「隠居学」

 先月出た、加藤秀俊『隠居学―おもしろくてたまらないヒマつぶし』(講談社文庫)を時々読んでいる。加藤先生の著作は中公新書で二冊読んだことがあるくらいだから、『隠居学』が単行本で出ていた(2005年刊)のは知らなかった。
 タイトルは『隠居学』だが、これは「『隠居』の学」、すなわち「隠居」それ自体を学問の対象にするという趣旨のものではない。もちろん加藤先生は、「隠居」が社会学的ないしは民俗学的な研究の対象になりうることについては百も承知(「まえがき」p.6)のうえで、あえて「隠居学」なる書名を採ったのである。
 では「隠居学」とは何か、というと、これをひとことで言うのは案外むつかしい。
 さしあたり、「オヤ、熊さんかい、まあおあがりよ」式の御隠居さんが、どんな話題であろうと、おもいつくまま気の向くままに屁理屈を織り交ぜながら「もっともらしい話」をデッチ上げる。――そういう学問のありかただ、とでも言っておくべきか。「もっともらしい話」とはいっても、生半な知識量では「デッチ上げる」(この表現にはいささかの気負いも含まれよう)ことさえ許されない。やはり「学問」なのである。「雑学」、というのともちょっと違う。どこかに「体系性」が保たれているからである。
 この本もすごいよ(高島俊男先生式に)。あるときは『内藤湖南全集』を耽読しているかとおもいきや、柳田國男の『俳諧評釈』に話が移り、一方で蕎麦茶の話、タルタル・ステーキ、『水戸黄門漫遊記』、鞦韆、『三国志』(p.146に小川環樹・武部利男両先生共訳の『三国志 通俗演義』が出て来る!)、稲荷信仰、ロボット、志ん生等々と、その話題は広がりこそすれ尽きることがない。といって単に散漫・雑駁な内容に終るのではなく、「落としどころ」もちゃんと決まっている。
 こういった「隠居学」の淵源――といえば大袈裟だが――を求めようとすれば、中国の雑著から江戸の随筆に至るまで博捜しなければわからないだろうし、私にはおよそ不可能なことであるが、しかし私はこのような「隠居学」の系譜につらなりそうな本にかなり惹かれるところがある。石川淳しかり、丸谷才一しかり、淮陰生(中野好夫)しかり。古くは河野與一の『学問の曲り角』といったあたり。
 というよりも、私は河野與一の『学問の曲り角』で、この類の本に興味をもつようになった、といっていい。私がそれを手に取ったのは大学生になりたての平成十二年、ちょうど出たばかりの新編文庫版(岩波文庫。正続両篇から選ったもの)であった。『説文解字』からプラトン、アクビの話題、その他諸々に至るまで、博引旁証の手並みで論じつつ語るそのスタイルに感銘をうけた(小谷野先生などが指摘されるように、現在からみると色々と至らざる点はあるのだろうけど)。おそらくそのスタイルに影響を受けたかとおもわれる本に、柳沼重剛『語学者の散歩道』(岩波現代文庫)があって、事実、「河野與一先生のこと」という文章も収められている*1。柳沼先生はこの本の「はじめに」で、「散歩だから遠くへは行かない。気のむくままに近くを歩きまわるだけである」と謙遜されているが、内容は、カエサルの名言とされる「賽は投げられた」をめぐる誤解からシクラメンの薬効に至るまでと、文献学派の面目躍如たるものがあって、このような著作になると、もはや「デッチ上げ」という表現はふさわしくあるまい。学問の楽しさがストレートに伝わって来る一冊で、語学や西洋史に関心がある方に一読をおすすめする。
 さて「隠居学」といえば、「金関丈夫」の名を逸することはできないだろう。こちらも『木馬と石牛』という新編の岩波文庫ここで紹介したことがある)から入門したクチで、私はまだ数冊読んだにすぎず、いわゆる「金関学」の全貌はまったくわからないのだが、金関の『長屋大学』(法政大学出版局)こそ、加藤先生の仰る「隠居学」のイメージにもっとも近いかもしれない。特に第一部の「長屋大学」は、御隠居が熊さんを煙に巻きつつ語原俗解を説いたり、『薔薇の名前』のネタ元(?)らしき話を講じたり、といった体裁をとっており、もしかすると加藤先生の念頭にはこれがあったのではないか、とさえ考えてしまう(ここに書いた露伴の「雪たたき」に関する文章もあり。pp.125-27)。とにかく、恐るべき本で、しかもとてつもなく面白い本で、いつかこの本についてもう一度詳しく述べられたら、とおもう。

新編 学問の曲り角 (岩波文庫)

新編 学問の曲り角 (岩波文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

新編 木馬と石牛 (岩波文庫)

新編 木馬と石牛 (岩波文庫)

長屋大学

長屋大学

*1:柳沼先生は、これとは別の文章(「イソップなどを読んで文楽志ん生を思い出すこと」)で、『学問の曲り角』の「大人のためのイソップ」(文庫版は収録せず)を紹介している。