泉鏡花「酸漿」をめぐる思い出など

 泉鏡花に「酸漿(ほおずき)」という作品があるのを知ったのは、いまから21~22年前のことで、或る文学研究者の方*1に教えていただいたのである。必ずしも鏡花についての話が主眼ではなかったものの、とりわけ印象に残ったのが、「酸漿」に関する話柄なのだった。
 その後、「酸漿」のことがずっと気にかかりつつも、作品自体には触れられぬまま、時だけが過ぎていった。
 どうもそれまで文庫本には入ったことがないらしいと知るに至り、当該作品をおさめた全集本の端本がないか、ほうぼうの古書肆を探し廻ったが、これがなかなか見つからない。一括で売りに出されている鏡花全集や、別の巻の端本は、むろん何度となく見かけた。揃いの鏡花全集は、懐具合からして入手することかなわず、幾度も断念していた。個人全集の値崩れは、置き場所に困ると云った日本の住宅事情も与ってか、それは酷いもので、なかには投売り状態のものもあったが、鏡花全集などはやはりそれなりの需要があるらしく、数万円は下らなかった。
 図書館で借りればそれですむ話ではないか――と、きっとそう思われることだろう。しかしこちらも半ば意地で、どうでも自分で手に入れて読みたかったのである。
 するうち、澁澤龍彦が「鏡花の魅力」(中央公論社版「日本の文学」第四巻〈尾崎紅葉泉鏡花〉付録、1969.1)で、三島由紀夫に対して次の様に語っているのを目にして、もう殆どこれは筋を言ってしまっている訣だが、それでもますます読みたくなった。

澁澤 (略)鏡花は病気(について)だって書いていますね。この当時肺病はものすごく恐かったですもんね。気持悪いのは「酸漿」という小説。芸者が病院に見舞いに行った帰りの電車の中で、汚ない婆がホオズキをグチャグチャやっていたんで、慌てて降りる。それからそば屋へ入って、天ぷらそばを一口スッと吸ったら、ホオズキがその中に入っていたという幻覚を見て、呑んじゃったつもりになって、家へ帰って来てからガーッと吐くんです。それ喀血なんです。それで喀血するたんびに、ああホオズキが出た、ああいい気持と言いながら……。
三島 ああ恐い(笑)。
澁澤龍彦三島由紀夫おぼえがき』中公文庫1986*2:175-76)

 またその後、嵐山光三郎(昨年11月に亡くなった)による以下の文章を読んで、いっそう「酸漿」のことが気にかかるようになった。

 鏡花の小説に『酸漿(ほおずき)』という作品がある。芸者が病院へ見舞いに行った帰りの電車のなかで、汚い老婆(ろうば)に会う。その老婆がホオズキをぐちゃぐちゃかんでいるのを見て、気味が悪くなって電車を降り、蕎麦(そば)屋へ入って天ぷら蕎麦を一口すすると、蕎麦のなかにホオズキが入っている幻覚に襲われる。ホオズキを呑(の)みこんだ気になって、家へ帰って吐くのである。それは、じつは喀血(かっけつ)であり、喀血するたびに、ああホオズキが出たと思うようになる。
 これを「狂想」と見るか「美しき奇想」と見るかは人によりけりだが、鏡花は、喀血する人を見て「ホオズキだ」と想像したのではなく、ホオズキを見て、そこに喀血を想像したはずである。鏡花の病理は、日常のささいな事物に恐怖世界をかいま見る。そこには鮮烈に噴射する死の影がある。口にするものへの恐怖は、日常の現象を、まるで違う冥界(めいかい)へ引きずりこむ。
(「泉鏡花――ホオズキ」『文人悪食〈ぶんじんあくじき〉』新潮文庫2000*3←マガジンハウス1997:103-04)

 嵐山も書いているのだが、鏡花の極度の潔癖症は有名な話である。「酸漿」もまた異界を描いた小説であると同時に、鏡花のそういった性格が色濃く反映された小説でもあることが、このくだりからもよく知られる。
 嵐山の文章に触れてから、たしか3~4年経った頃であったか、国書刊行会から澁澤龍彦がかつて選び抜いた鏡花の作品群が四冊本に編まれて刊行されるということを、或る記事で知った。選集は、どうやら「鏡花没後80年記念出版」と銘打たれて出るらしかった。
 当該の記事は、具体的な収録作品にまでは言及していなかったのだが、あるいは「酸漿」も選ばれているのではないか、という期待は大いに高まったことだった。
 そして2019年の秋。近くの本屋で、函入りの瀟洒な『澁澤龍彦 泉鏡花セレクション1 龍蜂集』(国書刊行会)を手に取ったときの悦びは今でも忘れられない。
 函から出すのももどかしい思いで抜き取って、さっそく目次を確認してみると、果して「酸漿」は、「山吹」「星あかり」「清心庵」につづく4番目の作品として収録されていたのだった。
 それをいそいそと入手して帰って来るなり、恰も渇を癒すかの如く、その日のうちに「酸漿」を二読三読し、大いに満足したのである*4
 4年後の2023年には、東雅夫氏編になる「文豪怪異小品シリーズ」の第十二弾として、『龍潭譚(りゅうたんだん)/白鬼女物語―鏡花怪異小品集』(平凡社ライブラリー)が刊行された。当該のシリーズに鏡花が択ばれるのはこれで二度目(一冊目はシリーズ第一弾の『おばけずき―鏡花怪異小品集』)であったが、『龍潭譚/白鬼女物語』は鏡花生誕150年を記念するかたちで出たのだった。この本の第二部「女怪幻妖譜」の冒頭にも、「酸漿」が収録されている(pp.137-50)。「酸漿」を初めて手軽な形で読めるようにしたという意義は大きい。
 その「編者解説」では東氏も、

 今回の編纂の眼目は二つある。
 一つは、澁澤龍彦鐘愛(ママ)の小傑作「龍潭譚」、そして不朽の名作「高野聖」に結実を見る鏡花の初期習作群――すなわち〈龍潭譚の系譜〉を、史上初めて文庫本サイズで集大成すること。
 いま一つは、鏡花作品を何より特色づける〈幻想と怪奇〉の物語を、膨大な小品群の中から、新たに拾い蒐めること。(p.404)

と書いており、「酸漿」のほかにも、当該の選集によって初めて文庫本サイズで読めるようになった鏡花作品は少なくないので、この一冊は重宝している。
 「龍潭譚」は、澁澤鍾愛の鏡花作品とうたわれるとおり、澁澤龍彦編になるアンソロジー『暗黒のメルヘン』(立風書房1971)の劈頭を飾る作品でもある。『暗黒のメルヘン』は1998年に文庫化(河出文庫)され、しばらく版元品切だったが、昨年新装版として復刊されている。
 礒崎純一氏は、『幻想文学怪人偉人列伝――国書刊行会編集長の回想』(筑摩書房2026)で、「私自身も澁澤の小さな水先案内によって鏡花文学の迷宮へ参入したくちだけれども、私の同世代(礒崎氏は1959年生れ―引用者)のひとたちに鏡花の読書体験について聞くと、異口同音に『暗黒のメルヘン』の書名が出てくる」(p.10)と述べている。礒崎氏よりも一世代下ではあるが、わたしもやはり、『暗黒のメルヘン』によって初めて「龍潭譚」に触れたくちで、爾来、少くとも3度はこの作品を読んでいる。
 澁澤は『暗黒のメルヘン』の「編者後記」で、次の如く書いている。

「龍潭譚」は鏡花の初期(明治二十九年)の短篇であるが、早くも後年の傑作「高野聖」の主題――すなわち、いずことも知れぬ仙境に魔性の美女が住んでいるという、きわめて浪漫主義的な主題――が現われているという点で、とくに私の愛惜する作である。(略)
 私たちが子供の頃にしばしば聞かされた、神隠しという恐怖と魅惑の入り混った俗信(もっとも、今ではこんな俗信も廃れているだろうが)を、浪漫主義文学の永遠の主題である詩的無何有郷に造形した「龍潭譚」は、鏡花の詩精神の最も美しく結晶した小傑作として読まれるべきであろう。(河出文庫版2025:464-65)

 「龍潭譚」は、元号が令和に改まった現在もなお愛されつづけている作品で、2020年10月3日~11月15日には、武藤良子氏の挿絵入りで、「北陸中日新聞」土日版に14回にわたって連載された。翌2021年の6月、うち挿絵9点が描き改められ、箱・表紙・見返し画も武藤氏によって描かれた『龍潭譚』が、金沢の龜鳴屋から刊行されている(限定458部のシリアルナンバー入り。別冊「新聞挿絵集」附き)。
 ところで、『龍蜂集』をはじめとする国書刊行会の「澁澤龍彦 泉鏡花セレクション」の売りは、澁澤が選び抜いた鏡花作品を集成したことに止まらず、山尾悠子氏が解説を書いていること、そして装釘・装画が小村雪岱によるもの、という点にもある。帯には、「美の司祭四人の饗宴」と大書されていて、この惹句は、決して大げさなものではない。
 鏡花と雪岱とのかかわりあいに就いては、東雅夫『怪奇の文芸、妖美な絵画――文豪たちと画家たち』(角川書店2025)の第二章「泉鏡花小村雪岱」(初出は「怪と幽」誌)が参考になる。装釘家としての雪岱の出世作となったのが、まさに鏡花の『日本橋』であったと云い、雪岱の画学校の同級生が「龍潭譚」を暗誦していた挿話なども紹介されている(pp.29-30)。またp.36には、「澁澤龍彦 泉鏡花セレクション」の見返しの挿画がカラー写真で紹介されている。
 『日本橋』といえば、堀江敏幸『定形外郵便』(新潮文庫2025←新潮社2021)の「隠れ身の術」(pp.231-34)も一読忘れがたいものがある。

 (鏡花『日本橋』の―引用者)真上に投げあげる扇の映像はいかにも鮮やかで、舞台や映画の一場面を連想させずにおかない。この小説の装丁で一躍世に知られるようになった雪岱は、すでに高い評価を得ていた舞台美術に加えて、一九三五年、島津保次郎監督『春琴抄 お琴と佐助』で、現地取材にもとづくセットの考案から時代考証のすべてを担当した。平面における空間の把握に長けた雪岱の絵や装丁は、泉鏡花のこうした場面との親近性が高い。舞台装置や映画のセットは「どこまでも俳優の演技を助けるもので、舞台やセットが俳優の演技を押しのけて、観客の前にのさばるべきものではない。それは文字通り背景であるべきだと私は常に考へてゐる」(『日本橋檜物町』平凡社ライブラリー)と雪岱は言う。自身は活字の裏に消えている。消えながらその存在を確実に伝えている。私は消し方そのものにどうしても雪岱の色を観てしまうのだが、鏡花の小説の最後の場面が装丁からきれいに省かれているのは隠れ身の術だろう。(pp.233-34)

 雪岱というと、昨年末、山田俊幸監修/永山多貴子・大平奈緒子・谷口朋子編著『小村雪岱 デザイン大鑑』(国書刊行会)が刊行されたことも特筆すべきであろう。鏡花との関係でいえば、「第一章 雪岱ゑがく―水の風景」*5には鏡花本の装釘や装画がおさめてあるし、また「第三章 雪岱 本づくり」には泉鏡花日本橋』(pp.46-51)などの書物が取りあげられているし(冒頭に永山氏の「鏡花本と雪岱デザイン」を収む)、「論考1」として西川氏の「鏡花と雪岱」も収載している(pp.78-79)。
 監修者の山田氏は、同書の完成を見ることなく一昨年の秋に亡くなったそうだが、「はじめに 雪岱デザイン」では、「雪岱が表舞台に出ることとなった最初の装幀本である泉鏡花の『日本橋』(大正三年)は、いまだ十分な雪岱式とはならず、橋口五葉の春陽堂刊などの影響を強く受けていますが、その後、一気に雪岱式を完成させます」(p.7)と書き遺している。
 なお、上記の「鏡花本と雪岱デザイン」で永山氏は次の如く述べる。

(鏡花は―引用者)古典文学にも裏打ちされた幻想性に富む「譚(ものがたり)」の創造を貫く。そこには日本の気候風土に根ざした水にまつわるモティーフが繰り返し描かれ、鏡花文学の基調をなすとみなされている。とすれば、水性である木版刷りと鏡花作品は、親和性の高い出会いを果たしたと言える。果たして雪岱の手がけた木版装幀は、湿潤豊麗たる鏡花の幻想世界をみごとなまでに具現化することになった。(p.44)

 鏡花作品にみられる「水にまつわるモティーフ」について、はじめて本格に論じたのは種村季弘だとされる。その種村の「水中花変幻」、「水辺の女」などといった鏡花論を歿後に集成したのが、種村季弘『水の迷宮』(国書刊行会2020)である。
 冒頭におさめられた「水中花変幻」(初出は『別冊現代詩手帖 泉鏡花 妖美と幻想の魔術師』思潮社1972)はその代表作と云われるもので、ともすれば失敗作と看做されがちだった鏡花「瓜の涙」の大半を占める山行描写を、「歩を進めるごとに水底世界に退行変容していく」過程だと喝破し、物語末尾で「ついに現在を液状に溶解して大洋的退行の果ての原風景を現像せしめ」た、と論じるくだりが実に小気味よい。

