『西行花伝』餘話

 前回の記事への補足。
 辻邦生が『西行花伝』(新潮文庫2011改版←新潮文庫1999←新潮社1995,以下『花伝』)を書き上げるまでには、幾つもの壁に阻まれて、思うさま筆を進めることができなかったようだ。「なかでも大きな問題として立ちはだかっていたのが、当時の荘園の興亡だった」(「西行をめぐる歳月」『物語の海へ―辻邦生自作を語る』中央公論新社2019所収:325)*1という。続けて辻は、

 西行はもと紀ノ川のほとりの田中荘の領主佐藤義清(のりきよ)である。また弟佐藤仲清と高野山領荒川荘との土地争いは目崎徳衛氏などの研究でクローズアップされている。
 摂関家の大荘園は賦役(ぶえき)を免れていた。その結果、当然、国家に税収が乏しくなる。そこでまたその分だけ中小荘園に田租と夫役(ふえき)の負担がかかってくる。土地争いも起る。現代でいえば大企業が免税特権など優遇措置を受け、零細企業が圧迫されるのに似ている。西行も荘園の在地領主だったから時代の不公正に無関心ではいられなかっただろう。(同前pp.325-26)

と述べている。
 作中では、中小の在地領主たちのこういった窮状が、まずは西行の従兄・佐藤憲康や、「黒菱武者」こと氷見三郎の言をとおして語られる。

「義清、諸国から陣定(じんのさだめ)に訴え出ている相論の数を考えてみるべきだな。荘園と国衙の間で、検田使入勘の権限があるの、不輸不入(租税不払いと検田使拒否)の申し立てをするの、四至牓示(しじぼうじ)を破棄したのと、争っている。氷見三郎の頸城荘も、東大寺荘園からの押妨を受けているというのだ」(「五の帖」pp.173-74)

 氷見三郎の意見では、諸国の在地領主たちの私領を犯すのは、京都朝廷に巣食う摂関家の厖大(ぼうだい)な荘園だというのだ。それに東大寺延暦寺、春日社などの寺社荘園ともども、国衙の田租徴収を免れている。免租の荘園の増大により、当然、国衙の財源は減少する。そこで在地領主たちの零細な領土に検田使が立ち入り、田租の査定をする。人足供与を決定する。(同pp.174-75)

 荘園の通史については、伊藤俊一『荘園―墾田永年私財法から応仁の乱まで』(中公新書2021)が手際よくまとめており、たいへん参考になる。それによれば、十世紀後半に国衙の担い手として頭角を現した在庁官人が中心となり、朝廷による制度変更などを背景として形成されていった地方社会の有力者こそが、そもそも「在地領主」なのであった。その在地領主に、「山野も含めた領域内の開発・経営を一括して(略)任せ、自由に手腕を発揮させ」た荘園を、「領域型荘園」と呼ぶ(p.84)。
 やがて上皇摂関家も領域型荘園を次々に設立してゆき、鳥羽上皇のもとでは「日本の国土の半分強が荘園になった」という(同p.92)。くわえてこの領域型荘園は、「国司使節の立ち入りを拒否できる不入権が刑事権、裁判権にまで拡大して、一種の治外法権的な領域になった」(p.104)。
 こういった領域型荘園が各地に設立されるにあたっては、「既存の私領や公領が入り組んだ領域を荘官に一括して管理させたから、それまでの権益を奪われた領主も多く出る。ある在地領主が荘官の地位を手に入れたのは、たまたま院近臣や平家とのコネクションをつかんだからで、取り立てて能力が高かったからでもない、と「負け組」の在地領主は思ったことだろう。領域型荘園の設立が相次いだ院政~平家政権の時代の地方社会には、そうした嫉妬と怨念が渦巻いており、そのどす黒いエネルギーが源平の争乱を生んだのだ」(p.126)。
 そのような「負け組」の在地領主たちの状況を見聞きしてきた西行は、『花伝』作中で次の様な結論に至る。

