喜劇・男は愛嬌

『中国文化叢書1 言語』(大修館書店)再読。特に、第Ⅱ部「文法論」の、牛島徳次「文法研究の略史」「古典語の語法」あたり。
頭は一つずつ配給されている
午後、森崎東『喜劇・男は愛嬌』(1970,松竹)を観る。『喜劇・女は度胸』(1969,松竹)*1の姉妹篇。前者は森崎氏の監督第三作で、後者は監督デビュー作。いずれも、当時の流行歌が効果的に使われています。『女は度胸』では、新谷のり子「フランシーヌの場合」や岡林信康「くそくらえ節」(いずれも1969年の流行歌)が、『男は愛嬌』では、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」(1970)が使用されています。
両者は、スタッフやキャストがかなり共通しており*2、特別出演・渥美清の役どころもやや似ています。『女は度胸』は、桃山勉吉(渥美清)と学(河原崎健三)の兄弟が、父・泰三(花澤徳衛)と母・ツネ(清川虹子)、それから白川愛子(倍賞美津子)を巻き込んで壮絶な喧嘩を繰り広げ、やがて「家族再生」へと至る、という内容で*3、息子たちの「独立」に重きを置いています。
おかしな男 渥美清 (新潮文庫)
いっぽう『男は愛嬌』は、オケラの五郎(渥美清)と曽我民夫(寺尾聰)の兄弟が、小川春子(倍賞美津子)というひとりの女に惚れて…という内容。五郎は春子の結婚相手を世話しているように見せかけているけれども、それは見せかけのスタイルでしかない。春子の結婚相手の候補として出てくる、財津一郎田中邦衛宍戸錠などの多彩な顔ぶれに注目。また、沖山秀子や中川加奈*4の活躍にも注目していただきたい。
さて、両者に共通しているのは、兄が極端な現実主義者であるのに対して、弟が極端な理想主義者であるということ。桃山学はクラシック好き*5のインテリで、曽我民夫は曲がったことが大嫌いな心優しき左翼青年、といった感じ。そこに絡んでくるのが、我らが渥美清です。
ところで小林信彦さんは、これらの作品について次のように書いています。

渥美清個人は「男はつらいよ」のすぐあとで、森崎東監督の第一作「喜劇・女は度胸」に出ている。クレジットの扱いは特別出演だが、実際は、彼が出ていなかったら、作品がばらばらになってしまったであろう、実質的な主演である。(小林信彦『おかしな男 渥美清新潮文庫,p.287)

渥美清の芸風は、実は〈古き良き日本人〉だけではない。初期には〈とてつもなく態度のデカい、あつかましい男〉というのがあった。そういう男をおかしく表現できたのである。「喜劇・男は愛嬌」は、森崎演出によって、そうした芸風が生かされた秀作である。ぼくは何度か吹き出した。(同上,p.301)

渥美清は、劇中ではひとり「異質」で、圧倒的なパワーで相手をねじ伏せるような演技をみせ、徹底したアドリブ、うさん臭さ、猥雑さなどを兼ねそなえています。それが演技面。プロット的には、まったく正反対の性格をもつ弟との対立を経て「止揚」され、うまい具合に話をまとめるわけです。
ちなみに、森崎東さんには『頭は一つずつ配給されている』(パピルスあい)という著作がありますが、この書名は、『女は度胸』の渥美のアドリブに由来しています。勉吉(渥美)が学(河原崎)に、「誰にでも頭は一つずつ配給されてるんだ」と言って説得するシーンがあるのですが、この台詞は渥美が勝手に思いついて口走ったものであった、ということを森崎氏自身が書いています。

*1:こちらは、昨年の九月二十三日(木)に衛星劇場で観ました。

*2:佐藤蛾次郎太宰久雄など「寅さんファミリー」も出ている。

*3:それゆえ、洗濯物のカットに「終」が入るというラストは(小津映画を意識したかどうかはべつとして)、たいへん印象的なものです。

*4:この二人は、両作品に登場しています。

*5:特に、チャイコフスキーの曲を好んで聴いている。冒頭ちかくに、第六番の「悲愴」第一章を聴いているシーンがあって、しばらくすると第三楽章アレグロモルト・ヴィヴァーチェスケルツォと行進曲)に変わっている。それが、うまいぐあいに学の心情の変化を代弁しているのです。この一連の演出が、かなり可笑しい。