年明けに「江戸川乱歩「二銭銅貨」と点字とビブリア古書堂」(「くうざん、本を見る」)を拝読しておおいに触発され、このところ、乱歩の初期作品をちびちび再読するなどしていた。
青空文庫版「二銭銅貨」の底本たる光文社文庫版全集本(第一巻『屋根裏の散歩者』)は、前掲ブログにあるように平凡社版全集(S.6)に基づくが、末尾の校異(山前譲「解題」)はテキスト全体の異同について、「初出(T12.4「新青年」)、初刊本(T14.7春陽堂の創作探偵小説集第一巻『心理試験』)、平凡社版全集(S6.6『江戸川乱歩全集』第一巻)に大きな異同はない」(p.653)と述べ、また点字部分については、「桃源社版全集(S36.10『江戸川乱歩全集』第一巻)では点字暗号を訂正して書き改めている。本書もこれにならった」(同上p.654)とあるのみで、それ以上詳しいことは書いていない。
点字暗号の改訂に関しては、今野真二『リメイクの日本文学史』(平凡社新書2016)によれば次のようである。
なお、「二銭銅貨」では暗号と点字がかかわっているが、初出時(『新青年』発表時)には点字に関する誤りがあり、桃源社版の『江戸川乱歩全集』(一九六一年〜一九六三年)においてそれが訂正された。しかし、その後に読者からの指摘で、点字部分について、再び『新青年』に拠るようになったために、また点字に関する誤りがいわば「継承」されてしまうことになった。このことについては『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(一九八四年、創元推理文庫)の戸川安宣の「編集後記」に述べられている。現在入手しやすいものとしては、『江戸川乱歩傑作選』(昭和三十五年発行、平成元年四十八刷改版、平成十七年八十八刷、新潮文庫)が桃源社版全集を踏襲している。例えば、この『江戸川乱歩傑作選』の二八〜二九頁に示されている点字の解読表は、リライト版が二四八〜二四九頁に示す解読表と異なる。例えば「チ」と対応する点字の形が異なっている。こうしたことも広い意味合いでの「書き換え」にあたる。乱歩は自らの誤りに気づいてそれを訂正=書き換えたが、それがまた第三者の手によって、「誤り」のかたちに引き戻されたことになる。そして、点字を自ら読むことができない多くの読者はそのことに気づかない。(p.181)
戸川安宣「編集後記」は今ただちに参照できないので、ちょっとわかりにくいが、「読者からの指摘」とは、乱歩自身による訂正を訂正だとは思わずに(別のテキストと比べるなりして)誤植と解した「指摘」、ということを意味するのだろう。
次に『江戸川乱歩傑作選』を見てみる(手許のは「平成二十一年四月二十日 九十三刷改版」で、頁数だとpp32-33となる)。今野氏によると「桃源社版全集を踏襲し」たとのことであったが、これは「くうざん、本を見る」において「新たな異文」とされたもの、すなわち拗音の扱いを、
とするもので、前掲ブログにあるとおり、『日本文学 100年の名作1 夢を見る部屋』(新潮文庫2014)に出ているものと同じだ。
見かけ上は、オリジナル版から拗音符を抜いた形だが、kuzan氏によれば「改訂方式からの修正と考えた方がよい」ということになる*1。『日本文学100年の名作』所収のものは、恐らく、同じ新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』をそのまま引き写しているのだろう。しかし、作中には「点字の五十音、濁音符、半濁音符、拗音符、長音符、数字などが、ズッと並べて書いてあった」とあるのだから、拗音符を無視してしまうと、文章の理解にも影響が出て来ることになりはしまいか。
また、今野前掲の文中に「リライト版」とあるのは、「少年探偵 江戸川乱歩全集」(ポプラ社)の第37巻『暗黒星』所収版(1971)をさす。リライトは氷川瓏(渡辺祐一)が行っているとされる。このポプラ社版もいま手許になく、直ぐには参照できない。よって確かなことはいえないのだが、上引に「「チ」と対応する点字の形が異なっている」とあるのは、正確にいうと、「「チ」に対応する部分が拗音符の点字に改められている」ことだと解せそうである。
さてそこで、「新たな異文」の出現がどこまで遡れるのか、にわかに気になってくるわけだが、角川文庫版『D坂の殺人事件』(2016)*2所収の「二銭銅貨」もこの形になっている。いや、実はもっとひどくて、解読のためのキーワードとなる「南無阿」「弥陀仏」が、全て「左縦書き」ではなく「右縦書き」に改められてしまっている。すると、たとえば「コ」「カ」は、反転してそれぞれ「タ」「ヤ」になってしまう。文中でも、登場人物の松村が、わざわざ「今、南無阿弥陀仏を、左から始めて、三字ずつ二行に並べれば」云々と言っているにもかかわらず、である。
角川文庫の拠っているのは、旧版の角川文庫『一寸法師』(1973)所収のものらしい(例の水色の背の文庫だろうが、『一寸法師』は持っていなかったと思う)。だとすれば、この「異文の異文」は四十年以上前から存在していることになるが、本当だろうか。あるいは、この度の新版が書き改めたものか。
いずれにせよ、「新たな異文」は『江戸川乱歩傑作選』(1960年の旧版から?)や角川文庫版『一寸法師』(1973)などにも見える形であるらしい。
ついでに、最近出たものをいくつか見ておくことにしよう。
たとえば岩波文庫所収版(千葉俊二編『江戸川乱歩短篇集』2008)pp.28-29に掲げられる点字暗号は、オリジナルのものである。底本は初出誌(T12.4)に基づいており、なおかつ、「平凡社全集版と校合」したために、点字が改められることはなかったわけである。昨年改版された、春陽文庫版(江戸川乱歩文庫『心理試験』所収)pp.76-77も、『江戸川乱歩全集』(春陽堂版 昭和29年〜昭和30年刊)を底本としているから、オリジナルのままである。