「氷見三郎のような領主は、いま諸国にどれ位いるか、到底数え切れない」師は草庵の庭を前にして萩や女郎花が咲くのをじっと見ていた。初秋らしく昼過ぎなのに虫の音がかすかにしていた。「私の出た佐藤の家も同じような領主だ。領主だが、その領地のなかで安心しているわけにゆかない。領地はほとんど摂関家か大寺院か有力貴人の家に寄進されている。だから、領主と言い条、すべて寄進先の摂関家などの荘園の下司なのだ。どうして摂関家や大寺院に寄進したかといえば、大荘園は有力者のものだから、夫役もなく、田租地租も免除される。群小領主の領地だと、国衙から検田使の検注は強化される、夫役は増大する、賦課は強化される、あげくのはては国衙領編入されるという騒ぎなのだ。たしか秋実*2も若いとき甲斐国衙の役人が熊野社領に乱入した事件(できごと)を経験していたな。それも国衙の勘入のすじ書きによったものだ」(略)
「こんな次第だから荘園領主と群小領主のあいだにはたえず争いがある。国衙ともつねに不和がつづく。群小領主は仕方がないから、自衛の強者(つわもの)を集める。下司職(しき)の取得(とりぶん)としての石高(こくだか)をめぐって、荘園主家とたえざるいざこざがある。氷見三郎は大荘園に寄進せず、独りで領地を耕し、国衙の夫役田租に反抗していたから、いずれ表立って争わなければならない状態に追いこまれていた。藤原秀衡殿を棟梁(かしら)にして摂関家に楯をつこうとしたのも、所詮はこのままでは群小領主は潰されてしまうからだ。どうしても群小領主を庇護してくれる棟梁(かしら)が要るのだ。その棟梁(かしら)は領土を保全(たも)ち、夫役田租を軽減する。その代り群小領主たちの奉仕を要求する。つまり棟梁(かしら)は、群小領主の奉仕を要求するが、同時に領主たちの身分、地位、領土は安堵(あんど)してやる。いま諸国の群小領主たちが望んでいるのは、こうした棟梁(かしら)なのだ。かつて氷見三郎が奥州藤原を棟梁(かしら)としようと目論んだようにな」(「十八の帖」pp.672-73)

 ここで辻は、「棟梁」に「かしら」という和訓を宛てているが、当時の「棟梁」が意味するところに就いては、桃崎有一郎『平安王朝と源平武士―力と血統でつかみ取る適者生存』(ちくま新書2024)pp.64-74が詳述している。
 桃崎氏によれば、「棟梁」とは、「ある集団(組織・世界・業界)の最上部付近の地位にあって、制度や権限によらず、輿望(声望)とその裏づけとなる(集団内で)最高レベルの力(実力や血統)によって、集団を望ましい形に束ねて維持する役割を、衆目が一致して期待する人物である」(p.71)。少なくとも、源平合戦の時代の前後には、「武家のトップ」といったニュアンスで用いられる「武家の棟梁」といった表現は存在しなかったのだという(pp.72-73)。
 桃崎著の大きなテーマが、いわゆる武士が、源氏・平氏を長とする武士団の郎等として編成されてゆく過程、ひいては、武士の代表格が「源平」となった過程を追うことにある。その結論としては、「源氏と平氏を武士の代表格として同格に扱い、二つ並べて「源氏平氏」という熟語として使う感覚、つまり「源平」という概念は、平正盛源義親追討を成功させた結果生まれたものと見て、まず間違いない」(pp.297-98)――ということになる。『花伝』にも「源平争乱」といった語が登場するが(p.674)、争乱の内実が「源平の対立」だという感覚は当時から存在していたとみて間違いないようだ。
 桃崎氏はかかる事実を踏まえたうえで*3、学界で主流とされる「治承・寿永の内乱」という術語に疑義を呈している。
 下村周太郎「第2講 治承・寿永の乱」(高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』ちくま新書2020:35-53)によれば、「治承・寿永の乱」なる語を初めて用いたのは、マルクス主義歴史学者の松本新八郎なのだそうで、1949~51年の論文ですでに「治承・寿永の乱」「治承・寿永の内乱」を用いているという。また下村氏は、松本が「治承」を重視した理由についても、「一一八〇年(治承四)三月に園城寺延暦寺興福寺の衆徒(しゅと、僧兵)が連合を図った事態を、先進地帯における人民の革命勢力への結集として重視したから」だ(p.36)、と説く。

