如くである。

 (語り手の「萬朝報社の営業部にゐる石河(光治)」が卒倒すると―引用者)一座は怖がつて總立ちになつて思ひ思ひに歸つて行つた。殘つた二三の人が石河氏を一間に運び込んで休ませ萬朝報社に電話で聞き合せ、やうやく翌朝京橋南町の同氏邸へ車で畫博堂主人が送つて行つた。石河氏は謹直な人で平常餘りよそで泊つたこともない人だけにその夜は家では心配して妻子が夜明してゐるところへ、ものもいへない同氏が運び込まれてきた。驚いた妻女が同氏を抱へると言葉もでない樣子だつた。石河氏は早速高輪病院に入院したが田中河内介の名を呼びつゞけて同月廿六日お化の畫の展覽會の終つた日に死んでしまつた。(p.341)

 つまり、石河が卒倒したときにはまだ多くの者が残っていたようだし、石河が死んだのもその場ではなく、入院してから二週間後、ということになっている。
 こういった事実関係の齟齬については、東雅夫氏も著作で次の如く述べている。

 男(石河)がその場で昏倒して息を引き取った……とするものから、帰宅後に体調が急変して亡くなったらしい、とするものまで、様々である。もっとも、当夜の模様を伝える短い新聞記事を参照するかぎり、会場で変死者が出たという類の報道はないので、その場で息を引き取って云々の信憑性は低いといわざるをえない。(『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』学研新書2011:27)

 鼓村の証言が正しいことは、吉田悠軌『怪談現場 東京23区』(イカロス出版2016)が引く当時の新聞記事(萬朝報)からも明らかである。吉田氏はさらに、この怪談会が向島・谷中辺で行われたという誤解が広まったことについても、次の如く述べている。

 ちなみに、事件の舞台が谷中の「百花園」だといわれることも多いが、これは事実ではない。なぜ、そんな誤解が出回っているのかといえば、理由は二つ。その一つは、徳川夢声がエッセイ『田中河内介』で「谷中の百花園での出来事」との伝聞情報を書いてしまっていること。これを参考にした人々が、また誤情報を拡散させていってしまったのである。もう一つは、5年後の1919(大正8)年7月19日、百花園で行われた怪談会が原因だ。これも画博堂と同じく泉鏡花らが参加しており、「田中河内介の話」をしようとした石河光治の死について語られた会でもあった。当時の現場にいた者達の証言なのだから、かなりのインパクトがあったはずだ。「話してはいけない怪談」の恐怖をまざまざと感じた参加者が、その記憶を徳川夢声に報告。それを受けた夢声がそもそもの現場を百花園と取り違えた……というのが、誤解が発生するに至った経緯だろう。(p.143)

 東編著『文藝怪談実話』の巻末「解説 文人と怪談と」には、大正八年(1919)7月22、23日付「都新聞」の記事が引かれている。当該記事には、同月19日に向島百花園で行われた怪談会(つまり「誤解」のもとになった怪談会)の様子が紹介され、5年前に起こった怪異譚についてどう語られたか、ということが記されている。一部を孫引きすると、次の如くである。

 相変わらず(石河の話は―引用者。以下同)「田中河内の助(ママ)が切腹しました」という一言(いちごん)より先へ一言も進まない。堪らなくなって一人立ち二人立ち、今は喜多村(緑郎。初代)・泉(鏡花)・鹿塩(秋菊。鹿塩亀吉。すみや書店主人)・鈴木(鼓村)の四人だけが残った。其の鈴木鼓村君さえこっそり抜け出して了った。(『文藝怪談実話』p.393)

 ここでは鼓村が名指しされ、その瞬間を直接には目撃しなかったことがほのめかされるが、真相はどうであったろうか。
 なお「怪談が生む怪談」は、『文藝怪談実話』だけではなく、東雅夫編著『文豪たちの怪談ライブ』(ちくま文庫2019)にも収録されている*3が(pp.218-33)、そこで東氏は、鼓村について次のように述べている。

