高山樗牛『瀧口入道』のこと

 大学の学部3年生だった頃、さる方に好きな小説はなにかと訊ねられたので、いくつか作品を挙げてゆくなかに、当時入れ込んでいた高山樗牛(1871-1903)の『瀧口入道』の名を出したということがあった。いま考えると、若気の至りのようにも感じられて、いささか気恥ずかしくおもわぬでもない。しかし実際に、筋のおもしろさはさることながら、その美文にすっかり魅せられてしまっていたのである。
 不意にそのことを思い出したのは、『瀧口入道』の名高い冒頭部に、「治承」と「寿永」とが対比される形で出て来るからに他ならない(前回の記事「『西行花伝』餘話」を参照のこと)。
 その冒頭部を引くかたちで、杉本苑子(1925年生れ)はかつて次の様に書いていた。

「廻れば大門(おほもん)の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如く……」
 と『たけくらべ』の冒頭を暗誦する母……。子供のわたしまでが競い合って、
「やがて来(こ)む寿永の秋の哀れ、治承の春の楽みに知る由もなく、六年*1(むとせ)の後に昔の夢を辿りて、直衣(なほし)の袖を絞りし人々には、今宵(こよひ)の観会も中々に忘られぬ思寝(おもひね)の涙なるべし」
 と『滝口入道』の、これまた書き出しの一節を大声でそらんじる日常は、教育方針などというものとは無関係なもっと別のところで、しらずしらず一人ッ子のわたしの内奥(ないおう)に、作家を志向させる何かを植えつけていったのではないかと思う。(「子供のころの読書体験」『読書と私―書下しエッセイ集―』文春文庫1980:124)

 また、杉本よりも一つ上の世代の森銑三(1895年生れ)は、十六歳の頃に識りあった「秋本乃武雄さん」という「明治期の書生という匂のする人」から、「樗牛や、独歩や、蘆花や、漱石や、そうした人々のことを聴」いた(「読んだ書物の思出」、森銑三柴田宵曲『書物』*2岩波文庫1997所収:174-75)といい、その秋本さんに倣うかたちで森は、

独歩の『武蔵野』の全文、漱石の「倫敦塔」の一節、緑雨が『あま蛙』の巻頭に添えている「略歴を掲げよとや」という人を食った自伝、一葉の随筆、樗牛の「平家雑感」の一節、子規の小品の「くだもの」、そうしたものをつぎつぎと読みかつ写した。(同pp.176-77)

と回想している。
 さらに、森よりも少し年長の和辻哲郎(1889年生れ)は以下の如く述べている。

 思想の方面で(徳冨蘆花の―引用者)『思出の記』が与えたほどの感銘を与えたものはほかにはなかった。ちょうどこの頃(満十三歳、すなわち1902年頃―引用者)は高山樗牛が青年の間にもてはやされていて、わたくしたちより少し年上の人たちは、その文章を暗誦したりなどしていたように思う。そういう先輩を持っている級友が、(樗牛の―引用者)『わが袖の記』などを暗誦して聞かせてくれたこともあった。しかしわたくしの兄はそういうことをしなかったし、ほかにそういう雰囲気にふれる機会もなかったので、わたくしは樗牛の文章を愛誦したことはない。当時『太陽』などに載っていた樗牛の文章を少しは読んだように思うが、印象は何も残っていない。(『自叙伝の試み』中公文庫1992←中央公論社1961:376)

 和辻がここで樗牛からことさらに距離をとろうとしている(ようにも読める)のは、浪漫主義的なもの、もしくは樗牛が後年傾いた「日本主義」に対する、和辻の心理的な距離感が、そのままそこに重ねられているからだとみることもできるだろう。しかし、ここで著目したいのは、「わたくしたちより少し年上の人たちは、その文章を暗誦したりなどしていた」という事実の方である。樗牛の美文調には、おもわず暗誦したり書き写してみたくなったりする「魔力」がやはりあるのだ。
 後藤明生「『瀧口入道』異聞」は、そのことが孕む危うさにもさりげなく言及している。すなわち次の如く記す。

