岩阪恵子選『木下杢太郎随筆集』

 そもそもわたしが、木下杢太郎に関心を抱くようになったのは、平澤一「古本屋列伝」(『書物航游』)によるところが大きい。以前にもその一部を紹介したことがあるが、重複をいとわず引いておこう。

 その次に訪ねた時、若林さん*1は折よく店にいた。こちらから名乗って、「これから宜しく」と挨拶すると、「杢太郎を探しておいでと、藤原さん*2から伺っています、こんなものはお持ちですか」と、数冊の雑誌と小冊子とを、とりだした。雑誌は『芸林間歩』の第一号(木下杢太郎の追悼記事が五編ある)と『文芸』(太田博士追悼号)であった(木下杢太郎の本名は太田正雄である)。この二冊は、既に八木さん*3の店で手に入れていたが、小冊子の三冊は、聞いたこともないものであった。伊東市、杢太郎会の『小学校時代の回想』と、『木下杢太郎の横顔』と、『木下杢太郎碑建設経過・除幕式模様・会計報告』であった。こちらの方は、持っていませんと答えると、宜しければ、さしあげますということであった。
 その頃(昭和三十六年頃―引用者)、私は杢太郎の本を手にしない日はなく、古本屋に入れば、必ず彼の本はないかと書棚の本の背に眼を走らせた。また、雑誌など定期刊行物の杢太郎に関する記事をも集めていた。当時は、木下杢太郎は既に忘れられた人であった。(略)京都の古本屋では、『食後の唄』は、とうとう、みつからなかった。『えすぱにや・ぽるつがる記』とグワルチエリの『日本遣欧使者記』は、少し高いのを我慢すれば手に入った。『芸林間歩』、『其国其俗記』や『木下杢太郎選集』などは、五、六軒も店をまわれば、必ずあった。『日本吉利丹史鈔』が三百円であった。戦後に出版された『葱南雑稿』(昭和二十一年九月発行)は、五十円か百円で、時には見切り本の中に入っていたりした。(中公文庫版pp.283-85) 

 杢太郎の著作は、これまでに七冊購っている。
 まず単行本は、『支那傳説集』の精華書院版*4、およびその改訂版たる座右寶刊行會版*5、『藝林間歩』(岩波書店)、『葱南雜稿』(東京出版)の四冊、それ以外は文庫本で、『南蛮寺門前 和泉屋染物店 他三篇』(岩波文庫)、日夏耿之介編『木下杢太郎詩集』(アテネ文庫)、前川誠郎編『新編 百花譜百選』(岩波文庫)の三冊――で、計七冊。共著の『五足の靴』(岩波文庫)もここに加えることができようか。
 いずれも、千円に満たない金額で入手できたことは幸だったといわねばなるまい(『支那傳説集』の二冊は裸本、『藝林間歩』は少線引有であるけれども)。現在、新本で手に入るのは、『新編 百花譜百選』『五足の靴』のみであろうが、これとても、いつ品切・絶版となってしまうかわからない。
 このうち最もわたしの気に入っているのは、戦後に出た遺著の『葱南雜稿』(太田正雄名義)である。同書の完成を目前にして杢太郎は長逝するが、あとを野田宇太郎が引き継いで、無事に刊行までこぎつけた。
 杢太郎自身の「序」によると、その内容は、大きく「佛印紀聞」、「學藝微言」、「燕石瑣屑」(杢太郎の言葉を藉りると「心の小さい鏡の上にたまゆらに印象した、有るか無きかの物かげを危く捉へ得たままに札記したもの」)、「餘燼詩篇」の四部に分たれる。さらに附録として、「日本醫學史に於ける古方家」、「わらひ蕈(現代語狂言)」、随筆「すかんぽ」(遺稿)を附す。
 なお「葱南」は杢太郎の雅号。号の由来は、「大正御宇の初、余南満に在り、職を醫學堂に奉じた。未だ心友を得ず、秋冬の夜は煢然として孤燈に對し、好んで西域の諸傳を讀んだ。天山葱嶺の南路は、若し能ふべくんば一度踏破して見たいと冀願した」(「序」三頁)ことにあるという。
 ちなみにいうと、生島遼一が「葱南先生のこと」という一篇を書いている。生島はその短文のなかで、かつては、

文人木下杢太郎には若干の偏見をいだき、この人の仕事に適切な敬意をはらっていなかった。チョコレートを楂古聿と書いたりする趣味は好きではなかった。この人が白秋らに先んじて手をつけたキリシタン文芸に関しても、その時代の反映を見るにとどまり特につよい好奇心をおぼえなかった。(略)鷗外の小型エピゴーネンと簡単に考え、随筆類も、学者の随筆なら寺田寅彦のほうが文章もあっさりしていいくらいに思っていた。
(『春夏秋冬』講談社文芸文庫:121)

