「巳己巳巳(イコシキ)」四字説

 以前ここに、「己巳已」三字対立について、そして三字の区別に関する口承記憶法について書きました。
 その後、拙ブをご覧くださった方々から、口承記憶法の別なヴァージョンをご教示いただいたり、許慎『説文解字(せつもんかいじ)』(A.D.100頃成立、以下『説文』とする)由来の「二項対立型」について知ることとなったり、触発されることしばしばでした。
 そこで、前から少し調べて書きためておいた一部を、(まだ調べるべきものは多々ありますが)書き残しておくことにします。

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 上に『説文』うんぬん、と述べた。これは何かというと、『説文』では、現在区別されている「已巳」が区別されずに「己」との二項対立になっている、ということである。なにもこれは『説文』特有の問題ではなくて、唐代の楷書字形(唐楷)なども同断で、「已巳」はほとんど区別されることなく使われている。
 付けくわえておくならば、現在は別字と考えられがちな「已」「以」「㠯」の三字は、同じ「音」や「義(意味)」をもつ文字である。このような関係にあって、かつ文字の「形」だけが異なっているものを、ふつう「同じ『字種』の文字である」、という。わかりやすい例をあげるならば、たとえば「嶋・島・嶌」等の関係に同じといってよく、つまりは各々が異体関係にあるわけだ。ただし、「もちいる・つかう・おもう・もって・ゆえに」等の義はこれら三字に共通している(=共通義)けれども、「已」のみ「すでに・やむ」の義をもつ。要は部分的に「字種」差を生じているわけで、これは「裏・裡」の関係に似ているかもしれない。いずれも「リ」という音をもつ字で、本来は義も共通しているはずなのだが、現代日本では「裏」を「うら」と訓じて「裡」を「うち」と訓ずるのがなぜか一般的になっている(「訓」を単純な「ヨミ」だと考えてはいけない。「意味をあてたもの」、と考えるべきであろう)。
 なお、「已」「以」「㠯」については面白い説があって、「㠯」を時計まわりに90度回転させたのが「以」字で上下反転させたのが「已」字であろう、とする見解もある(大熊肇『文字の骨組み―字体/甲骨文から常用漢字まで』彩雲出版2009:254-56)。なるほど、甲骨文や金文を参照すると、たしかにそのようにも見えて来る。
 さて、「己已巳」三項対立の話に戻そう。これは、『説文』や唐楷では「己」「已巳」の二項対立であると述べた。これが本来の対立形式であっただろう。
 しかし、現在では、「己已巳」が厳密な区別のもとで扱われている。「已然形」の「已」は「巳」とは違って上にはつかない、と口やかましく指導された記憶をお持ちの方も多いとおもう。このような区別はいつ定着したのだろうか。はなはだむつかしい問題であるが、活字の普及、はっきり言うと明朝体活字の盛行がそれに関与していることはまず疑いない。日本でも、活字がなかった時代や手書き文字が主流であった時代には、三字は厳密に区別されることがなかったし、その余波は1970年代や80年代になってからでさえ確認できる。そしてそれとは逆に、以下で見るが、かつての日本にはなんと四項対立説(!)というものさえ存在し、二項対立や三項対立と併存していたのである。