 このように見てくるなら、リアリズムの観点からは破綻をきたしていると思われるこの小品は、歩行の単調な催眠的リズムによって徐々に水中的な入眠状態に陥り、水をくぐって花開く水中花のように、極彩色の絵草子的見世場という夢の時間に達する、無意志的想起の巧緻を凝らした記述とさえいえるのではあるまいか。(p.10)

 そしてまた、この『水の迷宮』の造本がすばらしい。装釘、表見返し、裏見返しとも、『鏡花選集』(春陽堂1915)に採用された雪岱のデザイン(『小村雪岱 デザイン大鑑』pp.52-53に収む)をそのまま用いているのである。

*1:当時その方は大学院生だったが、いまではとある大学の教授を務めておられる。アルバイトの働き口の件でもたいへんお世話になった。

*2:手許のは1990年3月30日の5版。

*3:手許のは2014年8月20日の13刷。

*4:旧仮名づかいを採用していることも嬉しかった。

*5:鏡花の「国貞ゑがく」を意識したか。

ラフカディオ・ハーン「平家蟹」のことなど

 昨秋、休みを取って4日間帰省してきた。その折に、熊本市中央区安政町に在る「小泉八雲熊本旧居」を約8年ぶりで訪れた。
 ラフカディオ・ハーン小泉八雲/1850-1904)が旧制の第五高等学校に赴任するため、妻セツと共に熊本に到着したのは明治二十四(1891)年11月19日のこと。その数日後、2人は市内の手取本町34番地に在った赤星晋策宅を借りて住むようになった。翌明治二十五年の11月には、坪井西堀端町に転居することとなるのだが、「熊本旧居」は、手取本町にあった家の「一部を切り取り現在地に移築保存し」たもので、「昭和43年には熊本市有形文化財に指定され、平成7年に解体復原され」たという(パンフレットから)。
 NHK朝ドラ(2025年度後期)の「ばけばけ」効果――なにを隠そう、わたしも録画して缺かさず見ている――もあってか、多くの人たちがひっきりなしに訪れていた。その再訪時に気づいた(前回はうっかり見落としたか)のだが、旧居内には「平家蟹」の標本も2体展示されていた。
 「平家蟹」は、まさにこのタイトルの随筆が、ハーンの『骨董』におさめられている。
 作品集『骨董』(Kotto)がロンドン、ニューヨークのマックミラン社から出版されたのは1902年のことで、9篇の再話体の伝説・怪談集「古い物語」と、11篇の随筆とから成っている。再話小説のほうには「幽霊滝の伝説」「茶わんのなか」「常識」*1など名高い怪談も含まれている。特に前2者はいま読んでも恐ろしい。「茶わんのなか」(平井呈一訳がよく知られており、これは紀田順一郎編『謎の物語』にもおさめられた)については「こわい話、おそろしい話」で以前紹介した。
 「平家蟹」は、その随筆のなかの一篇である。わたしが初めてこれを読んだのは岩波文庫旧版の平井呈一訳で、のちに平川祐弘氏訳(『怪談・骨董』河出文庫2024←『個人完訳 小泉八雲コレクション 骨董・怪談』河出書房新社2014)でも読んだ。
 いま手許に有るのは、昨夏出たばかりの岩波文庫改版(平井の「訳者解説」はそのままに、円城塔氏による「解説」があらたに附されている)であるが、そこから一寸引用して置く。

 ところで、この海岸(壇ノ浦のこと―引用者)でとれる、この奇怪な蟹は、「平家蟹」と呼ばれている。なぜ、そんな名がついたかというのに、この土地の伝説に、この海で溺れて死んだ平家の士卒の亡霊が、こんな形になってあらわれたと言い伝えられているのである。死物狂いのかれらの憤恚苦悶(ふんいくもん)の形相が、この蟹の甲羅に、今もってあらわれているといわれているのである。しかし、この伝説のもつ、ロマンティックなおもしろ味を味わうためには、諸君は、壇の浦合戦の古い錦絵――物すごい鉄の仮面をかぶり、おそろしい大きな目をした鎧武者をかいた、昔の色刷りの錦絵に通じておかなくてはいけない。(p.115)

 この随筆はまさに随筆と云うべく、ハーンが、長州から自宅に届けられた「蟹の箱」を切っ掛けとして気の向くままに記した一篇で、知人に描いてもらったというイラストも相俟って、わたしには愛らしい小品のようにおもえる。だが、「甲殻類恐怖症(ことに蟹が駄目!)」だという春日武彦氏はこの作品について、「個人的な意見」と前置きしつつも、「題材としては面白いのに、エッセイとしては退屈で凡庸だ」と評している。

 一応ここで平家蟹について説明しておくと、学名は Heikeopsis japonica で、シーボルト命名している。甲羅の表面の凹凸が、さながら怒っている人名のように見える。その事実と、瀬戸内海や九州沿岸に多く分布していることから、壇ノ浦の戦いで海に消えた平家の武者たちの霊が蟹の甲羅に浮かび出ているという伝説が生まれ、そこから平家蟹という名称が生まれた。
 個人的な意見を申せば、エッセイ「平家蟹」(略)は、せっかくの題材なのにつまらない。内容に奥行きが欠け、しかも文章が曖昧で分かりにくいのだ。冴えた考察とか、独特の視点といったものもない。(略)
 日本的なグロテスクさ(ハーン自身による作中での表現―引用者)と指摘されても、どうもよく分からない。そこを丁寧に説明しなければエッセイの意味がないと思うのだけれど、そのような作業は行われない。ゴシック建築に備わっている空想の怪物たちの姿を想像してみれば、平家蟹の「顔」は日本的(あるいは日本人的?)なトーンを帯びているような気がしないでもないが、やはり説明不足である。根付とかそういった工芸品には、なるほど造形として平家蟹のセンスに通じたものがある。でもそのあたりはもう少し掘り下げてみるべきではないのか。(略)
 KOTTOにもKWAIDANにも、蛍だの猫だの蝶だの蚊だの蟻だのを扱った博物学誌的なエッセイが収録されているが、そちらは「平家蟹」ほど不明瞭な文章ではない。ただし、やはり面白くない。良いエッセイにあるような豊かさやユニークな省察などがない。きわめて月並みだ。
 率直に申して、ハーンの文章は怪談話こそ面白いがそれ以外は読むのが少々苦痛である。
春日武彦『怪談の真髄―ラフカディオ・ハーンを読みなおす』筑摩書房2026:211-14)

 指摘はいちいちもっともで、反論の餘地はまったくないのだけれど、しかしそれでもなおわたしは、――これも随筆である「天の川叙情(ロマンス)」は別格として――「平家蟹」といった小品も、愛らしくおもえて好きである。
 小泉凡監修『小泉八雲の妖怪図鑑』(三才ブックス2025)という本には、pp.70-71に「平家蟹」が取りあげられており、ハーン自らがスケッチした平家蟹のイラストが*2嘉永六(1853)年刊の狂歌絵本、天明老人編/竜閑齋画『狂歌百物語』の画とともに掲載されている。ちなみに『狂歌百物語』には、「平家蟹を題材にした狂歌が45首」おさめられているという。
 ハーン「平家蟹」の後にも、平家蟹にインスピレーションを受けた作品などがすくなからず世に出ている。
 たとえば、五人づれ『五足の靴』(岩波文庫2007)の一節。著者の「五人づれ」とは、『明星』主宰の与謝野鉄幹(寛)、その同人の北原白秋、平野萬里、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇の五人をさす。『五足の靴』は、五人が明治四十(1907)年7~8月、九州北西部を歴遊した際の詩歌を交えた紀行文で、「東京二六新聞」に29回にわたって掲載された作品*3である。その「赤間が関」に、次の様なくだりが有る(8月8日付)。文中B生とあるのは萬里のこと。

 壇の浦町を過ぎて平家蟹を見た。B生は歩きながら一詩を作る。

 うしなはれたるそのかみの
 栄華や如何に。いたづらに
 歯をくひしばる平家蟹。』
 腕(かひな)の鋏刀(はさみ)、色じろの
 甲良(かふら)に刻む、人の面(おも)、
 無念のおもひ、平家蟹。』
 氏(うぢ)高うして蟹となる
 惨たるものゝ運命を
 咀(のろ―ママ。或は「詛」カ―引用者)はざらむや、平家蟹。』
 源氏の末よ、人間よ、
 わが一族ぞ海に生く。
 今こそしのべ、平家蟹。』
 海にしあれば、人の世の
 うつりかはりを知らずして、
 ひたすら怒る平家蟹。』
 ひとたび立てば、天(あめ)が下
 清盛の世にかへすべき
 未来を想ふ、平家蟹。』(pp.12-13)

 そしてこの4年後、すなわち明治四十四(1911)年の9月に、岡本綺堂の執筆した戯曲が「平家蟹」であった(翌明治四十五年4月、浪花座で初演)。この「戯曲 平家蟹」は、東雅夫編『伝奇ノ匣2 岡本綺堂―妖術伝奇集』(学研M文庫2002)で読むことが出来る(pp.490-518)。官女・玉虫の、源氏に対する恐るべき復讐の念を描いている。鬼気迫る一節を引く。

玉虫 今鳴る鐘は酉(とり)の刻……。平家の方々が見ゆるころじゃ。
(縁に出てあたりを視る。垣のかげより大いなる平家蟹這いいず。)
玉虫 おお、新中納言殿……。こよいも時刻をたがえずに、ようぞまいられた。これへ……これへ……。(檜扇にてさしまねけば、蟹は縁の下へ這い寄る。)余の方々はなんとされた。つねよりも遅いことじゃ。
(上のかたの木かげよりも、おなじく平家蟹あらわる。)
玉虫 おお、能登どのか。今宵は知盛の卿に先を越されましたぞ。(打笑む。)
(左右よりつづいて二三匹、四五匹の蟹あらわれいず。)
玉虫 おお、教盛(のりもり)の卿、行盛の卿……。有盛、経盛、業盛(なりもり)の方々……。みな打揃うて見えられましたの。(縁に腰をかける。)このごろの短か夜とは云いながら、あすの朝まではまだまだ長い。今宵はなにを語って明かしましょうぞ。(蟹にむかって問い、又うなずく。)毎夜毎夜の物語も、つまるところは平家の恨みじゃ。この恨みは一年二年、五年十年語りつづけても、容易に尽きることではあるまい。(蟹を見て、ひとりうなずく。)そうじゃ、そうじゃ。源氏が栄えてあるかぎりは、平家の恨みは消え失せまい。おお、それで思い出した。最前浜辺で宗清にゆき逢い、その物語によるときは、景清は姿をかえて鎌倉にくだり、家重代の痣丸に源氏の血を染めるとのことでござりまするぞ。ほほ、勇ましい覚悟ではござりませぬか。万一、景清が仕損じても、平家一門の呪詛(のろい)によって、源氏のゆくすえも大方は知れて居りまする。(云いかけて、又うなずく。)おお、云うまでもござらぬ。まず当のかたきの義経をほろぼして、次は範頼……次は頼朝……。おお、まだある。頼朝には頼家という小倅があるとやら……これも、助けては置かれぬ奴、勿論呪い殺しまする。その弟(おとと)も……又その子も……その孫も……。二代三代四代の末までも執念く祟って、かりにも源氏の血をひくやからは、男も女も根絶しにして見せましょうぞ。
(云う声はしだいにうわ嗄〈が〉れて、鬢髪〈びんぱつ〉そよぎ、顔色すさまじ、下の方の木かげより以前の雨月忍び出て、息をのんで内の様子を窺う。玉虫はかくとも知らず、更に祭壇のかたを指さす。)(pp.506-07)

 さらにその2年後、即ち大正二(1913)年の9月20~28日には、南方熊楠が「日刊不二」に「平家蟹の話」を連載している。その一部を引く。

 七月十二日の本紙三面堺大浜水族館の記に平家蟹の話があった。この平家蟹という物、所によって名が異(かわ)る。『本草啓蒙』に、「一名島村蟹(摂州)、武文蟹(同上)、清経蟹(豊前長門)、治部少輔蟹(勢州)、長田〈おさだ〉蟹(加州)、鬼蟹、夷〈えびす〉蟹(備前)。摂州、四国、九州にみなあり、小蟹なり。甲大いさ一寸に近し。東国には大いなるものありという。足は細くして長きと短きと雑〈まじ〉りて常の蟹に異なり。甲に眉目口鼻の状〈さま〉宛然として怨悪の態に似たり。後奈良帝享禄四年摂州尼崎合戦の時、島村弾正左右衛門貴則の霊この蟹に化すと言い伝う。しかれども唐土〈もろこし〉にもありて、『蟹譜』に、「背殻〈こうら〉の鬼の状〈かお〉のごときものは、眉目口鼻の分布明白にして、常にこれを宝翫〈めであそ〉ぶ」と言い、野記に鬼面蟹の名あり」と見ゆ。
 平家蟹の学名ドリッペ*4・ヤポニクス、これはシーボルトが日本で初めて見て付けた名だが、種こそ違え、同様な鬼面の蟹は外国にも多い。例せば、英国の仮面蟹(めんがに)は、ドリッペ属でなくコリステス属のもので、容体(かたち)よほど平家蟹と違うが、やはり甲に鬼面相がある。ただし平家蟹ほど厳(いかめ)しくない。(略)
 右様の人間勝手の思い付きで、この蟹の甲紋を西海に全滅した平家の怨霊に擬(よそ)えて平家蟹と名づけたが、地方によって種々の人の怨霊に托(かこつ)けて命名されおるは、上に『本草啓蒙』から引いた通りだ。(略)
 『和漢三才図会』に、元弘の乱に秦武文(はたのたけふみ)兵庫で死んで蟹となったのが、兵庫や明石にあり、俗に武文蟹と言う、大きさ尺に近く螯(はさみ)赤く白紋あり、と見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい。(「平家蟹の話」*5中沢新一責任編集・解題『南方熊楠コレクション2 南方民俗学河出文庫1991所収:143-45)

