河崎実の映画

所用で出たついでに、某骨董品コーナーにて、小島政二郎葛飾北斎』(旺文社文庫)200円、木村毅『ネール―独立と人類愛に生きた生涯―』(旺文社文庫特製版)300円などを拾う。『週刊朝日』もようやく購入。いちばん読みたい記事は、もちろん「徳川夢声『問答有用』を読みなおす―いまよみがえる伝説の対談」だ。今回は、「銀幕・舞台の大スター編」なのだから、そりゃ買わないわけにはゆかない。某さんがお書きになっていたとおり、確かにちょっと「浅い」のだが、こうして部分的であっても読むことが出来れば有難いかな…という感じ。
夢声といえば、最近読んだ重村力『随筆エッセイの書き方』(実業之日本社,1968)にこんなエピソードが書かれていた。

徳川夢声老は、かつて『週刊朝日』で四百回もの対談をした。その他、対談、座談会は限りなくある。その夢声老に聞いた話だが、
「随筆てえものは、ノン・フィクションであることがよろしい。小説とちがって、まことしやかなつくり話で人を迷わすてえことがありませんな。で、随筆ほど筆者の人物が出てくるものはない。初対面の人と会うときは、その人の随筆を一冊読んでおくと実に助かる。性格とか、趣味とか、つまり人間そのものがはっきりうかがえるから、初対面のような気がせずに対談することができますな。あたしぁ、書庫が満員になるてえと、本を整理するんですが、随筆書だけぁみんな売らないでとっておきまさあ」
といっていた。(pp.45-46)

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このところ、河崎実作品を立て続けに観ていて、このひとが「天才」たる所以は、ありきたりの画をあくまでありきたりに撮るに吝かでないところにあるのだろう、と思った。だから、「B級(もしくはC級)っぽくない、徹していない」というよくある批判は、どうも的を射ていないような感じがするのだ。B級のベタには、ある種のあざとさが必要だが、河崎作品はそれを最初から抛棄している(回避ではなく抛棄である)。『あっ! この家にはトイレがない!』のメイキングを見て確信した。そう思えばこそ、役者の棒読みのせりふなど、どうでもよくなるはずだ。
昨日は、『いかレスラー』(2004)を観たのだが、(ターザン山本AKIRA吉田豪などが出演しているからといって)プロレスファンがこれを観て激怒してはいけない。そもそも、いかレスラーの中身は破李拳竜で、しかも監修が実相寺昭雄であるということに要注意だ。これは正しく、「ウルトラ・ファイト」の再現ではないか(「パティーズ」なんかもそうだが、このひとは、つくづく、リングが好きなんだなあと思う)。しゃこボクサーとの対戦において、それはとくに顕著である。だからこれは、『えびボクサー』のパロディではないのだ。プロレスでも、ボクシングでも、ましてや異種挌闘技戦でさえない。これは、「怪獣映画」なのである*1
いかレスラー」のベタとは、まずは主人公の名前が、岩田貫一(西村修)と美弥子(石田香奈)、つまり「貫一・お宮」の組み合わせであるということ(美弥子は姉の白石美帆に「おみや」と呼ばれている)だろうが、他にも、「いか」をもじったダジャレのオン・パレード、お百度参りのシーン、夕焼けのシークェンス*2等と、いかにも「ありがち」な台詞回しや画が多用されている。
ところで、イカ石田香奈の同衾シーンは、『北斎漫画』の大ダコ・樋口可南子を髣髴とさせるのだが、これは、河崎監督なりの新藤兼人へのオマージュだった…と考えたい。うがち過ぎだろうか?

*1:「怪獣映画」というと、まっさきに想起するのは塚本晋也だが、河崎氏は塚本氏より二歳年長なのである。その割には、八十年代特撮ヒーロー作品の定石を押さえていらっしゃる…。

*2:レーニングシーンもそうなんだけれど、特にラストのシークェンスのどうしようもないベタさを見よ。石田香奈が赤ん坊を抱いている→切り返しで西村修が大袈裟に(「バイオミック・ソルジャー」ばりに)手を振りながら走って来る→夕日のなかで二人が出会って「高い高い」。