◆昨日ジュンク堂に立寄る時間があったので、武藤康史『文学鶴亀』(国書刊行会)を購った。
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なお武藤氏には、「舊字舊かな十三年―私の言語生活史」(『言語生活』No.435,1988年2月号)という文章もあって、どういう訣かこれはこの度の『文学鶴亀』には収められていないのであるが、武藤氏の言語表記に対するスタンスが判って良い。武藤氏は高校一年生のとき、「『谷崎潤一郎全集』を讀んだことが結局のひきがねとなつ」て、「意識しなくてもさう(舊字舊かな表記に―引用者)なつた。知つた文字なら書いてもみたい。知つたかなづかひなら倣つてもみたい。十五歳の人間のきはめて自然な感情の發露でなくて何であらう」(p.37)。「『崩れゆく日本語』『死にかけた日本語』などといふ本も讀むことは讀んだが、何やかやを「誤用」と決めつけて糾彈する筆致には胸が惡くなつた。だから舊字舊かな使用者であつてもああいふ保守的言語觀とは一線を劃したいといふ氣は常にあつたと思ふ。しかし結局のところ私が舊字舊かなをさしてうしろめたく思ふことなく、どちらかと言ふと平氣の平左で使ひ續けたのは、當時の風潮に言はば毒されてゐたからだとも言へる。今省みるといささか恥しい。いろいろ反省し始めるのはもうすこしあと、特に龜井孝を讀んでからだつた*2」(p.38)。その後の、武藤氏自身のスタンスの微妙な変化や世間の風潮の変化については、『文学鶴亀』の「あとがき」、また「急増する旧字旧かな」(pp.33-40)あたりを参照のこと。
◆「ここ数年私は出版社の人に会うごとに、里見弴の全集を出しませんか、あるいは文庫に入れたらどうですか、と提案してみるが、ことごとく「里見弴? アッハッハッ!」との御挨拶。小津安二郎の映画がこれだけ見られているのだから、たとえば里見弴『秋日和・彼岸花』という文庫を出せば飛ぶように売れますよと力説しても、巧言令色鮮し仁」(『文学鶴亀』p.16、初出『週刊文春』1993.2.18号)と書いた武藤氏は、その二年後に、一冊本選集『秋日和・彼岸花』(夏目書房,1995.1.20初版第1刷発行)を編むのだが、それから「里見弴全集を作りたいのだが……という相談を何件か持ち掛けられ」るようになった(同p.201,初出『文學界』1997.3)というのだから皮肉なものである(この風向きの変化は、『秋日和・彼岸花』の「解題」にもあるとおり、岩波が里見弴の作品を続けさまに文庫化したことも影響しているのだろう)。もっとも、里見弴の決定版全集はいまだに出ておらず、筑摩書房の『里見弴全集』(実質的には「選集」)のような体裁で本格的な全集本を出すならば、「三十巻を越すのではないか」(『文学鶴亀』p.201)と云う。
ところで里見の『縁談窶』、これは筑摩の全集本にも、武藤氏の編著にも収められてあるのだが、吉井勇が題名の「窶」を「ヤツレ」ではなくて「ル」と読ませるべきだ、と主張して憚らなかったという話がおもしろい。それとは別に、この作品は小津映画(とりわけ『晩春』)に影響を与えた作品ではないか、とされている。そのため里見は、「原作料の半額くらゐは貰つてもよささうだなあ」と小津を揶揄*3、けれども小津自身はこれを「存外生真面目に否定した」のだという(武藤氏の「解題」に引かれる)。
ただし異見もあり、貴田庄氏は『小津安二郎文壇交遊録』(中公新書,2006)で、「『晩春』と重なる箇所を(『縁談窶』に―引用者)探すのはとても困難である」(p.97)と結論した*4。結局のところ、里見は「冗談めかして『縁談窶』と『晩春』の類似性を指摘したのであろう」(p.100)。たしかに、里見が「冗談めかして」言ったのに、小津は「存外生真面目に否定した」――というそのギャップをおもしろがって里見は書き留めておきたかったのだろう、と考えれば得心はゆく。
それでも「小津が里見の小説に学んだものはなによりもまず、会話の妙であった」(貴田前掲p.101)のは間違いあるまい、しかもその借用が、「ちょっと金のある人間たち――上流階級といおうか有閑階級といおうか――ならではのしぐさや振舞」の再現にまで及んでいる(『文学鶴亀』p.326)ということ、これは武藤氏の記すところである。
- 作者: 貴田庄
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