ショーケン、映画、…

ショーケン

ショーケン

◆著者自装本。最近、ダーティなイメージしかなかったショーケンだけれども、「ショーケン」の綽名の由来から“透光の樹事件”顚末記まで、おもったよりも赤裸々に語られている。沢田研二岸惠子石原裕次郎の逸話、それに田中清玄(pp.214-19)なんかも出て来る。『もどり川』での鬼気迫る演技(あれは、凄かった。本気としかおもえなかった)の正体もわかった(ような気がする)。また、神代辰巳との心温まる(?)エピソードが笑える(pp.156-58)。カルト映画、松竹版『八つ墓村』について、二度も「変な映画」と書いていたのも可笑しかった。告白中心のタレント本を「クソ真面目に」(水道橋博士)読んだことなどたえてなかったが、内容とは裏腹に、つい襟を正してしまうところがある。単なる破滅の記録、懺悔録ではないようにおもった。「ミタク」が頻出するのも、あまり気にはならない。
◆一月から二月にかけて観た映画の感想(抄)
杉江敏男『サラリーマン忠臣蔵』『続サラリーマン忠臣蔵』(1960)
原案者の“井原康男”というのは、「井出俊郎」「笠原良三」「戸板康二」「田波靖男」からそれぞれ一字ずつ採った架空の人物名。池部良が憤死するあたりまでは、「社長シリーズ」らしからぬシリアスな展開あり、だが小粋なギャグも効いていて、全体的には東宝喜劇の本流に位置づけられる作品となっている。三船敏郎志村喬の共演が、『洋行記』よりもずっと意味のあるものになっていて、嬉しい。人情本ばりの大団円に満足。
長谷部安春『縄張(シマ)はもらった』(1968)
梶芽衣子(この映画出演時はまだ“太田雅子”)が車で連れ去られるシーンでの、静・動のたえまない転換がすばらしい(これは絶対『ジョーズ』に先んじている)。静かな農村地帯で勃発する血で血を洗う抗争劇、この皮肉が何ともいえない(「三つ巴」の定石)。しかしそれにしても、藤竜也とか川地民夫とかが、なぜ組織を裏切らず、あそこまで硬骨漢に徹しきれたのだろう、というのはフト抱いた疑問だが、小林旭の抑えたアクションと、その有無を言わせない迫力がその原動力になっていた、ということでまあ良しとするか。最後は小林‐宍戸錠の直接対決が――これは勝手に『血祭り不動』ばりに凄絶な対決になると踏んでいたのだが――見られるのかとおもったらさにあらず、しかし格好良いです。さすがに小林信彦がベスト200に加えていただけのことはある。
稲妻 [DVD]
成瀬巳喜男『稲妻』(1952)
スクリーンで。併映の『×××』は、途中まで安定していたのに、安易なシンボリズムや、長ったらしいクロスカッティングふうの映像を多用するエンディングに辟易したが、こちらは大傑作。さらに細部を見るためにヴィデオで確認。戦争の後遺症ですっかり「南方ぼけ」した息子・丸山修、胡散臭いパトロン小沢栄太郎)がいる長女・村田知英子、三女・高峰秀子と彼女のたぶん一番の理解者であった次女・三浦光子。みな父親が違う。次女の夫が死ぬと、その保険金をめぐって、もともと緩いつながりしかなかった家族はゆっくり崩壊してゆく。そこに一枚噛んでいるのが小沢だ。結局その小沢に取り込まれてしまうという、次女のささやかな裏切りに気づいた(この気づかせかたに注目、演出の妙おそるべし)ときの高峰の表情が痛々しい。高峰の憧憬の対象となる根上淳香川京子兄妹の造形が在り来りとはいえ手堅く、またラスト、母(浦辺粂子)と高峰とが和解するシーンで、浦辺の「あんたのお父さんは嘘だけはつかない人だったもの」というふうな台詞が劇中二度目、これは一度目よりもぐっとくる。成瀬の映画はいったいに、ああ来るぞ来るぞと怯える展開は殆どなくて、気がついてみると問題が打開しつつあるか、それともどうしようもない逕庭があたかも深淵のごとくそこに生じているかのどちらかだが、これは前者。そのきっかけが一条の稲妻にあるのが面白く、高峰が下宿先の二階の窓から外を眺めるシーン、それが最後までうまくいかされている。