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 医学博士にして理学博士の松下禎二に、『文字ノいろいろ』(福音印刷會社神戸支店・裳華房書店1920)なる著作がある。漢字雑学本のハシリ*1といえる本だが、九〇〇ページもある労作で、小学書類をさかんに参照しており、歴史資料としてもなかなか貴重なものである。この刊行当時もやはり「己已巳」の三字が区別されるのがふつうであったことは、四〇ページ(三字の口承記憶法)、八八ページ(「辨似」)、二〇二ページ(「己已巳ノ用途標準」)の記述から明らかなのだが、八ページ以降に「小野篁歌字盡」(おののたかむらうたじづくし、以下「歌字盡」とする)の紹介がなされていて、その二五ページに四項対立説が出て来る。すなわち次のようである。「已(い)すでに・やみ 己(こ・き)おのれ・つちのと 巳(み) 巳(き) すでにかみおのれはしもにつきにけりみはみなはなれつちはみなつく」。
 PCの画面上では四字の区別がつかないのが残念だが、すでに「已(イ)」の形(駄洒落)からして違っている。現在は、「己已巳」三字は三画めの曲線が一・二画めに対してヨコ向きにつくか離れるかが問題となっているが、「歌字盡」では、三画めがタテ向きにつくか離れるかが問題となるのであって、「已(イ)」は二画めと三画めが離れているのである。……などといっても、やはり百聞は一見に如かずで、実際にご覧になったほうがよくお分かりになることとおもうので、画像を掲げておくことにしよう。東京学藝大附属図書館の「望月文庫往来物目録・画像データベース」から、(天和板だの寛政板だの色々あるが)天和三年本を見ていただくことにしよう。ここの七丁オモテ、ページ番号でいうと「8」の左側、この画像である。ちなみに、紙媒体の本で見やすいのは、杉本つとむ編『異体字研究資料集成 第九巻』(第一期。雄山閣1975)に収録された、元禄五年刊本(東大図書館蔵本)であり、これは解説も充実していて良い。その三一一ページに当該箇所がある*2
 これをご覧になれば、私の言いたかったことがお分かりになるかとおもう。二字めと四字めの「己(こ)」「巳(き)」は、形の上では現在の「己(こ・き)」「巳(み)」に該当するが(それでも、「こ」と「き」とがふたつに分かれるのはやはり奇異である)、一字めの「已(い)」と三字めの「巳(み)」は、三画めがタテ向きに(一部か全てが)離れているのである。この二字の形は、現行の活字や手書き文字には存在しない。

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 「歌字盡」の四項対立説に言及したのが、乾善彦(1992)「同形異字小考―西本願寺本万葉集を資料として」(前田富祺編『国語文字史の研究 一』和泉書院)である。そこに次のごとくある。

 『正俗字辨』でふれているように、已巳(イ・シ)を同字と見て二字と区別する説や、逆に三画めのつきはなれによって四字を区別する説も見える。
 例えば、弘治二年本節用集、永禄二年本節用集の附録部分に、
 巳(イ)・己(コ)・巳(キ)・巳(シ) 上著、下著、皆離、皆著*3
と四つの“かたち”を区別する記述が見える。これは江戸時代に入ると『小野篁歌字盡』に(略)歌われるようになる。『小野篁歌字盡』は江戸から明治にかけて実に多くの版を重ねており、初学の文字習得に大きな影響を与えたものと思われる。とすると、この四字説は、『字彙』に見える三字説が字体関係書を中心に広まっていたとしても、異なる位相である程度の広まりを有していたと想像される。(p.74)

 こう述べたうえで乾先生は、「中世から近世にかけて『己・已・巳』は、現在われわれがもつ規範だけではなく、さまざまな規範がありえた」(p.75)と結論されている。
 上の記述には、他にも注目すべきことがある。第一に、「歌字盡」以前から節用集類で四項対立が見られたということ、第二に、『字彙』(梅膺祚ほか撰、萬暦四十三=1615年刊)が三項対立を広めたらしい、ということである。
 ここでは、第一の点のみ見ておくことにしよう(第二点についても少しは調べているが、これはまたの機会に、ということにしておく)。

