あるイソップ寓話のこと
室井光広『おどるでく―猫又伝奇集』(中公文庫2023)は芥川賞を受賞した表題作のほか、「猫又拾遺」「あんにゃ」「かなしがりや」「万葉仮名を論じて『フィネガンズ・ウェイク』に及ぶ」、それから加藤弘一氏による著者インタビュー(1995年)、多和田葉子氏のエセー(2020年)等々を収めているが、これまで書籍には収録されてこなかった短篇「和らげ」(初出は「すばる」1996年1月号)も入っている。
この「和らげ」には、高倉村(架空の自治体)の生涯学習振興センターの機関誌「和らげ」が登場するのだが、その機関誌名の由来となった「和らげ」の語義についての説明がひとしきりつづいた後に(ややこしい!)、次のようなくだりが出て来る。
記述の典拠は、昭和四十六年初版発行の角川文庫版(大塚光信校注)で、この中からいくつかの物語を撰んで拡大コピーしたものをセミナーのテキストとして用いたと『和らげ』第二号にある。
煩瑣になるので詳細は省くが、キリシタン版『エソポ物語』には古活字本『伊曽保物語』というのも併録されていて、雲野(いと子。機関誌の編集人―引用者)さんはこの中の「十八 男二女(ふため)を持つ事」の全文を『和らげ』に転載している。文庫版でも十四行に終る短い教訓話で、ここにあらためて孫引きするに足る内容とはいえないが、こんな話をテキストにつかった雲野さんの心持ちに興味を覚えるので、彼女の現代語訳(やわらげ)を参考にしながら紹介しておく。ある男二人妻を持けり。一人は年たけ、一人は若し、とそれははじまる。ある時、男が老いた女のもとにゆくと、年をとっている自分があんな若い男とナニして(これは僕の言葉ではなく彼女の現代語訳による)と、世人にあざけられるのが気恥ずかしいので、「御辺(ごへん)の」(=あなたの)鬢(びん)の髭の黒いところを抜いて白髪だけを残すようにしてしまいたいといって、たちまちその通り事に及んだ。男は何テコッタイと思ったが、夫婦の愛情にひかれて痛さもじっとこらえ、抜かれるままになっていた。またある時、今度は若い女のもとに行くと、じぶんはまだ若々しい身なのに、あなたのように白髪まじりの人を夫としたとあっては人のもの笑いになり、恥ずかしいので、「御辺の鬢髭の白きを抜かん」といい、全部抜きすててしまった。かくしてこの男「あなたに候へば抜かれ、こなたには抜かれて」とうとう鬢髭が無いありさまとなった。
物語はここから最後の教訓にうつる。曰く、君子たらん者が「淫乱にけがれなば」(=色好みにふけると)、たちまちかかる恥辱をうけることになる。およそ「二人の機嫌をはからふは、苦み常に深き物也」、だからこそことわざにも「二人の君につかへがたし」というのである、云々。(「和らげ」pp.343-44)
ここに引用・紹介されている物語はイソップ寓話がもとになっており、そのもとの話を、まずE.Chambry校訂版のギリシア原文に拠った山本光雄訳『イソップ寓話集』(岩波文庫1942*1)は「五二 ごましお頭の男と芸者」(p.55)というタイトルで収めている。おなじくChambry校訂版に拠った塚崎幹夫訳『新訳 イソップ寓話集』(中公文庫1987)は「7-6 ごましお頭の男と愛人たち」(pp.144-45)として訳出している。さらにB.E.Perry校訂『アエソピカ』第一巻のギリシア語寓話を全訳したという中務哲郎訳『イソップ寓話集』(岩波文庫1999)は、「三一 ロマンス・グレーと二人の愛人」(p.45)という題名でこれを収めている。
府川源一郎『「ウサギとカメ」の読書文化史―イソップ寓話の受容と「競争」』(勉誠出版2017)によると、山本訳『イソップ寓話集』は、旧版は英語読みでない『アイソーポス寓話集』というタイトルだったという。府川著は上記のほかの文庫にも言及しており、それぞれの特徴について簡潔にまとめているので、以下に引いておく。
一方、間違いなく成人に向けた訳業としては、一九四二(昭和一七)年に岩波文庫の一冊として刊行された『アイソーポス寓話集』(三五八話収録)が挙げられる。訳者は山本光雄。この本は、フランスの研究者シャンブリ(Emile Chambry)が一九二七年にパリで刊行したテキストの中のギリシア語原文からの翻訳だった。シャンブリのテキストは、それまでのヨーロッパにおけるイソップ寓話研究の成果を踏まえて原典を校訂し、それにフランス語訳を添えた書物である。これ以降、シャンブリのテキストは「シャンブリ版」と通称されて、イソップ研究の基礎文献となり、数々の寓話も「シャンブリ版の○番」という通し番号で呼ばれるようになる。(略)
また一九八七(昭和六二)年には、塚崎幹夫が『新訳イソップ寓話集』(中公文庫)を刊行する。この翻訳の底本もシャンブリ版である。この本は、奴隷の身分だったといわれるイソップという人物がなぜイソップ寓話を表した(ママ)のかという問題意識に立って、イソップの作成意図を想定し、話材を「主張別」とも言える独自の配列で並べたことが特徴である。これまでにも「動物(獅子・狐など)」や「人間」などの題材別にイソップ寓話の各話を並べて示した試みは存在した。しかし、原作者であるイソップの「主張」を仮設的に推定し、それに基づいて全体を再構成するという発想は新機軸だった。シャンブリ版では相互に遠く離れて並べられていた話も、メッセージ別に並べ替えてそれらを続けて読むことで、新たな発見が生まれてくることが興味深い。
(略)次いで、一九九九(平成一一)年に岩波文庫から、中務哲郎の訳で四七一話が収録された『イソップ寓話集』が刊行された。これは、ベン・エドウィン・ペリーの校訂した『アエソピカ』の第一巻に掲載されたギリシア語の寓話四七一話を全訳したものだという。イソップ寓話に関する最新の研究成果を取り入れた労作である。(pp.163-65)
塚崎訳は「主張別」に各話を排列した、ということであるが、たとえば「ごましお頭の男と愛人たち」であれば、「7 選びかたを誤ればすべては崩れる――疑わしいものは避けよ」の下位項目の第6「利害の反する者」のなかに、「いっしょに旅をするロバと犬」「炭屋と洗濯屋」「父親と娘たち」と共に収められている。
ところで柳沼重剛『語学者の散歩道』(岩波現代文庫2008)によると、この「ごましお頭~」(「ロマンス・グレー~」)の寓話は、河野与一が「大人のためのイソップ」で紹介したことがあるのだそうで、それは単行本の『学問の曲り角』に収められたというが、手持ちの岩波文庫版『新編 学問の曲り角』(2000年刊)には、残念ながら入っていない。
柳沼氏は、
桂文楽がやきもちの話、例えば『悋気(りんき)の火の玉』などという、それ自体が小噺風の話をやる時に、決まって枕にふった小噺に、このイソップとそっくりなのがある。違うのは、イソップでは二人の妾だが、文楽ではご本妻さんとお妾さんだ。枕に降った話だから、落語全集めいたものにも載っていない。思い出しながら書いてみると、こんなふうだ――(「イソップなどを読んで文楽や志ん生を思い出すこと」p.88)
と前置きしたうえで、1ページ半にわたって当該のマクラを紹介している。それから次のように述べる。
これはまちがいなくイソップから出た小噺だろう。いわゆるキリシタン文書の中に入っていた『エソポ物語』がやがて漢字・仮名まじりの『伊曾保物語』となって流布している。岩波文庫の武藤禎夫校注『伊曾保物語』の下巻十八番の「男、二女(にじょ)を持つ事」というのがこれだ。
ふつうイソップの寓話には、それぞれの終わりに教訓が添えられているが、この話について今挙げた三つ、つまりハウスラートやシャンブリが校訂したギリシア自身の収集、キリシタン文書(原文ママ)の『古活字本伊曾保物語』、それと河野先生の(たぶんハウスラート版からの)訳を比べてみるとなかなかおもしろいのでご覧に入れると、
まずハウスラート版とシャンブリ版は同じで、「このように、不一致というものはどこにおいても有害なものです」。
『伊曾保物語』では、「其(その)ごとく、君子たらん者、故なき淫乱にけがれなば、たちまちかゝる恥を請(うく)べし。しかのみならず、二人の機嫌をはからふは、苦み常に深き物也。かるが故に、事わざに云、「ふ(た)りの君につかへがたし」とや」。この諺とはキリシタンのものではなく漢文の教養から得たものだ――「忠君不事二君、貞女不更二夫」(『史記』)。(同上pp.90-91)
いずれにしてもこの話は、キリシタン版の『エソポ物語』(『イソポのハブラス』。岩波文庫には、新村出翻字『天草本 伊曾保物語』として1939年に収められた*2)は採っていない。国字本『伊曾保物語』の下巻第十八に出る話なのである。
ちなみに各話について、各種のイソップ寓話や、『伊曾保物語』等のどこに収載されているかを表の形で対照・一覧したものが、さきの中務訳『イソップ寓話集』巻末に掲げてあり、これが非常に参考になる。
なお『イソポのハブラス』と国字本『伊曾保物語』とは、同一の祖本から別々に編集されたと思われるが(大塚光信も武藤氏もそのような見立てである)、内容・形式ともにかなりの逕庭が有る。その違いを容易に比較できるものとして、大塚光信校注『キリシタン版 エソポ物語 付 古活字本伊曾保物語』(角川文庫1971)が、やはり「実に重宝な一書」(武藤氏)となる。もとより旧くなってしまった情報もあるものの、日本語学・国語学的視点からの分析を主とする「解説」、脚注も充実している。
ところで、先の柳沼氏が引用していたのは古活字本の方だが、上引のごとく、武藤禎夫校注『万治絵入本 伊曾保物語』(岩波文庫2000)にも触れている。実は、この巻末補注の二六で武藤氏は、八代目桂文楽による口演のマクラを全文引用の形で紹介しつつ、「おそらく伊曾保物語の話を読んだ贔屓客の勧めで、マクラに用いたものであろう」(p.292)などといった注まで附しているから、柳沼氏はその注釈を参照しておればよかったので、わざわざ「思い出しながら書いてみ」なくてもよかったわけである。
とはいえ柳沼氏が、この話の末尾の「教訓」部分について、「漢文の教養から得たものだ」と示唆していることは重要だと思われる。たとえば中務訳『イソップ寓話集』は「解説」で、
三一「ロマンス・グレーと二人の愛人」は八代目(六代目)桂文楽(一八九二―一九七一)が落語「悋気(りんき)の火の玉」の枕に振って有名にした話であるが、『伊曾保物語』下一八に「男二女(ふため)を持つ事」として訳出される前に、仏教説話集『三国伝記』(一五世紀前半)巻一ノ二五「抜髪男事」によってわが国に入っている。(p.369)
と説いており、この物語が「一六世紀のキリシタン宣教師による将来以前に、別のルートでわが国に伝わった話」であることを示している。そのため、「教訓」(「下心」ともいう)部分に漢籍による影響がうかがえるのかも知れない。
ありがたいことに、武藤校注『万治絵入本 伊曾保物語』の補注二六には、玄棟編『三国伝記』巻一第二十五話「抜髪男事」も平仮名本から全文引用されている。それによれば、最終的に「男」は禿頭になるどころか、「二人の妻に嫌はれて、浅ましくなりて、命終りぬ」(p.291)といった末路を辿ることとなる。そもそも、もとのイソップ寓話では「二人の愛人」だったのが、『三国伝記』や『伊曾保物語』では「二人の妻」(文楽のマクラでは「妻と愛人」)となっていることからして、興味深いといえる。
そう云えば、イソップ寓話の(あるいは『伊曾保物語』の)受容・変容史については、野村純一「「伊曾保物語」の受容」(小川直之編『野村純一|口承文芸の文化学』アーツアンドクラフツ2022所収)を面白く読んだことをおもい出す。当該の論考で野村は、檀家めぐりの説教僧が教導や訓戒の材料として説話集を用いたことが、『伊曾保物語』等の説話を種とした昔話が各地に点在する契機になった、と説いていた。
また、物語行為全般を一種の「編集作業」に準えていたのは野家啓一氏であった。
物語の語り手は「作者」ではなく、いわば「編集者」なのである。その編集作業を「解釈学的変形」と呼べば、そこでは「オリジナル・テクスト」の探索や「テクストの同一性」の保証などは望むべくもないことは明らかであろう。(『物語の哲学』岩波現代文庫2005:74)
イソップ寓話それ自体も、「教訓」部分はオリジナルではないというし、巷間にはいくつもの「変奏」が流布されていたりするので、オリジナルの探求などもはや「望むべくもな」く、これらもやはり、名もなき編集者たちによって担われてきた物語だーー、ということが出来るのだろう。
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『語学者の散歩道』は何度か読み返している本の一冊で、この本についてはここなどに書いたことがある。
続・近松秋江「黒髪」への誘い、4月の中公文庫のこと
前回の記事で紹介した荒川洋治氏の「忘れられる過去」が、4月刊の『文庫の読書』(中公文庫)に入った(pp.24-29)。単行本の『忘れられる過去』、その文庫版の『忘れられる過去』、そして『文学は実学である』(みすず書房2020)にも収められてきたエセーである。
当該の文章は、岩波文庫版の近松秋江『黒髪 他二篇』所収の「黒髪」について書いたという体裁になっており、文末にも「一九五二年、岩波文庫」とある。東京堂書店神田神保町店が、『文庫の読書』発売に合わせて「荒川洋治『文庫の読書』フェア 荒川洋治が選ぶ文庫100」を展開しているが、そこで配布されていたチラシには、岩波文庫版ではなく、現下新本での入手が可能な文芸文庫版の近松秋江『黒髪・別れたる妻に送る手紙』を挙げ、「同書(『文庫の読書』)で言及した作品が収録される別レーベルの文庫です」と注記しているのだけれども、しかし、荒川氏は「忘れられる過去」の冒頭で、
近松秋江(一八七六-一九四四)の「黒髪」は、大正一一年の作品である。岩波文庫『黒髪 他二篇』の他、講談社文芸文庫『黒髪・別れたる妻に送る手紙』(一九九七)などに収録。新字新仮名で引用。(p.24)
と書いている。よって引用部は、旧字旧仮名の岩波文庫版ではなく、新字新仮名を採用した文芸文庫所収版と全同となっており(ルビが附された箇所も同じ)、しかも荒川氏は、岩波文庫所収の「他二篇」には特に触れていないので、「別レーベル」ということにあえて拘る必要もない。つまり、文芸文庫版『黒髪・別れたる妻に送る手紙』所収の「黒髪」について書いた文章、とみなしてもまったく問題はない。