ジョゼフ・フォン・スタンバーグ『モロッコ』(1930)
四度目か。何度観ても、ラストシーンの余韻がたまらない。映画評論家以外では、たとえば天野忠もラストシーンについて書いていたが、寺田寅彦はむしろ冒頭部の太鼓の音に注目していた。とまれ、少々猫背ぎみのマレーネ・ディートリッヒの表情の変化(ラストになるにつれ、だんだんポーカーフェイスでなくなって来る)が良い。『この世の花』がラストの舞台を砂丘に設定したのは、この映画の影響もあったに相違ない。
野口博志『昼下りの暴力』(1959)
山本直純の音楽が、かっこよすぎる。裏切りにつぐ裏切りで、先がまったく読めない展開だが、脚本にやや手抜きがあって困る。たとえば自分の部屋に川地民夫をかくまっている筑波久子が、坂本組組員二人に対して、「次郎さんがどうかしたんですか」と言うくだり。あまりに唐突すぎて、ふつうなら言葉後をとられ、「部屋を見せろ」、となるだろう。しかしそういう流れにはならない。また、筑波がスカーフに包んだハジキを箪笥に隠すシーンで、スカーフの端が(一日中!)これ見よがしに箪笥の端から出ているなんてことは、人間の心理上からして、絶対にありえない。いくらなんでも、すぐに気づく筈である。それから川地が水島道太郎と決闘するシーン。水島は川地にトドメをさすべきところで、そうはしない。不自然きわまりない。がしかし、この映画はそういう点を差し引いても、カッコいいのである。それは否定できないのである。なんといっても宍戸錠。一輪の花という道具立ての凡庸さには苦笑を禁じえないが(まあ現代であるからこそ、なのだろうけれど)、壁を隔てて水島と対峙するシークェンスの素晴らしさは見事。『フェイス/オフ』を遥かに凌いでいる。ほか峠のシークェンス、川地がバイクで疾走するシークェンスも見もの。小道具(拳銃型ライター)の使い方にも感心した。
山本嘉次郎ホープさん サラリーマン虎の巻』(1951)
「社長シリーズ」の原点といわれる作品だが、手の早い社長を、河村黎吉でもまして森繁久彌でもなく、志村喬が演じているというのが新鮮である。東野英治郎が、後の社長シリーズでしばしば演じた悪徳社長(会長)ではなく、頑固だが気の良い親爺を演じているのもまた面白い。配役の面白さとともに、台詞まわしの面白さにも注目、ただしフォークダンスのくだりが、当時の風俗をしのぶよすがとなるのはいいものの、やや間延びしていかにも勿体ない。
キーファー・サザーランド『気まぐれな狂気』(1997)
サザーランドの初監督作品で、本人も出演している。タランティーノの『レザボア・ドッグス』にプロットはよく似ているが、あくまで設定のみ。そのテーマ性を考えると、むしろこれは、『俺たちに明日はない』へのオマージュではあるまいか。感傷的なラストはご愛嬌。ただボニー&クライドのラストはまるで見世物状態でちょっとあれだが(だから蓮實翁も下品だ、とのたまったのだろう)、本作品の爆発はそんなに下品(派手なだけ)じゃない。マーティン・シーンチャーリー・シーンの父親)がマフィアの殺し屋を演じていて、これがはまり役だった。なお、ケヴィン・ポラック(この俳優、スタンダップ・コメディアンでもある)が銃を弄るシーンがそれなりの伏線となっていたことに、後で気づいた。