自分の蔵書について

■先日、注文していた南陀楼綾繁積ん読フレンズ『山からお宝―本を積まずにはいられない人のために』(けものみち計画)が届いた。
この本で紹介されている、南陀楼氏も含めた書き手には、いわば横綱級、大関級の蔵書量をほこる人が多い。それに較べると、私などは三役に入れず、せいぜいがとこ平幕力士級の蔵書量ではあるが(いや、まだ入幕していないかもしれない)、そもそも私は友人が少なくて他に遊びも知らないし、それにたいした趣味もないので、自慢ではないが、いやまったく自慢にもならないが、同世代のなかでは本はよく買うほうだとおもう。だから、それなりに置き場所にも困っていて、おおいに共感する記述があったのである。
さて南陀楼氏が、「はじめに」で「雑誌の書斎特集や『本棚』(アスペクト)、『本棚三昧』(青山出版社)など、著名人の書斎・本棚を取り上げるものは多い。しかし、それらはどこかよそ行きの顔に見える。それに対して、「本の山」はいわば普段着で、生活感にあふれている」(p.3)と書かれているように、本棚には、たしかに見栄えのする本を並べてしまうことがあるかもしれない。しかし、そんなことがどうでもよくなる時期が必ずやってくる。

私の「本」整理術 (リテレール・ブックス)

私の「本」整理術 (リテレール・ブックス)

たとえば田中小実昌は、「なにかの見栄で本棚に本をならべておくような気はとっくにぼくはなくなっている」(『私の「本」整理術』メタローグ、p.49)と書いており、それどころか、「ぼくにむいた本の整理のしかたを、ほんとにおしえてもらいたい」と切実に訴えかけていた。これでは「整理術」も何も、あったものではない。そもそもこの『私の「本」整理術』に、エレガントな整理術を期待することじたい、間違っている。窮極の整理術は捨てるか売るかそれしかない、というごく当たり前の事実を再認識させられるだけである。しかしそれだけに、蒐書家の嘆きというか、怨嗟というようなものがこの本には満ち溢れている。次の描写など、なんと悲哀を感じさせる文章であろうか。「我が師、伊藤整氏の家など書齋は伊藤さんの座る隙間しか空き地はなく、廊下も階段も蟹のように横になって歩く細道が空いているだけだった。そして参考文献は叮嚀に切り拔かれ袋毎に分けられていたのだが、その袋が、また山と積まれていて收拾のつかない状況を呈していた」(奥野健男、同前p.56)。整理されるはずの袋が「また山と積まれ」る。この不条理がなんとも言えないではないか。
というわけで、ずっと以前このブログ(プロフィル)のために書いた文章にちょっと手を加えて、この機会に公開してみることにしよう(注意:以下蜿蜒と、どうでもいい話にどうでもいい雑談をまじえた下らないお喋りがつづくので――もっとも一部のかたは共感してくださるかもしれませんが――、どうか興味のある方だけお読みになってください。宜しくお願い致します)。

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