中野重治『本とつきあう法』をめぐることがら

 池谷伊佐夫『書物の達人』(東京書籍2000)は、森銑三『書物と人物』からヘレーン・ハンフ編著/江藤淳訳『チャリング・クロス街84番地』に到るまで、戦中期~前世紀末の日本で刊行された「本の本」を網羅した「究極の書物図鑑」(帯より)である。
 この池谷著には、中野重治の『本とつきあう法』(筑摩書房1975)も取り上げられている。『本とつきあう法』については、かつて辻井喬が『深夜の読書』(新潮文庫1987 ←新潮社1982)*1で次の如く評していた。

 ただひとつ、中野重治氏のこの本で明らかなのは、どんな本に接する際も、氏は自分の姿勢を決して崩していないということである。氏は、(この本に書かれてあることは信じなければいけないのだ)と、自分以外の者を、主人、命令者、神に仕立てて読む、ということを一度もしなかったらしいのだ。*2新潮文庫1987:65-66)

 一方、池谷著は『本とつきあう法』に関して次の様に記す。

 表題作は『週刊読書人』に三カ月にわたって連載された、自身と書物にかかわるエッセイ。その他も「わが文学自伝」「私の読書遍歴」「岩波文庫と私」「ある古本の運命」「忘れえぬ書物」など気楽に読める書物随筆と、幸徳秋水共産党員時代の回想「『戦後日本の思想』を読む」などプロレタリア文学者としての顔がうかがえる書評集からなる構成。だいぶ前、夫人で女優の原泉さんと一緒にいるところをテレビで拝見して「あっ」と声を出してしまった。原泉という名は、私が小学校の頃親しんだ東映映画『月光仮面』に出てくるどくろ仮面の手下“バテレンのおよし”として記憶していたからだ。硬骨の文学者と、海千山千の悪女(もちろん役の上だが)の取り合わせの妙におもわず嬉しくなってしまったことを覚えている。
 本書は古本市でよく見かける。古書価も千円以内。絶版になったちくま文庫版を探すより簡単。(p.124)

 原泉*3といえば、寺山修司田園に死す』(1974,ATG)や伊丹十三タンポポ』(1985,東宝)などでの怪演が忘れ難い(むろんリアルタイムで観た訣ではない)が、松下裕『[増訂]評伝中野重治』(平凡社ライブラリー2011←旧版筑摩書房1988)は、中野と結婚するまでのかの女の半生について次のように述べている。

 原泉子(せんこ、原泉の戦前の名―引用者)は本名政野(まさの)、島根県松江の人。一九〇五年、明治三十八年二月十一日生まれで、重治より三つ年下だった。小学校五年生の十のとき母を失い、高等科にも行けず尋常小学校卒業だけで奉公に出なければならなかった。重治は、妻の幼いころのことや娘時代のことを聞き書きで、「橋」「ヒサとマツ」「ハクスヴァナ・ミシン」などの小説に書いている。原さんは、「ヒサとマツ」の主人公の言葉を、「中野さんは福井弁に直してしまって……」と言っていたが。十五の年に思いきって単身上京し、書家の女書生、デパートのマネキンガール、画家のモデル、筆耕など、さまざまな仕事をしながら身を養ってきたが、重治と結婚した当時は左翼劇場の女優となっていた。研究生の同僚に松本克平がいた。モデルは結婚までつづけていたそうだ。(pp.173-74)

 なお、この引用部の直後に出てくる松下氏の証言に拠ると、原泉は若い頃に、タクシーの運転手になろうとしたこともあったという。
 ところで池谷氏は、さきに挙げた引用末尾で、単行本版の『本とつきあう法』について「本書は古本市でよく見かける。古書価も千円以内。絶版になったちくま文庫版を探すより簡単」と書いていたが、これは本当にその通りで、実はわたしも十数年前にその単行本を関西の古書市で入手している(500円)。この本とあたかも対を成すかのような装釘の中野重治『日本語 実用の面』(筑摩書房1976)も、大阪の古書肆の店頭で購ったのだが(この本は「中野重治のことば談義」で取り上げたことがある)、ちくま文庫版『本とつきあう法』の方はなかなか見つけられなかった。
 しかし七、八年ほど前、出張先の長崎県でふらりと立寄った古書店にて、件の中野重治『本とつきあう法』(ちくま文庫1987)300円を入手することがかなったのである。もちろん、ネット書店を利用すればこんな苦労はせずに済むのだが、それでは足で探す愉しみを奪われるようでもあり、なんとも味気ない。探書リストを片手に、あれが見つかった、これは今日も見つからなかった、などと一喜一憂する行為を含めてこその古書肆行脚だとおもうのである(そしてその過程には、たくさんの未知の書物との邂逅も用意されているのだから)。
 その『本とつきあう法』だが(以下すべてちくま文庫版からの引用による)、たとえば、