 鼓村は、明治後期から大正にかけて頻繁に開催された百物語怪談会にも、一種の名物男として頻繁に顔を出していた。すでに紹介した「不思議譚」や向島の化物会、吉原の怪談会、そしてこの画報堂での怪談会と、名だたる怪談会の中心には、常に鼓村の姿があった。鏡花らの『怪談会』が鼓村の話で幕を開けているのは、決して偶然ではないのである。(pp.240-41)

 この後段で東氏は、鼓村の怪談「色あせた女性」を紹介しているが、これも『鼓村襍記』に収める(pp.309-11)。また上引にみえる「鏡花らの『怪談会』」というのは『怪談会』(柏舎書楼1909)なる稀覯書をさし、これは「怪談百物語」(「新小説」1911.12月号)とともに、東雅夫編『文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会』(ちくま文庫2007)に収められたが、さらに近年、「怪談会」座談会(「新小説」1924.4,5月号)等とともに影印版で東雅夫編『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店2020)に収められた*4。この労作についてもいずれ紹介したい。
 さて鼓村は、本業は筝曲家、また画家であり、その著作としては『耳の趣味』(佐久良書房1913)が比較的よく知られている。同書はたとえば、鶴ヶ谷真一『紙背に微光あり―読書の喜び』(平凡社2011)の「鐘をめぐる人々」(pp.37-46)末尾にも引かれているが、この『耳の趣味』を増補したものこそが、『鼓村襍記』なのである*5。ついでに云うと、『鼓村襍記』は『耳の趣味』に附された柳田國男の序文のほか、蒲原有明の序「鼓村のおもかげ」をあらたに附す。
 旧版『耳の趣味』は「音」「日本音楽」に関わる随筆がほとんどを占め、なかには「箏(こと)の空音」(pp.295-300)という怪談めいた話が見えはするものの、鼓村の怪談趣味を窺わしめる要素は少い。しかし『鼓村襍記』になると、「怪談が生む怪談」をはじめ、「亡靈からの手紙」「闇に老人の聲」「色あせた女性」「マスネの亡靈」「銃器を磨く亡靈」「日本的淸田大人」「鰊漁場の慘話」「鈴鹿山秋の白露」といった怪談の類が増補されている。これは編者の雨田光平の意向によるもので、跋文で雨田は次の如く述べている。

 鼓村の化物話は有名なもので逸散を憂へてゐた所筺底から名古屋新聞に連載した切拔を發見してホツト安心しました。これには鈴木律子(左知子)さんの記憶が大へん役立つた。話術の迫力で知らず\/引入れられてゆく面白み、まけ惜しみの強い岩村筐男など眞面目な顔をしてフム、フムと感心して聞いたものです。就中實際に經驗した銃器を磨く亡靈、日本的淸田大人、怪談が生む怪談など仲々捨て難い凉味があるので故人を偲ぶよすがにそのまゝ掲げる事にしました。(p.357)

 これによれば、増補された怪談の類は、詳細は不明であるものの、「名古屋新聞」が初出であるらしいことが知られる。
 「亡靈からの手紙」(目次でのタイトル。本文は誤植?のゆえか「亡靈から手紙」)の冒頭で鼓村は、

 怪異に出逢はない人は、怪談といふと、あゝまた眉唾物かと輕蔑する然し――幾度か怪異に出逢つた私は、決して眉唾物だなどと、輕蔑する事が出來ないで、數年來、この方面の材料を蒐集し、研究してゐる譯、…(p.305)

と、怪談研究にのめり込んだのは「數年來」のことだと述べている。この「數年來」がいつ頃をさすのかは判然しないが、この後に語られるのが「大正四年十一月」の出来事であることから推して、鼓村が怪談を蒐集し始めたのは明治末年から大正初年にかけてのことであろうと考えられる。
 また「色あせた女性」については、さきに一寸触れたように、『文豪たちの怪談ライブ』で東氏が紹介しているが、この文章については徳永康元もエセーで言及している。

