後藤朝太郎の「漢和辞典改革」

 一昨年、なぜか後藤朝太郎の『支那の体臭』(バジリコ)が突如として復刊されたが、後藤はこのような“ルポルタージュ”を書く以前、もっぱら「言語学者」として知られていた。
 銅牛樋口勇夫の『漢字襍話』(郁文舎ほか1910)には、「漢字の言語學的研究に沒頭沒脚せる人」として登場する。

今一言して置きたい事がある。其れは高橋(龍雄―引用者)氏が國學院雜誌上「愚なる漢字の研究」なる論説中後藤朝太郎氏の如き專門の漢字研究者は日本に二人か三人あれば澤山ぢや。と言つて居るに就てゞある。成程後藤氏の如く漢字の言語學的研究に沒頭沒脚せる人はさう多くを得ようとしても容易に得られもすまいけれども、漢字の根本的智識を日本國民全體に普及せしめて日常誤りなく精確に漢字を使用せしめむ爲には雜話子位の木の葉研究者の十萬人や二十萬人は有つても邪魔にならぬではあるまいか。(p.129)

 後藤は、著述活動の初期に『漢字音の系統』(六合館1909)を書いている。これは卒業論文を発展させたものという。伊澤修二、上田萬年、市村瓚次郎の序文が附されており、萬年はその序で「後藤君の著述を見るたびに、我國に新研究の興つて來るのを大に喜び、我が文科大學内に東洋學の健全なる基礎が、漸次置かれて行くのを賀する」(p.3)と述べている。
 もっともこの書物は、今日殆ど顧みられることがない。
 たとえば、「黒」の諧声字として「黒kok(-u)」:「默墨mok(-u)」、「毎」の諧声字として「晦海kuai」:「梅mai」、「勿」の諧声字として「忽kot(-u)」:「物mot(-su)」という対立例を挙げたうえで、

 マ行音とカ行音との轉換は大畧かやうなもので、此れを『KMの法則』と云ふ。此の法則によつて考へると、毛の音モオ mo: が消耗の耗の時にコオ ko: の音となるなども珍とするに足りないわけである。尚毛の音モオが毫の時にゴオ go: の音となるのも此のKMの轉換の一例である。(p.68)

とたしかに面白いことを述べているのだが、そもそも日本の字音にのみ依拠しているし、また「毫」字の声符は、上部にある「高」(の省文)と解するべきだろうから、これは「KMの轉換の一例」とは見なせない。こういったものを、思いつきで並べているにすぎないので、「学術的」とは言い難く、「不純」なものがたくさん混じているのである。
 では、漢字を解釈するのに「音」ばかり重視して「形」を軽視したのかというと、そういうわけでもない。『日用と繁育上に於ける漢字の活用』(六合館書店1910)という著作の「第十一章 漢字の生れに就いて八十八話」では、「篆文」による字原解釈をしている。しかしこれにも、

明の字は日と月との會意で明らかの意を出して居る。然るに文字上の洒落體裁上からその日の字を變じて窓の形に改める癖がある。それは茲に篆書で示した形であって、楷書では明と書く。(p.324)

というような独りよがりの解釈があったりする*1。「日の字を變じて窓の形に改める」のは「文字上の洒落體裁」でもなんでもなくて、甲骨文や金文にもこの形、すなわち、「冏(ケイ)+月」という形で出て来る。ちなみに落合淳思氏は、甲骨文では「明(日+月の会意)」=「あけがた」と、「冏+月」=「あかるい」との区別があったが、混同されていずれも「『明』で表されるようになった」、と解釈している(『甲骨文字小字典』筑摩選書2011:133)。
 後藤朝太郎の真骨頂は、以上で挙げたような個々の漢字の分析ではなくて、個性的な漢和辞典を編んだことにあるとおもう。
 前掲の『日用と繁育上に於ける漢字の活用』には、「第十章 新式の漢和字典」という章があって、漢和辞典を今日の時勢に対応させるには、次の六箇条を実践すべきだと訴える(pp.216-41)。

(一)畫引を改めて音引となすべきこと (二)現代語の漢語に重きを置く可きこと
(三)記事が科學的でなくてはならぬ  (四)熟語を頭字の順に挿入す可きこと
(五)字音は現代を標準とすべきこと  (六)音韻上の統計を作る可きこと