なぜこんなことを諄々と述べたのかというと、秋江の「黒髪」その他の作品にはどうも「異版」があるらしい、ということを知ったからだ。
中島国彦氏は、近松秋江『別れたる妻に送る手紙 他二篇』(岩波文庫)巻末の「本文庫版のテキストについて」(1992年11月)で、次のように書いている。
文学者が折に触れ自作に手を入れ修訂するのは自然だが、文学者の持つ〈興〉〈感興〉をエネルギー源として執筆活動を続けて来た近松秋江の諸作品は、他の文学者の作品以上に本文の手入れが激しく、そこに多くの問題が生まれている。(略)改稿の追跡は、作品の内容的価値とすぐさま直接つながらないことも多いが、秋江作品の場合は、改稿過程に作品の成長とその本質が内包されており、眼が離せないものになっているのである。(p.223)
わたしには、いまその「改稿過程」をあきらかにする用意はもちろんないのだが、前回の文章をあげた後、恰もよし、近松秋江『霜凍る宵―「黒髪」三部作・雑誌初出版』(東都我刊我書房2023)が刊行されたのを知った。そこで早速、この本を取寄せた。同書は“後の「黒髪」”連作、すなわち「黒髪」「狂亂」「霜凍る宵」を収めており、初出の形に従って、「霜凍る宵」を、正篇と「霜凍る宵 續篇」とに分けている(このあたりの事情については前回の記事を参照のこと)。それぞれの初出誌・発表年月は次の通り。「黒髪」(「改造」大正十一年一月)、「狂亂」(「改造」大正十一年四月)、「霜凍る宵」(「新小説」大正十一年五月)、「霜凍る宵 續篇」(「「新小説」大正十一年七月」)。
ただし注意すべきは(そしてやや残念なのは)、まず、「初出版」とはいえ原則として「新字新仮名」に改めているということ(少くとも「旧仮名」は残して欲しかったが、致し方ないだろうか)。もっとも校正漏れゆえか、「念を押すやうに」(「黒髪」p.19)と旧仮名づかいの残ったところも幾らか有る。
第二に、明らかな誤脱が少なからずみられるのだが、それが初出誌に由来するものかどうか判断し難いということ。編集の際に生じたミスであることも否定できない。だから、意味が通じないと判断したところには、「ママ」注記などを附してくれるとなおよかった。
この二点目について、「黒髪」一~三を見てみると、たとえば次の如くである(以下、我刊我書房版を「初」、岩波文庫版を「岩」とする。漢数字は節)。
「紙白粉でを拭く」(一、初)「紙白粉で顔を拭く」(岩)、「と云ってもいゝくらの女」(一、初)「と云つてもいゝくらゐの女」(岩)、「高い思われるのは」(一、初)「高く思はれるのは」(岩)、「両頬をおうて」(一、初)「両頰をおほうて」(岩)、「女は九日の初に」(二、初)「女は九月の初に」(岩)、「あそこにいないとえば」(二、初)「あそこにいないと云へば」(岩)、「定めていらない」(三、初)「定めてゐない」(岩)、「違えちゃけ可ないよ」(三、初)「違へちや可けないよ」(岩)、「すぐ居合あわせた俥」(三、初)「すぐ居合はす俥」(岩)、「小い*1面麭(にきび)」(三、初)「小さい面皰(にきび)」(岩)、「女中ばかりの歩くかとはちがう」(三、初)「女中ばかりの歩くのとは違ふ」(岩)、「ところどころに織りた黒縮緬の羽織」(三、初)「ところ/\゛に織り出した黑縮緬の羽織」(岩)……。
とは云い條、「初出版」を三作ともすべて一冊で読めるようにしてくれたのは劃期的なこと。それに、①ルビがあることによって読みを確定できるところもあるし、②後の版で意図的に改められたであろう点、にも幾つか気づかされる。
ただし、岩波文庫版の「黒髪」は何に拠ったか不明である。最初に述べたとおり文芸文庫版はこれに同じだが(新字新仮名に改めただけ)、文芸文庫版は巻末に「『日本現代文学全集45 近松秋江・葛西善蔵集』(昭和四十年十月 講談社刊)を底本として使用し、新かなづかいにして若干ふりがなを加えた」とあるのみで、肝心のその現代文学全集の底本がそもそも判らない。
しかしヒントはあって、前掲の文章で中島国彦氏は、「別れた妻に送る手紙」について、
本文庫(岩波文庫)の本文は、その表記やルビの付け方からみて、この「創元選書」版(昭和二十二年七月刊『黒髪』のこと)を底本にしていると思われるが、細部にはわずかの異同がある。(p.225)
と述べている。岩波文庫版『別れた(る)妻に送る手紙 他二篇』は1953年1月刊、同文庫版『黒髪 他二篇』は前年の1952年3月刊。とすれば、後者所収「黑髮」も同じく1947年刊の創元選書版所収の「黒髪」を底本としている可能性がたかい。それでも、創元選書が出たのは秋江歿後のことだから、この創元選書が何を底本としているかを探らなくてはならない……とまあ、どんどん溯ってゆくとキリがない。だからこそ、「表記」の面白さにまず惹かれた者としては(そしてまとまった時間をなかなかとれない身としては)、近松秋江『霜凍る宵―「黒髪」三部作・雑誌初出版』の刊行は、ありがたいことなのだ。
以下、とりあえず「黒髪」一~三について、①ルビがあることで読みを確定できるところ、②後版で意図的に改められたであろう点、をそれぞれざっと眺めてみることにする(漢数字は節、ページ数はことわりのない限り我刊我書房版)。
まず①には、次の様な例が有る。
口元なども屡々彼地(あちら)の女にあるやうに(仮名遣いママ)(一、p.11)
岩波=文芸文庫版にルビなし。前回の記事で指示詞の漢字の宛て方について述べた通り、この用字はいかにも秋江らしい。
ひとりでに淡紅(とき)色を呈して、(一、p.11)
商売柄に似ぬ地味(こうとう)な好みから、(一、p.12)
これから行ってみたところで爲方(せんかた)もない(字体はママ)。(二、p.14)
心あたりもなく爲方(せんかた)なく(同じく字体ママ)(二、p.14)
以上、いずれも岩波=文芸文庫版にルビなし。「為方」は「しかた」とも読みうるところ。これについてはたとえば「狂亂」五で、岩波文庫版は「飛びまはつても爲方(しかた)がない」(p.75)と態々ルビを振っているのだが、初出版の方は、「飛び舞わっても爲方(せんかた)がない」(p.80、同じく字体はママ)となっている。その他、たとえば「狂亂」六でも岩波は複数箇所の「爲方」に「しかた」とルビを振っている一方、初出版はいずれも「せんかた」となっている。少くとも初出版で「せんかた」とルビが振られているところは、それに随って読むべきではないか。
また、
繰返しいって越(よこ)したにもかゝわらず(二、p.14)
女から越(よこ)したので、(三、p.15)
の2例はやや特殊か(①と、次に述べる②に跨る例とみてよいか)。これらは岩波版で「繰返しいつて寄越したにもかゝはらず」(p.9)「女から寄越したので」(p.10)となっているが、初出版を誤脱とするのは早計で、秋江の用字法としては「越(よこ)す」が本来であった蓋然性がたかい。というのは、「狂亂」二に「金だけ長い間送って越す」とあるところ、岩波版は「越(おこ)す」とルビを振っているが(p.60)、初出版はこちらにも「越(よこ)す」と振っているからだ(p.65)。岩波版のルビも、初出版に随って改めるべきではなかろうか。
つづいて②に関していうと、たとえば、
電車の通ってる(二、p.14)
「私をよく覚えてたねえ」(三、p.21)
すらりとした姿が立ってた。(三、p.23)
といったいくぶん口語的な表現――小説作品でいうと獅子文六が多用するような――が、岩波版でそれぞれ、「電車の通つてゐる」(p.9)、「私をよく覺えてゐたねえ。」(p.16)、「すらりとした姿が立つてゐた。」(p.17)となっていることが挙げられる。これがかりに1か所だけであったならば、誤脱(初出誌の誤植もしくは転記ミス)で済ませてもよいだろうが、複数箇所にわたるので、偶然ではないと判断されるわけである。
こういったものはほかにもある。以下3例挙げておく。まず、
「あの、お電話だっせ」(三、p.18)
「今日そこから何処へおいでやすのだす」(三、p.19)
これらは岩波版で、「あの、お電話どつせ。」(p.13)、「今日そこから何處へおいでやすのどす。」(p.13)となっていて、こちらも意図的に改変したものと察しられる。
それから、
なるだけそこに近いに宿を取りたい(二、p.15。「近いに」はママ)
「(上略)都合して成るだけ早くおいで」(三、p.22)
これらは岩波版で「なるたけそこに近い處に宿を取りたい」(p.10)、「(上略)都合して成るたけ早くおいで。」(p.17)となっており、「なるだけ」(初):「なるたけ」(岩)という対応がみられるし、また、
そして京都に着いたのは(三、p.17)
女に京都まで見送られて(三、p.23)
こちらは岩波版では、「そして京都驛に着いたのは」(p.12)、「女に京都驛まで見送られて」(p.18)。いずれも「驛」が挿入されているのである。
三部作を通して比較すると、さらに精しい傾向がみえてくるであろう。ここではあくまで、「黒髪」一~三に限って比べてみたにすぎない。
――
荒川氏『文庫の読書』に触れたので、4月に出た中公文庫について少し述べておく。
まず『文庫の読書』に、岩田一男『英単語記憶術』(ちくま文庫2014)について書かれた「会話のライバル」という文章が収められているのだが(pp.280-82*2)、そこに、
半世紀前は、たとえば privacy (プライバシー)ということばは一般的には知られていなかった。プライバシーという概念そのものが日本にはなかったのだ。それで本書では、「三島由紀夫の『宴のあと』をめぐる紛争で有名になったプライバシー」という説明がある。こういうところには時代を感じる。でもそれも勉強になる。(p.281)
とある。同じく4月に出た小島信夫『小説作法』(中公文庫)には、「モデルとプライバシイ」(pp.40-47)という一文が見える。初出は「週刊読書人」(1961.4.3)なのだそうで、まさに『宴のあと』事件の渦中に書かれている。小島のこの文章は、
このごろ、人の口からプライバシイということを時々きくたびに、おやおや、ムズカシイ単語が日常に使われだしたと思っていた。モデル問題とかんけいがあるらしいとは分っていたが、ジャーナリズムから外れたところで暮していたので、ただ騒がしいことだなと思ったくらいだった。(p.40)
と書き起されている。
さらに同月刊の、中央公論新社編『対談 日本の文学―素顔の文豪たち』(中公文庫)*3に収める「田山花袋とその周辺」(田山瑞穂×平野謙、1970.3.14)の冒頭では平野が、「プライバシー」について、「いま、やかましくいわれているプライバシーにふれる点が多いわけですね。ところが、いわゆる私小説家といわれる人たちには、自分からプライバシーを公開するというような傾向があって…」(p.51)と語っている。
ところで、この『対談 日本の文学』に収める「里見弴をめぐって」(里見弴×伊藤整、1968.6.15)には、次のようなやり取りがみえる。
伊藤 ところで「縁談窶(えんだんやつれ)」、ようございますね。あれは、実に鎌倉の雰囲気がいたします。例の小津安二郎監督のような人に撮らせたい作品ですね。
里見 題名は忘れましたが、映画にしているんですよ。しかも僕はそれを知らなかった。晩年親しくなってから撮ったと白状したんだけど、その時分は知らない人だから、けしからん奴がいると……。
伊藤 作者にはわかりますね。
里見 まるで俺の「縁談窶」そっくりじゃないかというんで、初めて会った時、いきなり僕は言ったんですよ。「あなた、人の作品盗んで、随分ひどいよ」って。「やあやあ」なんて言ってごまかしていたけどね。(p.158)
里見の「縁談窶」は、丸谷才一が作品の内容は認めつつ、タイトルについて「エンダン『ル』」としか読めないじゃないか、と難詰していたことを思い出す。講談社文芸文庫版『恋ごころ』で読めたが、すでに版元品切となっている。それがこの4月、小津のメモリアルイヤー(生誕120年、歿後60年)に因んで*4(そして里見の歿後40年でもある)、里見弴/武藤康史編『里見弴 小津映画原作集 彼岸花/秋日和』(中公文庫)の第二部「『晩春』をめぐって」に再び収められたのだった(武藤氏は、『晩春』のみならずモチーフが『秋日和』に似ていることにも言及している)。
わたしもこれで、実に14年ぶりで再読しているところだ。なお編者の武藤氏によれば、「「縁談窶」全文が伏せ字を埋めて印刷されるのは今回が初めて」(p.349、詳細は同書に就かれたい)だという。
このように、4月刊の中公文庫は互いにリンクするところがあって、まさに「芋蔓式」読書にうってつけなのだ。
ちなみに小島の『小説作法』にも、秋江に触れた文章が収めてある。「いかに宇野浩二が語ったかを私が語る」(pp.341-64、初出は「早稲田文学」1985.8)というのがそれで、小島は、
「蔵の中」の序文で、(宇野は)近松秋江論というのをやるんだけども、それがものすごく手がこんでるわけです。(略)あっちからこっちから、短い序文の中に文壇のことから、近松自身のことから――近松もある程度宣伝しなければならない、自分は近松を全面的に人間として、大変な人間だと思ってる。変わった一途な人間でヘンな興味をもってる。だけど小説家としては、そうバカにならない恐ろしいところもあるかもしれないぞという、そういう全部を込めたことを序文に書いているわけですね。だから非常に手がこんでいるわけですよ。(pp.347-48)
などと語っている。
近松秋江「黒髪」への誘い
近松秋江『黑髮 他二篇』(岩波文庫1952*1)は、「黑髮」「狂亂」「霜凍る宵」の三篇を収めている。秋江の作品に初めて触れたのはこの文庫によってであったが――正確にはそれ以前、コラム集『文壇無駄話』(河出文庫1955)を「つまみ読み」したことがある――、内容というよりも、まずはその表記の面白さに惹かれて読んだのであった。
表記の面白さというのは、たとえば「一寸遁れに逃れて居りたい」(「狂亂」p.50)、「捕まりさうで、さて容易に促まらない」(同p.67)、「慨いても歎いても足りないで」(「霜凍る宵」p.151)、「幾度もいくたびも」(同p.154)、「可愛かはい人どつせ」(同p.165)という、異字同訓等を利用した云わば換字的な表記例、「悒鬱(うつとう)しくつて」「鬱陶しい五月雨」(いずれも「狂亂」p.61)、「眞實(ま)に受けて」(「霜凍る宵」p.116)「母親の言つた詐りごとを眞に受けて」(同p.123)「それが眞實(ほんと)でござりますやろ」(同p.145)、「靜(ぢつ)としてゐれば」(「黑髮」p.11)「靜(そつ)と胸の動悸を」(「霜凍る宵」p.127)「靜(ぢつ)とそこに坐つたまゝ」「凝乎(ぢつ)と兩腕を組んで」(いずれも「霜凍る宵」p.130)、「綺麗さつぱりと思ひ斷(き)つてしまはうか」(「狂亂」p.83)「彼女を潔く思ひ切つて」(同p.85)、「男に落籍(ひか)されたのに」(「狂亂」p.74)「引かしてやらうといひ出した」(「霜凍る宵」p.150)といった漢字の宛てかた等々をさす。
