知里真志保『アイヌ語入門』のこと

 知里真志保アイヌ語入門―とくに地名研究者のために―』(北海道出版企画センター)という本がある。判型でいうと、「小B6判」というのだろうか、一般的な新書よりもすこしだけ小さなサイズの本である。同じデザインでかつ同じ判型の本に、『地名アイヌ語小辞典』『和人は舟を食う』(いずれも知里の著作)などもあるから、多分、シリーズのうちの一冊といった位置づけになるのだろう。
 この『アイヌ語入門』は、1956年6月に初版が出ており、手許にあるのは2004年1月の「七刷」。現在も新本で入手できるようだ。小さな本ながら、アイヌ語の音韻法則などについて詳述されており、たいへん勉強になるのだが、先覚たちへの批判には容赦がない。たとえば、「この人(Kという農学博士―引用者)は大まじめで,こういうチャランケ*1をつけたのである」(p.11)、「K氏ていどのアイヌ文法の知識では」云々(p.13)、「永田方正氏は,そういうキマリのあることを知らないものだから,誰も分る筈がないと思って,開音節だろうと閉音節だろうと気の向くままに -p をつけて,勝手にアイヌ語の地名をでっちあげて知らん顔をしていた」(p.30)、などといった調子である。ちなみにそのK氏というのは、河野広道のことだと「あとがき」で明かされている(p.275)。
 『アイヌ語入門』は、岡茂雄「『分類アイヌ語辞典』と金田一博士」(『本屋風情』)にもちょっとだけ出て来る。

 (『分類アイヌ語辞典』の―引用者)第一巻『植物篇』は、昭和二十八年の春先にできたのだが、その前、序文の原稿を渡された時、その長大なのにまず驚き、内容を拝見して、更に目を見張ったのであった。そして、知里さんの満々たる自負もさることながら、学究の純粋さと仮借ない筆鋒に、思わず身の引きしまるのを覚えた。今にして思えば知里さん晩年の名著といわれた『アイヌ語入門』の、あとがきのその末尾に「アイヌ研究を正しい軌道にのせるために」という、特にゴシック活字で、力をこめて表示されたその悲願が、この序文にも脈々として流れていたのである。(中公文庫版1983:119-20)

 『分類アイヌ語辞典 植物篇』は、日本常民文化研究所から刊行されている。同書は朝日賞候補として推薦されたことがあるが、知里の師・金田一京助が、それに賛同しかねるという意見を表明したために、受賞の話はいったん流れてしまった。
 京助の非推薦理由は――『本屋風情』p.120からの孫引きになるが――、

 開巻第一ページに、北海道大学の先生をやり玉にあげているのです。痛快には違いないけれども、開ける早々、そういうことを書いてあるものですから、困ってしまった。やり玉にあげられているのは、二人とも北海道大学では神様のように尊ばれている大先生たちです。そこで、私は、こういうのを朝日賞にしたばあい、朝日新聞社だって困るだろうし、それにまた、この『植物篇』はなにぶん小さいし、引き続いて『動物篇』だの、『人間篇』だの、どんどん出るのだから、急ぐには及ばない(金田一京助『私の歩いて来た道』)