 (二)は、高島俊男氏が『大漢和』を例に挙げて批判したことであり、現在も賛否両論あろうが、(五)については、大方の辞典が「めつたに云はないやうな變な音を擧げてそして普通誰れでも云つて居る音をば記してない」ことに苦言を呈し、「これは腔の字、話の字、硅の字などを見ると思ひ半ばに過るであらう、腔はコウ、話はクヮイ、硅はカクなどとある。輸のシユ*2もこんにちは少しく迂遠の方である」(pp.232-33)と、この時代としてはかなり尖鋭的なことを主張している。
 つづけて、「かゝる抱負の一部分を實現せん爲め差し向き杜撰ながら音引の一字典を近刊せんつもりである。書名は畫音雙引漢和大字典(東京成美堂東雲堂共同發行)」(p.240)、と書いている。
 この「畫音雙引漢和大字典」は、実際には『音雙引漢和大典』という書名で刊行された。
 相田洋『シナに魅せられた人々―シナ通列伝』(研文出版2014)の第一章が後藤の生涯について論じていて、このあたりの事情についても詳しく述べている。以下に引く。

 このように、石農(後藤朝太郎の号―引用者)は自説を引っ提げて教育現場に踏み込み、漢字教育の改革を行おうとした外に、漢字教育のツールとしての漢和辞典の改革にも、精力的に取り組んでいる。後藤の名を冠した漢和辞典を列挙しておく。
 (a)鶴見直次郎・後藤朝太郎新案索引『新式配列・漢字典』(育英舎、一九一一年)
 (b)後藤朝太郎・上野三郎編『線音双引・漢和大辞典』(東雲堂、一九一一年)
 (c)後藤朝太郎編『自修辞典』(東雲堂、一九一九年)
 (d)後藤朝太郎・高桑藤代吉外編『大漢和辞林』(朋文堂、一九一九年)
 (e)垣内松三・後藤朝太郎編『標準ポケット漢和』(聚文堂、一九三一年)
 (f)後藤朝太郎編『漢和新辞典』(共栄図書、一九四六年)
 (g)後藤朝太郎編『漢和新辞典増訂新版』(一歩社、一九五〇年)
 この内、(a)は鶴見の遺著に後藤の新案索引を付したもの。(b)は、本文は音引き、索引は線引きという斬新なもの。石農によれば、日本語中の漢字は、国語なのだから、従来のような部首引きではなく、国語辞典と同様に音引きにすべきものという。この点は、現在の白川静の『字統』・『字訓』・『字通』三部作などの先駆なのだが、白川は石農に対しては一顧だにしていない。なお、線引きとは、従来の画引きは問題が多いので、単純に漢字を線(点も線の一種とする)に分解してその線の総数で引くものである。両方とも頗る大胆な改革であるが、教育現場での反応はどうであったろうか。筆者が確認し得た、(d)(e)(g)では、本文は部首引き、索引は音引きとなり、線引きは消えていた。これは、教育現場の声や共編者・出版社側の声に従ったものと、容易に推定できよう。勿論、石農は抵抗しただろうが、抵抗しきれなかったようで、(d)の「自序」中で、「本書は、吾人の平生の抱負理想を遺憾なく現はし、尽くしたものとは言わないけれども」と、不満を洩らしている。(pp.24-25)

 「線引き」という方法や術語を後藤がいつ編み出したのかは分らないが、『日用と繁育上に於ける漢字の活用』*3には、画引きについての批判(部首を省いた部分の画数順に並べることに対する批判)がみられる。

總畫を標準にするにしても尚玉篇、康照字典(ママ)流の字畫の計算は斷然廢するがよい。何(ママ)の字を引くに先づ八畫の阜の部でさがし出したりすることはやめて阿は阝と可とで八畫のところにおき、觔は良と阝とで十畫の部に入れておけばよろしい。(p.238)

支那の体臭

支那の体臭

甲骨文字小字典 (筑摩選書)

甲骨文字小字典 (筑摩選書)

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*1:「明=日+月」で「日と月が同時に出るから明るい」、という「字説」は人口に膾炙しているといえるだろう。この字説は、たとえば千野栄一「限りなく透明に近い“E青”」(『言語学フォーエバー』大修館書店2002など)にもみえる(p.93)。

*2:「輸ユ」は慣用音、と見なす辞書が現在でも多いが、諧声符「兪」に基く正則変化で由緒正しい字音だと見なす立場(沼本克明氏など)もある。

*3:相田著では、書名が『日用と教育上の漢字の活用』になっている(p.20)。あるいは相田氏の誤認か。