このうち「靜(ぢつ)と」という用字については、現代言語セミナー『辞書にない「あて字」の辞典』(講談社+α文庫1995*2)の「じっと(静と)」の項に、大塚楠緒子「そら炷」の「仕方なしに静と座った」という用例と共に、まさに秋江の「別れた妻に送る手紙」が挙げてある(こちらは書名のみで、引用文はなし)。
「別れた妻に送る手紙」は「別れた『る』妻に送る手紙」という作品名になっていることが一般的で*3、文庫だと、近松秋江『黒髪|別れたる妻に送る手紙』(講談社文芸文庫1997)*4などで読める。で、これを見ると、「別れたる…」には、「静(じっ)として」(p.72)という例があり、そのほか「静(そっ)として置きたい」(p.140)もある。
当該の文庫に収められた「別れたる…」の続篇にあたる「疑惑」にも、「静(じっ)と気を落ち着けて」(p.152)、「静(じっ)とお前達のことや」(p.156)、「静(じっ)と寝ていないか」(p.195)のほかに「静(そうっ)と両手を翳して」という例があり(多すぎるので主な例だけ)、秋江はこの訓を多用していることが知られる。ここでふたたび『辞書にない「あて字」の辞典』を披いてみると、「そっと(静と)」の項には、嵯峨の屋お室「初恋」(引用文はなし)とともに、秋江の「寝ている裾から静と入れてくれた」(「別れた妻に送る手紙」)という用例を挙げている。秋江は「そっと」に「密(そつ)と立つてゐた」(「霜凍る宵」岩波文庫p.120)、「密(そつ)と」(同p.121)などと「密」を宛てていることもあるが、この「密と」について『辞書にない「あて字」の辞典』は、露伴『五重塔』や十一谷義三郎『唐人お吉』などでの使用例を挙げており、秋江の用例には触れない。
そのほか指示詞に具体的な漢字表記を宛てて距離感を把握・視覚化させるということも、秋江がよく用いる手である。たとえば「上京(かみ)から祇園町(こつちや)へ」(「黑髮」p.43)、「西洋(あちら)」(「別れたる…」p.92)、「彼家(あすこ)」(同p.122)、「東京(こちら)」(「疑惑」p.183)、「其店(そこ)」(同p.183)、「四畳半(あちら)」(同p.201)といった類。少し外れるが、「料理屋(そと)じゃ銭(かね)ばかりかゝって詰らない」(「疑惑」p.189)という例もあって、この様なものは枚挙に遑がない。
またこれは表記面の話ではないけれど、一拍の語を二拍に延ばして発音する(ex.「血ぃ」「目ぇ」)関西方言の特徴が、巧まざるユーモアを醸し出すくだりがあって、なかなか印象的だったので、ついでながら挙げておく。
「そんなによかつたら、こゝをあんたはんのまあにしときまへうか。」
「まあとは。……あゝ間(ま)か、あゝどうぞ居間にして置いてもらひたい。」(「狂亂」p.61)
なお、敬愛する近松門左衛門を筆名に用いた秋江らしく、たとえば「黑髮」には「(心中)天の網島」が(p.33)、「霜凍る宵」には「冥途の飛脚」が(p.151)唐突に出て来たりして、ことに後者では、態々「毎度近松の作をいふやうであるが」などとことわっているところも可笑しい。
さて山田稔氏は、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した掌篇集『ああ、そうかね』(京都新聞社1996)の「ある晩年」(初出は1995.7.28付京都新聞夕刊)に、秋江「黒髪」の冒頭部を作品名を伏せながら引用し、「ああ、書き写しているときりがない。ここまでで、あれだなと思い当たる方もいるだろう」(p.189)と述べているから、秋江、というよりも「黒髪」はひところ、かなり読まれたようだ。ちなみに「ある晩年」は、いま『山田 稔 自選集1』(編集工房ノア2019)pp.81-83でも読める。
また荒川洋治『忘れられる過去』(朝日文庫2011←みすず書房2003、この本は10年以上前にここで紹介した)の表題作「忘れられる過去」も、秋江の「黒髪」について述べたものだ。こちらも、近年出た『文学は実学である』(みすず書房2020)に収められた。荒川氏は書く。
「黒髪」は、待つことから生まれた名作だ。待っててねといわれて、男が待つ場面が多い。待つのは飽きるので散歩くらいしたい。でもほんのしばらくの間なので、あまり遠くへ行ってはまずい。(略)
待って、待って、待ちくたびれる。そして「根負け」して、自分から出かける。この繰り返しについて、秋江はどう思っているのか。
同じことを書いているという気持ちは、ないのではなかろうか。そのときそのときに、そう思ったことが、秋江の場合絶対のもので、少し前に同じようなことがあったとしても、また書いたとしても、そうした過去のできごとはすっかり忘れられた。文章のなかの過去を消していくことができた。書いたことが少しも身になっていないのだ。これは一度書いたことをたいせつにする文学にはゆるされないことであり、なかなかできないことでもあり、文学としては新しいことである。(『文学は実学である』pp.129-32)
「待つこと」は、一見能動的な行為であるかのように思われるが、その実、「待たされること」という受動的な行為である。「黒髪」は「待たされる」側の男のほうにばかり目が向けられ勝ちであるが、逆に「待たせる」側の女に着目して、「じらしのテク」という面からこの作品を読み解いたのが、斎藤美奈子氏である。
じらしのテクがまたすごい。「私」に対する女のじらし方も、読者に対する作者のじらし方もだ。一年半ぶりに会ったのに、何を聞いても女は「こゝではそのことも云えませんから、私、かえります」「下河原の家へこれからいて待っとくれやす」。指定の料理屋に行けば行ったで「こゝではいえまへん」「あんたはん、私、ちょっと帰ります」。
じらされた読者はつい語り手に肩入れしてしまう。(略)
なにゆえ女はこんなにじらすのか。ラストですべてが明らかになる。
(斎藤美奈子『吾輩はライ麦畑の青い鳥―名作うしろ読み』中公文庫2019←『名作うしろ読みプレミアム』中央公論新社2016:34-35)
ここで重要なのは、作中の人物だけでなく、作者によって読者もまたじらされているという、二重のじらし構造になっているとの指摘だろう。なにしろ「黒髪」は、これからようやく物語が動きはじめるかと思わせるところで、突然の終幕を迎えるのであるから。
斎藤氏も書いていることだが、「黒髪」は実は「それ単独では完結していない」作品である。つまり“連作”(そしてこの連作がまとめられて『黒髪』という書名で出ていたりする)の一部なのだ。「次回乞う御期待!」という文字列でも入りそうな「黒髪」の突然のラストは、まさに秋江一流の「じらしのテク」を体現するものにほかならない。
とは云えわたしの場合、最初から岩波文庫版の『黑髮 他二篇』で表題作から順を追って読んだので、さまで気にとめることもなかったのだが――というのは、この「他二篇」すなわち「狂亂」「霜凍る宵」は「黑髮」の続篇なのであるから――、たとえば文芸文庫版の『黒髪|別れたる妻に送る手紙』で「黒髪」に触れただけでは、作品が唐突な幕切れを迎えることに戸惑ってしまう読者もあるだろうし、「黒髪」のいったいどこが「名作」なのか、と訝しむ向きもあることだろう。
もっとも柳沢孝子氏は、文芸文庫に収める「作家案内」で、そのことについてきちんと書いている。すなわち、「残念ながら本書未収録の作品」(p.268)である「狂亂」「霜凍る宵」の梗概を紹介し、「黒髪」を「傑作と見るかどうか、もっと言えば好きか嫌いか(略)最終判断を下すためには、実は本書収録の小説「黒髪」だけではなく、連作三篇すべてを通読する必要があるだろう」(p.269)と述べているのである。
この“連作”については、梯久美子氏も2014年11月2日付「日本経済新聞」の「近松秋江(4)「情痴」の人―恋に敗れた大正文士の栄光(愛の顚末)」で、
秋江が入れあげ、4年にわたって東京から送金を続けた京都の芸妓(げいこ)・金山太夫。彼女とのいきさつは「黒髪」一編では終わらず、「狂乱」「霜凍る宵」「霜凍る宵続編」と書き継がれている。通読すれば、金山太夫には相愛の男がおり、年季が明けても秋江のところにいく気などさらさらなかったことがわかる。
と書いている。また正宗白鳥も『黑髮 他二篇』の解説で、
「黑髮」からはじまつて、「狂亂」「霜凍る宵」「續霜凍る宵」は、連續して讀むべきもので、…(p.190)
と書いている*5。梯氏の文章とは作品名が若干異なりはするものの、いずれも、「霜凍る宵」には続篇が存在することに言及している。それなら、岩波文庫はなぜその続篇を収めてくれなかったのだろうか――などとおもいはしたものの、ろくに調べもせずにいたところが、その疑問が、最近になってようやく氷解したのであった。
結論をさきにいうと、「續霜凍る宵」(「霜凍る宵続編」)は、岩波文庫版『黑髮 他二篇』のなかにすでに含まれていたのである。
謎を解いてくれたのは、佐藤正午『小説家の四季 2007-2015』(岩波現代文庫2022←岩波書店2016)の「2011年春――黒髪」「夏――黒髪2」である。佐藤氏は次のように書く。
そこで(八木書店刊『近松秋江全集 第四巻』の―引用者)巻末をひらき、遠藤英雄による「解題」に目をこらしてみると、(略)事情はこうだ。大正十一年五月に発表された「霜凍る宵」の章立ては一から四まで、七月に発表された「霜凍る宵続篇」(これがほかでは「續霜凍る宵」と表記されている作品だろう)のほうは一から三まで、このふたつを足して七章立てにしたもの、それが実は「霜凍る宵」である。つまり「霜凍る宵」はそもそも「續霜凍る宵」を吸収合併して成り立っている。だからいま「霜凍る宵」とされる作品を読めば、そこにふくまれる続篇まで自動的に読んだことになる。(pp.138-40)
まったく別の方面の興味から手にとった本が、なが年の疑問を解いてくれるというのも読書の妙味である。ここでは必要箇所を書抜くにとどめたが、佐藤氏は、秋江の「じらしのテク」に見事に嵌った読み手として、「黒髪」の書誌的な問題を探索しているので、たいへん面白い。
ついでにいうと、佐藤氏の文章を読んでいて、ある箇所に穏やかな親しみを感じた。というのは、秋江の「黒髪」を読み始めたときに、わたしも佐藤氏と同じところで一瞬引っかかった、ということをふと思い出したからである。
その「黒髪」も青空文庫で公開されている。このさいだからと続けてざっと読み始めたところ、途中で「二階がり」という見慣れぬ言葉が出てきた。(略)その「二階がり」が目に止ったとき、なぜか学生時代から記憶している和歌「思いかね 妹がりゆけば 冬の夜の 川風寒み 千鳥鳴くなり」を連想し、…(p.128)
当該箇所は、「黒髪」の冒頭近くに出ていて、
それまでゐた餘處の家の二階がりの所帶を疊んで(p.8)
という件である。佐藤氏と同じく、わたしもこの「がり」とはいったい何だろう、と思ってしまったのだった。思ってしまったのだが、小さな引っかかりをおぼえつつ、構わず読み進めていった。
ちなみに、そういった読書のあり方については、永田希氏が最近うまく表現してくれていたのを偶々目にしたので、次に引用して置こう。
読書とは、そこに書かれた文字や言葉を読み解きながら進めていくものだと普通は考えられています。しかしこの『アガタ』の冒頭を読むときのように、「「サロン」って何だっけ、家の中のどこかだろう」とあたりを付けて読み飛ばしたり、「「打ちのめされたような優しさ」って何だ? 少し変わった表現だな」と保留したりしながら、疑問や違和感を忘れたり、無意識に思い起こしながら読み進めてもいるのです。違和感や疑問を感じたときに、あまりそれらを大きな問題として捉えないことが大事です。(『再読だけが創造的な読書術である』筑摩書房2023:49)
まさにそのような小さなもどかしさを「二階がり」という表現にも感じたわけだが、この謎は佐藤氏も書いているように、たちどころに解消される。というのは、「黒髪」ではこの少しあとに、
女はなぜ、あの二階借りの住居を疊んでしまつただらう。(p.9)
という件が出てくるからだ。ここにも、秋江の、工夫というよりも気紛れ?な換字的用法が見られる、といえるのではなかろうか。
さて秋江の「黒髪」連作だが、書誌的にややこしいのは、「黒髮」「狂亂」「霜凍る宵(霜凍る宵續篇)」だけが「黒髪」連作ではない、ということ。つまり、もうひとつ別の「黒髪」連作があるのだ(こちらはわたしは読んでいない)。これに就いては、たとえば小谷野敦氏が、
その(秋江が東雲太夫に溺れたり「鎌倉の妾」と密通したりする―引用者)前から京都の娼婦・金山太夫となじんでいたが、これは本名を前田志(じ)うといい、数年の交情ののち、またしても姿を消し、秋江は南山城あたりを探索し、志うが風邪から狂気に陥ったと知る。この金山太夫のことを描いたのが「黒髪」連作である。なお東雲太夫連作の最初も「黒髪」なのでややこしい。(『文豪の女遍歴』幻冬舎新書2017:63)
と書いているし、後の『近松秋江伝』では、次の様にさらに精しく述べている。
秋江といえば「黒髪」の、京都の娼婦お園(前田志う)が知られるが、その前に大阪の娼婦・東雲太夫に耽溺した時期があり、その時のことを書いた同名の「黒髪」があってまぎらわしい。(小谷野敦『近松秋江伝―情痴と報国の人』中央公論新社2018:89)