 なお、伊藤慎吾・飯倉義之・広川英一郎『怪人熊楠、妖怪を語る』(三弥井書店2019)の「熊楠妖怪名彙」pp.105-06にも上記の一部が引かれている。ところで、この『怪人熊楠、妖怪を語る』巻末の「熊楠妖怪関連年表」を参照すると、大正二年9月の項に〈「平家蟹の話」発表 *『日刊不二』連載〉とあって、同年11月の項には〈「平家蟹の話」発表 *『不二』4掲載〉とある(p.117)。後者は別のものではなくて、連載をひとつに纏めたもの、ということなのだろうか。

*1:「常識」は、呉智英氏の『ホントの話―誰も語らなかった現代社会学全十八講』(小学館文庫2003←小学館2001)がとり上げていたと記憶する。20年ほど前、呉氏が大学へ講演に来られた際、ハーン「常識」をめぐる見解について挙手して質疑したことがいまでは懐かしい。

*2:そういえばこの絵は、池田雅之『小泉八雲―今、日本人に伝えたいこと』(平凡社新書2025)のカバー写真にもあしらわれている。

*3:新聞掲載後、長い間埋もれており、戦後になって発掘したのが野田宇太郎であったという。

*4:先に春日氏の文章から引いた属名のHeikeopsis(ヘイケガニ属)は、どうやら近年になってからの呼称であるらしく、また熊楠のいう「ドリッペ」(Dorippidae)は属名ではなく、上位分類の科名(ヘイケガニ科)に当るらしい。

*5:底本は平凡社版『南方熊楠全集 第六巻』。

『詳解漢和大字典』の絵葉書のこと―餘話として


 前回の記事「中野重治『本とつきあう法』をめぐることがら」で、吉川幸次郎『古典を生きる―吉川幸次郎対話集』(角川ソフィア文庫2025←『中国文学雑談 吉川幸次郎対談集』朝日選書1977)から、中野重治(1902-79)の発言中の一節「あるとき漢和辞典の話が出て、服部と言ったか小柳(おやなぎ)と言ったか、そんなような人の漢和辞典にはこうあるじゃないか、と生徒が逆質問したわけですよ」を引き、その「服部と言ったか小柳(おやなぎ)と言ったか、そんなような人の漢和辞典」について、脚注で次の様に書いておいた。

ここには注釈が附いており(文庫版で新たに附されたもの)、「小柳司気太・服部宇之吉『詳解漢和大字典』(一九一六年初版)を指す」(p.107)とある。冨山房から出ていたこの辞書、わたしは昭和四十九年刊の修訂増補版(当用漢字に対応している)を所持しているが、平成の半ば頃まで、大きな新刊書店の漢和辞典のコーナーには必ず置いてあった。後刷りのものは赤と黄色との函入りで目を引いたものだった。

 正確に云うと、手許にあるのは「昭和四十九(1974)年一月五日 修訂増補百十四版」である。修訂増補版は「昭和二十七年九月一日」に初版(初刷)が発行されている(当用漢字は昭和21年11月に内閣告示)。
 奥付に拠れば、『詳解漢和大字典』の初版印刷発行は「大正五(1916)年十二月十八日」であって、上引の中野の回想は県立中学校時代のものであるから、同級生が触れたのはその初版ということになる(初版は大正十五年四月十日に「三百九十八版」まで版を重ねている)。この後「改訂増補版」というものが「昭和二年一月十日」に、「新訂版」が「昭和十一年一月十八日」に、「増補版」が「昭和十五年七月十五日」に、それぞれ発行されている。戦後になって、この増補版の次に出たのが修訂増補版ということになる。
 何年か前に、わたしは雑司ヶ谷の古書肆で、幾つかの出版社の販促用絵葉書をまとめて1,500円で購入しており、そのなかに、小柳司気太・服部宇之吉『詳解漢和大字典』の絵葉書(未使用)もあった。中央に学生服を著て『詳解漢和大字典』を掲げた人物のイラストがあしらわれているのだが、そこに記された文言をみると、「改訂増補」とあるから、昭和2~10年頃に作成されたものと判る。また、「當選標語「學生生活の太陽」」「全國中等學校 千五百餘校の指定辭書」「定價金三圓八十錢 送料 内地三十六錢 領土六十五錢」等ともあって、手数料込みの国内での送料を一律「三十六錢」としているようだ。
 そこで「公共料金の推移」をみてみると、当時の東京-大阪間の小包(800匁~1貫、1貫は約3.75kg)の送料は大正8年4月に改定されて36銭(200匁までは12銭)となり、昭和6年8月にはグラム、キログラム換算となって3~4kgが38銭(500gまでは10銭)となっている*1から、昭和2~6年頃までに絞ることが出来るのではないかとおもう。
 日本漢字学会編『漢字文化事典』(丸善出版2023)の「大漢和辞典」の項(円満字二郎氏執筆)をみると、

 大正時代には、中等教育の機会の増加や教養主義の流行を背景に、大型の漢和辞典が相次いで刊行された。その代表は、服部宇之吉・小柳司氣太(おやなぎ・しげた)『詳解漢和大字典』(1916年)、榮田猛猪(たけお)*2ほか『大字典』(1917年)*3簡野道明(かんの・どうめい)『字源』(1923年)である。一方、「自習辞典」と呼ばれる、現代日本語に重きを置いた初学者向けの漢和辞典も、大阪を中心に数多く出版された(脇坂1956*4)。大正は、昭和後期と並ぶ漢和辞典の黄金時代だったといえる。(p.292)

の如く、『詳解漢和大字典』は中等教育向け漢和辞典の代表格として位置づけられている。さきの葉書でみたように、中等学校で標語を募集するくらいだから、実際に教育現場でもよく使われていたのだろう。
 服部宇之吉が編纂した(あるいは監修者として名前を出した)大正年間の辞書としては、ほかに、大正十四年刊(手許のは昭和二年三月の七版)『大漢和辭典』(春秋書院)と、大正二年刊(手許のは大正四年三月の修訂九版)の小型の『漢和新辭海』とを所有しており、いずれも実用を重んじた初学者向け(ないしは日常遣い)の漢和辞典であったとおもわれる。機会があればこれらについても書いてみたい。
 漢和辞典に関する記事は、これまでに「ふたつの『明解漢和辞典』」「後藤朝太郎の「漢和辞典改革」」などを書いているが、今回は(三省堂の戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』の第五版が刊行されたことにも触発され?)餘話として、『詳解漢和大字典』についてのメモを残しておくこととした。

*1:手許の修訂増補版の重さが大体1.3kgで、紙の質などを考えると、昭和初期の改訂増補版も同じくらいの重さ、即ち1.3kg=約346匁であったろう。

*2:なお紀田順一郎編『「大漢和辞典」を読む』(大修館書店1986)の第三部「『大漢和辞典』を引く」「漢和辞典の歩み」(彌吉光長筆)には、「猛猪」に「たけい」のルビあり(p.271)。また、「(この辞書は―引用者)上田万年ほかの編集名義だが、実質は東京帝国大学図書館に籍を置いていた栄田猛猪の編纂になるものである」(p.277)との記述がみえる。また今野真二漢和辞典の謎―漢字の小宇宙で遊ぶ』(光文社新書2016)にも「さかいだたけい」の開きルビあり(p.280)。今野著は「山田忠雄から聞いた」として、『大字典』第十三版に基づくリプリント版(ハーバード大学、1942年)が存在することに言及している(p,282)。『大字典』については、円満字二郎漢和辞典に訊け!』(ちくま新書2008)のp.151、pp.195-96も参考になる。同書p.196には、1917年3月15日「万朝報」の出版広告が図版として掲げられている。

*3:さきに述べた絵葉書群のなかには、『大字典』(啓成社、戦後は講談社から刊行)の「昭和新版」のものもある。こちらには「百五十五萬部突破」「中等學校二千餘校指定」「改正定價金三圓五十錢/送料内地三十錢」等とある。ちなみに原田種成『漢文のすゝめ』(新潮選書1992)には、『大字典』の跋文について「かつては(略)出版社の編集員必読の名文とされていた」(p.90)との証言がみえる。

*4:脇坂要太郎『大阪出版六十年のあゆみ』(大阪出版協同組合1956)。

中野重治『本とつきあう法』をめぐることがら

 池谷伊佐夫『書物の達人』(東京書籍2000)は、森銑三『書物と人物』からヘレーン・ハンフ編著/江藤淳訳『チャリング・クロス街84番地』に到るまで、戦中期~前世紀末の日本で刊行された「本の本」を網羅した「究極の書物図鑑」(帯より)である。
 この池谷著には、中野重治の『本とつきあう法』(筑摩書房1975)も取り上げられている。『本とつきあう法』については、かつて辻井喬が『深夜の読書』(新潮文庫1987 ←新潮社1982)*1で次の如く評していた。

 ただひとつ、中野重治氏のこの本で明らかなのは、どんな本に接する際も、氏は自分の姿勢を決して崩していないということである。氏は、(この本に書かれてあることは信じなければいけないのだ)と、自分以外の者を、主人、命令者、神に仕立てて読む、ということを一度もしなかったらしいのだ。*2新潮文庫1987:65-66)

 一方、池谷著は『本とつきあう法』に関して次の様に記す。

 表題作は『週刊読書人』に三カ月にわたって連載された、自身と書物にかかわるエッセイ。その他も「わが文学自伝」「私の読書遍歴」「岩波文庫と私」「ある古本の運命」「忘れえぬ書物」など気楽に読める書物随筆と、幸徳秋水共産党員時代の回想「『戦後日本の思想』を読む」などプロレタリア文学者としての顔がうかがえる書評集からなる構成。だいぶ前、夫人で女優の原泉さんと一緒にいるところをテレビで拝見して「あっ」と声を出してしまった。原泉という名は、私が小学校の頃親しんだ東映映画『月光仮面』に出てくるどくろ仮面の手下“バテレンのおよし”として記憶していたからだ。硬骨の文学者と、海千山千の悪女(もちろん役の上だが)の取り合わせの妙におもわず嬉しくなってしまったことを覚えている。
 本書は古本市でよく見かける。古書価も千円以内。絶版になったちくま文庫版を探すより簡単。(p.124)

 原泉*3といえば、寺山修司田園に死す』(1974,ATG)や伊丹十三タンポポ』(1985,東宝)などでの怪演が忘れ難い(むろんリアルタイムで観た訣ではない)が、松下裕『[増訂]評伝中野重治』(平凡社ライブラリー2011←旧版筑摩書房1988)は、中野と結婚するまでのかの女の半生について次のように述べている。

 原泉子(せんこ、原泉の戦前の名―引用者)は本名政野(まさの)、島根県松江の人。一九〇五年、明治三十八年二月十一日生まれで、重治より三つ年下だった。小学校五年生の十のとき母を失い、高等科にも行けず尋常小学校卒業だけで奉公に出なければならなかった。重治は、妻の幼いころのことや娘時代のことを聞き書きで、「橋」「ヒサとマツ」「ハクスヴァナ・ミシン」などの小説に書いている。原さんは、「ヒサとマツ」の主人公の言葉を、「中野さんは福井弁に直してしまって……」と言っていたが。十五の年に思いきって単身上京し、書家の女書生、デパートのマネキンガール、画家のモデル、筆耕など、さまざまな仕事をしながら身を養ってきたが、重治と結婚した当時は左翼劇場の女優となっていた。研究生の同僚に松本克平がいた。モデルは結婚までつづけていたそうだ。(pp.173-74)

 なお、この引用部の直後に出てくる松下氏の証言に拠ると、原泉は若い頃に、タクシーの運転手になろうとしたこともあったという。
 ところで池谷氏は、さきに挙げた引用末尾で、単行本版の『本とつきあう法』について「本書は古本市でよく見かける。古書価も千円以内。絶版になったちくま文庫版を探すより簡単」と書いていたが、これは本当にその通りで、実はわたしも十数年前にその単行本を関西の古書市で入手している(500円)。この本とあたかも対を成すかのような装釘の中野重治『日本語 実用の面』(筑摩書房1976)も、大阪の古書肆の店頭で購ったのだが(この本は「中野重治のことば談義」で取り上げたことがある)、ちくま文庫版『本とつきあう法』の方はなかなか見つけられなかった。
 しかし七、八年ほど前、出張先の長崎県でふらりと立寄った古書店にて、件の中野重治『本とつきあう法』(ちくま文庫1987)300円を入手することがかなったのである。もちろん、ネット書店を利用すればこんな苦労はせずに済むのだが、それでは足で探す愉しみを奪われるようでもあり、なんとも味気ない。探書リストを片手に、あれが見つかった、これは今日も見つからなかった、などと一喜一憂する行為を含めてこその古書肆行脚だとおもうのである(そしてその過程には、たくさんの未知の書物との邂逅も用意されているのだから)。
 その『本とつきあう法』だが(以下すべてちくま文庫版からの引用による)、たとえば、