と吐露しているが、しかし、「伊豆伊東へ度々行くようになって、ここを郷里とする木下杢太郎(太田正雄)に親しみをもつようになった」(同p.120)と述べる。やがて、「とかく衒学的と思った文体の抵抗もあまりな」くなり、「紀行文や随筆のそこかしこに、じみながらよくかがやく眼光」を感じるようにさえなったという(同p.122)。
 生島は、『葱南雜稿』に限っていえば、夙くから愛読していたらしく、

古いことだが、私がまだ教師をしていたとき、この本(『葱南雜稿』のこと)の中の《フランスに於ける教育改革》の一部を、たしか教育課程の課目としてしゃべる講義に利用させてもらった恩恵もある。よく調べてあった。(同pp.120-21)

と記している。
 とまれこの『葱南雜稿』一冊だけでも、杢太郎の様々の貌を知ることが出来る。さきに引用したように、この書は、以前は「時には見切り本の中に入っていたりした」(平澤一)というほどであったが、わたしは約五年前、大阪のTにて800円で購った。これはまだ安いほうで、1500〜2000円の値がついているのを何度か見かけた。
 さて、かつて富士川英郎は、杢太郎の随筆を好んで読み、お気に入りの随筆を集めた文集の出現を「夢想」していた。

 私が年来、特に愛読しているものに、彼の独特な随筆がある。そしてそのうちでも、杢太郎がその晩年に執筆した幾篇かの随筆に、私は特に傾倒しているが、それらは、
 小学校時の回想*6
 すかんぽ
 僻郡記
 残響
 研究室裏の空想
 本の装釘
 あかざ(藜)とひゆ(莧)(ママ。正しくは「あかざ(藜)とひゆ(莧)と」)
などの諸篇である。私はこの七篇を、右に列挙した順序で並べた一冊の随筆集の出現をしばしば夢想しているが、(略)いずれもえも言われぬ味わいの随筆となっているのである。
 いま私は、私の空想するこの一冊の杢太郎の随筆集の巻頭に、先ず「小学校時の回想」と「すかんぽ」という二篇を置きたいと思う。(略)右の二篇についで、その次に置かれるのは、「僻郡記」という随筆である。(略)
 ところで、この「僻郡記」は、前にも述べた通り、杢太郎が東北大教授だった頃に巡回診療に際しての見聞を記したものであるが、「残響」は彼が昭和十二年五月、東京大学医学部教授となったとき、家族を仙台に残したまま、単身赴任して、駿河台の竜名館に宿をとって、大学に通っていた期間に執筆された随筆である。(略)
 私はこの「残響」という随筆を昔から愛読しつづけているが、これはひとり杢太郎のそればかりでなく、一般に昭和の随筆文学中の白眉のひとつと言うことができるだろう。(略)
 「研究室裏の空想」は、「残響」の続篇のような趣きのある随筆であるが、その主人公の日常生活のなかに嵌めこまれた実験室での生活と空想を述べた、これも杢太郎ならではの興趣深い随筆である。
 最後の二篇、「本の装釘」と「あかざ(藜)とひゆ(莧)」(ママ)は、杢太郎の晩年に著しく緊密になった雑草や草花とのかかわりあいのなかから生まれたような随筆であるが、私はこのうちでは特に「本の装釘」を好んでいる。(略)
 以上の七篇で、私の空想する杢太郎の随筆集は完結する。これは我国に稀れであった一人のポエタ・ドクトゥスの、いわば晩年の生活記とでもいうべきものであるが、頁数にして凡そ百五十頁に近い小冊子となるだろう。さて、その表題は集中の一篇のそれを採って、『残響』と名づけたいと思う。(「木下杢太郎の随筆」*7『読書清遊―富士川英郎随筆選』講談社文芸文庫:82-87)

 およそ本好きであればたれしも、このような「夢想」をいかにも愉しげに語ることに強く共感するであろうし、それがまた、読書の悦びのひとつであると思う。この七篇のうち、『葱南雜稿』に収められたのは、さきに触れた「すかんぽ」、そして「僻郡記」、「本の装釘」の計三篇である。
 英郎の息・富士川義之氏によると、英郎は「いずれまとまった杢太郎論を執筆したい意向を持っていたようだが」、かなわなかったという(『ある文人学者の肖像―評伝・富士川英郎新書館:157)。また「残響」は、やはり英郎が特に好んだ随筆であったらしい。富士川氏も英郎の随筆を引用しながら、次のように述べている。

 (英郎は)「例えばその「残響」という絶妙な随筆を読んだときなど、自分にもいつかこのようなものが書けたらと、身の程も弁えず思ったりしたものであった」(「木下杢太郎のこと」)という。とりわけ魅惑的だったのは、その散文のうちに、「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」ことであった。この「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」という杢太郎像は、杢太郎をめぐる短いエッセイや随筆のなかで数回引き合いに出されるが、これは富士川英郎にとって、自分のあるべき像としても強く意識されていたものではなかっただろうか。英郎の著作もまた、昭和四十年代以降、つまり年齢で言うと、五十五、六歳以後、「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」という趣を多分に呈しているように見えるからだ。(同前pp.157-58)

