『風流交番日記』

 外ばかりか、心までもが寒い寒いこの冬に、時間が経つのも忘れてこういう作品を観られるのは、やはり幸せなことである。
 久しぶりで、一本の映画について書こうとおもう。
 その映画とは、松林宗惠(しゅうえ)『風流交番日記』(1955,新東宝である。助監督は瀬川昌治
 以前から気にはなっていたが、岡崎武志さんがブログ上で、何度かこの作品について原作のことも含めて書かれていたので、機が熟したとばかりに、録画していたのをようやく観ることとした。「日本映画専門チャンネル」の「ハイビジョンで甦る日の当らない名作」枠の一本。昨年末、精神的動揺の大きかった時期に、この枠で西村昭五郎『競輪上人行状記』(1964,日活)を観て、いたく感動したことがある。残念ながら、小沢昭一追悼作品になってしまったけれど。
 さてこの『風流交番日記』、たとえば安藤正博『銀幕の至宝 新東宝の軌跡』(コアラブックス2009)にはスチルすら載っていないし、巻末にひっそりと簡単なデータのみ記されるような、まったく「地味」な位置づけの作品である*1。しかし、これがなんとも「滋味」掬すべき作品なのだ。
 冒頭、「風流とは――/平和を愛する/人間の心に生ずる/一種のあくびである/―大言海―」(「あくび」に傍点)というテロップが入るが、『大言海』の「風流」の項にこんな記述は出てこないし、もちろん、『言海』にもない。というわけで、あるいはケレンミたっぷりの作品なのではないか――、とおもいきや、そういう懸念(?)は映画の序盤で見事に払拭される。
 まずこの作品は、新橋駅周辺が俯瞰で示され、駅前交番勤務の小林桂樹(和久井巡査)が迷子であろう子供に話しかけているロングショットに始まる。この交番は実在のもので、川本三郎さんの解説によると、市川崑『暁の追跡』(1950,新東宝でも同じ場所がロケ地に選ばれているとの由。ラストもやはり新橋銀座口周辺の俯瞰ショットなのだが、冒頭で寂しげに奏でられていたドヴォルザーク交響曲第九番第二楽章(いわゆる「家路」)が今度は軽やかに演奏される、という見事な対照をなす。
 主立ったエピソードとしては、志村喬(大坪巡査)とその息子(天知茂)との和解の話、志村が息子のように可愛がる新聞売の少年*2の身の上をおもい、父親(加東大介)に引き合わせようとする話、小林に思いを寄せる同郷(福島県出身という設定)の阿部寿美子(ユリ。街娼に身を落としている)が、小林の出世のために手柄をあげさせようとする話。
 つまりは、交番を中心として、たくさんの人々が交錯し、様々の人生模様がえがかれるという「グランド・ホテル形式」の作品。のみならず、人情の機微がそこここに織り込まれている。たとえば、小林は天知が留置所にぶち込まれるのを偶然目撃するが、それをあえて父親の志村には云わない。志村は、息子の天知が北海道でまっとうな職を得たことに夫婦(妻役は英百合子)で喜ぶばかりだ。そして志村は志村で、阿部が小林のために凶悪殺人犯・丹波哲郎に打擲されて聾者になったことを知っているが、そのことを小林に伝えようとはしない。そのあたりの機微。しかし阿部は、結局は「夜の女」のまま、赤線地帯“鳩の街”へと渡ることになる。さすがに志村は、そのことだけは小林に伝えるものの、かれは憧れの安西郷子の結婚式を目の当たりにして上の空であるのがまったく皮肉な話だ。あわれなるかなユリ。しかし、隅田川を渡るかの女の表情がインサートされ、それが晴れやかなので、少し救われる。最初は、阿部=コメディエンヌ、と勘違いしてしまうし、小林がかの女をやや邪慳にあつかうのも無理はなかろう、とむしろ男のほうに同情するし、聞こえよがしのズーズー辯が後半で鳴りを潜めるのもご愛嬌……だが、阿部の小林に対する気持ちが、クライマックスに至ってようやく、真情からのものであることが明らかとなる。
 ところで、監督の松林宗惠は僧籍にあった人物であり、かつて増淵健の五時間にも及ぶインタヴューのなかで、次のごとく語っている。

仏教を茶化すと、大衆受けするので、好んで喜劇にした傾向があります。私は、仏教に対する映画界の認識をあらためたいし、映画そのものに仏心を注入したかった。そこで、今までにつくったどの作品にも、そうした要素を入れたつもりです。(中略)東洋と西洋の宗教観のちがいを一口でいうと、無常感(「観」カ。本文ママ―引用者)の有無で、キリスト教のテーマをキリストの愛とすれば、仏教のそれは仏の慈悲です。愛のベースにあるのは契約の論理で、ギブ・アンド・テークの関係なのです。愛が神に祈ったり懺悔したりする人間に与えられるのに対し、慈悲は無償の行為というちがいがある。
(「監督も演技するのです―松林宗恵氏にきく」『季刊 映画宝庫―日本映画が好き!!!』芳賀書店1979.1:210)。