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 「巳己巳巳(イコシキ)」四項対立型(文字の形は以降、便宜的にこう表示する)は、乾先生が述べられたように、節用集類の「附録部分」に早くからあらわれる。後にも述べるが、これは節用集類だけではなく、それ以前の『下学集(かがくしゅう)』の諸本にも見える附録である。
 ここで「附録部分」というのは、具体的には、「點畫少異字(てんかくしょういじ)」とか「分毫字樣(ぶんごうじよう)」とかいった表題がついている。これらは、中国字書の「分毫字樣」や「辨似(べんじ)」を継承した類字の辨別表で、要は、形がよく似て紛れやすい複数の漢字を音や義を示すことで区別したものである。
 ついでに言うと、中国での「分毫字樣」は、大中祥符六年(=1013)成立の『玉篇』(『大廣益會玉篇』の略称。原本系『玉篇』は残巻しか存しないが、この『大廣益會玉篇』を以下でも単に『玉篇』とする)の巻末に附されたのが確認できる最初のもので、『玉篇』本文の音注は反切、すなわち「某某切」形式で示されるが、「分毫字樣」の音注は反切のみならず、「某音某」のような同音字注(または直音注とも)で示される。当該部が『玉篇』の本文成立以前に存した証左である(曾榮汾「《玉篇》編輯觀念研究」『第十七屆 中國文字學全國學術研討會』2006:24)。なお『玉篇』の「分毫字樣」は、二字ずつの対立組が124、すなわち全部で248字を収める。
 しかし分毫字樣のスタイルは主流とならず*4、『字彙』(日本の特に江戸期に多大な影響を与えた字書である)では巻末に「辨似」が附されていて、中国ではこちらが主流となる。「辨似」は、二字対立型に限らず、二項対立型から五項対立型までを掲げる。のちの夏宏『字考』(萬暦四十五=1617年成立)や張自烈『正字通』(康煕十=1671年頃成立)がこれを踏襲しており、特に後者は『字彙』の辨似をそのまま承ける(但し巻首の「檢字」後に移動しているから収載位置が異なる。後述の『康煕字典』もこれに同じ)。張玉書ほか『康煕字典』(康煕五十五=1716年成立)もこれを襲うが、『字彙』に大幅な増補を施している。各対立型別の組数は次のようである。

二字相似『字彙』211  『康煕』337
三字相似『字彙』 7  『康煕』 25
四字相似『字彙』 5  『康煕』 9
五字相似『字彙』 2  『康煕』 1

 『字彙』の五字相似1組は、『康煕字典』が削除したかのようにみえる。しかし、これは「卥(セイ)」字を含む組が四項対立となるか五項対立となるかの相違にすぎない。よって対立組数の面からは増減なしと見なしてよい。
 『康煕字典』以後にも、たとえば王錫侯『字貫』(乾隆三十九=1774年序)が巻末に辨似を附しており、部首別に整理をおこなっている。
 さて、前置きがやや長くなってしまったが本邦の話に移る。
 本邦には、「分毫字辨」や「辨似」に類似したものとして、「點畫少異字」がある。これは、東麓破衲(とうろくのはのう。正体不明の人物であるが、おそらくは禅宗の僧であろう)による『下学集』(文安元=1444年成立?)に収載された。基本的には、「推椎(スイ・ツイ)〔上ハ推譲下ハ槌也〕」(亀甲括弧内は割注。以下同)のように、二字対立形式で文字を辨ずる。音注はカナで右傍や左傍に示されている。これは、後の『節用集』に転載されたが、各本の排列順に異同がある。原形と目される文字組は「推椎」から「裁栽」までの56組であり、なかには増補したものもある(川瀬一馬『古辭書の研究』大日本雄辯會講談社1955)。
 『下学集』の諸本をざっと見てみると、まず亀田本巻末の點畫少異字が56組、東京教育大学蔵本巻末の點畫少異字も56組(亀田本と排列一致。末尾に別筆で「樂樂〔上下不分〕」「白白自〔以之可尋〕」とあるが、これらは文字の辨別とは判断しにくいので、除外してよかろう)、文明十七年(1485)本巻末の點畫少異字も56組で、亀田本と全同である。
 このほか、一部を脱した(52組)永禄二年(1559)本とか、大幅に増補を施した(158組)元和三年(1617)本とか色々あるが、ここで詳しいことは述べない。