 さて私は高等学校へはいった。(略)この高等学校に私は五年いた。二度落第したのだった。私はかわくように小説類を読んだ。私は日本の現代作家を手あたり次第に読んだ。最初佐藤春夫を全部読んだ。室生犀星千家元麿の詩を読んだ。あるときドストエフスキーの『罪と罰』を買って来て朝から晩までぶっつづけに読み、『罪と罰』が終ると『カラマーゾフの兄弟』を買って来てまたぶっつづけに読んだ。(「わが文学自伝」p.23)

 (高等学校の)ある日私は『カラマーゾフの兄弟』を買ってきて読みはじめた。そして飯を食って読み、あくる日起きて読み、朝めしを食って読み、昼めしを食って読み、こうして新潮社の三冊本を読み終えるとその足で『罪と罰』を買ってきて同じ手順で読み、それがすむとまたその足で『賭博者』を買ってきて読んだ。そういうなかで室生犀星の『抒情小曲集』を読んだのであった。
 それは実に不思議な本であった。本というよりも一種の函のようなものであった。絵とか、序文とか、覚え書とかいうものがいっぱいに詰まっていて、作者はこの本をつくるために馬鹿のように一心になり、読んでいるものにその神聖な馬鹿さがそのまま乗りうつってくる種類のものであった。(「日本詩歌の思い出」p.35)

という記述にいきなり逢著して、おやと思わされる。前者はドストエフスキーの作品を『罪と罰』から、後者は『カラマーゾフの兄弟』から読み始めたことになっているからだ(前掲の松下著は、このうち前者の一節を引いている。pp.74-75)。これはあるいは、中野が、自分自身の思い違いや誤解をあえてそのままにしていることに因るのかも知れない。と云うのは、『本とつきあう法』の文庫版解説(「中野さんの「遍歴」」)で、中野の未発表書簡集(特に原泉とのやり取りを多く含む。後に中公文庫に入った)の編纂に携わった澤地久枝氏が、以下の如く述べているからだ。

 そこでのわたしの感嘆のひとつは、原稿の初出時の間違いを、再度の全集編纂のときにも、もとの間違いのままにおかれていたことであった。ふつうは、誤りに気づいた時点で、機会を待って訂正をするところである。ましてや全集であるなら、新しく活字を組むのであり、直すことはほとんど思いのままであるにもかかわらずなのだ。
 それはこの『本とつきあう法』を例にとっても、よくわかることで、筑摩書房版『中野重治全集』第二十五巻の「著者うしろ書」を見ていただきたい。
「日本詩歌の思い出」という文章に、
「しかも私は与謝野晶子の『歌の作りやう』という本を春陽堂へ注文するほどにも全く無邪気であった」
 とある。「それは春陽堂でなくて金尾文淵堂だった」というのが「うしろ書」である。中野さんはちょっと朱文字を入れて直すという小ざかしさはとらない。間違えたそのことを大切にするきびしさが中野さんの文学者としての資質の根底にあった。(pp.301-02)

 先に引いた中野の二つの文章には、ドストエフスキーのほか、室生犀星の名も共通して出て来る*4。中野にはまさに『室生犀星』(筑摩叢書1968)という著作もあるくらい犀星文学に入れ込んでいた様であるが、『本とつきあう法』には、「忘れえぬ書物――室生犀星『愛の詩集』――」(pp.121-29)や「室生犀星ベスト・スリー」(pp.184-86)といった文章がおさめてあるし、その他の文章にも犀星の名がしばしば出て来る。それらに拠るならば、犀星の小説よりも、詩にとりわけ感銘を受けたらしい。
 「忘れえぬ書物」では六つの犀星の詩作品を全文引用しており、福永武彦編『室生犀星詩集』(新潮文庫1968)や、室生犀星『抒情小曲集|愛の詩集』*5講談社文芸文庫1995)で犀星の詩に昵んだわたしにとって、ことに「永遠にやつて来ない女性」が引用されているの(pp.126-28)は嬉しかった。ちなみに、ここで中野は「故郷にて冬を送る」も紹介しているのだが、冒頭部の引用が「ある日とうどう冬が来た」となっている(p.124)。しかしこれは、たとえばいま文芸文庫版『愛の詩集』を見てみると、「ある日たうとう冬が来た」(p.140)である。「とうとう」の3拍目が濁るのはよくあることだが、旧かなで書くのなら「たうどう」となるのではないか。こちらもあるいは、「間違えたそのことを大切にするきびしさ」という中野の態度に因るものか。初出の形も含めて気になる所ではある。
 ちなみに伊藤信吉は、中野から犀星の『抒情小曲集』を譲り受けたことがあるのだそうで、以下の様に回想している。

 年月の経過よりも、ページを繰った度数や持ち運びがはげしかったため、表紙の厚紙がばらばらになったのに室生犀星の『抒情小曲集』がある。一九一八年九月刊。六十年前だ。トジはしっかりしているものの表紙、背がばらばらだから、形として解体してしまった本ということになる。これを大事にしているのは、一九三一年三月二十二日に中野重治からもらったものだからで、見返しのところに鉛筆書きの小さい字で、
「昔初版をもちしが売りき其後二版を求めこの○○を見てとりかへたり 一九二三年九月二日 中なる印どもは我の加えしものならず 重治」
と、中野氏の覚え書が誌されている。○○二字は読めない。ところでこの愛誦詩集を、どういう訳か私から山本健吉君におくった。そのころの交友では山本君といわないで、日常的には石橋君と呼んでいたらしい。表紙裏に「石橋君に 梅もいで葉裏にくもるつゆの空 三六年九月信吉」と私のペン書きがある。そして再度、ところがということになるが、これは僕が持っているよりも、君に返した方がよいということで、ふたたび私の手へ戻って来た。私が最初に手にしたときから数えて五十年近くになる。
 私は室生さんの詩について、一度はしっかりとした文章を書きたいと思う。中野さんの詩についてもそうだ。『抒情小曲集』を出発点として『愛の詩集』に踏み入った室生さんと、やはりその系列において抒情詩からプロレタリア詩に踏み入った中野さんと、そこに抒情性と思想性のかかわりが、私にとっての私的な、また史的な問題として浮かんでくる。そのことを書きたいと思う。書けるか。どうやら私の姿勢はおたおただ。(「詩集の傷み」*6日本近代文学館編『本の置き場所―作家のエッセイ1』小学館1997所収:92-94)

 そのほかわたしの関心分野からすれば、『本とつきあう法』の、たとえば「ある古本の運命」(pp.67-76)、「旧刊案内」(pp.102-20)、「『万葉集』のこのへんのところ」(pp.167-71)等が特に印象に残っている。「もういちど古本の作法」(pp.92-94)で紹介された服部宇之吉『北京籠城日記』は後に平凡社東洋文庫に入ったが、現在もなお探書中である。「岩波文庫と私」(pp.59-61)は、特に文庫好きに薦めたい名文。末尾は涙なしに読めない――と云うのは大げさではないので、実際に解説で澤地久枝氏も、「涙を誘われる」(p.304)云々と書いている。
 それから、「二つの『詩概説』」(pp.270-77)は『宋詩概説』『元明詩概説』について書かれたもの。いずれも元は岩波の新書判の「中国詩人選集(第一、二集)」に別巻の扱いで入っていたもので、これらは後に『唐詩概説』*7と共に岩波文庫に入った。すべて吉川幸次郎の手になる概説書であるが、中野はその餘話として次の如く書く。

 吉川幸次郎その人における人生を垣間見たなどといえば不謹慎である。しかし私はこの人を、度合は別として知っていた。会ったことがある。話をしたことがある。酔って勝手放題を並べたこともある。いつか私は上海で『西清古鑑』の古本を買った。表紙に字が書いてある。民国三十三年の冬、梓江(しこう)という人がこれを友達の詠菁(えいせい)兄に贈った。そのことを梓江自身記念のために書いたものである。ところで、ぼんやりそのへんのこととはわかりながら私に読めぬところがある。読めぬところがあるというのがすでに烏滸がましいが、そこであるときそれを私が吉川にきいた。吉川にだけではない。吉川幸次郎貝塚茂樹、学者ふたりを並べておいてきいたのである。むろん酒を飲んでいた。吉川が一ばん酔っていたかも知れない。それから話が『杜甫私記』のことになった。むしろ『杜甫私記』第一巻のことになった。吉川は、『杜甫私記』第一巻を一九五〇年に出した。そしていまだに第二巻を出していない。それは怠慢というものではないか。吉川の言うのに、それが書けないのだ。第三巻は書けている。第二巻が書けぬのだ。どうしてもつながらぬのだ。よし、それならば第三巻を出せ。出してしまえ。そうすれば第二巻が書ける。よし、それならば第三巻を出すぞ。それくらいのことがあって、そこで心安そうに垣間見うんぬんと書いたのである。(pp.271-72)

 中野の名調子がよく表れた一節である。これは初出が『図書』1963年9月号なのだそうだが、その約5年後に、中野と吉川とは対談を行っている。吉川幸次郎『古典を生きる―吉川幸次郎対話集』(角川ソフィア文庫2025←『中国文学雑談 吉川幸次郎対談集』朝日選書1977)*8におさめられた「中国文学雑談」というのがそれで、そこで中野は、「戊申詔書」、『西国立志編』、『論語』、杜甫プーシキン、釐金税、『大唐西域記』等々について縦横に語っている。荻生徂徠をもっと評価すべしという点で両者が一致しているのも興味ふかい。この対談はどこを採っても面白いのだが、一例として、県立福井中学校時代の回想の一部を引いておく。

中野 ぼくもそう思いますよ。それで、また高等学校のときにかえるけれども、その前に中学で――ぼくたちは中学と高等学校で漢文が教科書にあった以外は、漢学に接したことはないんだから――中学の先生で勝屋という人がいました。漢文を教えていて、忠孝仁義の士なんだけれども、あるとき漢和辞典の話が出て、服部と言ったか小柳(おやなぎ)と言ったか、そんなような人の漢和辞典*9にはこうあるじゃないか、と生徒が逆質問したわけですよ。われわれの先生の解釈とは、だいたい同じだけれども少しニュアンスが違うんですよね。そしたら、「服部あたりがハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」と言ったですよね。それは子供ながらにも二通りにとれましたね。服部文学博士なんてのは偉いだろうけれども、語のほんとの解釈については欠陥があるんだろうという点と、それからそうじゃなくて、逆襲してああいうやり方で吹飛ばしてしまおうとしたんだろうと、両方感じられたですよ、子供ながらに。その人は別に反体制的でもなんでもなくて、忠君愛国の権化のような爺さんでしたがね。(角川ソフィア文庫pp.66-67)

 角川ソフィア文庫版には齋藤希史氏による解説が附いており、特に中野重治についてくわしく書いている。さきに紹介した「二つの『詩概説』」からの引用もある(pp.310-11)。中野と吉川との関係を知る上では、これも必読の文章だとおもう。

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*1:池谷著はさすがと云うべく、この本も紹介している(pp.86-87)。ただ池谷氏は「本書は現在文庫化はされていないようだが、古書店ではよく見かける」(p.87)と書いているが、この時点(2000年)では既に文庫化がなされていた。

*2:初出は「波」昭和55年3月号か。

*3:藝名としての読みは、有職読み的な「はら・せん」。

*4:犀星もドストエフスキーに一時期心酔していたようだ。中野の見るところ、「犀星は彼一個の生活経験に立ってドストエフスキーを読む。書いたものからわかるように、彼はドストエフスキーから痛切に平和を求める側面、痛切に人間を尊重する側面を受けとっています。二つの『愛の詩集』にそれが出ています」(松下裕編『中野重治は語る』平凡社ライブラリー2002:65)。たとえば、犀星の「また自らにも与へられる日」「ドストエフスキイの肖像」といった詩を参照のこと。また、「燭の下に人あり、本を読めり」の「僕は感涙しながら本をよんでゐる/この恐ろしい物語りの中に/世にもやさしい一人の女性がゐて/人をあやめた不幸な男のために/声たかくヨハネ伝をよんで聞かしてゐる」(室生犀星『抒情小曲集|愛の詩集』講談社文芸文庫1995,p.184)という一節も、ソーニャがラスコーリニコフに対して朗読を聞かせる例の印象的な場面をさすのであろう。こういった犀星のドストエフスキーびいきは、森茉莉が犀星の印象について「露西亜の男のような濃い色彩を持っている」「室生犀星はヴォルガの河の色を、身につけている」(「室生犀星という男」『贅沢貧乏』講談社文芸文庫1992所収:264)等と書き残していることと考え併せて、興味ふかいことである。

*5:表題作のほか、『忘春詩集』をおさめる。

*6:初出は館報「日本近代文学館」第49号(1979年5月25日)。

*7:今ではどうなのか知らないが、かつてこの『唐詩概説』は、中国文学を専修すると必ずといっていいほど必読文献の筆頭にあがっていた。

*8:井上靖中野重治桑原武夫石川淳石田英一郎湯川秀樹の6人との対談を収録している。中野はもちろんのことだが、石川淳との対談にも大いに触発されるところがあったので、また機会があれば触れてみたい。

