絹代のおかあさん

深夜に、成瀬巳喜男『おかあさん』(1952,新東宝)を観た。助監督は石井輝男「母」としての女性にフォーカスを合わせるという意味で成瀬らしからぬ作品だが、たいへんな傑作である。成瀬&水木洋子コンビ最初の作品でもある。
田中絹代が、香川京子(福原年子)らの母親役(福原正子)を演じており、次々と不幸に見舞われる(夫・良作=三島雅夫や長男・進=片山明彦を喪ったり、末娘の久子を養子にやったりする)。しかし、それをさりげなく描いているところがいい。
物語は、香川のモノローグに合わせて進行するが(原作は児童の綴り方なのだそうです)、時間の進行を速めたり緩めたりするので、独特な時間の流れというか変化を生み出している。それが演出にも影響している。例えば、片山明彦の死は劇中で描かれておらず、周囲の会話からそれを観客にさとらせるという手法をとっているので、後に三島雅夫が死ぬという悲劇が決して「お涙頂戴」式のくどい演出には陥らない。ゆえに、戦前の成瀬作品『雪崩』(1937,P.C.L)の如き「家庭崩壊劇」*1とはまた違った視点から観ることができる。
「母として、または女としての運命に翻弄される(ように見える)田中絹代」というシチュエーションからどうしても想起してしまうのが、例えば『西鶴一代女』(1952,児井プロ=新東宝)とか『山椒大夫』(1954,大映)とかの溝口作品だったりするのだが*2、『おかあさん』の田中は、たんに運命に翻弄される女ではないし、その運命を甘受するのではなくして、それなりに抗いながら力強く生きていこうとする(『晩菊』の杉村春子しかり、『杏っ子』の香川京子しかり)ので、これを「母もの」系列の映画として扱うことにはやや違和感をおぼえる*3
また、一種の「清涼剤」的な役割を果しているのが香川京子の恋人(平井信二郎)役の岡田英次*4であろう。彼が香川と二人きりでデート出来るというので喜び勇んで出掛けてゆくと、香川の弟や妹も一緒に来ているので失望し、「リ、リクリエーション?」と言ったまま口籠もってしまう。これが笑える。また、常人には理解しがたい「藝術作品」ピカソパンを得意げに見せびらかすシーンもかなり可笑しい*5
映画の中盤には、ちょっとした仕掛けもあって、もしかしてこれで終幕なのかとドキリとさせられる場面がある(そう云えば、唐突に終幕を迎える『噂の娘』というタメシもありますし)。その後、香川と中北千枝子の顔が映って安心するのだが、観客は、そのときようやく数分前の「伏線」に思い至るのである。
ちなみに、香川京子の妹・久子役として出演している榎並啓子は、後に、『山椒大夫』で香川京子(安寿)の少女時代を演じている。この映画での母親役(つまり玉木役)も、田中絹代なのであった。
最後におまけ。後年、香川はこの映画(の田中絹代)について、次のように語っている。

君美わしく―戦後日本映画女優讃 (文春文庫)
「でもよかったですねえ。田中さんのおかあさん。いま見てもほんとに素晴らしいと思う」「さすがにみごとに乗り越えられたわけですからね。そのころはわかりませんでしたけれど、自分が長くやってきて、やっぱりある年齢で役柄が変わっていかなきゃなりませんよね。それを乗り越えるってなかなか難しいことなんですね。だから田中さんもきっと、こういうお気持ちでいらしたんじゃないかしらというのが、いまになって、自分が経験してみて、そのときの田中さんの心境が少しわかるような気がしますね。ですから田中絹代賞をいただいたのがすごく嬉しかったんです」
川本三郎『君美わしく―戦後日本映画女優讃』文春文庫,2000.p.403)

*1:ところで『おかあさん』には、「家族再生」のきっかけを与える場として遊園地(今はなき向ヶ丘遊園)が利用されている。「母子と遊園地」、という組合せといえば、あの『妻として女として』(1961,東宝)を思い出す(こちらは後楽園)のだけれど、『おかあさん』のそれは、細かな演出も含めてむしろ「喜劇」として仕上がっている。

*2:平能哲也編『成瀬巳喜男を観る』(ワイズ出版)で、『おかあさん』が、溝口健二のこれらの作品との比較において述べられているのに後で気づいた。

*3:かといって私は、「母もの」映画を批判しているわけではない。

*4:なんとこの作品では、「ほぼ三枚目」なのである!

*5:岡田の両親(パン屋のおやじ中村是好・その妻本間文子)の掛け合いがまた素晴らしい。脇役ファンは必見である。