 この本をはじめて私の手にとらせたのは、たしかフリッツ・ルンプという名前だったと思う。
 『皷*6村襍記』の巻末近く、「色あせた女性」という怪談の一篇がある。皷村という人は怪談の上手でもあったらしい。小山内薫、フリッツ・ルンプ、それに皷村の三人が、吉原で飲んだ帰りに市電に乗り、うとうとしていると、小山内が突然、皷村をゆりおこし、いつもつきまとっている女の亡霊がそこにいる、というのである。嘘か本当かわからない話だが、皷村は大真面目に書いている。(略)
 『皷村襍記』は、ルンプのほか、岩村透、黒田清輝、岡田三郎助らの美術家たち、泉鏡花長谷川時雨谷崎潤一郎吉井勇ら作家たち、市川左団次などの役者たち、そのほか多くの人々によって彩られているが、この本が古賀書店から刊行されたのは昭和十九年二月で、戦争末期によくこれだけの本が出せたと思う。
*7徳永康元「『皷村襍記』」『ブダペストの古本屋』ちくま文庫2009:214-15←恒文社1982)

 ちなみにルンプは、『鼓村襍記』の蒲原有明による序文でも簡潔に紹介されている(pp.22-23)。

*1:後述する夢声の「田中河内介」等は、『世にも不思議な話』(実業之日本社1969)に収められているようだが、引用者未見。

*2:「私の鈴鹿峠の話」は「鈴鹿山秋の白露」(『鼓村襍記』pp.348-52)という怪異譚をさすか。

*3:同書にも、上引の「都新聞」の記事が紹介されている(pp.234-37)。

*4:鼓村による怪談は、「二面の箏」「雪の透く袖」「狸問答」の三話である。

*5:但し『鼓村襍記』は、『耳の趣味』の掉尾を飾った「寒念佛」の後半部に数行分の脱落があったりする。

*6:ブダペストの古本屋』では「鼓村」を尽く「皷村」に作る。元本も同じ。

*7:初出は1981.3「図書新聞」。

復刊された『女と刀』のことなど

 四年前に「『女と刀』のことから」というエントリで、中村きい子の『女と刀』を復刊してくれないものか、と書いたことがあるけれど、それが三月にちくま文庫に入ったので、驚き、かつ嬉しく思ったことだった。
 ところでこの四年のあいだに、必要あって田宮虎彦「霧の中」(『落城・霧の中 他四篇』岩波文庫1957*1所収)を読んだのだが、主人公の中山荘十郎(旧幕臣の遺児という設定)、旧幕臣の鎌田斧太郎や岸本義介の生き方にも、『女と刀』のキヲに通ずるものを感じたものであった。
 もっとも荘十郎は、戊辰戦争の動乱時、「西郷吉之助の配下」(p.183)に父親を殺されたうえ、「薩摩の枝隊」(p.175)に母親や姉の一人を惨殺されている。それに斧太郎は、西南の役に参加して薩摩藩士を斬った側の人間である(p.184)から、キヲとはまったく逆の立場にある。しかし、たとえば斧太郎が「我々が生きていては文明開化には障りになる」(p.183)と云えば、義介は「所詮、負けたものの強がりほど見るにたえんものはない」(p.189)と云うように、その登場人物たちがみな近代国家としての日本から切り捨てられた敗残者であるということは共通している。
 表題の「霧の中」は、作中に、

加波山で鎮兵隊の縛についた人たちがすべてというのではないが、その大半が自分と同じ星の下を歩いている。生ま生ましい憤りが今は二十歳を越した荘十郎の胸にもえさかっている。二千という秩父の暴徒も多くは斧太郎や篠遠と變りない身上のものであろう。一寸さきの見えぬ霧の中にさまよっている。そこからぬけ出なければならぬ。だが、鎮臺兵に爆彈を投げることも巡査隊に銃火をうちかけることも所詮夏の夜の花火にすぎぬことだ。義介に言わせれば「巡査隊に鐵砲うったとて今の政治がびくとでもゆるぐものか」と冷たく笑うだけであろう。(p.188)