*9:ここには注釈が附いており(文庫版で新たに附されたもの)、「小柳司気太・服部宇之吉『詳解漢和大字典』(一九一六年初版)を指す」(p.107)とある。冨山房から出ていたこの辞書、わたしは昭和四十九年刊の修訂増補版(当用漢字に対応している)を所持しているが、平成の半ば頃まで、大きな新刊書店の漢和辞典のコーナーには必ず置いてあった。後刷りのものは赤と黄色との函入りで目を引いたものだった。

高山樗牛『瀧口入道』のこと

 大学の学部3年生だった頃、さる方に好きな小説はなにかと訊ねられたので、いくつか作品を挙げてゆくなかに、当時入れ込んでいた高山樗牛(1871-1903)の『瀧口入道』の名を出したということがあった。いま考えると、若気の至りのようにも感じられて、いささか気恥ずかしくおもわぬでもない。しかし実際に、筋のおもしろさはさることながら、その美文にすっかり魅せられてしまっていたのである。
 不意にそのことを思い出したのは、『瀧口入道』の名高い冒頭部に、「治承」と「寿永」とが対比される形で出て来るからに他ならない(前回の記事「『西行花伝』餘話」を参照のこと)。
 その冒頭部を引くかたちで、杉本苑子(1925年生れ)はかつて次の様に書いていた。

「廻れば大門(おほもん)の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如く……」
 と『たけくらべ』の冒頭を暗誦する母……。子供のわたしまでが競い合って、
「やがて来(こ)む寿永の秋の哀れ、治承の春の楽みに知る由もなく、六年*1(むとせ)の後に昔の夢を辿りて、直衣(なほし)の袖を絞りし人々には、今宵(こよひ)の観会も中々に忘られぬ思寝(おもひね)の涙なるべし」
 と『滝口入道』の、これまた書き出しの一節を大声でそらんじる日常は、教育方針などというものとは無関係なもっと別のところで、しらずしらず一人ッ子のわたしの内奥(ないおう)に、作家を志向させる何かを植えつけていったのではないかと思う。(「子供のころの読書体験」『読書と私―書下しエッセイ集―』文春文庫1980:124)

 また、杉本よりも一つ上の世代の森銑三(1895年生れ)は、十六歳の頃に識りあった「秋本乃武雄さん」という「明治期の書生という匂のする人」から、「樗牛や、独歩や、蘆花や、漱石や、そうした人々のことを聴」いた(「読んだ書物の思出」、森銑三柴田宵曲『書物』*2岩波文庫1997所収:174-75)といい、その秋本さんに倣うかたちで森は、

独歩の『武蔵野』の全文、漱石の「倫敦塔」の一節、緑雨が『あま蛙』の巻頭に添えている「略歴を掲げよとや」という人を食った自伝、一葉の随筆、樗牛の「平家雑感」の一節、子規の小品の「くだもの」、そうしたものをつぎつぎと読みかつ写した。(同pp.176-77)

と回想している。
 さらに、森よりも少し年長の和辻哲郎(1889年生れ)は以下の如く述べている。

 思想の方面で(徳冨蘆花の―引用者)『思出の記』が与えたほどの感銘を与えたものはほかにはなかった。ちょうどこの頃(満十三歳、すなわち1902年頃―引用者)は高山樗牛が青年の間にもてはやされていて、わたくしたちより少し年上の人たちは、その文章を暗誦したりなどしていたように思う。そういう先輩を持っている級友が、(樗牛の―引用者)『わが袖の記』などを暗誦して聞かせてくれたこともあった。しかしわたくしの兄はそういうことをしなかったし、ほかにそういう雰囲気にふれる機会もなかったので、わたくしは樗牛の文章を愛誦したことはない。当時『太陽』などに載っていた樗牛の文章を少しは読んだように思うが、印象は何も残っていない。(『自叙伝の試み』中公文庫1992←中央公論社1961:376)

 和辻がここで樗牛からことさらに距離をとろうとしている(ようにも読める)のは、浪漫主義的なもの、もしくは樗牛が後年傾いた「日本主義」に対する、和辻の心理的な距離感が、そのままそこに重ねられているからだとみることもできるだろう。しかし、ここで著目したいのは、「わたくしたちより少し年上の人たちは、その文章を暗誦したりなどしていた」という事実の方である。樗牛の美文調には、おもわず暗誦したり書き写してみたくなったりする「魔力」がやはりあるのだ。
 後藤明生「『瀧口入道』異聞」は、そのことが孕む危うさにもさりげなく言及している。すなわち次の如く記す。

『瀧口入道』を最初に読んだのは、いつだったでしょうか。たぶん十六か十七の頃です。もちろん小説として読みこなす力などありません。

「やがて来む寿永の秋の哀れ、治承の春の楽みに知る由もなく、六歳の後に昔の夢を辿りて、直衣の袖を絞りし人々には、今宵の歓会も中々に忘られぬ思寝の涙なるべし」

 なにしろ、この書き出しであります。果して最後まで読み通したかどうかも、怪しいものです。しかし十六か十七だかの時、この小説を少なくとも読んでみたことだけは、事実です。そしてそれは、他ならぬその美文体のためです。これは矛盾ではなくて、小学生の頃、意味よりもまず丸暗記した軍歌と同じ理屈でしょう。(「『瀧口入道』異聞」『首塚の上のアドバルーン講談社文芸文庫1999←講談社1989所収:99-100)

 この「『瀧口入道』異聞」の語り手は、「いま手許に(『瀧口入道』の―引用者)岩波文庫本が二冊あります。昭和二十八年版(第十六刷)と、一九七七年版(第40刷)です。ご覧の通り、古い方の奥付は「昭和」と漢数字、新しい方のは西暦年号と算用数字になっています」(p.98)とも述べているが、わたしが『瀧口入道』に初めて触れたのも岩波文庫本で、後者の改版の方である*3。正確にいうと、改版は「1968年10月16日 第32刷」の時点でなされており、それに伴って解説が高須芳次郎から笹淵友一に変っている。
 その岩波文庫で『瀧口入道』にすっかり魅入られたわたしは、以後、『瀧口入道』を古本屋で見つけるたびに購ってきた。
 それでいま手許には、岩波文庫本をふくめて5種のテクストが有る。岩波文庫以外の文庫本では、まず高山樗牛『瀧口入道』(春陽堂文庫、昭和二十二年四月三十日復刊第一版)。戦後の春陽堂文庫復刊ラインアップの劈頭を飾る本で、解説などはなく、本文のみ。ただし、他の文庫本とは違って、巻頭に「かへるへき梢はあれといかにせん 風をいのちの身にしあなれは」の歌が有る。次に、高山樗牛『瀧口入道』(新潮文庫、昭和三十二年七月三十日三刷*4)。解説は鹽谷贊。それから、高山樗牛『瀧口入道 他五篇』(旺文社文庫、昭和50年11月10日初版発行)。「瀧口入道」のほか、「日本主義」「わがそでの記」「月夜の美感に就いて」「平家雜感」「美的生活を論ず」を収録。解説は長谷川泉で、「代表作品解題」や「年譜」などもおさめている。
 文庫以外では、洋装本*5の『瀧口入道』(春陽堂)を一冊有っている。東京・吉祥寺の古書肆で入手したものだ。大正二年十一月一日十八版(明治二十八年九月二十日発行)、水野年方によるカラー口絵が一葉あり(この絵――中宮の雑仕女・横笛が、嵯峨の往生院の瀧口入道時頼のもとを訪れる一場面――は、モノクロ写真として岩波文庫改版後のカバー表紙にあしらわれている)、春陽堂文庫の巻頭に有る歌も掲げられる。このハードカヴァーの『瀧口入道』には、著者名がない。それは次に述べるように、『瀧口入道』が当初は匿名で発表されており、樗牛の生前にはその事実が明かされることがなかったからなのだが、手持ちの本は、樗牛歿後の大正年間に出た後刷本であるから、巻末の広告には『脚本 瀧口入道』が掲載されており、「故高山樗牛博士原著 姉崎嘲風博士脚色」とあって、一往作者が分る仕儀にはなっている。
 さて「『瀧口入道』異聞」は、旧版岩波文庫の高須芳次郎の解説を所々つまむ形で引用しており、これが多分一番簡潔にまとまっているだろうから、以下間接的に引いておく。

「(……)樗牛は短命で、三十二歳で世を去つたが、文藝評論家としては、目ざましい活動を続け、(……)その本質は詩人的で、才気と情熱とに富み、花やかな文藻に長じてゐた。(……)その最初のものとしては、歴史小説『瀧口入道』がある。それは、明治二十六年の暮、当時、『読売新聞』が(……)坪内逍遙尾崎紅葉幸田露伴三家を選者として、懸賞小説で新作を募つたのに応じたのである。(……)
 今、当時の文壇的情勢を見ると、村上浪六らの伝奇小説や、一時流行した探偵小説の類も大分飽かれて、新しい歴史小説の出現を求める声が高かつた。(……)ところが、樗牛の『瀧口入道』には、以上の如き文壇的臭味がない。(……)当時の彼は二十三歳だつた。(……)その当選が報ぜられて、作品が匿名で発表されると、誰もがこれが帝大文科に在学中の一青年の手に成つたとは思はなかつた。相当有力な大家が創作したものと推定した。が、いよいよこれが白面の一帝大生の手に成つたことを確かめるに及び、驚歎の声を発したのである。(……)その内容は、大体、史実により、それへ若干の詩的空想を加へてゐる。(……)それに、時頼及び横笛の胸中を抒情的に述べたところは、樗牛独自の長所を示して、今も読者の胸を強く打つ。文章は馬琴式にちかく、対句が多い。然しながら、馬琴ほどのマンネリズムに囚はれてはゐない。(……)要するに、抒情的歴史小説として、一新境を開かうとした努力の跡の十分に見える佳作である」(前掲pp.98-99)

 但し、「坪内逍遙尾崎紅葉幸田露伴三家を選者として」というのには諸説あって、旺文社文庫の長谷川泉の解説では、「坪内逍遥、依田学海、尾崎紅葉、高田半峯」(p.203)の4人ということになっているし、新潮文庫の鹽谷贊の解説では、「尾崎紅葉・依田學海・高田半峯・坪内逍遥・外一人*6」(p.93)の5人ということになっている。
 また高須の解説文中には、「その内容は、大体、史実により、それへ若干の詩的空想を加へてゐる」ともあるが、もし『平家物語』などの軍記物語にみえる説話をそのまま「史実」と表現しているのであればやはり問題があるし、「若干の詩的空想」という点も、樗牛による脚色部分をやや低く見積もった表現だという意味で、正確ではなかろうとおもう。たしかに『瀧口入道』は、『平家物語』巻十「横笛」「高野巻」「維盛出家」「熊野参詣」「維盛入水」辺りに材を取ってはいるものの、ドラマティックかつパセティックな展開を重視しつつ、あくまで一個のフィクショナルな近代文学作品として確立されている。
 このことについて、長谷川は次の如く述べる。

 構想の面からいうならば、樗牛の「瀧口入道」は「平家物語」からの歴史離れを企てている。それは次の二点である。(一)斎藤瀧口時頼が中宮の曹司横笛に失恋して懊悩の結果出家したこと。「平家物語」では雑仕横笛の身分をあきたらず思う父の諫めに横笛をあきらめ出家する時頼の心事は、極めて中世武士の単純明快なものであって、樗牛が「瀧口入道」に叙述したような愛恋の苦悶懊悩はない。樗牛はゲーテのウェルテルに比するような恋愛の悲哀の現代版を時頼に構想したのであって、そのために花とうたわれた優男の足助二郎重景を恋敵として登場させることになったのである。(二)維盛主従入水後、瀧口入道を割腹自殺させたこと。「平家物語」では、維盛の入水後に、瀧口入道は武里の入水をおしとどめて後世をとぶらうことをさとしたのであり、自らも回向することで信仰心はゆらいではいない。(p.204)

 「構想の面」だけではない。まず瀧口入道と横笛との邂逅を描いた場面(清盛が催した花見の宴)からして『平家物語』とは異なっており、描写は詳細をきわめている。これはたとえば、東京大学国語研究室蔵本(高野辰之旧蔵本)を底本とした岩波文庫では、

 高野に年ごろ知りたまへる聖あり。三条の斎藤左衛門大夫茂頼(もちより)が子に、斎藤滝口時頼と云ひし者也。もとは小松殿の侍也。十三の年、本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕横笛といふをんなあり。滝口是を最愛す。(「巻第十 横笛」/梶原正昭・山下宏明校
注『平家物語(四)』岩波文庫1999:70)

とのみ描写される所である。その樗牛の脚色に関しては、穴吹陽子(1993)「『平家物語』の横笛説話と高山樗牛の『滝口入道』」(『岡大国文論稿』21号)にくわしい。穴吹氏は、「滝口が自己をはっきり持った人物として登場する」こと(p.71)にも注目し、露伴五重塔』との比較をつうじて、「個人主義*7にまで発展する小説として再生」した(p.75)と結論している。
 序でに云うならば、上引の「横笛」はさらに下の様に続く。

