神の如きアケチ

齋藤希史『漢文脈と近代日本―もう一つのことばの世界』(NHKブックス)を購う。戸板康二『中村雅楽探偵全集1 團十郎切腹事件』(創元推理文庫)が(ついに!)出ていたし(装釘も良い)、鈴木俊幸『江戸の読書熱―自学する読者と書籍流通』(平凡社選書)も出ていた。またしても、散財してしまいそうな気がする。
大塚英志『公民の民俗学』(作品社)という本も出ていたのだが、これは『「伝統」とは何か』(ちくま新書)の改訂版なのである。二年半ほど前に出た新書版が絶版状態にあるとは知らなかった。というのも、ついこないだK君がこの本を読んでいて、最近の大塚さんは角川選書三部作で原点回帰しそうだね、ああそうだね、なんて話をしていたところだったからだ。新書版が絶版に至る経緯については、『公民の民俗学』の「あとがき」で詳しく述べられている。それによると、新書版の「靖国神社にまつられた日露戦争の戦死者は八〇〇万一二四三人に及ぶ」(p.120)という誤植に問題があったという。正しくは、「八万一二四三人」(私は新書版で読んだが全然気づかなかった)。大塚氏が言うには、自分は確かに「八万一二四三人」と書いたのだが、手書きの「万」字を「百」字と間違えられてしまったのではないか、ということのようだ。それをめぐって、出版社側とひと悶着あったそうだが*1、詳細は「あとがき」に譲る。
「誤植」「誤記」という問題は、それがほんの些細なものであるにせよ、笑うに笑えない事態を引き起こすこともある。ことに固有名詞の場合がそうだろう。
最近読んだ、重村力『随筆エッセイの書き方』(実日新書,1968)にもそんな話があった。

西条(西條とも―引用者註)八十さんから聞いた話――税金の通知の宛名が西条ハナ様。これはまだいいほうで、八と十の二字がくっついて西条仐(かさ)様というのがあったそうだ。
徳川夢声老のところにくる年賀状のうち、毎年何通かは無声様というのがあるという。夢声老、例の調子で「声が無くなっちゃ商売上ったりでさ」と。
(中略)
(1)西条ハナ、西条仐は、正しく楷書で書かなかったための誤りである。
(2)徳川無声、徳田秋成は、音からくる誤りである。尾崎士郎さんを尾崎四郎、小島政二郎さんを小島政次郎、本多顕彰さんを本田顕彰さんとするのも同じ例。
(3)確井益雄*2安達瞳子*3と書かれやすいのは、字面の類似からくる誤りである。
(4)安倍能成さんを安部能成安部公房さんを安倍公房、内田百輭さんを内田百間森鷗外を森欧外と書いたり、活字になったのを見かけるが、音と字面、両方が似ていることからくる誤りである。
(5)画家の小絲源太郎さんを小糸源太郎と書いてはいけない。小絲さんから「感じの悪いものですよ、自分ではないような気がしますね」と聞いたことがある。ごもっともと思った。略字(元々は別字―引用者註)をつかうことは、相手に対して礼を失することになる。(pp.74-75)

「西条仐」は初耳であったが、「西条ハナ」は聞いたことがある。たとえば、日本語探偵団編『笑いながら漢字に強くなる本』(カンガルー文庫,1996)に、

そのプロがやらかした大チョンボに、有名な「西条ハナ」事件がある。番組で曲目を紹介するときのことだ。若い女性アナが、落ちついた様子で語ったのが、「野口雨情作詞・西条ハナ作曲」というものだった。(中略)何でも手書きの原稿だったため、「八」が「ハ」に、「十」が「ナ」に見えたそうな。それでも、西条八十の名前くらい、常識的に知っていてよさそうなものだが、最近のアナウンサーのなかには、バイリンガルを売り物にしている帰国子女が多く、日本人の常識というものが、通用しないことも多いようだ。(p.39)

とある。ついでにもうひとつ、この本(p.45)で取り上げられているものに、「いちにちじゅうやまみち」事件というのがある。同書はこれについて、「『旧中山道(きゅうなかせんどう)』を『一日中山道(いちにちじゅうやまみち)』と読んだことで有名な、あの女性アナ」とだけ書いているのだが、「あの女性アナ」というのが誰のことだか分からない。「有賀さつき」説*4というのが広まっていたが、それは否定されている*5
ところで、重村氏が(2)として挙げていた「音からくる誤り」に関連するもので、面白いエッセイを最近読んだ。藤井淑禎「メイチかアケチか――清張の乱歩批判――」(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター『センター通信』創刊号2007.1.15)という文章である。面白いのでちょっと詳しく述べておこう。
松本清張の「推理小説時代」(『婦人公論』昭和33.5)に、

名探偵の出し方も、あまりに現実離れがしている。「何という神の如き明智であろう」式の表現で、本職の警官や衆愚を尻目に、ひとりで超人的な活躍をする。読者は、この探偵に作者のロボットを感じるが、人間を感じることができない。

とあるのだが、文中の「明智」を「メイチ」と読むべきか「アケチ」と読むべきか、ということが問題だという。なるほど、いずれにせよ、間接的な「乱歩批判」になっていることは言えそうだけれども、「メイチ」と読んでも「アケチ」と読んでも文意が通ずる。しかし初出の文章を見てみると、「明智」ではなく、「名智」になっているというのである。そして、藤井氏は次のように結論するのである。

想像をたくましくすれば、誤植のパターンとしては、字体の類似ゆえ、ではなく、メイチメイチと唱えて「明」と間違えて「名」を拾ってしまったパターンだろう(清張が原稿にアケチのつもりで明智と書いたのを誤植したとか、明智=メイチのつもりで名智と誤記したものをそのまま植字したとかの可能性等も、もちろんわずかだがある)。ともかく初出を手がかりにすれば、先の「神の如き明智」の発音はアケチではありえないことになる。

*1:別の出版社ともそんなことがあったような…。その経緯もやはり(別の本の)「あとがき」に書いてあったような…。

*2:正しくは碓井(うすい)益雄。

*3:正しくは安達曈子(とうこ)。

*4:私も、バラエティ番組か何かで、有賀さつきが「いちにちじゅうやまみち」と誤読した、という説を聞いたことがある。一昨年のことだったか。

*5:「『旧中山道』を『いちにちじゅうやまみち』と読んだアナウンサーがいるんですよ」と話をふられた有賀が、「こんなのは読めて当然ですよね、『きゅうちゅうざんどう』」と(いうようなことを)発言した、というのがどうやら真相らしい。それでも誤読であることにはかわりがないのだけれど。