 英郎が、「小学校時の回想」とともに架空の随筆集の劈頭に置いた「すかんぽ」については、平澤一氏も興味深い一篇として紹介している。

 この時期(昭和十二年から杢太郎が亡くなる昭和二十年までの「第二次東京時代」―引用者)にも植物に関する随筆は、長短とりまぜて十三篇ばかりある。その中から興味深いものをあげてみよう。「銀杏とGinkgo」は、銀杏のラテン語の学名の由来について記したもので、杢太郎の考証的随筆の中の佳篇である。杢太郎は森鷗外の『フアウスト』および『フアウスト』考の装幀のほか、自分の著書と友人の著書おそらく二十冊位の表紙を描いている。その中の十冊位は植物を使っており、天下の草木、どれを見ても表紙の図案に見えぬものはないと戯れている。「本の装幀」(ママ)は、その一々の表紙についての苦心談である。「すかんぽ」は小学生の時、年上の友達にそそのかされて、こっそり塩を台所から盗んで、折れ口に塩をつけてたべた話から始まる。大学時代にも大学の構内のすかんぽをみつけて、たべてみたが、少年時代に感じた一種の酸味と新鮮なにおいを、もはや感じることはできなかった。次に奉天時代と第二次東京時代との植物採集、近頃始めた野草の試食について語り、最後に今度幾十年かぶりに、またすかんぽをたべた話で、杢太郎は最後の随筆を結んでいる。(「木下杢太郎と植物」『書物航游』中公文庫:58-59)

 英郎の「木下杢太郎の随筆」や、この平澤氏の文章などに導かれ、「すかんぽ」はそれこそ幾度となく読み返した随筆であるが、その一方で、長らく「残響」が気になっていた。さりとて図書館で杢太郎の全集を借り出そうとするほどの気は起らずにいた(というよりも図書館へ行った折にはすっかり失念してしまっているのが常だった)。
 しかし、昨秋に出た岩阪恵子『わたしの木下杢太郎』(講談社)などを読むにつけ、「残響」を読みたい気持がむくむくと頭を擡げていた折も折、ついにこの三月、岩阪恵子氏の選になる『木下杢太郎随筆集』(講談社文芸文庫)が刊行された。杢太郎初の「文芸文庫」入り、しかも、初めての文庫版随筆選集である。
 その冒頭に収められたのは、「小学校時の回想」「すかんぽ」「僻郡記」で、これはちょうど、英郎が夢想した架空の随筆集の並び順となっている。そしてその間にも幾篇かを挟みつつ、「残響」、「研究室裏の空想」、「本の装釘」、「あかざ(藜)とひゆ(莧)と」がこの順序で収録されるという、まったく心にくいばかりの演出である(岩阪氏は特に触れていないけれども、英郎の文章を念頭に置かれたに違いない)。
 また、岩阪氏が『わたしの木下杢太郎』で「いわば「残響」の姉妹篇ともいうべき随筆」(p.141)と評する「真昼の物のけ」も「残響」の直前に置かれているし、「不思議な長い題名の(略)含蓄のある面白いもの」(同p.145)という「古語は不完全である・然し趣が深い」(これは『藝林間歩』に収められている)も末尾のほうに採られている。
 さらには、三島由紀夫が『文章読本』「附 質疑応答」のなかで、「私がいちばん美しい紀行文と信ずるのは、木下杢太郎氏の文章であります。私は文章によって見知らぬ他国にあこがれ、そこの国に行っても、木下氏の文章を通じて物を見ているような感じさえしたのであります」(中公文庫改版p.211)と述べた上で例として引いた、「クウバ紀行」も収められている*8

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 つい最近知ったことだが、約四年前に、平田芳樹氏と云う方がSWALLOW-DALEで、杢太郎の『其國其俗記』(「クウバ紀行」を収めている)について主に語りながら、「文庫本『木下杢太郎随筆集』の編集企画準備が必要である」と愬えかけておられた。
 しかしこれでようやく、杢太郎のおもだった随筆が文庫本で読めるようになったのだ。実に喜ばしいことである。
 これからしばらくは、『木下杢太郎随筆集』が車中の供となることであろう。

*1:若林正治。春和堂主人。

*2:創造社の藤原富長。

*3:八木敏夫八木書店主人。

*4:「世界少年文學名作集」というシリーズの一冊。第十八卷。カラー口絵は木村荘八、挿絵も木村所蔵のもの。クロス装で装幀は美しいが、惜しむらくは誤植が少なからず散見する。

*5:表紙に梅原龍三郎の絵、紙装。

*6:これは、先の平澤氏の引用文中にみえる『小学校時代の回想』と同じものであろうか。

*7:初出は「海燕」昭和五十九年三月号。のち『読書好日』(小沢書店1987)に収める。

*8:三島が「クウバ紀行」の一節を引いていることは、岩阪氏も『わたしの木下杢太郎』p.66で言及している。