昨日から、集中講義に出席しています。
集中講義期間中は、帰ってからひと息つくと、どっと疲れが出る。
朝、飯塚訓『墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実』(講談社+α文庫)を購う。『墜落遺体』*1の続篇的内容の本。単行本が出たときは見送って、文庫化されるのをずっと待っていました。
佐藤卓己『八月十五日の神話―終戦記念日のメディア学』(ちくま新書)を読む。佐藤氏の著作を読むのは、『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)につづいて二冊目。やはり面白い。きょうは第二章の途中まで。
「八・一五=終戦」は、玉音放送を直接耳にした戦中世代だけが生身の経験として特権的に語るべきテーマではない。むしろ、戦後世代の私たちがそのメディア体験から検証すべき課題なのではあるまいか。(p.75)
と書く著者は、まず序章で、戦後に向けたプロパガンダ写真としての「玉音写真」から説き起こします。
おそらく、戦後に生まれた私たちにとって必要なのは、創作写真を抱きしめることではない。記録写真を持つことができない敗者だったという事実に耐えることではあるまいか。本書全体は、敗戦の事実をメディアの検証を通じて戦後史の中に位置づける作業である。(p.67)
第一章では、「降伏記念日」としての「九月二日」の記憶が消え、「八月十五日」が「終戦記念日」として受容されていく過程を描いています*2。
著者によれば、「九月二日」は一九五五(昭和三十)年を境に忘却されてしまった、ということになります(著者はこれを「国民的記憶の五五年体制」と呼んでいる)。
第二章では、昭和天皇は玉音放送によって、統治権でも統帥権でもなく、「祭祀大権」を行使したのだと結論しています。いま読んでいるのはそのあたり。
また、旧ソ連、中国、フランスなど戦勝国の、あるいはドイツ、イタリアなど敗戦国の「終戦記念日」の違いについての記述にも興味ふかいものがありました。「終戦記念日」の制定に、各国の思わくが反映されているからです。