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 これらの「點畫少異字」には、「己巳(コ・イ)」の二項対立型が必ずあらわれる(私が参照しえたもので、この組を脱したものはない)。少なくともこの箇所が『玉篇』の「分毫字樣」を承けたものであることは明らかで、『玉篇』は「己巳〔上居里反身也、下羊己反止也〕」となっているのに対し、『下学集』諸本では「己巳(コ/ヲノレ・イ/ヤム)〔上ハ身ノ義、下ハ止‐也〕」(音訓に多少の異同あり)となっている。反切を削除したうえでカナ音注や訓を附したわけである。
 このように、江戸期以前の『下学集』系統の本では、下つきの「己」と全部ついた「巳」とが対立する、『説文』以来の二項対立型が一般的であった。げんに、たとえば上でふれた東京教育大蔵本は「己巳(ヲノレ/コ・ヤム/スデニ/シ・イ)となっており、現在区別される「已巳」二字を同一視していることが知られる(もっとも、その掲げられた形は「巳巳」のように見えるのだが、これは手写である以上、致し方のないことである)。
 ところが、室町末期写とおぼしい『音訓篇立(おんくんへんだて)』人下第七十一「異同字監」(第八冊三十六オ)を見てみると、やや様相を異にしている。これは、類字を2字ずつ54組掲げたもの(計108字)で、音注のみ直音形式で示したものであるが、その第七、第八番めに次のごとくある。

巳己〔以・古〕
己巳〔志・記〕

 上の組の「以」(の音を有するもの)は形が「巳」、「古」は「己」のように見えるが、下の組の「志」は「歌字盡」の三字めのタテ向きに三画めが離れた「巳」のように見え、「記」は「巳」のように、あるいは「已」のようにも見える。つまり、「歌字盡」の四項対立とまではいかないが、それに近い規範を有しているといえるのである。
 これは(あくまで)形のうえからは、三項対立を「二対二」の形で示したもの、つまり「A:B:C」の鼎立型を「A:B」「B:C」のごとく分割して示したように見えるのだが、これも手写であるから、しかりと断ずるのはむつかしい。
 むつかしいのではあるけれども、かりにそうであるとして、これこそ四項対立を「A:B」と「C:D」とに分割したものである、と誤解してしまう可能性は十分ありそうなことである。

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 推論をまじえたが、「巳己巳巳(イコシキ)」四項対立型は、乾先生もお書きになっていたように、節用集類の附録部分に多々見える。以下にそれを見ておこう。
 まず、永禄二年(1559)本巻末の「點畫少異字」(「下学集在之分加之」と明記する)は『下学集』の基本組56に「已己巳巳(イコシキ)〔上著下著皆离皆著〕」を追加した57組となっている。次に、京大蔵本の經亮(つねあきら)本(永禄八年以後間もない頃に成立したか。「下学集在之」と明記してある)の巻末「點畫少異字」にも「已己巳巳(イコシキ)〔上著下著皆离皆著〕」があり(57組)、また黒本本(室町末期写)巻末の「點畫少異字」にも末尾に「已己巳巳(※音注ナシ)〔上著下著皆离皆著〕」がある(後者は他本とは22組の排列順が異なるが、漏れはない)。
 このように、節用集類でしばしば見られる四項対立は、『易林本節用集』(慶長二=1597年刊。以下「易林本」とする)巻末の「分毫字樣」には反映されていないようである。不思議なことに、こちらはなぜか「點畫少異字」ではなく、『玉篇』系の「分毫字樣」が巻末に附されているわけだが、慶長年間の草書本、後の『節用集大全』類もこれを踏襲している。
 『玉篇』の「分毫字樣」が伝統的な「己巳」の二項対立型を示すことはさきに見たが、それゆえ「易林本」の「分毫字樣」もやはり二項対立である。
 ところが、その影響下にあると思しい東京学藝大蔵本の『節用集大全』を見ると、単純な二項対立になっていない。ここの71枚め、「分毫字樣」の末尾あたりをご覧いただきたい。まず「己巳(キ/ツチノト・イ/スデニ)」という伝統的な対立形式を示したうえで、その左傍に、「己(コ/ヲ(「ク」は誤刻か)ノレ」「巳(シ/マツル/ヤム)という別な二項対立が示されている。形の上では「キ」と「イ」と「シ」とに明らかな差異を認めがたいが、ここに四項対立型の影響がうかがわれはしないだろうか。