先の(東雲太夫の―引用者)「黒髪」が発表されたのはすぐあと、大正三年の『新潮』だが、この「黒髪」という題は、長唄の曲名を思わせる。(略)だが、あまり作品として成功しなかったので、前田志うの時に再度使ったということになる。先の「黒髪」の続きは、「仇情(あだなさけ)」(『早稲田文学』三月)、「青草」(『ホトトギス』四月)、「春の宵」(『婦人文藝』五月)、「春のゆくえ」(『文章世界』六月)と続くのだが、「別れたる妻」や、のちの「黒髪」のような決定的名作はない。しかも岩波文庫の『別れた妻に送る手紙』には「青草」が入っている。娼婦と春の野辺を散歩していて、娼婦がしゃがんでおしっこをする話だが、よほど秋江について知らないと、これを京都の「黒髪」の娼婦だと思ってしまうだろう。辻原登も「黒髪」で秋江の二つの「黒髪」で混乱させられたさまを描いている。辻原は、後藤明生の講演を聴いて、「黒髪」と言っているのが「後の黒髪」だと思っていたら「先の黒髪」のことだった。後藤自身が「先の黒髪」を「後の黒髪」だと思って『近松秋江全集』で読んだことは『小説は何処から来たか』(白地社)に書いてある。(同pp.97-98)
実はさきに紹介した佐藤正午氏も、のちに別の「黒髪」連作があることを知り、「2013年冬――喪服」でそのことに触れていた(『小説家の四季2007-2015』pp.192-95)。
そこで佐藤氏は、次の様に結論している。
世に近松秋江の「黒髪」といえば、一応はあの有名な短編「黒髪」を指すのだろうが、軽々にそばへ近寄るのは危険である。いったん「黒髪」を読み出せば一応ではすまなくなる。小説中で黒髪の女を恋いこがれる男のように、読者もまた、追いかけても追いかけても正体をつかめないもどかしさを体験し、つまりは近松秋江の術中にはまってしまうのだ。(p.195)
ーーー
上の文章をアップした翌日、素見のつもりで行きつけの新本屋の古書コーナーを覗くと、近松秋江『別れたる妻に送る手紙 他二篇』(岩波文庫1953)が置いてあった。1999年の6刷で、220円。もちろん購った。つい4日ほどまえ同コーナーに寄ったときにはなかったもので、「本に呼ばれた」気がしたものだった。
しかし小谷野氏は『近松秋江伝』で、岩波文庫版の書名は『別れた妻に送る手紙 他二篇』であることを明記しており(p.5、p.97等)、わたしの入手したのが『別れた「る」妻…』となっているのを不思議に思ったのだが、どうもこの6刷(もしくはその前の5刷あたり?)で、書名が変更されたようである。それが証拠に、目次部分の作品名「別れたる妻に送る手紙」や、奇数ページの左肩に附された作品名「別れたる妻に送る手紙」は、活字の形や状態から見て、後に差し替えられたものであることが一目瞭然なのだ。
1992年11月に同文庫が重版(増刷)された際に附されたらしい、巻末の中島国彦「本文庫版のテキストについて」でも、ゴチで見出しに示された書名部分が「別れた妻に送る手紙」となっているから、少くとも1992年時点では、まだ書名が『別れた妻…』だったと思われる。
この中島氏の文章によれば、『別れたる妻…』は初出誌(「早稲田文学」で4回に分けて連載)では伏字が数箇所あったが、創元選書の一冊『黒髪』(1947)で伏字が解消された際に表題が「別れた妻に送る手紙」と改められ、「以後この表題で多くの読者に読まれる形となった。本文庫の本文は、その表記やルビの付け方からみて、この「創元選書」版を底本にしていると思われる」(p.225)。そのため、書名が長らく『別れた妻に送る手紙』となっていたのだろう。(4.19追記)
*1:手許のは1994年の第9刷。
*2:もと1984年冬樹社刊『遊字典』。のち角川文庫1986。講談社+α文庫版は(改題)再文庫化というわけではなく、文献や用例をいくらか追加している。
*3:底本によっては「別れた妻~」の形になっているということ。岩波文庫版の表題もこの形だそうで(未所持)、『辞書にない「あて字」の辞典』の誤記ではない。
*4:手許のは2015年の第7刷。
*5:白鳥は、この解説(1951年11月1日)では「私はこの頃讀返して、以前みじめだと見てゐたところをユーモラスに感ずるやうになつた」(p.192)などと誉めているが、ほぼ同時期(多分1951年頃)に書かれた「舊友追憶」では、「秋江は、はじめのうちは、話は面白いし、打解け易いし、女性にも好かれるのであつたが、次第に、しつこくてうるさい本性を出して來るので、いやがられるのであつた。私は、「黑髮」から「狂亂」「霜凍る宵」を通じて、今度三度目に讀んだのだが、終末の「續霜凍る宵」まで讀みつゞけるとうんざりした。女性に關係して惑溺した心境は、秋江獨得の味はひを持つてゐる譯だが、終末のあたりになると、秋江式しつこさ、うるさゝのマンネリズムが鼻につくのだ。私も老人の心境に次第に陷りだしたので、あくどい作品に心を惹かれなくなつたのか」(『自然主義文學盛衰史』創元文庫1951所収,pp.184-85)と書いていて、微苦笑を誘われる。どちらが本音かというと、おそらく後者なのだろうが。
「ドルジェル伯」と大岡昇平『武蔵野夫人』
レーモン・ラディゲ(1903-23)は、ことし生誕120年、そして歿後100年をむかえた。ラディゲはその短い20年の生涯のうちに、『肉体の悪魔』『ドルジェル伯の舞踏会』の二大傑作をものしたが、特に遺作となった『ドルジェル伯の舞踏会』(以下「ドルジェル伯」)は、本邦の作家たちにも大きな影響をあたえている。
わたしは「ドルジェル伯」の邦訳本を、鈴木力衛訳の岩波文庫版(1957年刊*1)と渋谷豊氏訳の光文社古典新訳文庫版(2019年刊)との2冊を有っている。なお新訳文庫のラディゲといえば、2008年に中条省平訳『肉体の悪魔』も出ている。中条氏が「ドルジェル伯」ではなく『肉体の悪魔』を択んだ理由については、『肉体の悪魔』にはラディゲの精神だけでなく、肉体もしくは無意識から来る謎めいたエネルギーに満ちているように思われるからだ、といったことを訳者あとがきで述べていた。
新訳文庫版「ドルジェル伯」の売りは、ラディゲ自身が定めた最終形の「批評校訂版」を初めて翻訳した、ということと、訳者解説が約60ページにわたり充実している、ということとだ。その解説によると、ジャン・コクトーらが手を加えた初版(1924年7月刊)には、最終形と実に700箇所にわたる異同が有って、「その内、約六〇〇箇所で明らかに「純粋に物理的、文法的な訂正」の域を超えた加筆修正が行われてい」る(p.264)という。
巷間でよく知られているのは堀口大學訳であろう。そもそも堀口大學は、ラディゲの詩2篇(「制服」「昆虫あみ」)を大正十一(1922)年に「白孔雀」誌上に訳出しており、これが日本で初めてのラディゲ紹介となったとされる。大學が「ドルジェル伯」を訳したのは昭和に入ってからだといい、長谷川郁夫『堀口大學――詩は一生の長い道』(河出書房新社2009)は次の如く記す。
(昭和)六年二月に、白水社からレーモン・ラディゲ二十歳の遺作「ドルヂェル伯の舞踏会」が訳刊された。ラ・ファイエット夫人の「クレーヴの奥方」に範をとったといわれる、社交界を舞台とする恋愛心理小説である。(略)
装幀は東郷青児。表紙は、幾何学模様のコンポジションの一部に薄グリーンと墨のベタが配されたモダンで品のいいデザインだった(堀口さんの回想には、「けざやかな装幀」と記されている)。口絵に、コクトーによるラディゲの肖像の線描、本文中には青児の挿画六葉がある。(略)かれ(青児―引用者)にラディゲへの強い思い入れがあったことは、昭和二十五年に自らが「肉体の悪魔」(白水社)を訳出したことにも明らかといえる。(略)
「ドルジェル伯の舞踏会」の翻訳作業は昭和五年中に行われた。白水社では草野貞之が担当編集者だったと考えられるが、長谷川巳之吉の了解を取りつけるのには難儀したことだろう。巳之吉には、堀口さんを占有したいとする思いが強かった、と容易に想像されるからである。しかし、当時の文藝書としては破格の初刷五千部という発行部数には、さすがの巳之吉も脱帽するほかなかったに違いない。(略)堀口さんの訳文はこののち、八年三月発行の春陽堂「世界名作文庫」の一冊に収録され、十三年一月には白水社から普及版が発行された。(p.495)
この白水社版は小田光雄氏も所有しているのだそうで、その書物の体裁については次の如く書いている。
手元にある一冊の幾何学模様のコンポジションのモダンな装幀、挿画は東郷青児によるもので、菊判を少し小さくした判型を採用し、三二三ページにもかかわらず、厚い紙を使用していることによって、束は三・五センチに及んでいる。(小田光雄「ラディゲ『ドルヂェル伯の舞踏会』と堀口大学」『近代出版史探索V』論創社2020:44)
さて大學訳「ドルジェル伯」に魅了された者として有名なのが、若き日の三島由紀夫である。
「ドルヂェル伯の舞踏会」訳文の評価については、三島由紀夫のあの名批評を借りるにしくはない。昭和三十八年十二月一日の「朝日新聞」、「一冊の本」欄に掲げられた絶賛の文章からの引用である。
ラディゲがニ十歳で夭折する前に書いた傑作「ドルヂェル伯の舞踏会」には他の訳者の訳も二、三あるが、私にとってのそれは、どうしても堀口大學氏の訳でなくてはならない。私は、堀口氏の創つた日本語の藝術作品としての「ドルヂェル伯の舞踏会」に、完全にイカれてゐたのであるから。それは正に少年時代の私の聖書であつた。白水社版のこの本を、一体何度読み返したかわからないが、十五歳ぐらゐで初読のときは、むつかしいところなど意味もわからずに魅せられ、くりかへして読むうちに、朝霧のなかから徐々に村の家々や教会の尖塔(せんたふ)がくつきりと現はれてくるやうに、この小説の作意も明瞭になつた。
しかし、少年の私をはじめに惹きつけたものは、人間心理への透徹した作者の目よりも、訳文の湛(たた)へてゐる独特の乾燥したエレガンスであつた。(長谷川前掲p.496)
三島のこの文章の一部は、長谷川著の序文(p.15)にも引かれているが、昭和二十七(1952)年に角川文庫に入った大學訳「ドルジェル伯」七刷(1964年刊)の帯にも、惹句として引かれていたのだそうだ。
文庫本蒐集家のあいだでもあまり知られていない事柄を一つ紹介しておきたい。それは、角川文庫版『ドルヂェル伯の舞踏会』の七版(一九六四年五月三十日)にだけ、通常の赤帯の上にさらに橙色の上質紙の帯がかけてあり、その帯に白抜きの活字で大きく「正に少年時代の私の聖書であった」という三島由紀夫の言葉が印刷されていることである。「私の聖書」という一句によって、ラディゲが若き日の三島に与えた影響力の大きさを知ることができる。事実、三島には「ラディゲの死」や「ドルヂェル伯の舞踏会」といった小品があり、彼の最初の長編小説『盗賊』はラディゲの影響のもとに書かれたと三島自身が公言している。また、『美徳のよろめき』というタイトルは伯爵夫人マオ・ドルジェルの恋愛を連想させる。(「レーモン・ラディゲ『ドルヂェル伯の舞踏会』[田村道美]」、近藤健児/田村道美/中島泉『絶版文庫三重奏』青弓社2000:103-04)
ここで田村氏のいう「『ドルヂェル伯の舞踏会』といった小品」は、「世界文學」21号に掲載された三島由紀夫「ドルヂェル伯の舞踏會」をさすのではないか。
「世界文學」は以前、神保町のK店頭の3冊500円コーナーで、第7、21号の2冊*2を「近代文學」第6号と共にたまさか拾っており、その21号の「作品研究」コーナーに、三島の「ドルヂェル伯の舞踏會」が載っている。
三島の「ドルヂェル伯の舞踏會」は、「僕」と「レイモン・ラデイゲ」との対話形式からなる作品である。「僕」が「ドルジェル伯」について、「作者の影がどこにもみえないでゐて、これほど深く作者の不幸を語つてゐる作品はないやうに」思う(p.42)と評したかと思えば、「ラデイゲ」が「『ドルヂエル伯(ママ)の舞踏會』で、僕は人間の心が血を流す場面をあきもせずにくりかへして描いた。あの小説の終りに近づく數節に流血の慘事を見ない讀者を僕は信用しない。古い慘鼻な叙事詩が忠節といふ倫理的な主題で貫ぬかれてその血の匂ひを淸らかなものにしてゐるやうに、僕は貞節といふ主題をとり用ひた」(p.43)と応じるなどしている。末尾には「一九四八、三、三〇」の日付がある。
多分その「小説の終りに近づく數節」のなかには、ナルモフ大公の「チロリヤンハット」をめぐる挿話、すなわち、ドルジェル夫人(マオ)とその夫アンヌ、マオと恋仲になる青年フランソワの三者三様の心理劇も含まれるのではないかと思うが、このくだりなどは、読んでいて非常にスリリングであった。
三島のほか、「ドルジェル伯」に魅入られた人物としてよく知られるのが、大岡昇平である。1950年に連載(「群像」)、刊行(講談社刊)された大岡の『武蔵野夫人』も、「ドルジェル伯」の影響下に書かれた作品である。エピグラフとして、「ドルジェル伯」の冒頭部――「ドルジェル伯爵夫人のような心の動きは時代おくれであろうか」を引いている。ちなみに「ドルジェル伯」が範をとったラファイエット夫人『クレーヴの奥方』の光文社古典新訳文庫版(永田千奈氏訳)の帯文には、これをもじって「クレーヴ夫人のような心の動きは時代おくれであろうか?」とある。
わたしは『武蔵野夫人』も2冊有っている。先ず十数年前に下鴨の納涼古本まつりで薄桃色のカバーの河出新書版(1955年刊)を拾った。当初これを読んだときはあまりピンとはこなかった。しかし後に、「ドルジェル伯」を読み了えて、それから新潮文庫版『武蔵野夫人』(2013年刊の改版)を購って改めて読み直してみたところ、打って変っておもしろく読めたのであった。武蔵野の地に昵みを感じるようになりつつあったことも理由としてあるのかも知れないが。
当該の2作品には、人物設定や結構も似通ったところが有る。たとえば「ドルジェル伯」がマオのバックグラウンドから説き起こしているのに対し、『武蔵野夫人』の冒頭は、国分寺崖線下の窪地の斜面「はけ」に棲む人々の背景説明から始まる。また「ドルジェル伯」のマオとフランソワとは遠縁だが縁戚関係にあって、一方の『武蔵野夫人』のヒロイン道子と、恋仲になる勉とはいとこ同士である。それから、フランソワがマオから離れてバスクを旅行するという展開があるのと同様、勉の方も道子から離れて葉山でひと夏を過ごすというくだりがある。
『武蔵野夫人』でとりわけ印象に残るのが次の場面である。
土手を斜めに切った小径を降りて(勉、道子の―引用者)二人は池の傍に立った。水田で稲の苗床をいじっていた一人の中年の百姓は、明らかな疑惑と反感を見せて二人を見た。
「ここはなんてところですか」と勉は訊いた。
「恋ヶ窪さ」と相手はぶっきら棒に答えた。
道子の膝は力を失った。その名は前に勉から聞いたことがある。「恋」とは宛字らしかったが、伝説によればここは昔有名な鎌倉武士と傾城の伝説のあるところであり、傾城は西国に戦いに行った男を慕ってこの池に身を投げている。