『瀧口入道』を最初に読んだのは、いつだったでしょうか。たぶん十六か十七の頃です。もちろん小説として読みこなす力などありません。

「やがて来む寿永の秋の哀れ、治承の春の楽みに知る由もなく、六歳の後に昔の夢を辿りて、直衣の袖を絞りし人々には、今宵の歓会も中々に忘られぬ思寝の涙なるべし」

 なにしろ、この書き出しであります。果して最後まで読み通したかどうかも、怪しいものです。しかし十六か十七だかの時、この小説を少なくとも読んでみたことだけは、事実です。そしてそれは、他ならぬその美文体のためです。これは矛盾ではなくて、小学生の頃、意味よりもまず丸暗記した軍歌と同じ理屈でしょう。(「『瀧口入道』異聞」『首塚の上のアドバルーン講談社文芸文庫1999←講談社1989所収:99-100)

 この「『瀧口入道』異聞」の語り手は、「いま手許に(『瀧口入道』の―引用者)岩波文庫本が二冊あります。昭和二十八年版(第十六刷)と、一九七七年版(第40刷)です。ご覧の通り、古い方の奥付は「昭和」と漢数字、新しい方のは西暦年号と算用数字になっています」(p.98)とも述べているが、わたしが『瀧口入道』に初めて触れたのも岩波文庫本で、後者の改版の方である*3。正確にいうと、改版は「1968年10月16日 第32刷」の時点でなされており、それに伴って解説が高須芳次郎から笹淵友一に変っている。
 その岩波文庫で『瀧口入道』にすっかり魅入られたわたしは、以後、『瀧口入道』を古本屋で見つけるたびに購ってきた。
 それでいま手許には、岩波文庫本をふくめて5種のテクストが有る。岩波文庫以外の文庫本では、まず高山樗牛『瀧口入道』(春陽堂文庫、昭和二十二年四月三十日復刊第一版)。戦後の春陽堂文庫復刊ラインアップの劈頭を飾る本で、解説などはなく、本文のみ。ただし、他の文庫本とは違って、巻頭に「かへるへき梢はあれといかにせん 風をいのちの身にしあなれは」の歌が有る。次に、高山樗牛『瀧口入道』(新潮文庫、昭和三十二年七月三十日三刷*4)。解説は鹽谷贊。それから、高山樗牛『瀧口入道 他五篇』(旺文社文庫、昭和50年11月10日初版発行)。「瀧口入道」のほか、「日本主義」「わがそでの記」「月夜の美感に就いて」「平家雜感」「美的生活を論ず」を収録。解説は長谷川泉で、「代表作品解題」や「年譜」などもおさめている。
 文庫以外では、洋装本*5の『瀧口入道』(春陽堂)を一冊有っている。東京・吉祥寺の古書肆で入手したものだ。大正二年十一月一日十八版(明治二十八年九月二十日発行)、水野年方によるカラー口絵が一葉あり(この絵――中宮の雑仕女・横笛が、嵯峨の往生院の瀧口入道時頼のもとを訪れる一場面――は、モノクロ写真として岩波文庫改版後のカバー表紙にあしらわれている)、春陽堂文庫の巻頭に有る歌も掲げられる。このハードカヴァーの『瀧口入道』には、著者名がない。それは次に述べるように、『瀧口入道』が当初は匿名で発表されており、樗牛の生前にはその事実が明かされることがなかったからなのだが、手持ちの本は、樗牛歿後の大正年間に出た後刷本であるから、巻末の広告には『脚本 瀧口入道』が掲載されており、「故高山樗牛博士原著 姉崎嘲風博士脚色」とあって、一往作者が分る仕儀にはなっている。
 さて「『瀧口入道』異聞」は、旧版岩波文庫の高須芳次郎の解説を所々つまむ形で引用しており、これが多分一番簡潔にまとまっているだろうから、以下間接的に引いておく。