 さて私は高等学校へはいった。(略)この高等学校に私は五年いた。二度落第したのだった。私はかわくように小説類を読んだ。私は日本の現代作家を手あたり次第に読んだ。最初佐藤春夫を全部読んだ。室生犀星千家元麿の詩を読んだ。あるときドストエフスキーの『罪と罰』を買って来て朝から晩までぶっつづけに読み、『罪と罰』が終ると『カラマーゾフの兄弟』を買って来てまたぶっつづけに読んだ。(「わが文学自伝」p.23)

 (高等学校の)ある日私は『カラマーゾフの兄弟』を買ってきて読みはじめた。そして飯を食って読み、あくる日起きて読み、朝めしを食って読み、昼めしを食って読み、こうして新潮社の三冊本を読み終えるとその足で『罪と罰』を買ってきて同じ手順で読み、それがすむとまたその足で『賭博者』を買ってきて読んだ。そういうなかで室生犀星の『抒情小曲集』を読んだのであった。
 それは実に不思議な本であった。本というよりも一種の函のようなものであった。絵とか、序文とか、覚え書とかいうものがいっぱいに詰まっていて、作者はこの本をつくるために馬鹿のように一心になり、読んでいるものにその神聖な馬鹿さがそのまま乗りうつってくる種類のものであった。(「日本詩歌の思い出」p.35)

という記述にいきなり逢著して、おやと思わされる。前者はドストエフスキーの作品を『罪と罰』から、後者は『カラマーゾフの兄弟』から読み始めたことになっているからだ(前掲の松下著は、このうち前者の一節を引いている。pp.74-75)。これはあるいは、中野が、自分自身の思い違いや誤解をあえてそのままにしていることに因るのかも知れない。と云うのは、『本とつきあう法』の文庫版解説(「中野さんの「遍歴」」)で、中野の未発表書簡集(特に原泉とのやり取りを多く含む。後に中公文庫に入った)の編纂に携わった澤地久枝氏が、以下の如く述べているからだ。

 そこでのわたしの感嘆のひとつは、原稿の初出時の間違いを、再度の全集編纂のときにも、もとの間違いのままにおかれていたことであった。ふつうは、誤りに気づいた時点で、機会を待って訂正をするところである。ましてや全集であるなら、新しく活字を組むのであり、直すことはほとんど思いのままであるにもかかわらずなのだ。
 それはこの『本とつきあう法』を例にとっても、よくわかることで、筑摩書房版『中野重治全集』第二十五巻の「著者うしろ書」を見ていただきたい。
「日本詩歌の思い出」という文章に、
「しかも私は与謝野晶子の『歌の作りやう』という本を春陽堂へ注文するほどにも全く無邪気であった」
 とある。「それは春陽堂でなくて金尾文淵堂だった」というのが「うしろ書」である。中野さんはちょっと朱文字を入れて直すという小ざかしさはとらない。間違えたそのことを大切にするきびしさが中野さんの文学者としての資質の根底にあった。(pp.301-02)

 先に引いた中野の二つの文章には、ドストエフスキーのほか、室生犀星の名も共通して出て来る*4。中野にはまさに『室生犀星』(筑摩叢書1968)という著作もあるくらい犀星文学に入れ込んでいた様であるが、『本とつきあう法』には、「忘れえぬ書物――室生犀星『愛の詩集』――」(pp.121-29)や「室生犀星ベスト・スリー」(pp.184-86)といった文章がおさめてあるし、その他の文章にも犀星の名がしばしば出て来る。それらに拠るならば、犀星の小説よりも、詩にとりわけ感銘を受けたらしい。
 「忘れえぬ書物」では六つの犀星の詩作品を全文引用しており、福永武彦編『室生犀星詩集』(新潮文庫1968)や、室生犀星『抒情小曲集|愛の詩集』*5講談社文芸文庫1995)で犀星の詩に昵んだわたしにとって、ことに「永遠にやつて来ない女性」が引用されているの(pp.126-28)は嬉しかった。ちなみに、ここで中野は「故郷にて冬を送る」も紹介しているのだが、冒頭部の引用が「ある日とうどう冬が来た」となっている(p.124)。しかしこれは、たとえばいま文芸文庫版『愛の詩集』を見てみると、「ある日たうとう冬が来た」(p.140)である。「とうとう」の3拍目が濁るのはよくあることだが、旧かなで書くのなら「たうどう」となるのではないか。こちらもあるいは、「間違えたそのことを大切にするきびしさ」という中野の態度に因るものか。初出の形も含めて気になる所ではある。
 ちなみに伊藤信吉は、中野から犀星の『抒情小曲集』を譲り受けたことがあるのだそうで、以下の様に回想している。