 父是をつたへ聞いて、「世にあらんもののむこ子に成して、出仕なんどをも心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめて」と、あながちにいさめければ、滝口申けるは、「西王母と聞えし人、昔はあッて今はなし。東方朔と云ッし者も名をのみ聞きて目には見ず。老少不定の世の中は、石火の光にことならず。たとひ人長命(ちょうみょう)といへども、七十八十をば過ず。そのうちに身のさかむなる事は、わづかに廿余年也。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をかた時も見て何かせん。思はしき者を見むとすれば、父の命をそむくに似たり。是善知識(ぜんじしき)也。しかじうき世をいとひ、まことの道に入なん」とて、十九のとし、もとゞりきッて、嵯峨の往生院におこなひすましてぞゐたりける。(同上)

 このくだりは『瀧口入道』第九・第十と対応しているが、『瀧口入道』の方は父(左衛門)、時頼とも涙を流しながら応酬しており、特に左衛門などは、「弓矢の上にこそ武士の譽はあれ、兩刀捨てて世を捨てて、悟り顔なる倅を左衞門は持たざるぞ。上氣の沙汰ならば容赦もせん、性根を据ゑて、不所存のほど過つたと言はぬかッ」(第九)、「其方より暇乞ふ迄もなし、人の數にも入らぬ木の端は、勿論親でもなく、子でもなし。其一念の直らぬ閒は、時頼、シヽ七生までの義絶ぞ」(第十)、とまで言い放つ。さきに「ドラマティックな展開」云々と述べたのは、「あながちにいさめ」るくだりを、こういった劇的な台詞に仕立て直しているということもさす。
 語彙や表現の面では、樗牛が『平家物語』等の中世の文献から採り入れて換骨奪胎しようとしたふしもうかがわれるのだが、新潮文庫版の解説を担当した鹽谷贊は、さすがは『幸田露伴』(中公文庫に4冊本として収録されており、一時はかなり入手が困難だった)の著者と云うべく、次の様に書いている。

「瀧口入道」の藝術性は歴史小説の構想の新しさにあるよりも、擬古典的な詞章の美しさに存したのであつて、その詞章の簡潔で律動的な美しさは明治の幽玄體をかたちづくつた。――瀧口入道が秋ふかき深草の里に、横笛のなきがらを埋めた戀塚を訪ふくだりには、幸田露伴詩篇「おかみ樣を弔ふ」の句を少し變へて裁ちいれてゐる。「おかみ樣を弔ふ」には言ふ、「夢は到る菩提樹の蔭 明星額を照す處、魂(たま)は馳す耆闍窟(ぎしやくつ)の中 香煙肘を繞(めぐ)る前。……逢ふ瀬短く 恨は長し片科(かたしな)の流、別れ路(ぢ)つらく 愁は探し澤入(さはいり)のたに。」と。「瀧口入道」に言ふ、「あゝ横笛、花の如き姿今いづこに在る、菩提樹の蔭明星を額を照す邊(ほとり)、耆闍窟の中香烟肘を繞るの前、昔の夢を空(あだ)と見て猶我ありしことを思へるや否(いなや)、逢ひ見しとにはあらなくに、別れ路つらく覺ゆることの我ながら訝しさよ、」(p.97)

 『瀧口入道』第二十三からの引用であるが(読点の位置などに若干の相違が有る)、この例からも判るとおり、樗牛は同時代の擬古文をも積極的に摂取していた訣である。
 さて『瀧口入道』発表前後の樗牛については、2018年6月16日付「福島民報」の「ふくしま人318」に次の如くある。

 明治二十六年、高等中学校(仙台の第二高―引用者)を卒業した樗牛は、東京帝国大学文科大学哲学科に進学する。哲学科の生徒は十九人であった。当時の樗牛の生活を見ると、特に哲学科は「勉学専一の課業」とし、朝七時半から夜九時半まで、食事に帰宿する他は、図書館に籠城しているとある。また、土曜日と日曜日はなるべく運動遠足に心掛け、向島で大学付属のボートを漕いだりしている。
 同二十七年の一月ごろ、国元より縁談の話があった時、樗牛は、大学卒業後なるべく三十歳までは学問に専念したく、結婚という考えは毛頭無いと話したという。
 同年四月、読売新聞懸賞小説に応募した「滝口入道」が入選する。優等賞第二席で、第一席は該当者がなかった。新聞社から金時計の代金五十円をもらい、そのうちの一部を実弟・斎藤良太のために使用した。
 「滝口入道」は作者匿名であったため大きな話題となった。この作品は平家物語に題材を求め、悲恋の物語を流麗な文章で綴(つづ)ったもので、青年子女の心を捉えた。なお、樗牛はこれ以降小説を離れている。(佐久間正明氏)

 その後の樗牛は、国家主義が昂揚するなかで「日本主義」を宣揚したかと思えば、ニーチェの著作、とりわけ『反時代的考察』に心酔して「美的生活を論ず」(『太陽』七巻四号、1901年8月発行)を発表、「本能満足主義」に転じるなどしたが、最晩年(といっても未だ三十代初めである)にも「平家雑感」「平清盛論」を手がけるなど、『平家物語』は樗牛の一大関心事であり続けた。
 ちなみに大津雄一氏は、近松秋江芥川龍之介の証言を引いて樗牛の影響力の大きさに言及しながら、

清盛の残した言葉に彼の不屈の精神を見、そこに時代を進めた個性的な英雄の大きなエネルギーを認めるという主旨の発言は今も繰り返され常識化しているが、それはこの樗牛の発言に始まる。それまでの清盛像は、音戸の瀬戸の掘削事業のために太陽を招き返したという伝説のように、その超人的な力を認めはするものの、頑迷で欲深い女好きの入道というのが一般的であった。それがここで一変したのである。(『『平家物語』の再誕―創られた国民叙事詩NHKブックス2013:83)

と評している。

*1:原文では「六歳」。

*2:この本については富士川英郎が次の様に書いている。「これは森氏と柴田宵曲との合著で、甲乙二篇に分たれ、その甲篇を森氏が執筆されていたのであった。森氏はそこで一般に書物や著述家や出版業にまつわる事柄について、三十五項目にわたって、いろいろ書いておられるが、しかし、これはいわゆる書誌学的な論述ではない。また、この種の書物によく見られるように、ひどく好事的、趣味的であったり、衒学的であったりすることも毛頭ない。その地味で、淡々とした叙述のなかに、いわば読書のモラルといったものが、森氏の永年にわたる読書経験に即して語られているのである」(「森銑三氏のこと」『書物と詩の世界』玉川大学出版部1978:245-46)。

*3:手許のは2001年7月16日第55刷で、「重版再開」直後、たしかその7月のうちに購っている。

*4:昭和三十一年四月二十日発行。

*5:図版などでよく見る『瀧口入道』の元本は通常和装本なので、刊行後、時代が少し下がってから洋装本になったのかも知れないが、そのあたりの経緯はちゃんと調べていない。

*6:名前は明かされていないが、幸田露伴ということでもなさそうだ。露伴が選者だったという説はやや苦しいか。

*7:なお穴吹氏は、これがあくまで「樗牛流個人主義=主我主義」であって、「集団よりも個人の意義を重視するという面を取り入れることはできなかった」と評している。

『西行花伝』餘話

 前回の記事への補足。
 辻邦生が『西行花伝』(新潮文庫2011改版←新潮文庫1999←新潮社1995,以下『花伝』)を書き上げるまでには、幾つもの壁に阻まれて、思うさま筆を進めることができなかったようだ。「なかでも大きな問題として立ちはだかっていたのが、当時の荘園の興亡だった」(「西行をめぐる歳月」『物語の海へ―辻邦生自作を語る』中央公論新社2019所収:325)*1という。続けて辻は、

 西行はもと紀ノ川のほとりの田中荘の領主佐藤義清(のりきよ)である。また弟佐藤仲清と高野山領荒川荘との土地争いは目崎徳衛氏などの研究でクローズアップされている。
 摂関家の大荘園は賦役(ぶえき)を免れていた。その結果、当然、国家に税収が乏しくなる。そこでまたその分だけ中小荘園に田租と夫役(ふえき)の負担がかかってくる。土地争いも起る。現代でいえば大企業が免税特権など優遇措置を受け、零細企業が圧迫されるのに似ている。西行も荘園の在地領主だったから時代の不公正に無関心ではいられなかっただろう。(同前pp.325-26)

と述べている。
 作中では、中小の在地領主たちのこういった窮状が、まずは西行の従兄・佐藤憲康や、「黒菱武者」こと氷見三郎の言をとおして語られる。

「義清、諸国から陣定(じんのさだめ)に訴え出ている相論の数を考えてみるべきだな。荘園と国衙の間で、検田使入勘の権限があるの、不輸不入(租税不払いと検田使拒否)の申し立てをするの、四至牓示(しじぼうじ)を破棄したのと、争っている。氷見三郎の頸城荘も、東大寺荘園からの押妨を受けているというのだ」(「五の帖」pp.173-74)

 氷見三郎の意見では、諸国の在地領主たちの私領を犯すのは、京都朝廷に巣食う摂関家の厖大(ぼうだい)な荘園だというのだ。それに東大寺延暦寺、春日社などの寺社荘園ともども、国衙の田租徴収を免れている。免租の荘園の増大により、当然、国衙の財源は減少する。そこで在地領主たちの零細な領土に検田使が立ち入り、田租の査定をする。人足供与を決定する。(同pp.174-75)

 荘園の通史については、伊藤俊一『荘園―墾田永年私財法から応仁の乱まで』(中公新書2021)が手際よくまとめており、たいへん参考になる。それによれば、十世紀後半に国衙の担い手として頭角を現した在庁官人が中心となり、朝廷による制度変更などを背景として形成されていった地方社会の有力者こそが、そもそも「在地領主」なのであった。その在地領主に、「山野も含めた領域内の開発・経営を一括して(略)任せ、自由に手腕を発揮させ」た荘園を、「領域型荘園」と呼ぶ(p.84)。
 やがて上皇摂関家も領域型荘園を次々に設立してゆき、鳥羽上皇のもとでは「日本の国土の半分強が荘園になった」という(同p.92)。くわえてこの領域型荘園は、「国司使節の立ち入りを拒否できる不入権が刑事権、裁判権にまで拡大して、一種の治外法権的な領域になった」(p.104)。
 こういった領域型荘園が各地に設立されるにあたっては、「既存の私領や公領が入り組んだ領域を荘官に一括して管理させたから、それまでの権益を奪われた領主も多く出る。ある在地領主が荘官の地位を手に入れたのは、たまたま院近臣や平家とのコネクションをつかんだからで、取り立てて能力が高かったからでもない、と「負け組」の在地領主は思ったことだろう。領域型荘園の設立が相次いだ院政~平家政権の時代の地方社会には、そうした嫉妬と怨念が渦巻いており、そのどす黒いエネルギーが源平の争乱を生んだのだ」(p.126)。
 そのような「負け組」の在地領主たちの状況を見聞きしてきた西行は、『花伝』作中で次の様な結論に至る。

「氷見三郎のような領主は、いま諸国にどれ位いるか、到底数え切れない」師は草庵の庭を前にして萩や女郎花が咲くのをじっと見ていた。初秋らしく昼過ぎなのに虫の音がかすかにしていた。「私の出た佐藤の家も同じような領主だ。領主だが、その領地のなかで安心しているわけにゆかない。領地はほとんど摂関家か大寺院か有力貴人の家に寄進されている。だから、領主と言い条、すべて寄進先の摂関家などの荘園の下司なのだ。どうして摂関家や大寺院に寄進したかといえば、大荘園は有力者のものだから、夫役もなく、田租地租も免除される。群小領主の領地だと、国衙から検田使の検注は強化される、夫役は増大する、賦課は強化される、あげくのはては国衙領編入されるという騒ぎなのだ。たしか秋実*2も若いとき甲斐国衙の役人が熊野社領に乱入した事件(できごと)を経験していたな。それも国衙の勘入のすじ書きによったものだ」(略)
「こんな次第だから荘園領主と群小領主のあいだにはたえず争いがある。国衙ともつねに不和がつづく。群小領主は仕方がないから、自衛の強者(つわもの)を集める。下司職(しき)の取得(とりぶん)としての石高(こくだか)をめぐって、荘園主家とたえざるいざこざがある。氷見三郎は大荘園に寄進せず、独りで領地を耕し、国衙の夫役田租に反抗していたから、いずれ表立って争わなければならない状態に追いこまれていた。藤原秀衡殿を棟梁(かしら)にして摂関家に楯をつこうとしたのも、所詮はこのままでは群小領主は潰されてしまうからだ。どうしても群小領主を庇護してくれる棟梁(かしら)が要るのだ。その棟梁(かしら)は領土を保全(たも)ち、夫役田租を軽減する。その代り群小領主たちの奉仕を要求する。つまり棟梁(かしら)は、群小領主の奉仕を要求するが、同時に領主たちの身分、地位、領土は安堵(あんど)してやる。いま諸国の群小領主たちが望んでいるのは、こうした棟梁(かしら)なのだ。かつて氷見三郎が奥州藤原を棟梁(かしら)としようと目論んだようにな」(「十八の帖」pp.672-73)

