京都のシンポジウム

いま、ひと仕事おえたところ。おや、もう三時半か。
急に入ってきた仕事が、こんなにつらいものだったとは。
かなり疲れてはいるのですが、一日休んでいるので*1、今日のできごとを簡単に書いておくことにします。
今日は、生憎の雨。
京都へ行ってきました。
『マンガがつなぐ学問・ひと・地域』というシンポジウムに出席するためです。
昼前にJR京都駅でQさんと待合わせて午食(蕎麦)をすませ、そのまま会場へ。
田仲拓二氏の挨拶*2や、京都精華大学の紹介映像もそれなりに面白かったのですが、最も面白く拝聴したのはパネルディスカッション。
パネリストは、金水敏呉智英竹宮惠子の三先生方。後半部になるにつれ、議論が白熱してきました。たとえば金水先生の、かつて「僕」と「君」とは鏡像関係にあった、というお話は興味ふかいものでしたし*3、呉先生の「文化論という隠れ蓑でマンガをレクチャーしていた」というご発言には笑いましたし、得るところは少なくなかったようにおもいます。
また、マンガが自由な表現方法である一方で、「役割語*4などのステロタイプに縛られる危険性をもった存在である―ということにまで話はおよび、あっという間に時間が過ぎ去っていったのでした。
ほかに書きたいこともありますし、ちょっとした「収穫」もメモしておきたかったのですが、眠いので今日はこれまで。

*1:昨日は、演習準備に明け暮れた一日でしたが、近所のRに好物の蕎麦を食いに行きました。

*2:岡本一平のこともちらと出てきました。

*3:そういえば上野千鶴子が、「僕」は甘ったれているから嫌いだ、と言っていた(加藤典洋との対談で)。つけくわえておくならば、「僕」「私」「俺」の(巧妙な)使い分けにも腹をたてて(≒嫉妬して)います。私はこれを直接みたのではなくて、石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書,p.141)や、大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍』(角川文庫,p.121)で読みました。それはともかく、大塚英志さんによる「ぼく」の分析はおもしろい。パロディ・擬態として定型化された「ぼく」がフォークソングと同質のもので、それが村上春樹の「僕」へと連なっていく…というくだりにはハッとさせられます。「ぼく」を半ば同情的に擁護する「森恒夫と〈ぼく〉の失敗」は必見です。

*4:たとえば、「わしが博士じゃ」「おいどんは猫でごわす」「わたくしはお嬢様でございますのよ」など。