とあることに由来するのだろうが、この者たちも、恐らくは近代日本から取りのこされた敗残者なのであって、仇敵があまりに大きいため、あたかも霧中にいる如く標的を見失っている。結局そのような敗残者がいくら束になって目前の敵に立ち向かったところで、それは「所詮夏の夜の花火にすぎぬこと」、「日本」そのものは決して揺らがない。ところが、磐石であるはずの「日本」は第二次大戦の敗北であっけなく瓦解してしまって、主人公たる荘十郎は落魄と孤独のうちに死ぬ。物語は、そういった皮肉な結末を迎える。
 さて復刊なった『女と刀』(ちくま文庫)は、講談社文庫版に附された鶴見俊輔の解説にくわえて、斎藤真理子氏による解説をあらたに附している。斎藤氏がその解説で、

 中村きい子は、谷川雁の『サークル村』や森崎和江の『無名通信』(五九~六一年)に参加した鹿児島の作家だ。最近、森崎和江の『まっくら』が復刊されるなどサークル村関連の書き手が注目を集めているが、『女と刀』は、その中でも突出してポピュラーな人気を獲得した作品といってよい。(p.408)

と書いているように、森崎のデビュー作『まっくら―女坑夫からの聞き書き―』は、昨秋岩波文庫に入り(初の文庫化という)、増刷をかさねている。この『まっくら』の水溜真由美氏による「解説」も、やはり「サークル村」や「無名通信」に言及している(pp.316-21)のだが、わけても興味ふかく読んだのは、森崎の手法が石牟礼道子の『苦界浄土』第一部の白眉「ゆき女きき書」に影響を与えたというくだりや、研究者によるオーラルヒストリーにも刺戟をもたらしたというくだりである(p.327)。
 「オーラルヒストリー」と云えば、こちらもここ四年のうちに読んだ、保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(岩波現代文庫2018←御茶の水書房2004)のことがおもい出されるので、一寸紹介して置きたい。
 表題に「ラディカル」とあるように、同書で保苅氏は、既存の「オーラル・ヒストリー」とはまったく異なる方法論を提唱している。まず副題の歴史実践(historical practice)というのは、保苅氏によると「日常的実践において歴史とのかかわりをもつ諸行為」(p.55)であって、歴史学者による歴史研究のみならず、琵琶法師の弾き語りや寄席に古典落語を聴きに行く行為などをも包含するものだという。
 そのひとつの例を、保苅氏はグリンジ・カントリーのグンビン(アボリジニ)の長老のひとり、ジミー・マンガヤリの歴史語りにみている。従来のアカデミックな歴史家であれば、その語りを「歴史的な神話」「神話的な歴史」(p.126)などとみなし、人類学者の守備範囲だと考えてしまうところだろうが、保苅氏はそれを、「近代実証主義的な経験論(empiricism)とは異なる仕方で〈歴史への真摯さ〉*2を紡ぎだ」す(p.259)分析手法ととらえたうえで、「西洋近代に出自をもつ学術的歴史実践と、先住民グリンジの歴史実践とのあいだのコミュニケーション」(p.186、これを保苅氏は同書中で「共奏」と表現している)の可能性を探ろうとする。
 とは云い條、保苅氏は「グリンジ・カントリーで行われていた歴史実践を神秘化する意図はまったくない」(p.63)とことわっているし、「ジミーじいさんによる分析が、グリンジ社会の歴史観を代表しているわけではない。ましてや、オーストラリア先住民全体の歴史観を代表しているわけでもない」(p.150)とも述べ、安易な一般化からはまぬかれている。
 これまでにない挑戦の書でもあったからだろう*3、同書は「そうではなく」という言葉を多用して、明快な表現で誤解をひとつひとつ解きほごそうとしていく。
 保苅氏が試みたことは、現時点では恐らく歴史家による歴史実践のメインストリームとはなり得ていないだろうけれども、その叙述スタイルには好感がもてる。
 保苅氏は、翻訳のほかにはこの一冊のみを遺して、満三十二歳の夭さでこの世を去っている。
―――
 復刊といえば、この二月に、笠松宏至氏の『徳政令―中世の法と慣習』(岩波新書)が小瀬玄士氏の「解説」附きで講談社学術文庫に入ったことも欣快事であった。この『徳政令』は昨年、「笠松宏至『徳政令』」「「器量」の話―『徳政令』餘話」で紹介したばかりだった。
 またこれは復刊ということではないけれど、三年前に「国木田独歩「忘れえぬ人々」」「加藤典洋『日本風景論』のことから」でとり上げた「忘れえぬ人々」が、昨秋文庫化された庄野雄治編『コーヒーと小説』(mile books)に入った*4こともまた、おもいがけず、うれしい出来事であった。