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 最後に、ひとつ面白い例をあげておく。天正十八年(1590)の序を有する珠光(この人物も経歴が明らかでない)編『浄土三部経音義』(勉誠社文庫で影印が出ている)の巻末に、「三經礼讃中兩音異訓字」というものがある。これを見ると、「已」一字が挙がっており、「イ音ミ スデニ」「シ音ヤム ヲワル」「コ キ音ツチノト オノレ」という三項目が示されている。
 これは、現代と同じく「イ・シ・コ/キ」の三項対立がこの当時も意識として確かに存在したことを示すもので、それが手書きで書かれる際、さほど厳密に書き分けられなかったという実態をあらわすものであろう。

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(以下11.7追記)
 芳賀剛太郎編『誤似明辨 新案漢字典』(郁文舎1907)に、四項対立型に近いタイプのものが見えることを、佐藤貴裕先生からご教示頂きました。こちらです。
 ここでは、「己‐已」という二項対立型と、「己‐巳」という二項対立型とが挙がっています。これはあるいは、三項対立を二つに分割したものでしょうか。
 ふたつめの「己」に「同上」という注記がありますが、これはたぶんすぐ右側の「己」を指すのでしょう。しかし、これらの二つあとに掲げられている「毋」の字形が、左隣にある「同上」とされるものの字形と少し異なっているのは不思議なことです。
 ついでにご紹介しておくと、「四項対立型」には、「巳己巳巳(イコシキ)」型のほかに、実はもうひとつのタイプがあります。
 それは、たとえば中島操編『初學須用 假名格・辨似字』(金港堂1877)にあります。これも、ここで見られます。「己」が重複してあらわれるのですが、ふたつめの「己」は、「エ」と「乚」とを組み合わせた古文になっています。このような四項対立型が何に由来するのか調べてみるのも、面白いかもしれません。

*1:ちょっと遡れば、書家の樋口銅牛による『漢字雜話』があり、これも漢字雑学本の一種といえるだろう。本ブログでも以前ふれたことがある。こちらは「近代デジタルライブラリー」でも読める。

*2:なおこの叢書には、「歌字盡」のいわばパロディ本である、恋川春町黄表紙『サトノバカムラムダジヅクシ』(天明三年刊)と、式亭三馬滑稽本『オノガバカムラウソジヅクシ』(文化三年刊)とが併録してあり、これらも見て楽しい(書名の漢字は表示できない箇所があるのでカナ書きとした)。前者に収められた「おういちざ」というのは、『今昔文字鏡』に入ったので有名になった。「曉に死す」の「漢字雑文」コーナーのこちらの記事(http://www.akatsukinishisu.net/kanji/ooichiza.html)を参照のこと。

*3:「著」「着」も本来は書体差に由来する同字、つまり同じ字種に属する文字であったが、昭和期以降、次第に区別が明確になってきた。現在でも、年輩の方のなかには「つく」義の字も「著」と書かれる人がいらっしゃるとおもう。

*4:分毫字樣のスタイルに追随したいわば「傍流」として、李秘園『字學七種』冒頭の「分毫字辨」、および夏宏『字考』所載の「考疑似字」がある。これらはおしなべて二字対立で、その音注も全て反切ではなく直音方式である。