芋づる式読書

◆Aさんが紹介してくださった某研究会に参加、M先生とお会いすることができた。帰途、Aさんと古書肆に寄り、杉浦明平『新・古典文学論』(創樹社)500円、一色次郎『青幻記・海の聖童女』(角川文庫)100円、源氏鶏太『家庭の事情』(角川文庫)100円、阿刀田高『夢の宴 私の蕗谷虹児伝』(中公文庫)300円ほか。
一色次郎は新本ですでに全滅、という現状が悲しい。『青幻記』くらい、そろそろ講談社文芸文庫あたりに入ってもいいのだけれど。
そういえば、上坂冬子『銀座ゆうゆう人生』(文春文庫)100円も買った。表紙装画は柳原良平。『銀座百点』に連載されていたもので、銀座版・『アホウドリの仕事大全』(阿奈井文彦)、といった趣。帯には、「ギンザの快人物たち」とあるのだが、最新刊の内容紹介には、「異色の怪人物たちの優雅な人生」とあって、ちょっと笑ってしまった。
この本、『紙つぶて(全)』と同時に“文庫落ち”(というのは正確でないか。『紙つぶて(全)』はオリジナルだし、『銀座〜』は合本だし)したみたい。
◆おくればせながら、『週刊現代』の「リレー読書日記」(東川端参丁目さん)を読み、「本は、本を呼ぶ。一冊読み終えると、また一冊もう一冊と読みたい本が芋づる式にどんどん出てくる」、という冒頭部から刺戟をうける。そうなのだ。しかも、そのつながり方(関心のベクトル)が、十人十色だからこそ、またおもしろいのである。
東川端さんは、梶山季之『ルポ戦後縦断』の「白い共産村」から、米本和広『新装版 洗脳の楽園』、そしてその連載媒体であった「宝島30」、と次々に聯想され、宮崎哲弥藤井誠二『少年をいかに罰するか』→メディアによる単純化の弊害→原克『ポップ科学大画報』を経て、そして仲正昌樹『「自由」は定義できるか』へと帰着する。
『ルポ戦後縦断』は、当時における「今日的話題」をひろく扱っているので、そのような「芋づる式」読書の「起爆剤」にはなりやすい。わたしは、『ルポ戦後縦断』の「蒸発人間」を読んで、『ものみな映画で終わる――花田清輝映画論集』(清流出版)所収「「蒸発」の論理」(「スクリーン・ステージ」の一本)を想起し、モーム『月と六ペンス』を再読したくなり(まだ再読していない)、「あべこべに、いくら事実を追ってみたところで、堂々めぐりをするだけのことであって、真実は各人の心のなかにあるものだ、といったようなピランデルロふうの哲学を披露してみたかったためでしょうか」という一節を目にして安部公房の『燃えつきた地図』を再読してみたくなり(これもまだ再読していない)、そして「「蒸発」の論理」が元々収められていた『古典と現代』(未來社)を読み、冒頭ちかくに出てくる福地桜痴『懐往事談』をいいかげんに読みたくなり(もっともこの本は、『恥部の思想』でも触れられている)、ついでに『梁塵秘抄』を繙いてみたり、とまことに節操がない。
あるいは『ルポ戦後縦断』の「産業スパイ」→『黒の試走車』→田宮二郎という聯想をへて、升本喜年田宮二郎、壮絶!――いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』(清流出版)を手にとってこれを一気に読んだあと、田宮の主治医・斎藤茂太のエッセイを再読し、その一方で、古本屋にてまとめ買いした『人生劇場』をチラと覗いてみたり、また田山力哉*1市川雷蔵かげろうの死』(教養文庫)の「田宮二郎いのち純情の死」を再読してみたり、田宮抜きにしては語れない「M資金」の話柄から、松本清張『日本の黒い霧』→佐藤一『松本清張の陰謀』→『トンデモ本の世界U』……というアンバイである。つまりわたしは、「一冊読み終える」以前に、べつの本を経てまたべつの本へと目移りするというような(さらには映画を観たくなったりする)、本質的内容とはほとんどかかわることのない「芋づる式」読書を常としているわけだが、そんなエーコロかげんな読書でも、それなりにけっこう楽しかったりする。だが悲しいかな、このような「芋づる式」(いな正確には「枝分かれ式」とでも形容すべきか)読書では、そも読む側が追いつけないし、資金の面でも……(だから、あれを読みたい、これを読みたいと思いつつも、ついそのままになってしまい勝ちである)。それに、肝心の知識が身につかない。このようにわたしは、こと趣味としての読書では、漫然たる読書を好む傾向にあるから、いっこうに成長しないんだろうな、などと考えた。
◆ちょっと話題から外れるが、森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』(角川書店)に、「本たちはつながっている」という至言があった。「古本市の神」が、何冊もの本を、書物内部のないしは外部の「記憶」によって、次々とつなげてみせるさまは同書の圧巻だとおもう。

*1:ところで鹿島茂氏は、映画評論家としての田山を嫌っていたらしい(『甦る昭和脇役名画館』講談社)。