芥川龍之助

 君看雙眼色
 不語似無憂
たしか『黄雀風』だったと思う。芥川竜之介の小説集の扉に書かれた文字である。訓読は、
 君看ヨ、雙眼ノ色
 語ラザルハ*1、憂イ無キコトヲ似(しめ)ス
と読む。ずいぶん長い間、「似」という字がよめず、「シメス」と知ったのは、安田靱彦氏編の『良寛』(筆跡集)を開いた時である。(扇谷正造『わが青春の日々』旺文社新書1967,p.234)

「たしか『黄雀風』だった」とあるのは誤りで、この詩句が掲げられたのはその六年前(1917)に刊行(発表は1915年)された『羅生門』の扉の次の丁においてであり(菅虎雄筆)、芥川自裁の年(1927)にかかれた『三つの窓』中にも引用されている。なお「似(しめ)ス」は、「似(に)タリ」、と訓むのが一般的ではないかとおもう。
「君看〜」は、良寛の書として著名だが、白隱禅師が『槐安國語』―寛延三年(1750)上梓―における大燈國師の頌に「著語」(ヂャクゴ。短評のこと)として附したものである。そしてその著語は、貞享五年(1688)に出版された『禪林句集』から採られたとおぼしい。しかし、その『禪林句集』に、当該句の出所は書いていない。
このことを知ったのは、尾崎一雄『ペンの散歩』(中央公論社1978)の表題随筆文(『海』に連載)によってである。寄り道をしながらの「君看〜」句の出典攷証過程が、たいへん楽しい。
また尾崎は、芥川が何処でこの句を見出したか、ということについて、以下のごとく書いている。

芥川龍之介が「君看――」の句を東大圖書館で見つけた、といふ假説は成り立たぬことが判つた。龍之介は、菅家へしばしば出入りしてゐたらしいので、虎雄氏の藏する『槐安國語』か『禪林句集』でこれを發見した、と見て多分間違ひはないだらう。(pp.137-38)

余談ついでに。「ペンの散歩」は、『羅生門』再版本の誤植問題にも触れている。

芥川龍之介の第一短篇集『羅生門』が出たのは、前述の通り大正六年だが、月日は五月二十三日で、定價は壹圓。五ヶ月後に再版が出されて、これは定價壹圓貳拾錢となつてゐる。二十踠あがつたのはいいとして、この再版では、奇妙な間違ひが生じた。本文が二百八十頁で終り、あと改めて1から5とノンブルをつけて「羅生門の後に」と題した著者の跋文を載せてゐるのだが、その最後に、「大正五年六月 芥川龍之助」とあるのだ。直ぐ判る通りこれは、「大正六年五月 芥川龍之介」でなければならない。五ヶ月前の初版では、こんな間違ひは犯してゐないのである。
紙型全部がそのままあつたのなら、こんな間違ひは起る筈もない。尠くとも年月日や名前の出てくる最後のページだけは組み直したものと考へるしかない。それとも、うつかり紙型をとり損ひ、全部を新組にしたのか。
芥川龍之介は、菊池寛が菊地と書かれるのを嫌つたのと同程度に龍之助とやられるのを不快がつたと聞く。この再版本を見たときの龍之介の顔附が想像される。(「ペンの散歩」pp.87-88)

そう云えば、こんな話も有った。

芥川龍之介は助と書かれることを嫌がったそうだが、『點心』(金星堂・大正十一年)の初版本の表紙、背文字、扉には龍之助となっていた。再版からは介に改めている。目録に『點心 初版 芥川龍之助著』と書くとかえって誤植と思われるだろう。(八木福次郎『古本蘊蓄』平凡社2007,p.127)

*1:高島俊男お言葉ですが…(9) 芭蕉のガールフレンド』(文春文庫2008)に、「語ラザレバ憂ヒ無キニ似タリ」(pp.84-88)が収めてあり、ここでも「已然形+バ」という解釈が支持されている(後に記す)。コメントに「つい二年ほど前に、どこかでやや詳しく言及されたものを読んだおぼえが有る」と書いたが、あるいは初出誌でこの文章を読んでいたのかもしれない。