 年月の経過よりも、ページを繰った度数や持ち運びがはげしかったため、表紙の厚紙がばらばらになったのに室生犀星の『抒情小曲集』がある。一九一八年九月刊。六十年前だ。トジはしっかりしているものの表紙、背がばらばらだから、形として解体してしまった本ということになる。これを大事にしているのは、一九三一年三月二十二日に中野重治からもらったものだからで、見返しのところに鉛筆書きの小さい字で、
「昔初版をもちしが売りき其後二版を求めこの○○を見てとりかへたり 一九二三年九月二日 中なる印どもは我の加えしものならず 重治」
と、中野氏の覚え書が誌されている。○○二字は読めない。ところでこの愛誦詩集を、どういう訳か私から山本健吉君におくった。そのころの交友では山本君といわないで、日常的には石橋君と呼んでいたらしい。表紙裏に「石橋君に 梅もいで葉裏にくもるつゆの空 三六年九月信吉」と私のペン書きがある。そして再度、ところがということになるが、これは僕が持っているよりも、君に返した方がよいということで、ふたたび私の手へ戻って来た。私が最初に手にしたときから数えて五十年近くになる。
 私は室生さんの詩について、一度はしっかりとした文章を書きたいと思う。中野さんの詩についてもそうだ。『抒情小曲集』を出発点として『愛の詩集』に踏み入った室生さんと、やはりその系列において抒情詩からプロレタリア詩に踏み入った中野さんと、そこに抒情性と思想性のかかわりが、私にとっての私的な、また史的な問題として浮かんでくる。そのことを書きたいと思う。書けるか。どうやら私の姿勢はおたおただ。(「詩集の傷み」*6日本近代文学館編『本の置き場所―作家のエッセイ1』小学館1997所収:92-94)

 そのほかわたしの関心分野からすれば、『本とつきあう法』の、たとえば「ある古本の運命」(pp.67-76)、「旧刊案内」(pp.102-20)、「『万葉集』のこのへんのところ」(pp.167-71)等が特に印象に残っている。「もういちど古本の作法」(pp.92-94)で紹介された服部宇之吉『北京籠城日記』は後に平凡社東洋文庫に入ったが、現在もなお探書中である。「岩波文庫と私」(pp.59-61)は、特に文庫好きに薦めたい名文。末尾は涙なしに読めない――と云うのは大げさではないので、実際に解説で澤地久枝氏も、「涙を誘われる」(p.304)云々と書いている。
 それから、「二つの『詩概説』」(pp.270-77)は『宋詩概説』『元明詩概説』について書かれたもの。いずれも元は岩波の新書判の「中国詩人選集(第一、二集)」に別巻の扱いで入っていたもので、これらは後に『唐詩概説』*7と共に岩波文庫に入った。すべて吉川幸次郎の手になる概説書であるが、中野はその餘話として次の如く書く。

 吉川幸次郎その人における人生を垣間見たなどといえば不謹慎である。しかし私はこの人を、度合は別として知っていた。会ったことがある。話をしたことがある。酔って勝手放題を並べたこともある。いつか私は上海で『西清古鑑』の古本を買った。表紙に字が書いてある。民国三十三年の冬、梓江(しこう)という人がこれを友達の詠菁(えいせい)兄に贈った。そのことを梓江自身記念のために書いたものである。ところで、ぼんやりそのへんのこととはわかりながら私に読めぬところがある。読めぬところがあるというのがすでに烏滸がましいが、そこであるときそれを私が吉川にきいた。吉川にだけではない。吉川幸次郎貝塚茂樹、学者ふたりを並べておいてきいたのである。むろん酒を飲んでいた。吉川が一ばん酔っていたかも知れない。それから話が『杜甫私記』のことになった。むしろ『杜甫私記』第一巻のことになった。吉川は、『杜甫私記』第一巻を一九五〇年に出した。そしていまだに第二巻を出していない。それは怠慢というものではないか。吉川の言うのに、それが書けないのだ。第三巻は書けている。第二巻が書けぬのだ。どうしてもつながらぬのだ。よし、それならば第三巻を出せ。出してしまえ。そうすれば第二巻が書ける。よし、それならば第三巻を出すぞ。それくらいのことがあって、そこで心安そうに垣間見うんぬんと書いたのである。(pp.271-72)