「(……)樗牛は短命で、三十二歳で世を去つたが、文藝評論家としては、目ざましい活動を続け、(……)その本質は詩人的で、才気と情熱とに富み、花やかな文藻に長じてゐた。(……)その最初のものとしては、歴史小説『瀧口入道』がある。それは、明治二十六年の暮、当時、『読売新聞』が(……)坪内逍遙尾崎紅葉幸田露伴三家を選者として、懸賞小説で新作を募つたのに応じたのである。(……)
 今、当時の文壇的情勢を見ると、村上浪六らの伝奇小説や、一時流行した探偵小説の類も大分飽かれて、新しい歴史小説の出現を求める声が高かつた。(……)ところが、樗牛の『瀧口入道』には、以上の如き文壇的臭味がない。(……)当時の彼は二十三歳だつた。(……)その当選が報ぜられて、作品が匿名で発表されると、誰もがこれが帝大文科に在学中の一青年の手に成つたとは思はなかつた。相当有力な大家が創作したものと推定した。が、いよいよこれが白面の一帝大生の手に成つたことを確かめるに及び、驚歎の声を発したのである。(……)その内容は、大体、史実により、それへ若干の詩的空想を加へてゐる。(……)それに、時頼及び横笛の胸中を抒情的に述べたところは、樗牛独自の長所を示して、今も読者の胸を強く打つ。文章は馬琴式にちかく、対句が多い。然しながら、馬琴ほどのマンネリズムに囚はれてはゐない。(……)要するに、抒情的歴史小説として、一新境を開かうとした努力の跡の十分に見える佳作である」(前掲pp.98-99)

 但し、「坪内逍遙尾崎紅葉幸田露伴三家を選者として」というのには諸説あって、旺文社文庫の長谷川泉の解説では、「坪内逍遥、依田学海、尾崎紅葉、高田半峯」(p.203)の4人ということになっているし、新潮文庫の鹽谷贊の解説では、「尾崎紅葉・依田學海・高田半峯・坪内逍遥・外一人*6」(p.93)の5人ということになっている。
 また高須の解説文中には、「その内容は、大体、史実により、それへ若干の詩的空想を加へてゐる」ともあるが、もし『平家物語』などの軍記物語にみえる説話をそのまま「史実」と表現しているのであればやはり問題があるし、「若干の詩的空想」という点も、樗牛による脚色部分をやや低く見積もった表現だという意味で、正確ではなかろうとおもう。たしかに『瀧口入道』は、『平家物語』巻十「横笛」「高野巻」「維盛出家」「熊野参詣」「維盛入水」辺りに材を取ってはいるものの、ドラマティックかつパセティックな展開を重視しつつ、あくまで一個のフィクショナルな近代文学作品として確立されている。
 このことについて、長谷川は次の如く述べる。

 構想の面からいうならば、樗牛の「瀧口入道」は「平家物語」からの歴史離れを企てている。それは次の二点である。(一)斎藤瀧口時頼が中宮の曹司横笛に失恋して懊悩の結果出家したこと。「平家物語」では雑仕横笛の身分をあきたらず思う父の諫めに横笛をあきらめ出家する時頼の心事は、極めて中世武士の単純明快なものであって、樗牛が「瀧口入道」に叙述したような愛恋の苦悶懊悩はない。樗牛はゲーテのウェルテルに比するような恋愛の悲哀の現代版を時頼に構想したのであって、そのために花とうたわれた優男の足助二郎重景を恋敵として登場させることになったのである。(二)維盛主従入水後、瀧口入道を割腹自殺させたこと。「平家物語」では、維盛の入水後に、瀧口入道は武里の入水をおしとどめて後世をとぶらうことをさとしたのであり、自らも回向することで信仰心はゆらいではいない。(p.204)

 「構想の面」だけではない。まず瀧口入道と横笛との邂逅を描いた場面(清盛が催した花見の宴)からして『平家物語』とは異なっており、描写は詳細をきわめている。これはたとえば、東京大学国語研究室蔵本(高野辰之旧蔵本)を底本とした岩波文庫では、