「恋」こそ今まで彼女の避けていた言葉であった。しかし勉と一緒に遡った一つの川の源がその名を持っていたことは、道々彼女の感じた感情がそれであることを明らかに示しているように思われた。
彼女はおびえたようにあたりを見廻した。分れる二つの鉄路の土手によって視野は囲われていた。彼女は自分がここに、つまり恋に捉われたと思った。(新潮文庫版pp.82-83)
これは溝口健二『武蔵野夫人』(1951東宝)では――ちなみに道子は田中絹代が演じ、勉は片山明彦が演じている――、ごくあっさりと描かれる場面であるが、青山七恵氏が、奥泉光氏と岡田利規氏との鼎談で、
たとえば、道子が勉に対する自分の想いを恋だと意識する場面。道子と勉は二人で散歩しているんですが、たまたまそこにいた田植えのおじさんにここはどこですかと聞いたところ、「恋ヶ窪さ」と返されます。それで道子は「恋」という言葉に反応してしまって、そしたらこれは恋なんだ! と膝の力が抜けるほどの衝撃を受けちゃうんです。(略)
恋というものがどういうふうに人の心に起こって、どういうふうに暮らしの中に入っていって、どういうふうな面倒が起こるかというのが、独自の恋愛格言みたいなものを交えながら逐一細かく書いてありますね*3。(「大岡昇平を読む」、奥泉光・群像編集部編『戦後文学を読む』講談社文芸文庫2016:234-35)
と語るように、実に劇的な瞬間を描いていると思う。第三者にその地名をいわせるという趣向もその効果を高めている*4。
一方の「ドルジェル伯」にも、「恋」という言葉によって、マオが自分の感情を初めて理解するという場面があるが、こちらでは、言葉そのものは外側からではなく、内側からやって来る。
マオは自分がフランソワに恋をしていることを認めないわけにはいかなかった。
「恋」という恐ろしい言葉をいったん口にしてしまうと、彼女にはすべてが明らかになった。(新訳文庫版p.187)
それにしても、『武蔵野夫人』のこのくだりは劇的である。劇的でありすぎて、とってつけたような観もある。そもそも小説の舞台は、水量の豊かなところという条件さえ満たしておれば、べつに「はけ」でなくてもよかった筈で、「恋ヶ窪」にインスピレーションを得た大岡が筋立てを逆算的に考えていったのではないか、という気さえする。
前田愛もやはりこのくだりを一部引きつつ、物語内部での位置づけについて述べていた。
道子は、この源流行の途中で若い従弟を抱きしめてやりたくなった衝動に、〈恋〉の一字をかぶせることにあるためらいを感じている。自分がえらびとった妻の役割にほとんど疑いをもたなかった彼女にとって、それはたんなるコトバ以上のものではなく、現実の感情との結びつきは、禁忌の領域に閉ざされていたからである。ところが、「中年の百姓」がぶっきら棒につぶやいた〈恋ヶ窪〉の地名が道子の禁忌をひらくきっかけをつくる。このコトバとココロの出会いは、日常的な世界が文学という自律した言語空間に昇華して行く微妙な一瞬をとらえているかぎりで、私たち読者にも発見のよろこびを頒(わか)ち与えてくれる。(「大岡昇平『武蔵野夫人』――恋ヶ窪」『幻景の街 文学の都市を歩く』岩波現代文庫2006:229)
なお前田は、『武蔵野夫人』というタイトルについて、
『武蔵野夫人』がはじめ『武蔵野』と名づけられ、最終的に今の題名に落ちついたことはよく知られる。しかも地名+夫人という題名の形式を、さいしょに思いついた近代の作家はまぎれもなく独歩であって、作柄としては大したものではないが、独歩が佐々城信子とその情人に鎌倉の海岸で行きあわせる奇縁を描いたことで記憶されている『鎌倉夫人』が発表されたのは明治三十五年である。(pp.233-34)
と書き、以下、『鎌倉夫人』や独歩の『武蔵野』、『武蔵野夫人』の類縁性を説いているけれど、タイトルに「夫人」を附けたのは、大岡自身の発案ではなく、しかも必ずしも本意ではなかったということを、後に本人が明かしている。
「武蔵野」は「対主人公」ということですが、なにぶん独歩に名作があるんで、ヒロインの方へくっつけて「夫人」をつける。まあ、編集者の選択ですが、それはたしかにあの小説を何万部かよけいに売りましたが、主題がぼけたことになって、作者としては損をしてるかもしれません。(大岡昇平『わが文学生活』*5中公文庫1981:232)
もとの題は「武蔵野」だったので、この小説の主人公は自然なのです。自然描写によって読まれるだろう、とぼくは最初からいっているので、……(同前p.111)
ところで前田は、次のようにも述べる。
昭和二十二年四月に発効した「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的処置に関する法律」の第五条には、「夫婦の財産関係に関する規定で両性の本質的平等に反するものは、これを適用しない」と記されている。富子と世帯をもつ資金を捻出するために家屋の譲渡委任状と権利書を持ち出したまま、秋山が失踪してしまったとき、道子は改正される民法の摘要を解説書で調べ、自分の遺言により財産の三分の二を好むものに遺贈することができるのを知った。つまり、秋山が家を売る前に自分が死ねば、勉に財産を残すことができるという論理である。これはまさに家つき娘の論理であって、道子は、土地の旧家から格安の価格で「はけ」の湧水を含む武蔵野の一等地をまきあげた父親、宮地老人の呪縛から遁(のが)れられなかったのである。
自分の身体を勉に向かって投げかけるかわりに、夫への復讐の意図がこめられているとはいえ、「はけ」の家を勉に遺そうとする倒錯。道子の貞淑の美徳なるものを、ブルジョアにふさわしい私有財産の観念にまで還元してしまった作者の冷ややかな計算は、読者に冷水を浴びせるていの衝撃力に欠けていない。(前田前掲pp.243-45)
ここに「作者の冷ややかな計算」とあるが、大岡本人によると、道子と秋山との夫婦関係の変化に「民法改正」を利用したことは、窮余の一策であったという。
『武蔵野夫人』の民法改正による夫婦関係の変化は、最初の予定にはなかったので、苦しまぎれです。あのすぐあと福田恆存の質問に答えて書いた通りですよ。最初の姦通罪廃止を問題にしたところとなんとなく釣合いがよくなっちゃったんですが、ほんとはそれだけ復員者勉の持つ破壊力が減殺されて、ロマネスクの展開が阻害されたことになるでしょう。だから一応福田のいう通り失敗と認めたんですが、……(『わが文学生活』p.111)
その福田は、『武蔵野夫人』を失敗作と断じ、脚色したうえで『戯曲武蔵野夫人』を書いているが(こちらは未読)、映画版はオープニングクレジットに「潤色 福田恆存 脚色 依田義賢」と表示されているので、戯曲版に基づくとおぼしい。たとえばラストで、道子の死に富子=轟夕起子や勉らが立ち会うシーンなど、原作とは大いに異なる。これも戯曲版に基づくものであろうか。
佐々木基一も、『武蔵野夫人』の特に後半部を「失敗」とみている。
この作品の後半、特に道子と勉が村山のホテルから帰って以後になると、だいぶ調子が乱れてくる。勉に対する道子の愛情にもどこか弱さが感じられる。(略)お手本になった『ドルジェル伯の舞踏会』のいちばん重要な箇所は、「マーオは、別の世界に坐って、アンヌを眺めていた。伯爵は、相変らず自分の世界に住んで、マーオの心の中に起った変化には何一つ気づかなかった。」という巻末に近い一句であるが、道子は結局俗物的世界から絶縁して「別の世界」に移ることなく、秋山との無意味な夫婦生活を清算する勇気もなく、文字通り古風な女として死ぬのである。そこに道子の魅力の乏しさと、この作品の主題の限界がある。(「大岡昇平―『武蔵野夫人』について」『同時代作家の風貌』講談社文芸文庫1991所収:p.182)
ちなみに大岡は、映画版『武蔵野夫人』については次の如く評している。
あれはいいにくいけれど、溝口さんのものの中ではあまりいい出来ではなかったな。ぼくは試写を見に行かないで鎌倉で観て、途中で外へ出て、やけ酒飲んじゃったことを覚えているな。ぼくは武蔵野の美しい自然をふんだんに撮ってほしかったんだけど、溝口さんはセットを据えて、劇に仕立てちゃったんだよね。あれは東宝争議と関係があって、セットをぶっ立てたのは、撮影所占拠だった、とこの頃になって知りました。ああいう風に撮られちゃうと、ぼくの小説の欠陥がたちまち露呈しちゃって、ぎくしゃくした動きになってダメだな。(『わが文学生活』pp.222-23)
さすがに、セットの塀の外側からクレーンで舐めるように回転しながら内部に侵入して行って人物を捉えつづける俯瞰ショットなどは、溝口作品の面目躍如たるものがあるけれども、全体としては、セットとロケーションとが中途半端に入り交じった観があるのは否めない。
せっかく武蔵野を舞台にしているのだから、大岡がいうように、屋外での撮影をもっと重視してもよかったような気がする。
*1:手許のは1989年11月15日刊の第4刷。
*2:小田光雄氏は「世界文學」の第6号を所有しているといい、発行人の柴野方彦についても言及したことがある(「『世界文学』、世界文学社、柴野方彦」『近代出版史探索V』:192-95)。また山本貴光氏は全三十八巻を蔵している(!)のだそうだ(https://www.webdoku.jp/column/yamamoto/2021/07/13/115706.html)。
*3:この発言で思い出したが、『ドルジェル伯』にも「格言」が頻出する。たとえば、「恋愛とは心の安らぎを奪うものなのだ」(古典新訳文庫版p.126)、「幸福は健康と同じだ。人は幸福には気づかない。気づくのは苦痛だけだ」(同p.155)等々。
*4:上引の鼎談で岡田氏は、「『恋ヶ窪さ』というせりふをいうだけのためにいるおじさんとか、もろにご都合主義」(p.245)と発言している。
*5:1974年8月10~11日、秋山駿、菅野昭正、中野孝次の質問に大岡昇平が答える形でなされた討論の記録に、高橋英夫、亀井秀雄の書面での質問に大岡が回答したのを加えてまとめたもの。1975年中央公論社刊。
「鮭」字をめぐるはなし
柏木如亭(1763-1819)による「新潟」詩は、如亭の代表作のひとつと看做される七律で、揖斐高訳注『柏木如亭詩集1』(平凡社東洋文庫2017)が採る(pp.143-46)のはもちろんのこと、揖斐高編訳『江戸漢詩選(下)』(岩波文庫2021)にも採録せられているし(pp.93-96)、たとえば富士川英郎『江戸後期の詩人たち』(筑摩叢書1973)も、「いかにも如亭らしい才気の横溢した颯爽たる詩」(p.83)として紹介している。
この「新潟」詩は、如亭の歿後に遺稿として刊行された食味随筆『詩本草』の「鮭」(原本にかかる標題はないと云う)にも引いてある。揖斐高校注『詩本草』(岩波文庫2006)に基いてその「鮭」全文を示せば、すなわち次の如くである。
[足+及]結(サケ)于越後新潟者最佳。新潟一馬頭地亦称繁華。余詩有云。八千八水帰新潟。七十二橋成六街。海口波平容湊舶。路頭沙軟受游鞋。花顔柳態令人艶。火膾霜螯著酒懐。莫道三年留一笑。此間何恨骨長埋。其至鮮者聶而作軒。赤色如火与吾郷葛貲屋(かつを)各覇于一方。詩中火膾即此也。俗偽作鮭字。康頼医心方作鮏、引唐韻辨之。然作松魚為正。(p.77)
「八千八水帰新潟」以下「此間何恨骨長埋」までが「新潟」詩であるが、『如亭山人藁初集』所収の「新潟」詩とは若干の異同があって、「七十二橋」は「七十四橋」であるといい、「一笑」は「一咲」に作るようだ(「笑」と「咲」とは本来異体関係にある*1)。ちなみに富士川前掲書は『詩本草』所引の形に拠っている。
『詩本草』の記述で、文字好きとしてとりわけ興味を惹かれるのは「俗偽作鮭字。康頼医心方作鮏、引唐韻辨之。然作松魚為正」(俗に偽りて鮭の字に作る。康頼が医心方、鮏に作り、唐韻を引きてこれを辨ず。然れども松魚に作るを正と為す―揖斐氏の訓みに拠る)とあるところで、岩波文庫版の注釈(揖斐氏)には次の如くある。
○俗偽作鮭 例えば『倭名類聚抄』の「鮏」の項に、「今按ずるに俗に鮭字を用いるは非なり」、また『和漢三才図会』巻四十八にも「鮏(さけ) 年魚……鮭、俗にこれを用いるは誤りなり。鮭は河豚(フク)なり。和名佐介」。(略)○作鮏 『医心方』巻三十に「鮏〈折青反〉崔禹云、味醎、大温无毒、主心下利、益気力、其子似莓赤光、一名年魚、春生而年中死、故名之、瘳風痺為験〈和名佐介〉」とある。しかし、この部分には『唐韻』は引かれておらず、なお未詳。ちなみに草稿「鮏」字の傍注「ナマクサ」。(略)○作松魚為正 小野蘭山の『本草綱目啓蒙』巻四十に、「鱖魚ヲ従来サケト訓ズルハ非ナリ。サケハ東医宝鑑ノ松魚トスベシ」。(pp.79-80、仮名遣いは原文ママ)
これにつづく項で、如亭は、「松魚に二有り。一は葛貲屋(かつを)を指し、一は[足+及]結(さけ)を指す」(p.82)とも書いている。
「鮭」字について、諸書を引用してよくまとめているのが、鈴木牧之(1770-1842)『北越雪譜』である。牧之は、その初編巻之下「鮭の字の考(かうがへ)」において、まずは「童蒙(わらはべ)の為に」、漢和字書『新撰字鏡』や節用集類の辞書について簡略な説明を施したうえで、次の如く述べる。
○新撰字鏡魚(うを)の部に 鮭 佐介(さけ) とあり、和名抄には本字は鮏(さけ)俗に鮭の字を用ふるは非也といへり。されば鮭の字を用ひしも古し。同書に崔禹錫(さいうせき)が食経(しょくきょう)を引て「鮏(さけ)其子(そのこ)苺に似て赤く光り、春生れて年の内に死す故にまた年魚(ねんぎょ)と名く」と見えたり。新撰字鏡に鮭の字を出しゝは鮏(せい)と鮭(けい)と字の相似たるを以て伝写の誤りを伝へしもしるべからず。鮭は河豚(ふぐ)の事なるをや。下学集にも鮭(さけ)干鮭(からさけ)と並べ出せり。宗二が文亀本の節用集にも塩引(しほびき)干鮭(からさけ)とならべいだせり。これらも鮏(せい)と鮭(けい)と伝写のあやまりにや。駒谷(こまがい)山人が書言字考には○鱖(さけ)○石桂魚(さけ)○水豚(さけ)○鮭(さけ)と出して、注に和名抄を引て本字は鮏といへり。大典和尚の学語編には鱖の字を出されたり、鱖(き)はあさぢと訓(よむ)也。唐(もろこし)の字書には鱖は大口細鱗とあれば鮏にるゐせるならん。字彙には鮏は鯹(せい)の本字にて魚臭(なまぐさし)といふ字也といへり。按(あんず)るに、鮏(さけ)の鮮鱗(とりたて)はことさらに魚臭(なまぐさ)きものゆゑにやあらん。鮭(けい)は鯸鮐(こうち)の一名ともいへば鮏(さけ)にはいよ/\遠し。とまれかくまれ鮏の字を知りて俗用には鮭の字を用ふべし。件の如く鮭の字も古く用ひたれば、おほかたの和文章にも鮭の字を用ふべし、鮏の字は普くは通じ難し。こゝには姑く鮏に从ふ。(鈴木牧之編撰/京山人百樹刪定/岡田武松校訂『北越雪譜』岩波文庫1978改版*2)
