喜田重行氏の遺著『子規交流』(創風社出版2009)の冒頭に収める「子規と哲学僧」は、晩年の正岡子規の許に届いた書簡が、実は清沢満之(きよざわまんし)からのものではなかったか、と推測したものである。某ネット百科事典にもこの事実は記されているが、2014年刊の本に基づいて書いているらしい。その本が喜田氏を参照しているのかどうかは知らないし、喜田氏がこの説を初めて唱えたのかどうかも分らない。
司馬遼太郎は、かつて「正岡子規が満之を知っていたかどうか」を「調べたことがある」が、「どこにもでてこな」かった(同書p.6)と書いた。しかし喜田氏は、『病牀六尺』の四十二「六月二十三日」(明治三十五年)の記事(末尾に「六月二十一日記」とある)にみえる「本郷の某氏より来た」の「某氏」こそが満之ではないか、と述べている*1。その根拠については同書を参照していただくとして、ここで驚くべきは、満之の「当用日記」が、彼の死を目前にして、子規の「『仰臥漫録』風の食事記録」に類似してくるという事実である。『仰臥漫録』は、今では岩波文庫で手軽に読むことが出来るが、満之存命のころはまだ世に出ていなかった(喜田著p.18)。
清沢満之の「当用日記」は、抄録が安冨信哉編/山本伸裕校注『清沢満之集』(岩波文庫2012)に収められており、喜田著も引いた「当用日記」の明治三十六年五月十六日條の、「正岡子規子に御馳走主義の論あり、予亦甚だ/\之を可とす」云々、という記述も採録する(p.249)。子規の「御馳走主義」については、こちらによくまとまっている。
さて満之であるが、彼が子規に対して畏敬の念を抱いていたことも喜田著では描かれている。満之は、「子規子をまねて仰臥の儘しるす」という前書をもつ「血を吐きて病の床にほとゝぎす」という「辞世の句」を明治三十六年六月三日に残して、三日後に世を去る(p.5)。喜田氏は、無我山房版『清沢満之全集』*2に基づいてこれを引用されたようだが(正確には「清沢先生終焉記」の間接引用)、さきに挙げた『清沢満之集』に収める「当用日記(抄)」の六月三日條には、辞世の句の原型と見られる「〔喀血〕血をはいた 病の床にほととぎす」が収められている(p.251)。
なお、満之の門人には暁烏敏(あけがらすはや)もいる。喜田著は彼の生涯についても書いている(pp.11-12)。ちなみにp.12の「『暁烏敏全集』二十三巻がある」というのは「香草舎版」をさし、「暁烏敏全集刊行会版」の二十八巻本もある。敏は書物蒐集でも知られ、蔵書は金沢大学に寄贈されている。平澤一『書物航游』(中公文庫1996)に、「暁烏敏の蔵書」(pp.60-66)、敏の署名について書かれた「蔵書の署名」(pp.67-70)がある。
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