もう先月のことになるが、新宿古書展で、木下杢太郎訳『支那傳説集』(座右寶刊行會,1940)を買った。これは改訂版というべきもので、その約二十年前に元版が精華書院からでている。「世界少年文學名作集」というシリーズの一冊として(第十八巻)である。
いずれも函附完本であるらしいが、私の持っているのはどちらも裸本。愛書家というわけでもないので、廉価で入手しさえすればそういうことはあまり気にしないのだが、挿絵*1が豊富で、たたずまいが美しいのは精華書院版。こちらは目で見てたのしめる。しかもクロス装本だから、本そのものもしっかりしている。
一方の座右寶版は、表紙に梅原龍三郎の絵が描かれてあり美しいのだが、残念なことに紙装なので、背も弱い。
とはいえ、本文を読むとなれば、これは断然、座右寶版のほうがいい。元版はとにかく誤植が多いのだ。序文からして、『子不語』を『子不言』とし、レオン・ウィーガー(木下の表記ではレオン・ヰイゲル)の原著名"Folk-lore〜"も"Eolk-lore〜"と誤るしまつ。
さて、この『支那傳説集』であるが、特に『子不語』所載の説話をおおく収める。で、この『子不語』は、昨夏から今春にかけて本邦初全訳(手代木公助訳)が出た(平凡社東洋文庫、全五巻)。その最終巻で訳者は、「魂魄」「鬼」「僵尸」「雷」などの概念について書いているが、木下杢太郎も『支那傳説集』の長い序文で、そのことを説いている。これがいま読んでも面白い。二階堂善弘『中国妖怪伝――怪しきものたちの系譜』(平凡社新書)第四章「あの世と術者の話」などと併せて読むと、さらに面白い。
私は、このあたりのことを専門的に学んだわけではないが、学部生のころ唐代伝奇に関する授業を受講して以来、中国説話(特に怪異話)が大好きで、主に邦訳だが、多少は読んできた。
邦訳のなかで、わけても面白く読んだのは、四年ほど前に出た志村五郎『中国説話文学とその背景』(ちくま学芸文庫)*2。文庫オリジナルである。志村先生の本業は数学者。学芸文庫の著者略歴はきわめてそっけないが、その業績は、アミール・D・アクゼル 吉永良正訳『天才数学者たちが挑んだ最大の難問』(ハヤカワ文庫)の第五章でも読めば、(数学音痴の私でも)なんとなく理解することができる。
志村先生の説話蒐集、邦訳はいわば「余技」なのだが、それでも、清朝の説話集から日本の説話に至るまで幅広く目配りがなされていて、興奮しながら読み耽ったものだった。
五年前、『杜子春』についてすこし書いたことがあるが、志村先生のご著書(最終章)を読んで、さらに新たな発見があった。訂正したいのだが、いまだになしえていない。
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昨晩帰宅後、黒岩比佐子さんの訃報を知りました。
私は、主としてご著書を通じて色々なことを教えていただきました。
ブログを通じてもたくさんご教示いただきましたが、特に、遺著となってしまった『パンとペン――社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』のご執筆中、すなわちご闘病中にもコメント欄でご指教下さったことは、本当に有難くおもっています。こちらもコメントをお返しするのに、「頑張ってください」と申し上げるのはやはり失礼だとおもったし、そのようなことにはあえてふれずにおりましたが、ほかに言いようがあったのではないか、と悔いておりました。と、そう書いても、もう御本人の目にふれることがないのだとおもうと、やりきれない気持ちになります。
最近もブログを拝読していましたが、最後の最後まで、御返事が出来ずに申しわけない、と周囲の方々を気づかわれる姿が印象的で、自分ならばこういうことはとてもできないだろうとおもい、また、こういうところに本当の人柄があらわれるのだなと感じておりました。お会いすることがかなわなかったのが、本当に残念でなりません。
ご冥福をお祈りします。
今朝、読書委員を務められていた『読売新聞』の記事をよみました。文化面では、同じく読書委員の片山杜秀さんが、その早い死を悼んでおられます。