 戦後、学界に大きな影響を与えたマルクス主義では、人類社会は不断の階級闘争を通じて奴隷制封建制→資本主義→社会主義共産主義と発展するものと考えられた。松本氏による「治承・寿永の乱」概念の提唱には、古代奴隷制社会から中世封建社会への進歩を示す画期的出来事としてこの戦乱を意義付ける意図があった。「源平合戦」では武力集団たる源氏(頼朝)と平氏(清盛)との間の勢力争いしか意味しない。これに対し、マルクス主義の立場から全社会的な変革のうねりを見出したところに「治承・寿永の乱」は産み落とされたのである。(p.37)

 したがって、マルクス主義歴史学の退潮とともに、「治承・寿永の乱」という用語もやがては消え去る運命にあった筈だが、政治史的研究の進展に伴って争乱の複雑な構造が明らかにされてゆく過程で、旧来の「源平合戦」「源平争乱」がかえって避けられるようになってしまったとおぼしい。
 川合康氏も次の如く述べている。

 たとえば、内乱が勃発した治承四年(一一八〇)段階にかぎってみても、頼朝挙兵につづいて、八月末から九月には信濃国木曾義仲甲斐国甲斐源氏武田信義紀伊国では熊野別当湛増(くまののべっとうたんぞう)らが蜂起している。
 十一月には延暦寺堂衆や園城寺衆徒と連携した近江源氏が、反乱諸勢力を組織して「近江騒動」と呼ばれる事態を引き起こし、美濃国美濃源氏若狭国の有力在庁もこれに同調する動きを見せている。
 さらに十二月から翌治承五年にかけては興福寺衆徒と結んだ河内石川源氏が蜂起し、遠く九州では肥後国菊池隆直豊後国で緒方惟義(これよし)、四国でも土佐国源希義(まれよし)、伊予国では河野通清(こうのみちきよ)を中心とする勢力が叛旗をひるがえしており、内乱は同時多発的形態をとって、またたく間に全国に拡大していったのである。
 この事態を見れば、治承・寿永内乱期の戦争を「源平」棟梁の争覇ととらえる伝統的思考が、いかに一面的なものであるかは明白であろう。
 治承・寿永の内乱は、平氏軍制の展開によって地域社会に醸成されえた領主間競合に基づいて、全国各地でみずからの地域支配を実現しようとする大小さまざまな蜂起をよび起こしていったのであり(元木泰雄平氏政権の崩壊」)、「源平」争乱として認識されるよりは、はるかに広範囲に、しかも地域社会レヴェルでの利害と深くかかわりながら展開したのである。(『源平合戦の虚像を剝ぐ―治承・寿永内乱史研究』講談社学術文庫2010←講談社1996:69)

 そこで「治承・寿永の乱」も生き永らえることになった様だが、これは単に、それに代わる新たな術語が編み出されなかったという事実の反映であるようにもおもえる。
 なお下村氏も、桃崎氏と同様に、「いま改めて留意したいのは、治承・寿永の乱を「源氏対平氏」という図式で捉える心性が、既にリアルタイムで存在していたこと」にも言及しており(『中世史講義【戦乱篇】』ちくま新書p.44)、さらには、治承四年(諸勢力の蜂起)から文治五年(奥州合戦)に至るまでの過程を「トータルに把握する」要請のもとに、「最近、「治承~文治の内乱」という表現が用いられる」ようにもなってきた(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府清文堂出版、二〇一四)とも述べている(同p.51)。

*1:初出は「波」一九九一年六月号。

*2:『花伝』の第一の語り手で、西行の弟子を名乗る藤原秋実。架空の人物である。

*3:さらに、壇ノ浦での合戦や源頼朝奥州藤原氏を滅ぼした元暦二年(文治元年)や文治五年の「元暦」「文治」を切り捨てる理由がない、という条件なども挙げている(p.22)。