 中野の名調子がよく表れた一節である。これは初出が『図書』1963年9月号なのだそうだが、その約5年後に、中野と吉川とは対談を行っている。吉川幸次郎『古典を生きる―吉川幸次郎対話集』(角川ソフィア文庫2025←『中国文学雑談 吉川幸次郎対談集』朝日選書1977)*8におさめられた「中国文学雑談」というのがそれで、そこで中野は、「戊申詔書」、『西国立志編』、『論語』、杜甫プーシキン、釐金税、『大唐西域記』等々について縦横に語っている。荻生徂徠をもっと評価すべしという点で両者が一致しているのも興味ふかい。この対談はどこを採っても面白いのだが、一例として、県立福井中学校時代の回想の一部を引いておく。

中野 ぼくもそう思いますよ。それで、また高等学校のときにかえるけれども、その前に中学で――ぼくたちは中学と高等学校で漢文が教科書にあった以外は、漢学に接したことはないんだから――中学の先生で勝屋という人がいました。漢文を教えていて、忠孝仁義の士なんだけれども、あるとき漢和辞典の話が出て、服部と言ったか小柳(おやなぎ)と言ったか、そんなような人の漢和辞典*9にはこうあるじゃないか、と生徒が逆質問したわけですよ。われわれの先生の解釈とは、だいたい同じだけれども少しニュアンスが違うんですよね。そしたら、「服部あたりがハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」と言ったですよね。それは子供ながらにも二通りにとれましたね。服部文学博士なんてのは偉いだろうけれども、語のほんとの解釈については欠陥があるんだろうという点と、それからそうじゃなくて、逆襲してああいうやり方で吹飛ばしてしまおうとしたんだろうと、両方感じられたですよ、子供ながらに。その人は別に反体制的でもなんでもなくて、忠君愛国の権化のような爺さんでしたがね。(角川ソフィア文庫pp.66-67)

 角川ソフィア文庫版には齋藤希史氏による解説が附いており、特に中野重治についてくわしく書いている。さきに紹介した「二つの『詩概説』」からの引用もある(pp.310-11)。中野と吉川との関係を知る上では、これも必読の文章だとおもう。

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*1:池谷著はさすがと云うべく、この本も紹介している(pp.86-87)。ただ池谷氏は「本書は現在文庫化はされていないようだが、古書店ではよく見かける」(p.87)と書いているが、この時点(2000年)では既に文庫化がなされていた。

*2:初出は「波」昭和55年3月号か。

*3:藝名としての読みは、有職読み的な「はら・せん」。

*4:犀星もドストエフスキーに一時期心酔していたようだ。中野の見るところ、「犀星は彼一個の生活経験に立ってドストエフスキーを読む。書いたものからわかるように、彼はドストエフスキーから痛切に平和を求める側面、痛切に人間を尊重する側面を受けとっています。二つの『愛の詩集』にそれが出ています」(松下裕編『中野重治は語る』平凡社ライブラリー2002:65)。たとえば、犀星の「また自らにも与へられる日」「ドストエフスキイの肖像」といった詩を参照のこと。また、「燭の下に人あり、本を読めり」の「僕は感涙しながら本をよんでゐる/この恐ろしい物語りの中に/世にもやさしい一人の女性がゐて/人をあやめた不幸な男のために/声たかくヨハネ伝をよんで聞かしてゐる」(室生犀星『抒情小曲集|愛の詩集』講談社文芸文庫1995,p.184)という一節も、ソーニャがラスコーリニコフに対して朗読を聞かせる例の印象的な場面をさすのであろう。こういった犀星のドストエフスキーびいきは、森茉莉が犀星の印象について「露西亜の男のような濃い色彩を持っている」「室生犀星はヴォルガの河の色を、身につけている」(「室生犀星という男」『贅沢貧乏』講談社文芸文庫1992所収:264)等と書き残していることと考え併せて、興味ふかいことである。

*5:表題作のほか、『忘春詩集』をおさめる。

*6:初出は館報「日本近代文学館」第49号(1979年5月25日)。

*7:今ではどうなのか知らないが、かつてこの『唐詩概説』は、中国文学を専修すると必ずといっていいほど必読文献の筆頭にあがっていた。

*8:井上靖中野重治桑原武夫石川淳石田英一郎湯川秀樹の6人との対談を収録している。中野はもちろんのことだが、石川淳との対談にも大いに触発されるところがあったので、また機会があれば触れてみたい。

*9:ここには注釈が附いており(文庫版で新たに附されたもの)、「小柳司気太・服部宇之吉『詳解漢和大字典』(一九一六年初版)を指す」(p.107)とある。冨山房から出ていたこの辞書、わたしは昭和四十九年刊の修訂増補版(当用漢字に対応している)を所持しているが、平成の半ば頃まで、大きな新刊書店の漢和辞典のコーナーには必ず置いてあった。後刷りのものは赤と黄色との函入りで目を引いたものだった。