*1:手許のは1988年の第4刷。某書肆の店頭百均にて入手がかなった。

*2:別のところでこの「真摯さ」は、次のような態度として説かれている。「(長老たちが語る)歴史は突然捏造されたりはしない。歴史は、日常的な歴史実践の中で何度も再現され、交換され、メンテナンスされるのである」(p.168)。

*3:同書は、保苅氏の博士論文の一部に加筆したものがもとになっている。

*4:忘れえぬ人々」のほかに、田山花袋少女病」もあらたに収められた。ちなみに目次では、誤記なのか、この新収録の二作品のみ著者名を逸している。

『味な旅 舌の旅』所引の『懐風藻』

 宇能鴻一郎『味な旅 舌の旅』(中公文庫1980)が、エセー「男の中の男は料理が上手」と、著者と近藤サト氏との対談(「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わる」)とを附して、2月に新装復刊された。昨夏に出た宇能氏のオリジナル短篇集『姫君を喰う話』(新潮文庫)が話題となったことを受けてのものらしい。
 『味な旅 舌の旅』の単行本は日本交通社から刊行されており(1968年)、KK・ロングセラーズで『美味めぐり』と改題のうえ一部改編されて復刊(1977年*1)、その三年後に中公文庫に収まっており、わたしはこの旧版の文庫を持っていた。
 いわゆる食味エセーではあるが、それだけに止まらない魅力がある。新版の帯に「日本美食紀行」とあるように、あるいはその表紙裏の内容紹介に「日本各地の美味・珍味を堪能しつつ列島を縦断。(略)貪婪な食欲と精緻な舌で味わいつくす、滋味豊かな味覚風土記」とあるように、北は小樽から南は奄美まで、そこここへと出向いてありとあらゆる物を喰らう。その土地土地で出会った人たちとの淡い交流の記録なども読んで面白く、所々に差し挟まれる和歌もうるさくなくて心地よい。一篇一篇、それこそ「味わう」ように読んだ。ことに「食味」を描写した箇所でいうと、たとえば次のような記述などに唸らされたものだった。

 ほんとうに美味しいものを、いい条件で、ゆっくりと、或るていどの量を食べたときの陶酔感は、たしかに酒の酔いに似ている。新しい、上質の牡蠣というものは、ごく上品に、ほんのりとそれらしい味がするだけで、まことに淡白な、物足らぬほどあっさりとしたものだ。舌でそっと、口腔に押しつけるだけで柔らかくつぶれ、半煮えの滋味ゆたかな汁液をたっぷりとほとばしらせる感覚には言いがたい酔いがともなう。歯を使うのが勿体なくて、というよりはこのかよわい、豊かな、柔らかさそのものの、もっとも女性的で無抵抗な、それでいてたとえようもなく充実した生きものに、歯を立てるのが残酷な感じがして、ぼくは最初の数箇は、舌だけで咀嚼して呑みこんだ。もちろん、口に入れるやたちまちのうちに、雪のように溶けて、何の苦労もないのである。(「松島・雪の牡蠣船」旧版p.27、新版p.29)