 高野に年ごろ知りたまへる聖あり。三条の斎藤左衛門大夫茂頼(もちより)が子に、斎藤滝口時頼と云ひし者也。もとは小松殿の侍也。十三の年、本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕横笛といふをんなあり。滝口是を最愛す。(「巻第十 横笛」/梶原正昭・山下宏明校
注『平家物語(四)』岩波文庫1999:70)

とのみ描写される所である。その樗牛の脚色に関しては、穴吹陽子(1993)「『平家物語』の横笛説話と高山樗牛の『滝口入道』」(『岡大国文論稿』21号)にくわしい。穴吹氏は、「滝口が自己をはっきり持った人物として登場する」こと(p.71)にも注目し、露伴五重塔』との比較をつうじて、「個人主義*7にまで発展する小説として再生」した(p.75)と結論している。
 序でに云うならば、上引の「横笛」はさらに下の様に続く。

 父是をつたへ聞いて、「世にあらんもののむこ子に成して、出仕なんどをも心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめて」と、あながちにいさめければ、滝口申けるは、「西王母と聞えし人、昔はあッて今はなし。東方朔と云ッし者も名をのみ聞きて目には見ず。老少不定の世の中は、石火の光にことならず。たとひ人長命(ちょうみょう)といへども、七十八十をば過ず。そのうちに身のさかむなる事は、わづかに廿余年也。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をかた時も見て何かせん。思はしき者を見むとすれば、父の命をそむくに似たり。是善知識(ぜんじしき)也。しかじうき世をいとひ、まことの道に入なん」とて、十九のとし、もとゞりきッて、嵯峨の往生院におこなひすましてぞゐたりける。(同上)

 このくだりは『瀧口入道』第九・第十と対応しているが、『瀧口入道』の方は父(左衛門)、時頼とも涙を流しながら応酬しており、特に左衛門などは、「弓矢の上にこそ武士の譽はあれ、兩刀捨てて世を捨てて、悟り顔なる倅を左衞門は持たざるぞ。上氣の沙汰ならば容赦もせん、性根を据ゑて、不所存のほど過つたと言はぬかッ」(第九)、「其方より暇乞ふ迄もなし、人の數にも入らぬ木の端は、勿論親でもなく、子でもなし。其一念の直らぬ閒は、時頼、シヽ七生までの義絶ぞ」(第十)、とまで言い放つ。さきに「ドラマティックな展開」云々と述べたのは、「あながちにいさめ」るくだりを、こういった劇的な台詞に仕立て直しているということもさす。
 語彙や表現の面では、樗牛が『平家物語』等の中世の文献から採り入れて換骨奪胎しようとしたふしもうかがわれるのだが、新潮文庫版の解説を担当した鹽谷贊は、さすがは『幸田露伴』(中公文庫に4冊本として収録されており、一時はかなり入手が困難だった)の著者と云うべく、次の様に書いている。

「瀧口入道」の藝術性は歴史小説の構想の新しさにあるよりも、擬古典的な詞章の美しさに存したのであつて、その詞章の簡潔で律動的な美しさは明治の幽玄體をかたちづくつた。――瀧口入道が秋ふかき深草の里に、横笛のなきがらを埋めた戀塚を訪ふくだりには、幸田露伴詩篇「おかみ樣を弔ふ」の句を少し變へて裁ちいれてゐる。「おかみ樣を弔ふ」には言ふ、「夢は到る菩提樹の蔭 明星額を照す處、魂(たま)は馳す耆闍窟(ぎしやくつ)の中 香煙肘を繞(めぐ)る前。……逢ふ瀬短く 恨は長し片科(かたしな)の流、別れ路(ぢ)つらく 愁は探し澤入(さはいり)のたに。」と。「瀧口入道」に言ふ、「あゝ横笛、花の如き姿今いづこに在る、菩提樹の蔭明星を額を照す邊(ほとり)、耆闍窟の中香烟肘を繞るの前、昔の夢を空(あだ)と見て猶我ありしことを思へるや否(いなや)、逢ひ見しとにはあらなくに、別れ路つらく覺ゆることの我ながら訝しさよ、」(p.97)