ということであったという。ここにいう「大先生たち」とは、宮部金吾、三宅勉の二人である。
 岡は、京助のこの辯明に疑問を呈し、「(知里の批判は)あくまでも学問上の批判であり、アイヌ語の正確な解明を希求しているのであって、私たちはむしろ学徒の純粋性がうかがえて、清々しくさえ覚えるのであったが、どんなものであろうか。(金田一)先生は触れておられないが、この序文の中には、わずかではあるが、金田一先生御著作中の植物名解についての批判も盛りこまれているのである」(p.121)と述べている。さらに、「なおまた「引き続いて『動物篇』だの、『人間篇』だの、どんどん出るのだから……」といっておられるが、その非推薦文をお綴りになる時には、どのようなものが続刊されるかは御存じなかったはずである」(同前)ともいう。
 結局、京助は「その時の御措置を気にされたものか、『人間篇』が翌年末刊行されると、まことに素早く激賞推賛された」(同p.122)ため、昭和三十(1955)年1月16日、知里に朝日賞が贈られることとなった。その授賞式や祝宴に京助の姿はなかった。
 岡のこの記述だけをみると、京助の方が大人げないように見えてしまうかもしれない。
 しかし、山内昌之「弟子をねたむ師、師をそねむ弟子?―金田一京助知里真志保の場合」(『歴史と政治の間』岩波現代文庫2006)を読むと、一概にそうとも言えないことがわかる。
 山内氏は、京助が分類語辞典の植物篇を推薦しなかったとき、知里が「先生は俺を嫉妬している」と周囲に漏らしたと記しているが、「むしろ金田一の方こそ、あれこれの嫉妬にさらされたことは有名である」(p.267)と書き、藤本英夫『金田一京助』(新潮選書)や大友幸男『金田一京助アイヌ語』(三一書房)を参照しつつ、京助が周囲の嫉妬の念から「アイヌ語学」の世界に閉じ込められて孤立していたことについて述べる*2
 そして、昭和二十八(1953)年に札幌で人類学会・民族学会連合学会が開かれた際、京助は特別講演を依頼されたのだが、「『知里君とのことがあるから』とさびしそうに辞退した」こと(p.271)や、周囲に和解を勧められた知里が上京時に京助のもとを訪ねた折、京助が「(息子の)春彦に電話で『知里君が来てくれたんだよ』と涙ながらに伝えたという話」(同前)、それから、昭和三十六(1961)年に知里は急逝するのだが、「七十九歳の金田一は空路かけつけ」た(p.273)という話*3などを紹介する。なお、知里の授賞記念の祝宴に京助はもともと呼ばれていなかったという。
 おもうに、「断碑」の木村卓治*4を髣髴させるような知里の狷介は、アイヌ民族としての強烈な自意識に支えられたところも大きかったのだろう。
 さて『アイヌ語入門』の話に戻ると、同書には、山田秀三知里博士の『アイヌ語入門』」という二つ折りの附録が挟みこまれている*5。それを見ると、知里の河野への批判については「これではもう悪口だ」と評してあるし、またこうも述べてある。

 知里君の恩師金田一京助先生は,先輩の評をするのに欠点は全く触れないで,長所だけを賞讃される。その愛弟子の知里さんは,先人の長所を挙げずに,欠点を拾って鋭く攻撃するだけだ。二つ足して二で割るとちょうどいいのだが。知里さんの兄貴分として何度それを説いたことだったか。

 この附録には、他にも興味ふかいことが色々と書かれているのだが、ここでの紹介は控える。ただ山田は、知里の知られざる穏やかな一面も明らかにしているとだけ述べておこう。
 現在では、知里の説といえども修正を余儀なくされる部分もあるらしい。たとえば「川」を意味する「ペッ」「ナイ」*6の先後関係(成立順)について、知里は「ペッ」→「ナイ」という順を想定した*7が、これは逆で、「ナイ」→「ペッ」ではなかったか、という説が近年は有力であるそうだ(瀬川拓郎『アイヌ学入門』講談社現代新書2015:72-79)。

アイヌ語入門―とくに地名研究者のために

アイヌ語入門―とくに地名研究者のために

本屋風情 (1983年) (中公文庫)

本屋風情 (1983年) (中公文庫)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

*1:「北海道の方言で,「苦情をいう」「なんくせをつける」の意。もとアイヌ語の「ちャランケ」(cháranke)から來て,それは本來は動詞で「論弁する」「談判する」の意であるが,「弁論」「談判」というような名詞にもなる」(p.11脚注)。

*2:山内氏は「正確な事実は知る由もない」、と留保してはいるが。

*3:知里が自身の死を報せてほしい人のリストを生前に作っており、そこに京助の名が入っていなかったにもかかわらず、である。

*4:森本六爾がそのモデルだという。

*5:印刷の具合から見て、初刷ではなく後刷でつけられたものだろうが、どの時点から附録としてついているのかはわからない。

*6:知里によると、「『ペッ』や『ナイ』を単に『川』と訳することにすら問題があるのである。なぜなら,川というものに対する古いアイヌの考え方は,現代人たるわれわれのそれとはいちじるしく異っているからである。古い時代のアイヌは,川を人間同様の生物と考えていた」(p.40)という。

*7:山田秀三も同じ見解だという。