 このメダカ大の魚が有名な鰍(かじか)で、これを二、三匹ずつ串にさし、天日で乾してから、煮ふくめて酒の肴にするのである。(略)
 竹串の先に、飴いろの小さい魚が二匹ついた、わびしい、しかも風流な、まことに日本的な食物である。そんなに小さくとも尾を反らし、目をむいて、ちゃんと魚の形をしていて、口中でわずかに抵抗してから、あえなく溶けさせる。太陽と、川と、かすかな生き物の味が舌に残る。老夫婦の入っている川の水の冷たさと、早春の風の寒さと、竹串を割るひび割れた手と、一匹一匹丹念に刺してゆく老いた指先の震えまでが、そのつつましい、ひなびた味わいから感じとれるのである。(「腹づつみ四国の奇漁」旧版p.183、新版pp.204-05)

 宇能氏と食物といえば、山本容朗が次のように書いていたのをおもい出す。

 やはり、そのころ(宇能氏が『耽溺』を刊行した頃―引用者)だったと思う。私は、書評紙で、この人の人物コラムを書き、雑誌の用事で、インタビューにいったことがあった。
 時間は、昼めし時少し前で、起きたばかりのウノコウさんは、食事寸前であった。
「一緒にやりませんか」
 というので、ご馳走になったのだが、それは、ご飯、味噌汁、焼き魚、野菜の煮物、漬け物といった純日本風で、とにかく見事な味であった。私は、一番の朝めしと問われたら、まず、この日のウノコウさんの家と答えるだろう。
 その上、この家の主人は、ラーメンが食いたくなると、飛行機で、札幌でも、博多でも食べにいく人物なのである。(「宇能鴻一郎」『作家の人名簿』*2徳間文庫1987←文化出版局1982:144-45)

 こんな人物がものしたエセーなのであるから、面白くならないわけがない。
 さて、『味な旅 舌の旅』に次の様な一節がある。

 (天智―引用者)天皇の在世中は、多くの帰化人をむかえて、都は中国風の新しい文物と、華やかな風俗で賑わったにちがいないと思われる。「懐風藻」序文をひくと、
「ここに三階平煥(豪華宮殿)、四海殷昌(世間平和)、流紘(天子)無為、巌廊(朝廷)暇多し。しばしば文学の士を招き、時に置醴の遊(宴会)を開く……」(「さざなみの志賀の鴨鍋」、旧版p.129)

 ここに引かれている「流紘(りゅうこう)」は、新版でも同様に「流紘」となっている(p.144)。しかし、これはおそらく「旒纊」の誤りであろう。
 本邦最古の漢詩集『懐風藻』は、「宝永二年刊本を底本とした」(「凡例」)江口孝夫全訳注『懐風藻』(講談社学術文庫2000)しか今手許にないが*3、当該箇所は「旒纊無為」となっていて、語釈には、

○旒纊無為 天子は何の手段も講じないですむ、天下がよく治まっていること。旒は冠の前後に垂らした玉、纊は冠に垂らし耳にあてる綿で、天子が用いた。直接に見、聞くことを防いだもの。(p.31)

とある。
 また、たとえば小島憲之『萬葉以前―上代びとの表現―』(岩波書店1986)も、『懐風藻』の序文の一部を引いているのだが、やはり当該箇所は「旒纊無為」となっており、これについて小島氏は、

(『懐風藻』序文は)文選語をよく使用する。天子の見聞を防ぐ玉垂れと耳玉の意をもつ「旒纊(りうくわう)」の如き語も、『文選』巻三十八任彦昇「為蕭揚州士表」の「陛下は、道旒纊に隠れ、信(まこと)に符璽に充(かな)ふ」(李善注『大戴礼』を引用)などによって、天子や朝廷などの意に応用したものであろう。(「近江朝前後の文学 その一」pp.65-66)