一方、『桜庭一樹編 江戸川乱歩傑作選 獣』(文春文庫2016)所収版pp.32-33は、光文社文庫全集版を底本としているから、修正後の形となっている。
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この1月に、NHK-BSプレミアムで「シリーズ・江戸川乱歩短編集 1925年の明智小五郎」が放送された。「D坂の殺人事件」(1.11放送)、「心理試験」(1.23放送)、「屋根裏の散歩者」(1.24放送)の全三話で、三篇とも、明智を満島ひかりが演じていた。
これまでの映像作品では、小林少年を女性が演じたことは有ったが(実相寺昭雄『D坂の殺人事件』1998の三輪ひとみ*3)、女性が明智に扮したのは初めてではないか。いずれも「ほぼ原作どおり」の映像化であるとうたっている。たとえば『D坂』は、明智と「私」とが谷崎潤一郎「途上」の話をすることなどはカットされているが、会話や展開などはほぼそのままであった。
満島以外も配役に凝っており、『D坂』の「私」は“アーバンギャルド”の松永天馬、古本屋のおかみに中村中(その手があったか!)、小林刑事には、「平泉成」の物まねで知られる末吉くん。『心理試験』の蕗谷清一郎は菅田将暉*4、笹森判事に田中要次、下宿の老婆に嶋田久作*5。そして『屋根裏』の郷田三郎は篠原信一(役者ではないので台詞はほとんどなし)。
選曲も面白くて、『心理試験』には、ダリオ・アルジェント『サスペリアPART2』*6の挿入曲(子守唄)「スクール・アット・ナイト」や、欧陽菲菲「恋の追跡」、丸山圭子「どうぞこのまま」が使われているし、『屋根裏』には尺八アレンジの「Take5」が流れる。
ただし演出は凝り過ぎていて、『D坂』ではまだましだったのが、『心理試験』、『屋根裏』、と回を追うごとに過剰となり、たとえば『心理試験』のラストで、菅田・満島・田中の三人が「ワーーッ」と叫び合う展開など、あまり感心しなかった(というか、わかりにくかった)。
ディテールにいろいろ注目して見ていたのだが、『心理試験』で、字幕とともに、
「辞林」の何万という単語をひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉を書き抜いた。(菅田によるナレーション)
という件が出て来る。しかし、菅田が実際に手に取って見ているのは金澤庄三郎編『辞林』ではなく、新村出編『辞苑』(博文館刊)であった。『辞林』を小道具として用意できなかったのかどうかは知らないが、『辞苑』は1935(昭和十)年刊だから、時代が合わなくなってしまう。
それはいいとして、これは「原文」に、
そこで、彼は「辞林」の中の何万という単語をひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉をすっかり書き抜いた。(『江戸川乱歩傑作選』新潮文庫改版p.134)
とあるところ。この箇所にも異文があることに気づいた。
たとえば河出市民文庫版(1951)『心理試驗』では、この箇所が、
そこで、彼は『辭林』の中の何萬といふ單語を一つも殘らず調べて見て、少しでも訊問されさうな言葉をすつかり書き拔いた。(p.177)
というふうに、「ひとつも残らず」となっている。というよりも、むしろ「も」の有るほうが圧倒的多数で、春陽文庫版や光文社文庫版、岩波文庫版など全てこちらであったが、角川文庫版(『D坂の殺人事件』所収)が、「ひとつ残らず」となっている。この箇所は光文社文庫版の校異(「解題」)にも出てこないので、比較的新しい異文であろう*7。
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「暗号小説」といえば、ちょうど竹本健治氏の『涙香迷宮』(講談社)を読み始めたところ。「いろは」や「あめつち」に興味を持つ向きは読むべきだろう。
山田航氏によると、竹本氏は「いろは歌作りが趣味」なのだとかで、「短歌雑誌「短歌研究」二〇一三年十一月号で「いろは歌に挑戦」という特集がなぜか組まれたのだが、そこに自選いろは歌を十五首寄稿している」(『ことばおてだまジャグリング』文藝春秋2016:52)という。
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北村薫『遠い唇』(角川書店2016)に、「続・二銭銅貨」が収められており、巻末注記に、
「二銭銅貨」の本文は、点字に関する誤りを正した創元推理文庫版『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』によった。(p.210)
とあった。(2016.10.28記す)

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*1:「くうざん、本を見る」の記事の中ほどに、「ト」の仮名を「ソ」と誤記されているところ(二か所)があるのではなかろうか?
*2:カバー絵が、アニメ「文豪ストレイドッグス」とのコラボ作品だとの由。
*3:なお原作に小林少年は出て来ない。
*4:劇中で蕗谷が、傲岸をもって知られた島田清次郎の『地上』を読んでいる、という演出も面白かった。
*5:嶋田は、実相寺昭雄版『屋根裏の散歩者』1992と『D坂』1998とで明智小五郎を演じた。
*6:これは邦題で、『サスペリア』とは連続性がない。原題は“Profondo Rosso”(真紅)である。
*7:上に述べたように、「二銭銅貨」の点字暗号の扱いも新潮文庫版と角川文庫版とで共通していたのであった。あるいは同じ底本に拠ったのだろうか。