「福引」の本、二冊め

 こないだ某店の店頭200均で、多木鎭雄著『新案 福引資料集成』、という本を購った。
 購入した「福引」の本は、これでようやく二冊めである。一冊めは神鳥洞春亭編『新版 福引一千題』(東栄堂実用新書1960)で、同書については以前ここに書いたことがあり、お題の例も記しておいた。書名にはあらわれていないが、今回購入したのも1,000題掲載している。
 さて、「福引」とは何か。過去記事にも、その定義を一応書いておいたのだが、もう一度書く。
 いま『日本国語大辞典〔第二版〕』(小学館)を引いてみると、「(1)くじ引をしてさまざまの品物を取り合うこと。多くの綱・紐などに種々のものをつけ、引き手にはそれを隠して引かせる遊戯。正月の遊びとして多く行なわれた」、「(3)商品の売出しで商品を買った人、または宴会の余興などで出席者にくじを引かせ、当たった人に景品を出すこと」などという語釈が記されてはいる。しかし、その語釈のなかに適当な定義は見当たらない((3)の義が最も近いのではあるけれども)。ただ(1)の語釈の下に、若月紫蘭『東京年中行事』一月暦(1911)から「新年には殊に福引(フクビキ)と云ふものが行はれる。古くから行はれて居る帯引又は宝引と云ふものに酷似して、地口めいた事又は謎めいた事を記した鬮(くぢ)を引かせて、品物を与へて興を助くるので有る」という記事が引用されており、私の言いたい「福引」はこれに当たる。
 上引の記事はちょうど百年前のものであるし、たとえば、黒岩比佐子『古書の森 逍遙―明治・大正・昭和の愛しき雑書たち』(工作舎2010)pp.198-99 が引用している『現代娯楽全集』(晴光館書店1910)の「現今行はるゝ福引は一座の興味を助くる為め、其物品をあらはに書かずして地口めきたる事を籤に書き」というのもそれから遡ること一年前の記事なのであるから、「福引」という名のこの余興は、まあ百年くらい前からさかんに行われるようになったもの、と考えてよかろう(元記事のこちらもそうだし、本のほうはさらにひどくて「かいじょうしょう」と振り仮名がついているのだが、『現代娯楽全集』引くところの『壒抄』って一体何だ? 『壒抄(あいのうしょう)』または『壒囊』ではないのか。『現代〜』の単純な誤植、誤ルビであろう。ちなみに、『日国』には『塵袋』からの引用は見えるが、『壒囊抄』の用例は無し)。
 さて、多木鎭雄著『新案 福引資料集成』に話をもどすが、実はこれはカバーに記されている書名で、中身(表紙、扉、奥附共々)のタイトルや著者は全く異なり、「花木大魚編『新案 福引の作り方』春江堂」、とある。奥附によれば昭和十四年(1939)十一月三日刊の再版本で、初版は昭和十二年十一月五日に出ている。奥附をさらによく見てみると、欄外下部に小さく右横書きで「昭和九年十二月廿日発行」、とある*1
 またこの本は、こちらにカバー無しの同書が紹介されている。国会図書館本のデータを見ると、「花木大魚編」の『新案 福引資料集成』(昭和九年刊)、という書名になっている。いずれにせよ、かつて(昭和九年)は『新案 福引資料集成』なる書名で出ていたようで、タイトル(ならびに著者?)だけ替えて昭和十二年に刊行したのであろう。なお、黒岩さんのブログのこのエントリのコメント欄参看。昭和十二年刊の『新案 福引資料集成』が紹介されていて、お題も一致するのでこれと全く同じ本であろう(花木大魚編『新案 福引資料集成』と多木鎭雄著『新案 福引資料集成』との関係について、さらに詳しいことをご存じのかたにご示教を乞う次第である)。
 それにしても、「福引」本がこぞって書名に「新版」「新案」を冠したがるのは面白い。実態はどうあれ、類書とは一線を劃したい、という意欲のあらわれであろうか。
 それから、これらの本がだいたいお題を「1,000題」載せると相場が決まっているのも興味ふかいところである。黒岩さんが前掲ブログならびに前掲書で紹介されていたのも、酔狂散史『大正福引一千題』(求光閣書店、大正二年十二月初版、六年十一月四版)、なのであった。

古書の森逍遙?明治・大正・昭和の愛しき雑書たち

古書の森逍遙?明治・大正・昭和の愛しき雑書たち

*1:実をいうと、この本にはもともと他店舗で5,250円の古書価(元値は三十銭)がついていたらしく、札が挟まっていたのだが、その激しい「値崩れ」にお得感があったので買ったといってよい。