前掲『詩本草』の注釈と重なる部分もあるが、要は、「鮭」は元来「フグ」ないし「鯸鮐」の義であったが、本邦では「鮏」の誤写により「サケ」の義も担うようになったらしいこと、しかしサケに鮭が宛てられたのもかなり古い話であること等に言及している。また唐土にては、鮏は鯹の本字であって、「なまくさい」を本義とするという。なるほど『中華字海』(中華書局1994)を披いてみると、「鮏」について「鯹」と同義とみなし、「魚腥味。」とのみある。
ここで、加納喜光『魚偏(うおへん)漢字の話』(中公文庫2011←中央公論新社2008)によれば、
この表記(鮏―引用者)は『本草和名』(九一八年頃、深根輔仁)や『和名抄』、『医心方』(九八四年、丹波康頼)に出ている。その根拠として、中国の幻の本である『崔禹食経』を引用している。しかし中国のほかの文献には、鮏は「なまぐさい」という意味しかなく、魚の名はまったく見当たらない。筆者は、サケを表す鮏は和製漢字であって、「中国にもある本当の漢字ですよ」と権威づけるために、『食経』に仮託したのではないかと、この謎を解く。(pp.1119-20)
という。してみれば、鮏を唐土のサケに比定するのもやや怪しくなってくる。諸橋大漢和は、「鮭」字について「さけ。しやけ。」を「邦」つまり日本独自の義とするのはもちろんのこと、「鮏」字についても「なまぐさ。なまぐさい。」を第一義として、「さけ。鮭。」をやはり「邦」とみなしている。そのほか、小型のたとえば『全訳 漢辞海【第四版】』(三省堂2017)なども、「鮏」=「サケ」を「日本語用法」とみている。
日本で(と、あえて断定調で書いてしまうが)「鮏の鮮鱗はことさらに魚臭きものゆゑに」これをサケに転用したのかどうかは定かでないとしても、「鮭」をサケの義で用いるのは日本独自のことであるといっても、まず間違いはないだろう。
なお曲亭馬琴編・藍亭青藍補『増補 俳諧歳時記栞草』(嘉永四年〈1851〉刊)は、その秋之部に「初鱖(はつさけ)」を立項し、
[和漢三才図会]鮏は鯹の本字、魚臭(なまくさき)なり。正字未詳。(略)和名抄曰、鮏和名佐介、俗、鮭字を用ふ、非なり。(堀切実校注『増補 俳諧歳時記栞草(下)』岩波文庫2000:41)
とする。ただし、ここまで引用してきたもの(『詩本草』訳注に引かれる「本草綱目啓蒙」等)によれば、「鱖」をサケの義で用いることもまた俗用ということになりそうだ。
では、カツオ、サケの義を有する熟字として如亭も引いていた「松魚」についてはどうだろうか。
これついては前掲の加納著が、
カツオを松魚と書くこともある。貝原益軒によると、これは朝鮮の表記だという。『東医宝鑑』(十七世紀、許浚の著した医薬学書)に「肉は肥えて、色赤くして鮮明なること松節の如し。故に松魚と名づく。東北江海中に生ず」とあるのを根拠としている。だが、棲息場所などから判断すると、松魚はサケである可能性が高い。(p.110)
江戸時代、朝鮮から通信使が来日した際、本草家の稲生若水(一六五五~一七一五)が彼らに対して、通信使は松魚と答えている。(略)実は松魚はサケであったふしがある。(p.121)
という見方を示している。
ところで『詩本草』は、河豚について述べた別の項では「鮭」字を出していないが、河豚、江瑶柱(タイラギ貝)、蠣房(カキ)それぞれの異称として、「西施乳」「西施舌」「太真乳」というのを挙げている(岩波文庫版pp.131-37)。このうち、カキの別称「太真乳」については、中国の書物に典拠が見出せないといい、「如亭が、『詩本草』執筆中に新たに思いついて書き加えたものだったのではないだろうか。(略)食欲と色欲との相関性に人一倍敏感だった詩人柏木如亭ならではの戯れだったのではあるまいか」(揖斐高『江戸漢詩の情景―風雅と日常』岩波新書2022:219)という興味ふかい説が有る(新稲法子(id:masudanoriko)氏から、カキを「太真乳」とすることは、『閩小記』に記述がある旨、ご教示賜りました。コメント欄ご参看。9.3記ス)。
コリン・ウィルソンが語るアナトール・フランス
学研パブリッシング(当時)が手がけていた文庫レーベルに、「学研M文庫」というのがあった。特に歴史小説や戦史ものを出していたことで知られるが、わたしにとっては、酒井潔『悪魔学大全(1)(2)』、アンソロジスト・東雅夫氏の編纂にかかる「伝奇ノ匣」シリーズや「幻妖の匣」*1、種村季弘『偽書作家列伝』『澁澤さん家で午後五時にお茶を』、加藤郁乎『後方見聞録』、それから安原顯編『ジャンル別文庫本ベスト1000』『ジャンル別映画ベスト1000』等を刊行したことが印象に残っており、――やや大げさにいうと――青春期の読書体験の一頁を彩ってくれた、忘れ難いレーベルである。そう云えば、後藤明生(訳)『雨月物語』、立野信之『叛乱』というのもあった。
五、六年前、この文庫に入ったコリン・ウィルソン/柴田元幸監訳『超読書体験(上)(下)』(2000年9月刊行)を、遅れ馳せながら古本で入手して読んだ。わたしの記憶が確かならば、これは創刊ラインナップの一冊だったかとおもう。『超読書体験』という邦題は、そのころ何かしら「チョー」をつけて表現するのが若年層のあいだにそろそろ定着しつつあったことが背景にあるのか、その少し以前(遡ること四、五年前)の『「超」勉強法』ブームに肖ってのことなのかは判らないけれども、刊行当時は実用書と誤認した所為もあってか、完全に「スルー」していた。しかし実際に手に取って読んでみると、これがすこぶる面白かったのである。
そもそもこの本は、もとの邦題を『わが青春わが読書』(原題は”THE BOOKS IN MY LIFE”)といい、元版は1997年に刊行されている。「訳者あとがき」(柴田元幸氏)によると、安原顯がコリン・ウィルソンに直接手紙を出して、日本の読者向けに自身の読書遍歴についての本を書きおろして欲しい、と依頼したところ、一年ほど経ってから安原の許にタイプ原稿が届き、それを十人がかりで訳したのが、すなわちこの本であるという。
単行本が刊行されて間もないころには、出久根達郎氏が、同書について次のように書いている。
『アウトサイダー』(中村保男訳・集英社)などの著者で、作家・哲学者のコリン・ウィルソンの本棚には、どのような書物が並んでいるのだろう?
現在、自宅には二万から三万冊の本があるという。新刊もあれば、古書もある。「車で走っていて、どこか小さな町を通りかかるたびに、私たちは古本屋を見つけてどっさり本を積んで帰った」「子供のころからずっと、私は古本を買うのが大好きだった」。
コリン・ウィルソンの『わが青春わが読書』(柴田元幸監訳・学研)は、一千枚の長編エッセイである。
ウィルソンの最初の読書が、ミッキー・マウスやドナルド・ダックの漫画であり、スーパーマンのような超人物語であり、そして十代では『トム・ソーヤーの冒険』であったという告白は、なあんだ、と意外な感じである。
天才の「書棚」は、われわれ常人とは全く異なった構成であろう、という先入観念を、ものの見事に裏切られる。
われわれと同じ本を読んでいるのだが、しかしウィルソンの話は、面白い。当り前すぎる話だから、面白いのである。ウィルソンの著書としては珍しく気楽に読める。
(出久根達郎「本棚公開」『人は地上にあり』文春文庫2002←『書棚の隅っこ』リブリオ出版1999所収:75-76)
出久根氏が引用しているの(2箇所)は、いずれも第一章「何冊あれば本は多すぎるか?」(柴田訳)にみえる文章だが、この本は全部で二十六章からなる。担当した訳者(敬称略)とともにそれぞれの章題を示すと次のとおりである。
1.何冊あれば本は多すぎるか?(柴田元幸) 2.ウィルソンをめぐる真実(柴田元幸) 3.トム・ソーヤー(畔柳和代) 4.ロマンティストになるまで(飯塚浩芳) 5.シャーロック・ホームズ―人間的な超人(江崎聡子) 6.科学―そしてニヒリズム(都甲幸治) 7.ジェフェリー・ファーノルの華麗なる冒険(岸本佐知子) 8.日記をつけるということ(岸本佐知子) 9.『ファウスト』と「理不尽な朗報」(大久保譲) 10.セックスと「永遠の女性」(柴田元幸) 11.プラトンと性の幻想(都甲幸治) 12.ショー(小山太一) 13.エリオットとピュトンの尾(飯塚浩芳) 14.ジョイス(前山佳朱彦) 15.人格からの脱出―アーネスト・ヘミングウェイの謎(高吉一郎) 16.デイヴィッド・リンゼイ『アルクトゥルスへの旅』(柴田元幸) 17.ドストエフスキー(畔柳和代) 18.ニーチェ(坂口緑) 19.ジェイムズ兄弟(高吉一郎) 20.エルンスト・カッシーラー(坂口緑) 21.サルトル(前山佳朱彦) 22.ユイスマンス―究極のデカダン(大久保譲) 23.ゾラとモーパッサン(畔柳和代) 24.レオニード・アンドレーエフ(江崎聡子) 25.ミハイル・アルツイバーシェフ(都甲幸治) 26.アナトール・フランス(小山太一) あとがき 第七度の集中(柴田元幸)
このように各章が独立した内容となっており、どこからでも読める構成になっているのだが、結びの章が「アナトール・フランス」になっているのは、この本を初めて披いたとき、いささか意外に感じたことだった。
わたしは以前(約十一年前)、荒川洋治氏の「読書のようす」(『忘れられる過去』朝日文庫所収)に触発され*2、フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』(以下『ボナール』)を買って読んだくちだが(この件はここで書いた)、結局いまに至るまで、フランスの小説は、この一作しか読んでいない。
しかしウィルソンの『超読書体験』を読み、フランスの作品としては少くともあと一つ、『タイス』だけは、生涯のうちに読んでおきたいとおもっている。
さてウィルソンは、E.M.フォースターの『小説の諸相』*3のなかに、フランスの『タイス』に関する独特なコメントを見いだす。「構造上、この小説は十字型あるいは砂時計の形をしている、とフォースターは述べていた。冒頭、聖者のごとき禁欲主義者パフヌティウスは美妓タイスを堕地獄から救おうという考えにとり憑かれているが、結末ではタイスが聖女となり、地獄に堕ちるのはパフヌティウスなのである」(下巻p.239)。続けてウィルソンは書く。
私は図書館に駆けつけ、『タイス』を借りた。オレンジ色の装丁の全集の一冊だ。期待以上に驚異的な本だった。フランスが信じられないほど博識なのはのっけから明らかだった。それに、絢爛たる知性はショーを思わせた。フランスの存在にもっと早く気づかなかったのが不思議でならなかった。(同前p.239)
『タイス』については、林達夫が『文藝復興』(中公文庫1981)の「書籍の周囲―5.『タイス』の饗宴―哲学的対話文学について―」(pp.196-206)*4で、その圧巻というべき「饗宴」部がブロシャール『ギリシア懐疑学派』に依っていること(フランス本人がその「手の内」を明かしているという)に触れ、「実は『タイス』の「饗宴」をはじめて読んだときにも、私の念頭に絶えず浮かんでいたのは、ほかならぬプラトンの哲学料理の逸品『饗宴』Symposionであった」(p.199)と書いていたのをおもい出すが(「『タイス』の饗宴」は、のちに中川久定編『林達夫評論集』岩波文庫1982〈pp.147-59〉や、高橋英夫編『林達夫芸術論集』講談社文芸文庫2009〈pp.96-107〉にも収められた)、この「饗宴」部の内容は、ウィルソンが前掲書のpp.243-44でややくわしく紹介していて、彼もまた、「フランスがプラトンの『饗宴』を念頭に置いていることは明らかである」(p.244)と述べている。
ウィルソンはこの『タイス』に「圧倒され」、「これほど偉大な小説はそうざらにないと思った」(p.247)。さらに『ボナール』も読み、「『タイス』ほど圧倒的ではないにせよ、これも見事な作品」(p.250)だと感じる。そしてその冒頭部については、「フランスはほとんどディケンズ風ともいえる雰囲気を醸し出」している(p.251)と評する。またウィルソンは、次のようにも述べている。
のちにフランスは、『シルヴェストル・ボナール』が売れたのは感傷性のおかげだといってこの本を嫌うようになる。それは疑いもなく事実である。しかしこの本が、感傷性が全面的に成功しているごく珍しい一例であることもまた事実なのだ。(p.256)
もっともウィルソンは、この章の末尾でフランスの「最大の欠点」についても分析しているのだが、若き日の彼にとって、フランスが大きな影響を与えた作家であることを認めるにやぶさかではない。
とまれウィルソンのこの文章を読むとすぐ、わたしは『ボナール』を再読したくなって、矢も楯もたまらず近所の古書肆に赴き、文庫版をふたたび購ったのである。250円だった。11年前に買ったのは1975年刊の初刷で(確か400円だった)、まだカバーのない時代の岩波文庫だった(赤い帯だけが巻いてあり、こちらは実家に置いてきた)が、再読するために買ったのは1989年刊の第4刷で、すでにカバー附きとなっている。ちなみに珍しいことに、カバー表紙の内容紹介に「多くの書物から深い知識を得たのち、その空さしを知った懐疑派アナトール・フランス(1844-1924)の世界がここにある」という誤記があるが、これは後刷で直ったようである。
『ボナール』は大きく二部にわかれていて、十一年前の初読時には浮世離れした「第一部 薪」に惹かれたものだが、再読時はむしろ、ボナールが人との交わりによって現実へと回帰してゆく「第二部 ジャンヌ・アレクサンドル」をおもしろく感じた。わたし自身の環境の変化にもよるのかもしれないが、いずれにしても、小説を再読三読する愉しみは、こういうところにも有る。特に、次のようなやり取りがなんと心に響いたことか。
「たくさんのご本でございますね。ボナール先生、先生はこれをみんなお読みになったのでございますか」
「悲しいことにみんな読みました。だからこそ何にも知らないのです。何しろどの本もほかの本と矛盾しないものは一冊もない、したがってみんなを知ればどう考えてよいのかわからなくなる。私はそんな状態にいるのです」