 ここで辻は、「棟梁」に「かしら」という和訓を宛てているが、当時の「棟梁」が意味するところに就いては、桃崎有一郎『平安王朝と源平武士―力と血統でつかみ取る適者生存』(ちくま新書2024)pp.64-74が詳述している。
 桃崎氏によれば、「棟梁」とは、「ある集団(組織・世界・業界)の最上部付近の地位にあって、制度や権限によらず、輿望(声望)とその裏づけとなる(集団内で)最高レベルの力(実力や血統)によって、集団を望ましい形に束ねて維持する役割を、衆目が一致して期待する人物である」(p.71)。少なくとも、源平合戦の時代の前後には、「武家のトップ」といったニュアンスで用いられる「武家の棟梁」といった表現は存在しなかったのだという(pp.72-73)。
 桃崎著の大きなテーマが、いわゆる武士が、源氏・平氏を長とする武士団の郎等として編成されてゆく過程、ひいては、武士の代表格が「源平」となった過程を追うことにある。その結論としては、「源氏と平氏を武士の代表格として同格に扱い、二つ並べて「源氏平氏」という熟語として使う感覚、つまり「源平」という概念は、平正盛源義親追討を成功させた結果生まれたものと見て、まず間違いない」(pp.297-98)――ということになる。『花伝』にも「源平争乱」といった語が登場するが(p.674)、争乱の内実が「源平の対立」だという感覚は当時から存在していたとみて間違いないようだ。
 桃崎氏はかかる事実を踏まえたうえで*3、学界で主流とされる「治承・寿永の内乱」という術語に疑義を呈している。
 下村周太郎「第2講 治承・寿永の乱」(高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』ちくま新書2020:35-53)によれば、「治承・寿永の乱」なる語を初めて用いたのは、マルクス主義歴史学者の松本新八郎なのだそうで、1949~51年の論文ですでに「治承・寿永の乱」「治承・寿永の内乱」を用いているという。また下村氏は、松本が「治承」を重視した理由についても、「一一八〇年(治承四)三月に園城寺延暦寺興福寺の衆徒(しゅと、僧兵)が連合を図った事態を、先進地帯における人民の革命勢力への結集として重視したから」だ(p.36)、と説く。

 戦後、学界に大きな影響を与えたマルクス主義では、人類社会は不断の階級闘争を通じて奴隷制封建制→資本主義→社会主義共産主義と発展するものと考えられた。松本氏による「治承・寿永の乱」概念の提唱には、古代奴隷制社会から中世封建社会への進歩を示す画期的出来事としてこの戦乱を意義付ける意図があった。「源平合戦」では武力集団たる源氏(頼朝)と平氏(清盛)との間の勢力争いしか意味しない。これに対し、マルクス主義の立場から全社会的な変革のうねりを見出したところに「治承・寿永の乱」は産み落とされたのである。(p.37)

 したがって、マルクス主義歴史学の退潮とともに、「治承・寿永の乱」という用語もやがては消え去る運命にあった筈だが、政治史的研究の進展に伴って争乱の複雑な構造が明らかにされてゆく過程で、旧来の「源平合戦」「源平争乱」がかえって避けられるようになってしまったとおぼしい。
 川合康氏も次の如く述べている。

 たとえば、内乱が勃発した治承四年(一一八〇)段階にかぎってみても、頼朝挙兵につづいて、八月末から九月には信濃国木曾義仲甲斐国甲斐源氏武田信義紀伊国では熊野別当湛増(くまののべっとうたんぞう)らが蜂起している。
 十一月には延暦寺堂衆や園城寺衆徒と連携した近江源氏が、反乱諸勢力を組織して「近江騒動」と呼ばれる事態を引き起こし、美濃国美濃源氏若狭国の有力在庁もこれに同調する動きを見せている。
 さらに十二月から翌治承五年にかけては興福寺衆徒と結んだ河内石川源氏が蜂起し、遠く九州では肥後国菊池隆直豊後国で緒方惟義(これよし)、四国でも土佐国源希義(まれよし)、伊予国では河野通清(こうのみちきよ)を中心とする勢力が叛旗をひるがえしており、内乱は同時多発的形態をとって、またたく間に全国に拡大していったのである。
 この事態を見れば、治承・寿永内乱期の戦争を「源平」棟梁の争覇ととらえる伝統的思考が、いかに一面的なものであるかは明白であろう。
 治承・寿永の内乱は、平氏軍制の展開によって地域社会に醸成されえた領主間競合に基づいて、全国各地でみずからの地域支配を実現しようとする大小さまざまな蜂起をよび起こしていったのであり(元木泰雄平氏政権の崩壊」)、「源平」争乱として認識されるよりは、はるかに広範囲に、しかも地域社会レヴェルでの利害と深くかかわりながら展開したのである。(『源平合戦の虚像を剝ぐ―治承・寿永内乱史研究』講談社学術文庫2010←講談社1996:69)

 そこで「治承・寿永の乱」も生き永らえることになった様だが、これは単に、それに代わる新たな術語が編み出されなかったという事実の反映であるようにもおもえる。
 なお下村氏も、桃崎氏と同様に、「いま改めて留意したいのは、治承・寿永の乱を「源氏対平氏」という図式で捉える心性が、既にリアルタイムで存在していたこと」にも言及しており(『中世史講義【戦乱篇】』ちくま新書p.44)、さらには、治承四年(諸勢力の蜂起)から文治五年(奥州合戦)に至るまでの過程を「トータルに把握する」要請のもとに、「最近、「治承~文治の内乱」という表現が用いられる」ようにもなってきた(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府清文堂出版、二〇一四)とも述べている(同p.51)。

*1:初出は「波」一九九一年六月号。

*2:『花伝』の第一の語り手で、西行の弟子を名乗る藤原秋実。架空の人物である。

*3:さらに、壇ノ浦での合戦や源頼朝奥州藤原氏を滅ぼした元暦二年(文治元年)や文治五年の「元暦」「文治」を切り捨てる理由がない、という条件なども挙げている(p.22)。

辻邦生『西行花伝』

 今年は年始から“大作づいている”とでもいおうか、意識的に長篇小説に取り組んでいる。
 たとえば1月末から2月末にかけては、ドストエフスキー原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫、三巻本)を8年ぶりで読んでいた(27日間かけて読了した)。その間、新聞書評に惹かれて偶々読んだ児島青『本なら売るほど(1)』(KADOKAWA2025)の第4話「201号入居者あり」(pp.87-126)に、まさにその新潮文庫版カラキョーが登場したことには驚いた。
 5月には、著者の生誕100年を意識してのことでもあったが、辻邦生西行花伝』(新潮文庫2011改版←新潮文庫1999←新潮社1995)を手に取って、かなりの時間(3週間ほど)をかけて読み通した。こちらも読んでいる最中に、Eテレ「心おどる あの人の本棚(3)」(4月15日放送、録画を視聴)で角幡唯介氏が紹介しているのをたまさか目にして驚かされたものだった。辻の「作り込んだ世界観に嵌まった」という角幡氏は、自身の本棚にある文庫版の『西行花伝』を取り出してみせながら、「すごい傑作」、「構成もそうだし、文章表現もそうだし、テーマ性」も含めて「この小説としての完成度の高さがすごすぎ」る、と語っていた。ちなみに、NHKテキストの『心おどる あの人の本棚』pp.25-34(角幡氏のパート)には、『西行花伝』を含めて辻の作品は紹介されていない。
 『西行花伝』(以下『花伝』)は、西行*1(元永元1118年-建久元1190年、俗名・佐藤義清〈のりきよ〉)の生涯を、西行自身をも含めた様々な語り手たちの独語や述懐をとおして重層的に描き出した作品である――と、ごく大雑把に言ってしまえばそのように纏めることができる。言語表現はあくまで今様=当世風であって、例を出せばきりがないのだけれど、二三挙げておけば、まずは西住上人の語りに、

人々は爆笑し、歓声をあげ、鳥羽離宮という場所柄も忘れた陽気なお祭り騒ぎになったのでした。(「三の帖」p.132)

というくだりが有る。しかしここにみえる「爆笑」は、「比較的新しいことばで、昭和時代に入ってから一般化したものと考えられ」る(飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から』新潮文庫2017←三省堂2014:54)。
 また、西行による(架空の)書翰を和らげた部分には、

私から宮大工へ、宮大工から木彫(ほりもの)師へ、私の力が運ばれ、伝達され、木彫師の鑿(のみ)を伝って欄間の天女の透し彫りに変成してゆく。(「十八の帖」p.676)

と有るのだが、この「宮大工」は、

 わたしは法隆寺の棟梁です。代々法隆寺の修繕や解体を仕事にしてきたんです。昔は『宮大工』とはよばずに『寺社番匠(じしゃばんしょう)』と言っていたそうです。これが明治の廃仏毀釈政策をさかいめに社より上にあった寺がなくなり、『宮大工』と呼ばれるようになったんです。(西岡常一『木に学べ―法隆寺薬師寺の美』小学館ライブラリー1991←小学館1988:10*2

という証言に随えば、こちらも近代以降の表現だということになる。それでも、ほとんど違和感を抱くことなく読み進められるのは、なにも作者の力業による訣ではなく、細部まで描き込まれた道具立てへの凝りようや、視覚や嗅覚などの五感にうったえかけて来るような書きぶりによるのだろう。そも当時の口語を復原できるはずなどないのだし、そういった点にあまりに拘りすぎると、かえっていささか感興を殺ぐことにもなりかねない。
 さて辻は、謎の多い西行の出家について、待賢門院璋子(康和三1101年-久安元1145年)への「かなわぬ恋」にその直接の原因があったとみたうえで物語を構成している。別のところでも次のように書く。

 西行が出家した理由は古来恋愛説、無常説などさまざまあるが、私は角田文衞氏が言われているように待賢門院との一瞬の禁じられた恋が決定的なものに思え、小説では、それを中心に描いた。(「ある恋の行方 『西行花伝』のパースペクティヴ」*3『物語の海へ―辻邦生自作を語る』中央公論新社2019所収:328)

 「角田文衞氏が言われているように」とあるのは、辻が「西行をめぐる歳月」(『物語の海へ』所収:325-27)*4で触れた、角田の『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄―』(朝日選書1985*5)をさすのだろう。『花伝』巻末にも書名が挙げられている(p.775)。
 その本自体は未読だが、白洲正子が面白いことを書いている。

 先日、角田文衞氏の『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書)を読んで、「申すも恐ある上﨟」(『源平盛衰記』「崇徳院の事」に出る表現―引用者)とは、鳥羽天皇中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。角田氏は極めて慎重で、そんなことは一つも書いてはいられない。が、実にくわしくしらべていられるので、読者はいやでもそう思わざるを得ない。著者にとっては大成功といえようが、巧妙な語り口にのせられた読者の方も、悪い気持はしない。それというのも、待賢門院が、非常に魅力のある人物だからで、たとえ盛衰記の逸話がフィクションであるにせよ、西行が「永遠の女性」として熱愛し、崇拝したことに、疑いをはさむ余地はないのである。(『西行新潮文庫1995←新潮社1988:52)

 しかしたとえば、鎌倉期に成立した『西行物語』は、出家のきっかけを佐藤憲康の死にあるとみる。そのくだりを引く。

 さて憲康は、
「朝は誰も、急ぎ鳥羽殿へ参るべきなり。うち寄り、誘ひ給へ」とて、七条大宮にとどまりけり。
 義清、次の朝、憲康を誘はむとて、大宮にうち寄りたりければ、門のほとりに人多く立ち騒ぎ、内にもさまざまに悲しむ声聞ゆれば、「あやし」と思ひて、急ぎ進み寄り、「何事ならむ」と思へば、
「殿は今宵、寝死にに死なせ給ひぬ」
とて、十九になる妻、七十有余なる母、後、枕に倒れ伏して泣き悲しむ。
 これを見るに、かきくらす心地して、「かくあらむとて、思はざる外の世のはかなき事を語りける」と思ふにも、はじめて驚くべき事ならねども、あやなしといふも愚かなり。わが身を身ともおぼえず、いとど疎ましき方のみしげくて、
 朝有紅顔誇世路 夕成白骨朽郊原
と口ずさび、少水の魚に心を澄まし、屠所の羊に思ひをかけ、やがてここにて髻(もとどり)切らまほしく思へども、「今一度、竜顔をも拝し、御暇をも申さむ」と思ひて、駒に鞭をすすめて参りけり。
 そもそもこの人は、義清には二年の兄にて、二十七ぞかし。老少不定の習ひといひながら、あはれにおぼえて、
 越えぬればまたもこの世に帰り来ぬ死出の山路ぞ悲しかりける
 世の中を夢と見る見るはかなくもなほ驚かぬわが心かな
 年月をいかでわが身に送りけむ昨日見し人今日はなき世に
(桑原博史『西行物語 全訳注』講談社学術文庫1981:50-51)

 『花伝』「六の帖」にみえる描写(pp.214-15)は、どうやら上記を下敷きにしたとおぼしいが、だからといって、それが出家の直接のきっかけになったとは看做していない。『西行物語』の訳注によると、これまでに唱えられた「出家の理由」に関する説は次の如くである。