 この文脈で解するならば、『風流交番日記』におけるユリ=阿部寿美子の行為も、代償をもとめない「仏の慈悲」、ということになる。
 彼女のような狂言回しがあってこそ、この映画はいっそう厚みを増しているわけだが、その他にも役者がそろっている。
 たとえば、身ごもった古女房・花岡菊子と茶番の水上結婚式を挙げる多々良純川島雄三『眞實一路』(1954,松竹)で飄々とした叔父さんを演じた多々良が、この作品では陽気なバッタ屋を演じている。かつがれて仲人となった志村の民謡にあわせて踊る姿がなんとも云えず可笑しい。
 また、易者役の和製チャップリン小倉繁。まずは交番の雨宿り客に紛れて登場するが、「天眼鏡をすられた、警察がいったい何やっとるんだ」と小林(や御木本伸介=谷川巡査)にかみついてくる。しかし小林、慣れたもので、易者なら自分で探し出してみなさいとやり返す。そして小倉の衣服にそれが引っかかっているのを発見し、「最近の易者も質が落ちたな」、と笑うのだ。実はこれが伏線となっているので、のちに志村が、街頭で小倉に息子の居場所を占ってもらう場面がある。志村は小倉を「さすがによく当たる」と褒めるが、小倉は「九州にいる」だとか「明日は艮=広島に現れる」だとか、いいかげんなことを言っている(実は都内の留置所にいるのに!)。しかし、人が好いのか、褒められると無料で八卦見をしてくれるので、どこかにくめない。そう云えば、脇役(というよりチョイ役)としての易者をうまく使った作品としては、豊田四郎夫婦善哉』(1955,東宝沢村いき雄、があった。
 そのほか、三原葉子若杉嘉津子若月輝夫らがちらと顔を出しているのにも注目だし、小道具の使い方もうまい。たとえば、交番内の故障している掛時計。これが絶妙なポイントで何度か使われている。また、小林の部屋にかけられた西郷南洲肖像画。裏側には、なんとグラマーな女性がえがかれている。
 小林は、市川崑『プーサン』(1953,東宝でも交番の巡査を演じていたが、こちらは、殺人*3や強盗などの大事件を事務的に処理してゆくコメディリリーフ的な役まわりだった(傍であっけにとられる伊藤雄之助の表情のおかしさ!)。それに比べると『風流交番日記』は、ノッケから美人詐欺師に百円を貸してしまったり、子供に手錠を貸し与えたりと、人情味あふれる警官を演じている。一方、ラストに栄転して交番を去る宇津井健(花園巡査)は女性にもてもてで、そのことが成績に直結しているという設定がおかしい。ただ宇津井はその活躍に比してあまり目立たず、こんな華々しい警官を、小林や志村*4のような地味な警官たちが支えているのだ、というメッセージを伴っているようにも見える。
 またこの映画は、「売春防止法」適用前夜の作品で、そのあたりの世相も描かれているし*5、「逆コース」「民主警察」など、当時の世相をしのばせる言葉があちらこちらに出て来る点も見どころのひとつ。
 なお川本氏によれば、この作品には、ショウボート、銀座全線座、新橋附近の汐留川など、今はない風景や建造物がたくさん映りこんでいるらしいのだが、東京の地理にくらい私にはわからないから残念だ。とまれ、古き良き東京の風景を楽しみたい方にとっても必見の作品といえるだろう。
 全体としては、大蔵貢体制以後の「新東宝」らしからぬ作品だと感じられるのは、松林の次の発言と関係があろう。

私たち(藤本眞澄など。『風流交番日記』の製作を担当。助監督の瀬川昌治もここに含まれるだろう―引用者)が考えたのは、PCL以来の東宝の伝統を活かそうということだったのです。(前出インタヴュー:213)。

 最後に、松林のインタヴューから、印象的な箇所を引いて結びとしよう。

監督というのは、封切り直後に、ほめられるのもうれしいですが、ある日ある時、自分の作品を覚えていてくれるひとに会うことが無上の喜びです。この間も、サラリーマンの方が、『風流交番日記』を忘れられない映画だといって、こと細かに話すんです。全くの初対面で偶然会ったというのに。観た時の心理状態がその作品にぴったりだったといった副次的な事情が、仮りにあったとしても、監督冥利につきると思いましたね。私がつくってきたのは、専らB級娯楽作品で、賞の対象にならないものばかりですが、才能・人間形成・思想体系など考え合わせると、“以て瞑すべし”でしょうか? でも、これからも、まだまだつくりますからね。私は、馬鹿正直でぶきっちょで作品も流麗華美とはいかないけれど、その中で、自分のいいたいことはいっていく……そのつもりです。(p.217)

*1:松林はのちに新東宝を退社して、東宝に復帰する――という、已むをえない事情があるのかも知れないが。

*2:伊東隆(伊東たかし)。同年に、東宝作品の丸山誠治『男ありて』で、志村と親子役を演じている!

*3:親族殺しで出頭する大村千吉が、後年の『怪奇大作戦』「狂鬼人間」そのままで、ちょっとおかしかった。

*4:それにしても志村は、いぶし銀の中年警官がよく似合う。『野良犬』、『彼奴を逃がすな』、『点と線』など、枚挙に遑がない。

*5:同時期をえがいた作品には溝口健二の遺作『赤線地帯』(1956,大映)があるし、売防法施行前後が舞台となる作品としては、前田陽一『にっぽんぱらだいす』(1964,松竹)が秀逸だ。