理想と現実

『田園交響樂』(1938,東寶映畫東京)

演出(監督):山本薩夫、製作:竹井諒、原作:アンドレ・ジッド、シナリオ:田中千禾夫、製作主任:関川秀雄、音楽:服部正、撮影:宮島義勇、主な配役:高田稔(日野東作)、原節子(盲目の少女・雪子)、佐山亮(東作の弟・進二)、清川玉枝(東作の妻・敦子)、富士山君子(東作の娘・道子)、御橋公(田口醫師)。
ジッド(ジイド)の名作『田園交響楽』を翻案したものです。フランスでも、ジャン・ドラノワによってのちに映画化(1946)されています。しかし、こちらは未見。
クラシックファンにとってうれしいのが、齋藤秀雄(と、新交響樂團)が特別出演しているということ。そう、あの「サイトウ・キネン・オーケストラ」の齋藤氏です。
全篇にわたって、ベートーヴェン交響曲第六番『田園』が流れます。第一楽章「田舎に着いた時の愉快な気分」*1は、この映画では使用されていませんが、オープニングで第三楽章「田舎の人々の楽しい集い」が、中ほどで第二楽章「小川のほとり」と第五楽章「牧歌、あらしのあとの喜びと感謝」が、ラストまぎわで第四楽章「雷とあらし」が、それぞれ効果的に使用されています。のちに述べますが、ことに感動的なのが、第二楽章が使用されているシーンです。
本作品は、日野東作(高田稔)が、盲目のみなしご(原節子)をひきとるシーンからはじまります。彼女は「雪子」と名づけられます*2。雪子は、はじめは東作とその家族*3に心を許しませんが、しだいに打ちとけていきます。そんなある日、彼女は「色彩」について知りたい、と東作に迫ります。困惑した東作は、友人でもある医師の田口(御橋公)にアドヴァイスをもとめます。田口は、札幌に東京の楽団が来ているから、その音楽を聞かせて音によって「色彩」を説明するとよい、と教えます。そこで、東作は雪子に『田園』を聞かせることになります。そのコンサートのシーンで流れているのが第二楽章。このシーンが、何度みても素敵です。原作の少女もたしか、この第二楽章に感動したはずです。
さて原作の少女は、自分が家族の絆をたち切ってしまうことをおそれるのですが、雪子は、理想と現実の乖離*4をおそれる…という筋になっています。ネタばらしになるのであまり言いませんが、ラストの展開は原作とはずい分ちがっています。これはたぶん、原作どおりに話を進めるのが当時は不可能だったからでしょう(たしかに現代でもショッキングな内容です)し、のちにも述べるようにこの映画は完全な「翻訳」ではないからでしょう。それ故そのあたりには、ちょっと無理が感じられます。全体的にみた場合、そう悪くはない作品なのですが、結末はやや尻すぼまりの感があります。
それから原作では、カトリックプロテスタントの対立に重きを置いていますが、この映画はむしろ、東作とその弟・進二*5の思想的な対立(「理想主義」と「現実主義」、と断じてよいかもしれない)に主眼が置かれています。東作は、雪子を自分の理想に見合った純真な女性として育てよう(和製版『マイ・フェア・レディ』?)とするのですが、いっぽう進二は「いやいや、この世はきれいなものばかりではない。きたないものにも目を向けるべきだ」と教えさとします。また東作は、雪子が目の手術を受けることを好もしくおもわないのですが、進二は手術を受けたほうがよいと提言します。
この論争でいったん「敗北」するのは弟なのですが、その後東作は、現実と自分の理想(あるいは信仰)にどう折り合いをつけるかで悩みはじめます。何故ならばこのとき、すでに東作の「純粋な愛」は、明確に「恋慕」というかたちをとって、それが雪子との精神的な紐帯になってしまっているからです。

「愛は罪悪でないとおっしゃいましたわね」(雪子、以下おなじ)
「何をそんなに悩んでいるんだい」(東作、以下おなじ)
「めくら(ママ)の婿はやっぱりめくらですの」
「そんなことはない。しかし、子供を生むんなら結婚しなきゃいけない*6んだよ」
「嘘、嘘! あたし知ってますわ」
「雪子、神の掟で禁じてあるんだ。自然の法則…」
「でも、神の掟は愛の掟だって何度も先生はおっしゃいましたわ」
「だって…」
「可哀相だからって愛してくださるの」
「違うことはよく知ってるじゃないか」
「じゃあ、神の掟にはかなってないんだわ」
「雪子、お前は自分の愛を罪悪だと思っているのか」
「先生、あたしたちの愛だと言ってちょうだい。…あたしがかなえるのよ。これでいいの。かまわないわ、かまわないわ…。あたし、目が明きたいわ。この世の中が見たいの。先生の顔、あたしの顔が…」
(※現代においては不適切な表現もございますが、作品のオリジナル性をおもんじてそのまま引用いたしました。何とぞご諒承ください)

ふたりはこのような激しいやりとりをしたのち、ひしと抱き合います。そして、東作はついに雪子に目の手術を受けさせることを決心します。つまり、もうこれ以上自分の本心をごまかせなくなったわけです。
ところで本作品は、原作とおなじように、

ヨハネ傳 九章四十一節
エス言ひ給ふ
“若し盲目(メシヒ)なりせば罪なかりしならん。然れど見ゆと云ふ汝等の罪は遺(ノコ)れり”(ママ)

我かつて掟なくして生れたれど戒め來りしとき君は生き我は死にたり

などといった引用がある。しかし、この引用部、またキリスト像・聖書といった道具立ては、物語の展開上、便宜的に使用されているだけのもので、この映画はむしろ、きわめて東洋的な自然観(たとえば「渾沌、七竅に死す」というような思想)に支配されているのではないか―と私は愚考するのです。
そう考えると、兄弟の思想の相克、やや不可解なラストも説明がつくのではないかとおもうのです。いや、深読みのしすぎなのかもしれません。時代性、スタッフ個々人の信仰の問題(田中千禾夫の妻・田中澄江は熱心なカトリック信者だった)なども勘案すべきなのでしょうから。
…それにしても、原節子はやはり綺麗です。

*1:これが効果的に使用された映画に、『ファンタジア』(1940)があります。指揮者は、レオポルド・ストコフスキー

*2:原作は「ジェルトリュード」。

*3:妻が、清川玉枝。前年にくらべるとちょっとポッチャリしています。娘に、富士山君子(道子)。この道子が雪子の「名づけ親」です。

*4:具体的にいえば、手術によって目がみえるようになった後に、彼女が進二の顔を見て「東作」だとおもったこと。

*5:原作ではたしか息子だったのでは…?

*6:プロテスタント