と述べている。
 『懐風藻』といえば、ごく最近読んだ多田智満子『魂の形について』(ちくま学芸文庫2021←白水uブックス1996)も、次の様な形で紹介していた。

 ところで蝶という外来語、あるいはそれのやまとことばは、どういうわけか万葉集にも古事記にもひとつも出てこない。懐風藻には蝶を歌いこんだ詩があるときいたが、これは詩型と共に中国直輸入の語彙を用いた試みだったのであろう*4。お隣の琉球や、さらに日本人の先祖の一部がそこから来たと考えられている南太平洋沿海の諸民族が、それぞれ蝶に注目し敬意を払っているのにひきくらべて、わが大和民族の蝶類に対するこの無関心ぶりはいささか異様ですらある。
 わずかに、記紀に語られた少名毘古名神(すくなひこな)神の姿が(蝶ではなく蛾〈ひむし〉であるが)蝶類への関心を垣間見させてくれる唯一の例であろう。古事記によれば少名毘古名は「波の穂より天の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(ひむし)の皮を内剝(うつは)ぎにして衣服(みけし)にして帰(よ)り来る神」であった。(p.35)

 『懐風藻』の「蝶を歌いこんだ詩」というのは、紀麻呂「春日 応詔」の「階梅闘素蝶」(階梅素蝶を闘はし)や紀古麻呂(麻呂の弟)「望雪」の「柳絮未飛蝶先舞」(柳絮未だ飛ばぬに蝶先づ舞ひ)などの句をさすのであろう。しかし後者の「蝶先づ舞ひ」というのは、蝶そのものではなく、雪を譬えてこの様に表現しているのである。
 古麻呂の「望雪」詩は、小島憲之編『王朝漢詩選』(岩波文庫1987)にも収められており、その語釈で小島氏は、「柳絮未飛蝶先舞」の句はこれに続く「梅芳猶遲花早臨」(梅芳猶し遅きに花早く臨む)の句とともに「六朝詩によくみられる雪の見立て」(p.33)だと説いている。
 ちなみに、本邦ではかつて蝶を詩句の題材とすることが殆どなかったという事実については、三中信宏『読書とは何か―知を捕らえる15の技術』(河出新書2022)も、植木朝子『虫たちの日本中世史:「梁塵秘抄」からの風景』(ミネルヴァ書房2021)を紹介する形で、次の様に言及している。

 著者(植木氏)はこの一見矛盾する虫との関係(気持ち悪いと忌避しながらも、一方で惹かれるという関係―引用者)が歴史的に見てどのように成立したのかのルーツを平安時代の文化に探ろうとした。興味深いことに昆虫に対する好悪の感情が現代とは正反対である事例がある。たとえば、チョウについて著者は次のように指摘する。

 花園に飛び交う蝶は、現代人の感覚からすれば、美しく優雅であって、賞美の対象としてなんら違和感のないものと思われるが、『万葉集』には蝶は詠まれず、中古・中世の和歌においても、生物としての蝶が正面から取り上げられ、愛でられることはほとんどなかった。(植木2021,p.146)

 現代とはまったく逆の受け取られ方をされた理由として、著者はチョウのもつはかなさのイメージは死を連想させる不吉さを帯びていたからと言う(同,p.157)。(p.246)

 多田氏も前掲書で、さきの引用部に続けて、「蛾の皮をそっくり剝いで身に着けた神は、蛾の皮を衣服とするというよりはいっそ蛾の形をした霊魂と見るべきであろう」(p.36)などと述べている*5
 蝶や蛾にはかつて、「死」のイメージが纏わっていたのかも知れない。

*1:旧版の中公文庫には「昭和五十三年七月(刊)」とあるが、新版には「一九七七年七月」とあり、後者が正しそうだ。「あまカラ選書」の一冊という位置づけだったらしい。

*2:北海道新聞」に連載された「文壇さんぽ道」がもとになっている。文庫版はさらに加筆。

*3:懐風藻』といえば昨秋、辰巳正明『懐風藻全注釈 新訂増補版』(花鳥社)が出たが、気になりながらもまだ見ることを得ていない。

*4:これを承ける形で、多田氏は、「特に平安期に至って蝶は日本語としてよくやまとことばになじみ、華やかな文学的形象として頻々と用いられるようになるが、しかしやはり中国直伝の荘子の夢の胡蝶をふまえた文脈のものが多い」(p.36)とも述べている。

*5:もっとも、多田氏もことわっているように「鵝」=「鷦鷯(みそさざい)」との解釈もあるが、最終的には、「やはり蛾としておく方がよいというような気がする」と判断している。