 『瀧口入道』第二十三からの引用であるが(読点の位置などに若干の相違が有る)、この例からも判るとおり、樗牛は同時代の擬古文をも積極的に摂取していた訣である。
 さて『瀧口入道』発表前後の樗牛については、2018年6月16日付「福島民報」の「ふくしま人318」に次の如くある。

 明治二十六年、高等中学校(仙台の第二高―引用者)を卒業した樗牛は、東京帝国大学文科大学哲学科に進学する。哲学科の生徒は十九人であった。当時の樗牛の生活を見ると、特に哲学科は「勉学専一の課業」とし、朝七時半から夜九時半まで、食事に帰宿する他は、図書館に籠城しているとある。また、土曜日と日曜日はなるべく運動遠足に心掛け、向島で大学付属のボートを漕いだりしている。
 同二十七年の一月ごろ、国元より縁談の話があった時、樗牛は、大学卒業後なるべく三十歳までは学問に専念したく、結婚という考えは毛頭無いと話したという。
 同年四月、読売新聞懸賞小説に応募した「滝口入道」が入選する。優等賞第二席で、第一席は該当者がなかった。新聞社から金時計の代金五十円をもらい、そのうちの一部を実弟・斎藤良太のために使用した。
 「滝口入道」は作者匿名であったため大きな話題となった。この作品は平家物語に題材を求め、悲恋の物語を流麗な文章で綴(つづ)ったもので、青年子女の心を捉えた。なお、樗牛はこれ以降小説を離れている。(佐久間正明氏)

 その後の樗牛は、国家主義が昂揚するなかで「日本主義」を宣揚したかと思えば、ニーチェの著作、とりわけ『反時代的考察』に心酔して「美的生活を論ず」(『太陽』七巻四号、1901年8月発行)を発表、「本能満足主義」に転じるなどしたが、最晩年(といっても未だ三十代初めである)にも「平家雑感」「平清盛論」を手がけるなど、『平家物語』は樗牛の一大関心事であり続けた。
 ちなみに大津雄一氏は、近松秋江芥川龍之介の証言を引いて樗牛の影響力の大きさに言及しながら、

清盛の残した言葉に彼の不屈の精神を見、そこに時代を進めた個性的な英雄の大きなエネルギーを認めるという主旨の発言は今も繰り返され常識化しているが、それはこの樗牛の発言に始まる。それまでの清盛像は、音戸の瀬戸の掘削事業のために太陽を招き返したという伝説のように、その超人的な力を認めはするものの、頑迷で欲深い女好きの入道というのが一般的であった。それがここで一変したのである。(『『平家物語』の再誕―創られた国民叙事詩NHKブックス2013:83)

と評している。

*1:原文では「六歳」。

*2:この本については富士川英郎が次の様に書いている。「これは森氏と柴田宵曲との合著で、甲乙二篇に分たれ、その甲篇を森氏が執筆されていたのであった。森氏はそこで一般に書物や著述家や出版業にまつわる事柄について、三十五項目にわたって、いろいろ書いておられるが、しかし、これはいわゆる書誌学的な論述ではない。また、この種の書物によく見られるように、ひどく好事的、趣味的であったり、衒学的であったりすることも毛頭ない。その地味で、淡々とした叙述のなかに、いわば読書のモラルといったものが、森氏の永年にわたる読書経験に即して語られているのである」(「森銑三氏のこと」『書物と詩の世界』玉川大学出版部1978:245-46)。

*3:手許のは2001年7月16日第55刷で、「重版再開」直後、たしかその7月のうちに購っている。

*4:昭和三十一年四月二十日発行。

*5:図版などでよく見る『瀧口入道』の元本は通常和装本なので、刊行後、時代が少し下がってから洋装本になったのかも知れないが、そのあたりの経緯はちゃんと調べていない。

*6:名前は明かされていないが、幸田露伴ということでもなさそうだ。露伴が選者だったという説はやや苦しいか。

*7:なお穴吹氏は、これがあくまで「樗牛流個人主義=主我主義」であって、「集団よりも個人の意義を重視するという面を取り入れることはできなかった」と評している。