物理学の黎明

物理学校―近代史のなかの理科学生 (中公新書ラクレ)
このところ、新書を二日に一冊のペースで読み飛ばしている。今日読み終えたのが、馬場錬成『物理学校―近代史のなかの理科学生』(中公新書ラクレ)。たいへん面白かった。
東京理科大学の前身、「東京物理学校」の誕生から閉鎖までを追ったノンフィクションである。時折、「創作的」な会話も見受けられるのだが、それは致し方あるまい。
一読、驚かされるのは、同志たちの結束の強さだ。私財をなげうってでも物理学校を維持させていこうとする意気込みが凄い。本書の読みどころは、その同志たちの青春群像劇である(しかも個々人に妙な思い入れがなく、淡々とした筆致で描かれてゆくので、非常に好感がもてる)。
まずは物理学校初代校長の寺尾寿(ひさし)。物理学校創設に関わった中心的人物であり、本書の主役のひとりでもある。福岡出身。幼少より「麒麟児」と呼ばれ、日本初の理学士となった。この寺尾がまた、相当の趣味人なのであった。

寺尾は大正四(一九一五)年に六〇歳になったとき東京帝国大学理科大学教授を辞職した。
一説には東大教官六〇歳定年説を唱えて自ら身を引いたとも言われている。出処進退を大事にする寺尾らしいエピソードである。東京天文台長を退官したのはそれから四年後の大正八年である。寺尾は引退すると静岡県の伊東にある別荘に引っ込み、読書三昧の生活に入った。寺尾は多趣味、酒豪として知られ、特に古書収集では有名であった。東京で古書展があると必ず出てきて目的の書を探す。そんなときは決まって物理学校に顔を出し、臨時で講義をすることもあった。囲碁も強く詩吟、謡曲もなかなかの腕前だし、森羅万象、諸事万端何事にもよく通じ、記憶力も抜群であった。(p.235)

寺尾が「決断」の人とすれば、その一期後輩で、物理学校第二代校長となった中村精男(きよお)は「熟慮」の人。気象学の第一人者として著名。長門国出身。「名前を清男と届けられたが転籍のときに役場の係が間違えて精男としたため、生涯、精男で通した」(p.159)という。
その他、寺尾と同期の桜井房記(ふさき)。後に第五高等中学校の校長となり、夏目漱石とも親交があった。同様に漱石と親交のあった中村恭平。中村は、苦沙彌先生のモデルであるとも伝えられ、物理学校を経営面でも教育面でも支えた人物(また東大総長*1山川健次郎の秘書役も務めていた)。気象技師として活躍、晩年には『仏文字典』の編纂事業にも参加した和田雄治。天文学者として将来を嘱望されながらも夭折した信谷定爾。度量衡の整備に尽力した高野瀬宗則。文部省の一等属に任ぜられるも、晩年は島崎藤村らと親交をむすび、不遇をかこった「薄倖の理学士」鮫島晋(しん)…等々、各人の青春群像が活写されているのである。
もちろん、物理学校の同志のみならず、それに関わった山川健次郎田中館愛橘(「日本式ローマ字」の話も出て来る。pp.155-56)、浜尾新、菊池大麓、長岡半太郎なども登場する。
ただ惜しむらくはこの本、人名索引が附いていないのだ。

*1:のちに京大・九大総長を歴任。十五歳の頃、「白虎隊」の幼少組に居た。「千里眼事件」と関わったことでも有名。