(伊吹武彦訳『シルヴェストル・ボナールの罪』岩波文庫:185)
さきに言及した林達夫は、「書籍の周囲―1.文献学者 失われた天主教文化―新村出氏の『南蛮広記』を読む―」*5で、『ボナール』について次の如く述べている。
かくて文献学者は、諷刺家の嗤笑に反して、この世における最も尊敬すべきまた最も愛すべき存在の一つたるを失わないのである。そうして人もし真の文献学者の典型を示して貰いたいと言うなら、私はアナトール・フランスのシルヴェストル・ボナールを指して彼を見よと言いたい。およそ世界にこの老文献学者以上に愛すべき人間があるであろうか。文献学者に豊かな想像力と大いなる好奇心と美の感情と表現の才能とがないとは、誰が言いし言葉ぞ。学士院会員(マンブル・ド・ランスティテュ)シルヴェストル・ボナールの存在は、まことに文献学の強みであるのみならず、また彼あるが故に、文献学がその胸にかき抱いている多くのエルマゴラの偏癖と罪過――もしあるなら――は充分に償われ、また大目に容赦されるであろう。(『文藝復興』中公文庫1981:149-50)
別のところでは、「フランス語で最初にわたくしが独力で読んだ作品は、アナトール・フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』である」(「フランス語事始め」*6高橋英夫編『林達夫芸術論集』講談社文芸文庫2009所収:94)と書く林のことだから、『ボナール』自体への思い入れも相当強かったに違いない。
フランスの作品でもう一つ印象に残っているのは(こちらもむろん読んではいないのだが)、木下杢太郎の名篇「残響」*7に出て来る「パリに於けるベルジュレエ君」である。杢太郎はその随筆(「残響」については、以前ここで触れた)の冒頭ちかくで、次の如く述べている。
アナトオル・フランスの小説に「パリに於けるベルジュレエ君」というのがある。田舎の大学の先生がパリのソルボンに招聘せられることになってからの話であるが、その中ではいろんな人が勝手に猶太(ユダヤ)人論やドレェフィユス事件の批評をしていて、ベルジュレエ君がどんな人かはっきりとしない。この間フランス人にきいたらこの類作では田舎とパリとで環境や人物に著しい差のあるのを書きわけているということだが、残念ながら、前の部分を読んでいない。(「残響」岩阪恵子選『木下杢太郎随筆集』講談社文芸文庫2016所収:87)
この「パリに於けるベルジュレエ君」が『現代史』という一連の著作の一部であることを知ったのも、ウィルソンの本のおかげだった。
パリに出ていく地方大学教授ムッシュー・ベルジュレを主人公にした『現代史』四部作(私の一番好きな批評家エドマンド・ウィルソンはこれをフランスの最高傑作としている)を支えたのはマダム・アルマンだった。(『超読書体験(下)』p.257)
『ボナール』巻末に附いている「略年表」によると、『現代史』四部作が著された年は次の如くである。
一八九七年――『現代史』第一巻・第二巻。年末ドレーフュス事件が起り、アナトール・フランスは進歩派としての思想的立場をとりはじめる。
一八九九年――『現代史』第三巻。『赤いゆり』劇化上演。『ピエール・ノジエール』。
一九〇一年――『現代史』第四巻。『クランクビーユ』、権力に対する庶民の反抗を描く。(p.299)
邦訳の『現代史』も、いつかは文庫化して欲しいものである。
*1:「伝奇ノ匣」を冠した本は十冊ほど出ており、うち六冊ほどを所有している。後者の「幻妖の匣」もシリーズ化する予定だったのかもしれないが、わたしの知るかぎり、『赤江瀑名作選』のただ一冊にとどまる。
*2:一昨年、『忘れられる過去』をはじめとした既刊エセー集のうちから択ばれた諸篇と、単行本未収録の諸篇とを合わせた荒川洋治『文学は実学である』(みすず書房)が出たが、「読書のようす」はそこには収められていない。
*3:フォースターの著作も、このところ邦訳が相次いで出ている。今年六月刊行の井上義夫編訳『E.M.フォースター短篇集』、そして今月出たばかりの小野寺健訳『インドへの道』など。『小説の諸相』にも古い邦訳はあるが、そろそろ文庫化するか新訳で出すかして欲しい……。
*4:初出は1927年3月30日付『東京朝日新聞』(!)で、それを改稿したものという。
*5:初出は1925年11月「思想」49号。
*6:初出は「新潮」1954年5月号。
*7:1937年頃に書かれた。
橋川文三「昭和超国家主義の諸相」
ことし生誕百年を迎えた橋川文三(1922-83)の著作を、このところじっくり読む、あるいは読み返すなどしている。ちなみにいうと、「文三」の読みは両様あるようだが、「ぶんぞう」ではなく「ぶんそう」が本来ではないかと思われる。この五月に講談社と丸善ジュンク堂との合同企画で復刊された、橋川の『柳田国男―その人間と思想―』(講談社学術文庫)の奥付の著者名の読みが「ぶんぞう」だったので、念のために記しておく。なおこの文庫は、橋川の生前(1977年)に刊行されているが、その初刷りでも「ぶんぞう」となっていた(復刊に際して新たに組み替えられているが、そのままだった)。
わたしが橋川の著作を読みはじめたのは古い話ではなくて、中島岳志編『橋川文三セレクション』(岩波現代文庫2011)がそのきっかけだった。今もおもい出すが、ひどく寒い日の夕刻のことで、或る人がやって来るのを待つ間、京都・四条河原町のブックファースト(現在は閉店)にて、当時出たばかりのこの本を平台に見いだして購ったのである。橋川の名は渡辺京二氏などの著作によって、あるいは『日本の百年』(ちくま学芸文庫2007-08)の編著者の一人として知っていたし、橋川の「乃木伝説の思想」は、レポートを書く必要から読んだことはあった*1ものの、さまで関心はなかったが、中身をぱらぱら見てみると、どうやら「竹内好」「太宰治」「三島由紀夫」などについての人物論やら回想記やらを収めているらしかったので、興味を懐いて買ってきたのだった。
帰宅後、冒頭の「歴史意識の問題」からして引きこまれるように読んだ。文体はあくまで明晰、とは云え正直にいって、此方の力量が不足している所為もあって、一読しただけでは趣意をくみ取りにくい文章もあったが、「西郷隆盛の反動性と革命性」の先見性には驚かされたものだし、「昭和超国家主義の諸相」を読み了えたときには、かつてこんなにすごい思想家がいたのか、とさえおもった。いま改めて考えてみると、「思想家」というよりはむしろ、そこにアカデミズム史学的な手さばきを看取したのかもしれない。そして何より、それまで誰もが忌避してきた人物を学問的な対象とした点こそが、橋川の真骨頂であるように感じた。そういった学問的態度は、政治思想史の方面では、たとえば故松本健一氏、中島岳志氏らがその衣鉢を継いでおり、また社会学の方面では、佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書2004)、竹内洋・佐藤卓己編『日本主義的教養の時代―大学批判の古層』(柏書房2006)*2などの研究に継承されていると感じる。
こうしたゆくたてがあって、橋川の著作を入手したくなったわけだが、岩波現代文庫に入った橋川の『黄禍物語』(2000年刊)もすでに版元品切れのようだったし(結局、2016年ころに古書肆で購った)、当時新本で入手できたのは『日本浪曼派批判序説』(講談社文芸文庫1998)、『昭和維新試論』(ちくま学芸文庫2007)くらいのものだった。古本でも、未來社の『増補 日本浪曼派批判序説』はよく見つかるものの、その他の著作はなかなか見つけられずにいた*3。全十巻の著作集(増補版)も幾度か見かけたが、おいそれと手が出るような値段ではなかった。ところがその後、『昭和維新試論』(講談社学術文庫2013)、『西郷隆盛紀行』(文春学藝ライブラリー2014)、『ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫2015)、『幕末明治人物誌』(中公文庫2017)……と、橋川著の復刊や文庫化が(『幕末明治人物誌』は文庫オリジナル)相次いだのであった。またこの間には、宮嶋繁明氏の『橋川文三 日本浪曼派の精神』(弦書房2014)、『橋川文三 野戦攻城の思想』(弦書房2020)という決定的な評伝も刊行された*4。
そしてこのほど、気鋭の批評家である杉田俊介氏が「すばる」誌上で2年弱にわたって連載した記事をまとめた、『橋川文三とその浪曼』(河出書房新社2022)も出た。同書は、保田與重郎、丸山眞男、柳田国男、三島由紀夫と橋川との「対決」を論じており、「橋川と竹内好、西郷隆盛、北一輝との思想的な対決について論じ」た続篇的な『橋川文三とその革命(仮題)』もいずれ出す(「あとがきにかえて」)とのことなので、こちらも愉しみに待ちたい。
今回わたしが再読したもののなかには、「昭和超国家主義の諸相」も含まれる。これはもともと、橋川文三編『現代日本思想大系31 超国家主義』筑摩書房1964)の解説として書かれたものだが、橋川文三著/筒井清忠編・解説『昭和ナショナリズムの諸相』(名古屋大学出版会1994)の冒頭にも収められて、独立した論考としてますます評価を高めた文章である*5。
いまこれを読み返してみて、まず感じたのは、予見に充ちた文章であるということだった。それは『昭和維新試論』などの著作群も同様だが、論考の今日的な意義がなおも失われていないことを意味するのだろう。たとえば次のような箇所。
もちろん、テロリズムは、国家主義にのみ結びつく行動ではなく、政治にのみ特有の現象でさえない。それは、人間存在のもっと奥深い衝動とひろく結びついた行動であり、一般的にいえば、人間の生衝動そのものに根源的にねざした行動とさえいえるはずである。人間という恐るべき生物が、絶対的な自己表現にかりたてられる場合に、しばしば選択する手段の一つといってよい。そして、人間が絶対の意識にとらえられやすい領域の一つが宗教であり、他の一つが政治であるとするなら(もう一つ、エロスの領域があるが)、テロリズムは、その二つの領域に同時に相渉る行動様式の一つとみることもできるであろう。そしてまた、それが人間行動の極限形態として、自殺と相表裏するものであることが認められるとするなら、その両者の様式を規定するものとして、テロリズムの文化形態(カルチュア)ということを言ってもかまわないであろう。(「昭和超国家主義の諸相」『橋川文三セレクション』所収:139)
しかしドストエフスキーにおける戦争思想もまた、北(一輝―引用者)の場合と同じように、謎めいており、神秘的でさえあった。彼にとって、いわばロシアの戦争は戦争一般とは異質であり、人類救済という特別の意味を与えられたものであった。なぜなら、ロシアの神は、一般・普遍の神ではなく、まさにロシアの神だからである。この奇怪な論理は、『悪霊』の論理の中の超民族主義者シャートフとスタヴローギンの対話の言葉を聞けば、いくらか理解することができよう。(同p.177)
よく知られていることだが、「昭和超国家主義の諸相」は、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」に異議申し立てをしている。この丸山論文は、1946年5月号の「世界」に掲載された記念碑的文章で、近年では杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー2010)にも収められたし、また、丸山(1914年生)の生誕百年を記念して刊行された、丸山眞男著/古矢旬編『超国家主義の論理と心理 他八篇』(岩波文庫2015)でも手軽に読めるようになった。ここで丸山は、昭和の超国家主義について、それが「凡そ近代国家に共通するナショナリズムと」区別されるのは、「そうした(武力的膨張の)衝動がヨリ強度であり、発現のし方がヨリ露骨であったという以上に、その対外膨脹乃至対内抑圧の精神的起動力に質的相違が見出される」(岩波文庫版pp.13-14)からだと述べたうえで、その「質的分析」に話を移しているのだが、これに対して橋川は、
それはいわば日本超国家主義をファシズム一般から区別する特質の分析であって、日本の超国家主義を日本の国家主義一般から区別する視点ではないといえよう。ないしは、日本の超国家主義的支配と、その明治絶対主義的支配との区別に対応するような、日本ナショナリズムの運動の変化を解明するにはあまりにも包括的な視点であるといえよう。(前掲p.137)
と反駁を加えている。ここで恐らくは、「日本の国家主義一般」「明治絶対主義的支配」に対して、橋川が何らかの積極的な意義を見いだしているのではあるまいか、と若干の疑念を懐く読み手も出て来ることだろう。たとえば、いわゆる司馬史観などと親和性のある「思想」を橋川が開陳し始めるのではないか、と。しかし、橋川が周到なのは、つづけて、
こうした疑念を私がいだくのは、丸山のアプローチによっては、明治以降における日本ナショナリズムのいわば健全で進歩的なモメントが無視されてしまうのではないか、というような理由からではない。(p.137)
と書いているからだ。もっとも、宮嶋繁明氏によれば、これは「橋川一流のレトリックの彩(あや)」だろうという。「すぐ後ろの丸山への反措定を強調しようとする主旨があったのは事実であろうが、一方で、このパラグラフは、橋川の希求する「あたたかい思想」につながる志向性を内包していた、とわたしには思われる」(『橋川文三 野戦攻城の思想』弦書房:158)。一体どういうことか。
すなわち、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」などの日本ファシズム論に対する批判に抗する丸山自身の弁明に配慮した発言と思える。なぜなら丸山は、『日本の思想』(一九六一年)の「あとがき」で、日本ファシズムや日本ナショナリズムに関する自分の分析は、日本の精神構造なり日本人の行動様式の欠陥や病理の診断として一般に受け取られていて、明確な誤解は、「もっぱら欠陥や病理だけを暴露したとか、西欧近代を「理想」化して、それとの落差で日本の思想的伝統を裁いた」といったたぐいがあると、強く反発した。
橋川は、丸山のこれらの反発を意識して、「昭和超国家主義の諸相」を書く際に、上述の「欠陥や病理だけを暴露した」との受け取られ方、つまり、「健全で進歩的なモメントが無視される」のとは異なった箇所からの「疑念」であることを、強調したかったのではないだろうか。(略)
