最近拾った本のこと

 先日、N書店の店頭にて、林通世(六々居士)『瀛滬雙舌(えいこそうぜつ)』(日本堂書店)300円、を拾った。大正三年一月刊、大正十五年五月九版。この本は知らなかったが、波多野太郎編『中国語学資料叢刊―尺牘・方言研究篇』(不二出版1986)第三巻に入っているらしい。また、日本語雑誌『上海』(1913-45)の第57号雑報に同書の発刊を知らせる記事が見える。中国のネットオークションに何度か現れた形跡もある(http://www.kongfz.cn/2584581/)。版元の日本堂書店は上海にあった書店で、たとえばこちらを参照のこと。
 凡例の「此書無師承。供日人學滬語。滬人學日語之兩便」という文章から推せば、書名の「瀛」とは日本をさすのだろう(「滬」は上海)。
 自序冒頭には、「意志不通則事易誤事苟誤則乖離生是非同文同種輔車相助之通也(意志通ぜざれば則ち事誤り易く、事苟し誤れば則ち乖離生ず。是れ同文同種に非ず、輔車相助の通なり)」とある。したがって、「我」が「彼語」を、「彼」が「我語」を学ぶよりほか意思疎通をはかる法はない云々、とつづく。「同文同種」に否定的なのは、この時代としては珍しいかもしれない。「輔車相依」、ならぬ「輔車相助」は、あるいは福澤諭吉の「輔車唇歯とは隣国相助くるの喩なれども」(「脱亜論」)を踏まえた表現か。
 中身をみてみると、「日人」に対しては「滬語」の発音をカナで示し、「滬人」に対しては「日語」の発音を近似の漢字音で以てしている。「儂是幾點鐘起來」という例文であれば、「貴下(アナタ)ハ、何時(ナンジ)ニ起(オキ)マスカ」という日本語文が対照されており、「ノンズーチーテンツヲンチーレー」というルビが附される(日人向け)。しかし、普通話よりも複雑であるはずの声調はまったく無視している。だから、この通りに発音してみてもおそらくほとんど通じまい。当時はこんな大雑把な発音の示し方もさほど珍しくなく、たとえば――すこしさかのぼって明治二十七、八年頃のことではあるが、「私は支那語は少しもわからず、陸軍省から渡された、同省編集の『支那語会話』の一小冊子を携え、これによって会話を試みたが、その発音は仮名で付記しているけれども、その発音で支那人に話しかけても少しも通ぜず、すこぶる困難した」(鳥居龍蔵『ある老学徒の手記』岩波文庫2013←朝日新聞社1953:102)、という証言もあるとおりだ。
 そして、「貴下ハ、何時ニ起マスカ」という文章は、「阿那搭滑。那恩齊泥。唖克-伊麥斯卡。」という文字列で発音が示される(滬人向け)。万事この調子であるが、たとえばイ列音は、[ki]のみ「克-伊」と二字で示されているなど面白い点がいくつかある。

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 Tの均一棚でひろった、杉浦明平*1『本・そして本―読んで書いて五十年』(筑摩書房1986)を読んでいる。「一月・一万ページ」(pp.19-26)はどこかで読んだ気がするが、岩波新書黄版であったか。
 中ほどには、「わたしと辞書」「辞書の話」という文章が収めてあって、前者はPR誌「本」(1981.9)、後者は「三省堂ぶっくれっと」(1984.5〜7)が初出。後者は「国漢の辞書」「辞書を食べる」「コンサイスとともに」の三本から構成されている。
 「辞書を食べる」は、のち三省堂編修所編『辞書のはなし』(三省堂1993)に入り(未確認)、また柳瀬尚紀編『辞書―日本の名随筆別巻74』(作品社1997)にも入っている(pp.236-38)。
 「辞書を食べる」というのは、杉浦自身が食べたのではなく、同級の赤塚忠(きよし)が食べていたという話。一寸引用する。

 たまたま一高の同級生に後の東洋学者赤塚忠がいた。入学試験のさいちゅう、若白髪の多いいが栗頭がわたしの方を振り向いて「消しゴムを貸してくれませんか」と言ったので、わたしは自分のゴムを渡した。そして一高に入ったらその男がいた。わたしは文科甲類一二〇名のうち一一一番くらい、赤塚はわたしの次の一一二番くらいの成績でお互い辛うじて滑りこんだのであった。しかし赤塚は、すごい努力家で、寮の食堂へ通う朝昼晩の往復にも英語・ドイツ語の単語を暗記するのをやめなかったし、教室に向かう路でも歴史の紀元何年などを覚えるのに努めていた。噂によると一度記憶してしまうと、ノートは破りすててしまうし、英和辞書の方もAから始まる単語を頭へ叩きこんだうえ、そのページを食べてしまうという噂だった。わたしは赤塚が辞書の一ページを飲みこむのを見たことはなかったけれど、ごく薄いライスペーパーだから食べて食べられないことはないだろうと思ったことだけは覚えている。(p.110)

 赤塚は『角川新字源』の編者としてよく知られるが、陸軍大尉として大陸へ赴いた経験をもつ。「文字文化研究所」の新年会だったかで、赤塚の等輩か後輩かは忘れたが、知人だったという方に、赤塚と共に命からがら逃げ帰った話をうかがったことがあるのだが、もう十年以上まえのことで、その方の名前も、顔も、おもい出せない。
 なお「節用集を食べる」話は、佐藤先生の「気になることば〜第39集」(19980103)に見え、また、岡島先生の「ことば会議室」の「辞書を食べた人々」でも関連する話が紹介されている。後者では岡島先生と佐藤先生とが、「杉浦明平の『辞書を食べる』」に言及されている。

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 ところで、杉浦著の「尾崎士郎吉川英治」(pp.90-93)は吉川の『鳴門秘帖』に言及している。『鳴門秘帖』についてはここに書いた。
 今月、新潮文庫に吉川の『三国志』『宮本武蔵』が入ったが、吉川版『宮本武蔵』に関して以下のような話が有る。

 この六興出版社が戦後の出版業界に旋風をまきおこすことになった。この事件は私が矢崎義治と二人で牛込矢来の新潮社をたずねたときに始まる。吉川英治の『宮本武蔵』を六興で出版することになったからよろしく、と挨拶に行ったのだ。吉川英治の『宮本武蔵』は新潮社の財産の一つだったが、著者吉川英治とのあいだに完全な出版契約書が交わされていなかった。わがくにでは出版社と著者とのあいだに完全な契約書が交わされていないのがふつうで、著者が他社から出版したいといっても出版社は異議をとなえられない場合が多い。新潮社が何もいわずに引っこんだところを見ると、法廷に持ち出してもむだであることがわかっていたのだろう。
清水俊二『映画字幕(スーパー)五十年』早川書房1985:250)

 『宮本武蔵』は、著作権が切れて、ようやく収まるべきところに収まったといえる。

*1:ことし生誕百年を迎えた。