 なお、佐藤義清の出家の原因は、四つの説にわけて考えられる。
一、 一般厭世説
二、 恋愛原因説
三、 政治原因説
四、 総合原因説
西行物語』をはじめ『撰集抄』などの説話集は、第一の説に属する。第二の説は、一般には信じられていないが根強い考えで、『源平盛衰記』の文章からはじまっている。第三の説は、藤岡作太郎氏の『西行論』から提唱されてきた。現在は、そのどれということなく、第四の総合原因説だ、というのが定説である。(同前pp.56-57)

 寺澤行忠氏は、「たしかに恋愛問題が出家の直接の誘因であった可能性は、かなりあったと考えられる」ことを一応は認めつつも、「ただ西行と待賢門院璋子がそのような関係にあったのかどうか、その事実を裏付けることはできない。西行自身は、自ら詠んだ歌の中に、恋の対象が特定できるような痕跡を、まったく残していない」(『西行―歌と旅と人生』新潮選書2024:30)と述べている。無難なところとしては、「直接」「間接」の別を問わず、上記の四の説を採ることになるのだろう。
 これに加えて、「そもそも西行の歌はいつ詠まれたのか、はっきりしないものが多い。伝記研究には有用であるところから、詞書などによって詠まれた時期や場所が特定できる歌が、多く取り上げられるが、詠まれた場所、あるいは詠まれた折の事情がわからない歌の方が、はるかに多い」という(寺澤前掲「はじめに」p.7)。
 たとえば、小林秀雄もかつて紹介した名高い歌として、『聞書集』所収の「地獄絵を見て」と題する連作がある。「見るも憂しいかにかすべき我心かゝる報い(むくひ)の罪やありける」に始まる二十七首のこの連作について、白洲正子は、西行が「再度みちのくへ旅をした後の(晩年の―引用者)歌であることは(略)想像はつく」(白洲前掲p.322)と書いているが、一般的にはこれらも、「いつごろ詠まれた歌か、まったくわからない」(寺澤前掲p.112)とされる。
 『花伝』には、西行をはじめ寂然や慈円の歌があまた引用されるが、上記の様に、いつの作か分らぬものについては、他の人物の回想部分に出すなど、巧妙に処理しているように見受けられる。
 一方、詞書などがあることで作歌時期を比定できそうなものについては、入念な調査を経て日にちを特定しているように感じる。たとえば次のようなくだり。

 西行がようやく新院のあとに追いつくことができたのは、その翌日の夜のことである。新院は船岡山の知足院で出家されたあと、仁和寺の御第五の宮覚性法親王のもとに行かれそこに閉居されていたのであった。
 すべては手おくれであった。どうせこうなるのならどうして早く出家をなさらなかったのか。重仁親王への思いを断ち切ろうとなさらなかったのか――西行はただ明るい月を見て無念の思いを嚙むしかなかった。
 西行がのちに書き残して私のもとに送ったのはこのときのことである。

 世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪(みぐし)おろして、仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨(けんげんあざり)出であひたり。月明(あ)かくて詠みける
 かかる世に かげも変らず すむ月を 見るわが身さへ 恨めしきかな

(「十三の帖」pp.521-22)

 まず、文中の「新院」は崇徳院(元永二1119年-長寛二1164年)のこと。「本院」(鳥羽院)に対する称である。崇徳院については、源顕兼編『古事談』「第二臣節」に次の如くあることがよく知られる。

五四 待賢門院に白河院密通し崇徳天皇誕生の事
 待賢門院は、白川院(ママ)御猶子(ゆうし)の儀にて入内せしめ給ふ。その間、法皇、密通せしめ給ふ。人皆これを知るか。崇徳院は白川院の御胤子(いんし)と云々。鳥羽院もその由を知ろしめして、「叔父子(おじこ)」とぞ申さしめ給ひける。これにより大略不快にて止ましめ給ひをはんぬ、と云々。
 鳥羽院、最後にも惟方(これかた)〔時に廷尉佐〕を召して「汝ばかりぞと思ひて仰せらるるなり。閉眼の後、あな賢(かしこ)、新院にみすな」と仰せ事ありけり。案のごとく新院「見奉らん」と仰せられけれど、「御遺言の旨候ふ」とて、懸け廻らし入れ奉らず、と云々。(伊東玉美校訂・訳『古事談(上)』ちくま学芸文庫2021:334-35)

 有名な話ではあるが、校訂者の伊東氏によれば「『古事談』以外未見である」(p.336)そうで、真偽ももちろん不明。しかし、こういった鳥羽院崇徳院との確執が、保元の乱の遠因になったともされる。『花伝』「四の帖」は、待賢門院堀河(堀河局)*6の語りをとおして西行の姿が描かれる章だが、ここにも、「鳥羽の帝と女院のあいだにお生れ遊ばされた御子――間もなく崇徳の帝になられるお方を鳥羽の帝はつねに「叔父子」とお呼びなされていたことは、側近にはよく知られていた事実でございました。(略)女院白河法皇さまと夜ごと逢瀬を楽しまれ、その御胤を女院が宿されるとしますと、その御子は、なるほど形の上では鳥羽の帝の御子ではございますが、実のところは、叔父に当られる方になるわけで、それで、この御子を「叔父子」とお呼びになったのでございます」(pp.138-39)というくだりがみえる。
 ちなみに、『花伝』のひとつの読みどころとなるのが、「十三の帖」から「十六の帖」に至る部分、すなわち、保元の乱で敗れた崇徳院の「讃岐配流」を経て、西行によるかの有名な「四国白峰鎮魂」へと至る條であって、そこでは、不本意にも争いに巻き込まれざるをえなかった崇徳院の悲劇が、哀切きわまる筆致で描かれる。
 さきの話に戻ると、「十三の帖」の引用部冒頭、「西行がようやく新院のあとに追いつくことができたのは、その翌日の夜のこと」とある「その翌日」は、「保元元年(1156)七月十二日」だと読めて、『花伝』では西行が「このときのこと」について「かかる世に~」の歌を詠んだことになっている。これについては、宇津木言行校注『山家集』(角川ソフィア文庫2018)の当該歌の「補注」に、

 この歌は保元元年(一一五六)七月一三日以降、一五日前後に詠まれたかと推測されていたのは誤り。七月一一日暁の合戦で崇徳院は白河殿を脱し、弟宮である仁和寺の御室・覚性法親王の許へ逃れた(愚管抄)。ときに鳥羽院にいた覚性へ書状で保護を願うも固辞され(兵範記)、一二日に院は出家(百錬抄)。世間的には一二日時点で院の存否・在所は不分明だったが、一三日には仁和寺潜幸が発覚、同日に寛遍法務の土橋旧房に身柄を移され、勅定による源重成の守護のもとに後白河院方に拘束された(兵範記)。土橋房は藤原顕季が建立した仁和寺の院家・最勝院に属し(平安遺文三五七九号)、後に妙心寺が創建された花園の地にあった(仁和寺諸院家記)。七月二三日に崇徳院は寛遍の房より源重成に警護されて鳥羽辺で乗船し、讃岐に配流された(兵範記、百錬抄)。従って、出家して北院にいた崇徳院西行が訪問したのは七月一二日夜に限定される。世間では在所不分明であった時点で極秘の情報を得て西行崇徳院のもとに駆けつけたと考えられる。(pp.363-64)

と有るから、「七月十二日」のこととみて矛盾はないようである。『花伝』は巧みにフィクションを織り交ぜながらも、そういった細かなところでは手を抜いていない訣である。
 なお「かかる世に~」の歌に関しては、『花伝』の解説(「『声』と化した『花』」*7)を担当した高橋英夫が、著書で次の如く述べている。

 西行崇徳院との関係は、徳大寺家、待賢門院との縁故で生じたものである。しかし見すごせないのは、院に対する同情、共感にしても人間的・歌道的な範囲を超えなかったことである。院を動かし、最後には打ち倒した政治については、西行はいかなる同情、共感も発動させていない。それは崇徳院と対立抗争した相手側、鳥羽院に対しても同様である。政治に近い場所にいながら、政治の次元での完璧な空白が西行を特徴づけている。
 そのことは崇徳院の悲運を詠じた「かかる世に」を見ても明らかだと思う。政治的激変と帝王の運命の大逆転は、一方で眼と「心」を灼(や)かずにはいない。他方ふりかえってみれば、大政変を照らしているの月の光はいささかも変りなく、澄みわたっている。それもまた「心」に沁みてくる。どちらも確実に眼の前にあり、どちらも否定することができない。そのことを西行は、二つのものの間に置かれてしまった「わが身」が恨めしい、としか言い表すことができなかった。(略)鳥羽院の立場も、崇徳院の心事も分る。だがそこまでであって、その先は西行の領域ではなかった。これが、政治を拒否した西行のゆくべき道、とるべき行動というものであった、と考えるほかはない。
 保元の乱は政治の中に武士が決定的に進出する節目を形づくったという意味で大きな事件である。このとき、武士出身の西行は、進出する勢力にことさら合流・接近・癒着したのではなかった。何かそれはもどかしいようでもある。西行の明確な政治的判断が読めないからである。だがこういうもどかしさは、西行が自ら選びとった政治的な「無」、つまり本質的な出世遁世の「隠」に不可避な特性である、と受けとるのがよいのだろう。(高橋英夫西行岩波新書1993:82-84)

 この様な「もどかしさ」、あるいはデタッチメントとでも呼ぶべきものが、果してどこまで西行の真意を穿っているのかは分らないが、争乱の世をつぶさに眺め、時の権力者たちと不即不離の関係を保ちつづけた西行は、後世を生きる多くの人の心を惹きつけてやまないようだ。
 たとえば角川春樹氏は、以下の如く語っている。

角川 西行(平安末期の歌人)の生き方が「聖と俗の環流」なんですね。西行は一般的に「数寄者」「漂泊の歌人」といったイメージで捉えられていますが、じつは出家したあとも平清盛勧進文書を送るなど、鳥羽院崇徳院後白河院といった時の権力者との交流を続け、僧籍にありながら武術を究め、十七歳年上のかつての思い人、待賢門院璋子のことで思い煩う「俗人」であり続けたんです。(略)二十三歳で西行が出家したあと、璋子も四十二歳で落飾(貴族が髪を剃り落として仏門に入ること)するんですが、西行が京都の嵯峨に庵を結んだのは、璋子が住む法金剛院が近かったからといわれています。西行は璋子の無聊を慰めるためにしばしば法金剛院を訪ねるんですね。何のための出家だかわかりゃしない(笑)。しかし、このように「俗」と「聖」に引き裂かれた西行だからこそ、彼の歌が人の心を打ったと私には思えます。西行を目標にした松尾芭蕉にもそれがあります。(伊藤彰彦『完全版 最後の角川春樹河出文庫2025←『最後の角川春樹毎日新聞出版2021:121-22)

 『花伝』では、こういった西行の聖―俗の往還についても余さず描かれている。辻は、さきに紹介した「ある恋の行方―『西行花伝』のパースペクティヴ」で、「西行の多くの謎のなかで(略)最も難解と思えたのは、出家した一歌人が、どうして時代の転換を劃する争乱のさなかで、世を支配する権力者に、かくも近い立場を保つことができたのか、またそれを保ちつづけたのか、という点だった」(『物語の海へ―辻邦生自作を語る』p.328)と書いているが、これについては自ら、

 鳥羽院崇徳院の対立が険悪化する宮廷に西行がしばしば姿を現わすのは(鳥羽院崩御に際会したのも決して偶然ではなかったに違いない)ただ待賢門院の御子崇徳院を、不幸な運命に向かわせないためであった。その意味では、崇徳院が、藤原兄弟の抗争という権力の力学に巻き込まれないように懸命の奔走をするのは、ひたすら亡き女院への愛の、いわば投影と見ていいものだった。
 そう考えなければ、なぜ保元の乱の直前まで西行が朝廷方の藤原忠実崇徳院側の藤原頼長との間を行ったりきたりする必要があったか、説明がつかなくなる。(同前p.331)

という「解答」を与えている。
 ここにも根柢に「女院への愛」があるわけだが、『花伝』が面白いのは、西行が、「歌による政治(まつりごと)」「この世の価値(かちまけ)や秩序(ととのい)の上に、こうした歌の世界が置かれ、人々の精神(こころ)がそこを実在(まこと)の場(ありか)として生きる」こと(「十五の帖」p.565)を新院に期待していた――とすること、誤解をおそれずに云えば、「武断」を超えた/を包摂しうる「文治」は可能かという問題を追求した求道者として、西行を描いているからではないかとおもう。

*1:ちなみに「西行」は号であって、僧名は円位。

*2:なおこの88年刊の元版が、Eテレ「心おどる あの人の本棚(5)」の鈴木敏夫氏の回(4月29日放送)に、はっきりそれと判る形で映り込んでいた。

*3:初出は『国文學』一九九四年七月号。

*4:初出は「波」一九九一年六月号。

*5:元版は1975年で、タイトルは本題と副題とが逆の『椒庭秘抄―待賢門院璋子の生涯―』だったようだ。

*6:永治二年(1142)に待賢門院が落飾した際(「八の帖」)、堀河も尼になったとされている。

*7:この解説文は、高橋英夫『ロマネスクの透明度―近・現代作家論集』(鳥影社2006)にも、「声と化した『花』―辻邦生」(pp.183-93)として収められている。