「民」はどこから

◆いささか旧聞に属する事柄ではあろうが、『日本経済新聞』(2007.9.8付)に、「ケータイは辞書代わり――20代の8割 漢字変換で」という記事が載った。「国語に関する世論調査」についての記事である。
記事によると、20代の若者がある漢字を知ろうとするとき、それを調べる手段として最も多いのが、携帯電話の漢字変換機能を活用するということで、これが20代全体の79.3%を占めたのだという。
もっとも、記事タイトルの「辞書代わり」というのは、適当でない表現だとおもう。「辞書」の機能はそれだけではないはずだからだ。それゆえ、「辞書」は第一義的に「漢字の形を確認する本」であるべきだ、といった前提のうかがえる記者の書きぶりも、ちょっと悲しい。それはたとえば用字字典、だろう。
◆先月末に刊行された『新潮日本語漢字辞典』(新潮社、以下『新日漢』)は、「日本語の漢字のための初の本格辞典」というのが謳い文句である。
こちらでは、「日本語のための漢字辞典を標榜した」先蹤として、『岩波漢語』、『漢英辞典』などが挙げられている。そういえば白川静の『字通』も、親字の音を「五十音順」で排列した、という点において、まさに「日本語のための漢字辞典を標榜し」ていたのだった。『新日漢』は、字源(語源)は白川説に全面的に依拠しているらしい。白川先生のことだから、「日本語の漢字のための」という理念には、大いに共感をおぼえたにちがいない。
白川説は、専門家からはむしろ“藝術”と捉えられやすいことフロイトに似ている*1、と書いていたのは三浦雅士氏だったか(たしか日経の『半歩遅れの読書術』)。しかしその「専門家」というのが、文脈上ではどのような専門家であったか、おもい出せない。書家か。中国文学者か。あるいは漢字学者を想定してのものであったか。
◆『新日漢』は、異体字も充実させたというのがウリのひとつなのだが、「異体字」の下位分類に「別体」も含まれている。この「別体」というのが少々厄介で、「凡例」に「代表字との違いがわずかであるものも含まれる」(p.9)、とあるように、正確には「異体字」とはいえないものも多々見られる。
たとえば p.1233「民」字。最終画が、上方に突き抜けているものである。すなわち、最終画を第一画めのところまで延ばしてぴたりと付けるか、それよりもさらに上方に突き抜けるか、程度の差こそ色々あれ、ともかくも上方に突き抜けているものである。これは、「異体字」とは言えないようなものではあるが、しかし「手書きの揺れ」としても還元できない問題である。
「漢字整理案」(T8)、「漢字字体整理案」(S13)にはこの「ツキヌケ民」は無いが、しばしば見かけるものである。明朝体活字字形には見えず(『明朝体活字字形一覧1820〜1946』文化庁)、あくまで手書きの場合にかぎられる。たとえば『大書源』(二玄社)には、「ツキヌケ民」が沢山ある。碑文にも有る(『碑別字新編』文物出版社、などに見える)。また、「漢字字体規範データベース」(http://www.joao-roiz.jp/HNG/)で「民」字を検索してみても、結構出て来る(闕画や後述の「点附け民」もある)。
この「ツキヌケ民」は、篆文を意識しつつ別書体に改めようとするときに、無理やり生ぜしめたものであろうか。あるいは、「氏」部に所属する文字であることを、いっそう分かりやすくするための字形でもあろうか。篆文との関わり、ということでいえば、「明」字の日偏が目偏、というのがあった。しかし、これは康煕字典以前の書では、ごく当り前の通行字体なのであった。
ただ、ここで疑問であるのは、中央右部に点を附した「民」も多いのに、なぜ『新日漢』では、「ツキヌケ民」のみ別体に掲げられているか、ということである。
「点附け民」を、「補空」(=捨て筆、咎無し点)に由来する別体と看做すとしても、「中」字に点を附した別体(これも同じく「補空」と看做すべきものであろう)はちゃんと載っているので(p.47)、そのあたりの基準が、ちょっと曖昧だ。
ちなみに「ツキヌケ民」。『康煕字典』には無い、というと正確ではないので、本文には無いが、「御製康煕字典序」(陳邦彦筆)には一箇所だけある(江守賢治『解説 字体辞典[普及版]』三省堂、p.111・117など参照)。但し「ツキヌケ民」は一箇所のみで、もう一箇所はツキヌケていない。
江守著には、そのほか市河米庵『米庵墨談』の「諱字缺末筆」引用部に、「ツキヌケ民」あり(p.123)。最近私が目にしたものでは、蘇峰徳富猪一郎『國民小訓』(民友社)の題字*2
◆このあいだ、“志布志事件”の報道特集日本テレビ系列)で、「MS明朝」と「FA明朝」との相違を、特に「お」の字形に注目することによって明らめていたが、「書体の専門家」というのは、いったい何方なのだろう?
(附記:id:karpa様の御教示により、字游工房の鳥海修氏であることがわかった。)

*1:あえて山本夏彦調にしてみた。しかしさすがに、ユングではない。

*2:画像のとおり、「ハネ」の部分が別画になっている。活字字形のデザイン差を手書きにも適用した例である。