ここで橋川が、あえて論理の陰に隠しこんでしまったともいえる前掲の発言の裏側には、橋川の論理以前の感性、心情としての丸山への違和感が潜んでいた。つまり、橋川においては、超国家主義あるいは日本のナショナリズムに、一方で、「健全で進歩的なモメント」を、求めようとしていたことは否定すべくもないことだと思われる。(宮嶋前掲pp.158-59)
橋川の文章独特の「わかりにくさ」、趣意のくみ取りにくさの由来は、そういうところにもあるのではないかと考える。
さて、さらに丸山が超国家主義の発現形態について、
天皇は万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。欽定憲法は天皇の主体的製作ではなく、まさに「統治の洪範を紹述」したものとされる。かくて天皇も亦、無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っているのである。天皇の存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖皇宗もろとも一体となってはじめて上に述べたような内容的価値の絶対的体現と考えられる。天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。(略)
「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を強めて行く――この循環過程は、日清・日露戦争より満州事変・支那事変を経て太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって行った。(岩波文庫版pp.35-37)
と結論し、あくまで明治期以来の「連続性」を強調したことに対して橋川は、
あの太平洋戦争期に実在したものは、明治国家以降の支配原理としての「縦軸の無限性、云々」ではなく、まさに超国家主義そのものであったのではないか、ということになるであろう。(前掲p.138)
と述べ、明治期以降の国家主義とは完全に「断絶」されたものとして、昭和の「超国家主義」を位置づけてみせたのであった。
ただし橋川はその五年前(1959年)には、「『戦争体験』論の意味」*6(中島岳志 杉田俊介責任編集『橋川文三 社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える』河出書房新社2022:196-213)で、前引の丸山論文の「天皇を中心とし、…縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである」というくだりを紹介し、
そのような国家存在の論理構造に対応して、国民の心理においては「縦軸の無限性」への依存が、一種の無限戦争のイメージを作り出していたと考えられる。(略)太平洋戦争は「無限の縦軸」としての国体理念が、そのまま戦争体制として凝結したことを意味した。さきに明治維新において、国民諸階層のエネルギーが個体としての国家に集約したと述べたが、敗戦は、国体という擬歴史的理念に結晶したエネルギーそのもののトータルな挫折を意味した。(pp.211-12)
云々と丸山理論を援用しているので、五年間で大きく立場を変えたことになる。そしてそれはちょうど、橋川と丸山とが思想的に「訣別」する時期に重なっている*7。
では、その「超国家主義」は、どういった担い手によってなされたか。橋川はいう。
ごく大雑把に図式化していえば、私は日本の超国家主義は、朝日(平吾)・中岡(艮一)・小沼(正)といった青年たちを原初的な形態とし、北一輝(別の意味では石原莞爾)において正統な完成形態に到達するものと考え、井上日召・橘孝三郎らはその一種中間的な形象とみなしている。その基準は何かといえば、明治的な伝統的国家主義からの超越・飛翔の水準がその一つであり、もう一つは、伝統破壊の原動力としての、カリスマ的能力の大小ということである。(前掲「諸相」p.156)
これが当該論文のひとつの結論である。橋川は、これらの人物のうち特に朝日、井上、北、橘らのパーソナリティーについて分析を加えたうえで、超国家主義を「現状のトータルな変革をめざした革命運動であった」(p.159)と捉え*8、「いわゆる超国家主義の中には、たんに国家主義の極端形態というばかりでなく、むしろなんらかの形で、現実の国家を超越した価値を追求するという形態が含まれている」(同p.199)と概括することになるのだが、たとえば朝日のパーソナリティーにかんしては、ラスウェルの言説などをもとに「父親憎悪」といった動機を見いだしていく。
もっともこれだけでは、在り来りな(そして、ややうさん臭い)俗流の心理学的解釈にとどまるといえるだろう。しかし、ここで橋川は、これにつづけて、
しかし朝日の行動がどのような深層心理的動機にもとづいたものであったにせよ、そのことと「死の叫び声」(朝日の遺書を指す―引用者)に表現された思想とは直接関係はなさそうである。彼がいかにいかがわしい人間であったにせよ、「死の叫び声」がその後の日本超国家主義の歴史に「もっとも早い先駆」としての地位を占めることは疑いえないはずである。(同前p.151)
と記しているのであって、橋川の史学者としての眼は、この様な記述からもうかがい知ることが出来る。ただ、そのことに自覚的でありながら、橋川のこの論文は、朝日や井上の思想を政治思想史の流れのなかに位置づけることに成功しているとは必ずしもいえない。
こういった「限界」については、杉田俊介氏が次のように評している。
けれども「諸相」論文の段階では、橋川の超国家主義論が十分うまくいったとはいえなかった。(略)「諸相」論文での橋川は、問題をあまりにも心理主義的にとらえ過ぎ、それを精神病理学的な問題、あるいは同時代の青年たちの実存的煩悶の問題として片付けてしまったのであり、その結果として、超国家主義の「思想」をも疑似カリスマたちの特異なメンタリティの次元に回収してしまうのである。あたかも、橋川自身の丸山眞男というカリスマへの心酔の根深さ(そしてその批判の重要性)を逆説的に示すかのように。
それは次のような致命的なアポリアを告げてもいるだろう――近代日本においては、近代的天皇(国体)以外に人民統合のリソースを創出しえなかったのであり、その裏面として、ファシズムが「下」からの大衆運動として広範に展開することすらなく(右翼的思想集団が軍部や官僚となし崩しに野合する、というパターンに収束してしまう)、あとは、疑似カリスマたちの人格性に依拠したそれ自体が疑似的な革命を夢見ることしかできなかった、と。(『橋川文三とその浪曼』河出書房新社:151-52)
この指摘は、同著pp.238-39でも言葉を変えてなされているが、杉田氏は、橋川のこの様な限界は、思想的な成熟を経て、『昭和維新試論』である程度は克服されたとみている。
それでも、「昭和超国家主義の諸相」の問題提起がきわめて斬新なものであったということに変りはないだろうし、後世に与えた影響も大きかったようである。
たとえば、『昭和ナショナリズムの諸相』の編者である筒井清忠氏は、筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(上)』(ちくま新書2022)の第1講「丸山眞男と橋川文三―昭和超国家主義論の転換」*9で、『日本浪曼派批判序説』「乃木伝説の思想」「小泉三申論」と併せてこの「諸相」をも取り上げており、「こうして橋川は超国家主義の再検討を通して丸山的な近代主義的研究視角をブレイクスルーしたが、その影響は大きく、これ以降の超国家主義研究は評者も含めて(『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館、二〇一四)橋川に大きく負うことになったのであった」(pp.29-30)と書いている。
さらに筒井氏は、近著『天皇・コロナ・ポピュリズム――昭和史から見る現代日本』(ちくま新書2022)の「第8章「大正デモクラシー」から「昭和軍国主義へ」」でも橋川の研究に言及しており、「筆者の視点も基本的にはほぼこの延長線上にある。明治の伝統的な国家主義は、大正期を経て昭和になると明確に変質した新しいナショナリズムになったという視角を保持しておかないと、昭和の超国家主義は理解できないと思われる」(p.141)と述べ、「昭和初期の超国家主義運動の担い手の実態を知るためにはむしろ第二世代の人々のほうが研究対象として重要だ」(p.147)という観点から、橋川が「中間的な形象」と看做した井上・橘らを、北も含めて「超国家主義の第一世代」と位置づけ直している。
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橋川の『ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫)も、今のところ新本で入手可能のようだ。『ナショナリズム』は、村上一郎(1975年に自刃)の慫慂によって書かれたものであるが、橋川自身は「敗退の記録」「中途半端な記述におわった」と述べ、失敗作と看做している。それにもかかわらず、橋川の著作のなかでも、これは格段に読みやすい本に仕上がっているとおもう。
ところで、橋川と村上とは、しばしば対蹠的な人物として比較される。たとえば竹内洋氏は、村上一郎『岩波茂雄と出版文化―近代日本の教養主義』(講談社学術文庫2013)の「学術文庫版イントロ 村上一郎と『岩波茂雄』」で、
わたしは、そのころ(1960年代初頭―引用者)傾倒していた橋川文三(政治思想史家、一九二二~八三)から社会科学的なものを引き算したのが村上一郎で、村上はそのぶん情念の炎の温度が格段に高いが、逆に橋川文三の文体と論理は冷たく燃えているなどと思ったものである。そんなわけで当時のわたしは必ずしも村上の著作の熱心な読者とはいいがたかった。(p.8)
と述懐しているし、渡辺京二氏は、村上一郎『幕末―非命の維新者』(中公文庫2017)の「解説 草莽の哀れ」で、
しかし村上さんは、のちには三島割腹事件にただならぬ共感を示したお方であり、この文庫本に収録されている対談を読んでもわかるのように(ママ)、国学的ナショナリズムの権化とでも言うべき保田與重郎と、最後までコミットした人であった。橋川文三さんは戦時中は熱烈な保田信者であった人だが、戦後は『日本浪曼派批判序説』を著わして、己れの内なる政治的ロマン主義を克服した。彼は村上の著作集の解説の中でも、村上の保田への傾倒にふれ、「要するに私は日本ロマン派=保田與重郎とは、どういったらいいか、ともかく切れていたいのである」と書いている。
私はそういう村上さんの右翼に通じかねない国学的ナショナリストの姿勢、おなじく武断に通じかねない東国ますらお振りを一貫して敬遠していて、これまでその系統の著書も読んで来ていない。この『幕末』も依頼を受けたときまだ読んでいなかった。ためらいはそういう事情から生じた。この人の熱い、あるいは熱すぎる心にシンクロできる自信がなかったのである。(p.292)
と述べている*10。
*1:それに触発されて、森鷗外「興津弥五右衛門」を読んだのだった。ちなみに鷗外の方は、今年「歿後100年」を迎えた。
*2:竹内・佐藤編著は、まともな学問対象としては見なされてこなかった「蓑田胸喜」について考察している。
*3:単なる依怙地にすぎないが、ネット古書肆ではなく足で見つけたかったのだ。
*4:宮嶋氏には『三島由紀夫と橋川文三』という著作もある。同書が2005年に出ており、2011年に新装復刊されたということは、そこから遡及する形で知った。
*5:この『昭和ナショナリズムの諸相』は、今年五月に名古屋大学出版会の「リ・アーカイヴ叢書」の一冊として復刊されており、新本としての入手も容易になった。
*6:初出:『現代の発見』第二巻、春秋社1959。『橋川文三著作集5』に収む。
*7:「丸山は、一九六一年十月から六三年四月まで、東京大学から、米国、カナダ、イギリス、スウェーデン、スペイン、フランスへの出張を命じられる。この丸山の不在中に、吉本隆明の「丸山真男論」が、一九六二年から六三年にかけて発表された。丸山のスランプ発言は、一九五八年のことだが、それが、表現媒体に如実に表出してくるのは、一九六〇年代の前半で、外遊で不在だったこともあり、顕著に書かれたものが減少している。そして、スランプに陥った丸山と入れ替わるようにして橋川の活躍が始まる。/このあたりを境にして、橋川と丸山との明確な思想的な訣別が加速する」(宮嶋前掲p.136)。ただし、宮嶋氏が次のように書いていることにも注意。「(橋川は)丸山の鬼っ子ではあったが、しかし、本来、思想の継承とは、批判的に乗り越えていくものだとすれば、丸山シューレの面々よりも橋川のほうが、本当の意味での、丸山の思想的継承者であったといえるかもしれない」(同p.143)。もっとも、橋川はたとえば『昭和維新試論』で、丸山の「個人析出のさまざまなパターン――近代日本をケースとして」による分析を好意的に取り上げるなどしており(講談社学術文庫版pp.109-19)、もちろん、そのすべてに対して批判的であったわけではない。
*8:ただし、橋川は「もちろん、ここで「革命」というのは、価値判断なしにいわれて」いる(p.159)とつけくわえている。
*9:「近現代史ブックレビュー【第8回】橋川文三の学問・思想の全体像を明らかにした書」『Wedge infinity』2021.10.15付をもとにした文章だという。
*10:ちなみに渡辺氏は、橋川文三『ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫2015)の「解説 抑制と暗い炎」で、橋川の文体について、「端正・温和で、論述のしかたも、扱う問題について客観的に広く展望・紹介するといった風でありながら、その底には苛烈で、時とすればほとんど魔的と形容したい断定が匿されていた。彼の抑制された外面の蔭には、歴史つまり人びとの生きて来た事実の亀裂にのぞく深淵を見てしまった者の、暗い炎が激しく燃えさかっていたのである」(pp.248-49)と評している。竹内氏の「冷たく燃えている」という評言と響き合うようで、興味ふかい。