八月某日
Aからの帰り、Kがまだ開いていたので、野島剛『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)を買う。福田和也さんが、「世間の値打ち」(「週刊新潮」7.28)で「読み応えある」本として紹介し、その読みどころを手際よくまとめていたので、にわかに読みたくなったのだ。ほとんど一気に読んだが、たいへん面白かった。歴史的な記述はもちろん、「差し押さえ免除法案」をめぐる国内の動向も追っていて、充実した内容に仕上がっている。(※8.21付「朝日」で楊逸さんが、同日付「読売」で蜂飼耳さんがこの本の書評を書いた。今月15日からは「海外美術品公開促進法」が日本で施行、いよいよ「台北故宮展」の国内開催が見えてきた。そのことについては、たとえば9.16付「読売」の文化欄参照。周功鑫院長のインタヴュー記事も載っている。ちなみに、朝日新聞出版から刊行中の週刊誌『世界の博物館』第四号は台北故宮の号。―後に記す)
八月某日
Kからの帰りにBで河野多恵子『骨の肉/最後の時/砂の檻』(講談社文芸文庫)、高橋たか子『誘惑者』(講談社文芸文庫)各105、テレビ東京編『証言・私の昭和史4』(文春文庫)350。文春文庫版(旺文社文庫版もある)の三国さんのこの本、やっと6冊全部が揃った。
それにしても、河野さんの「骨の肉」を読んでいると、牡蠣が喰いたくなってくる。
八月某日
Oから村上久吉『字原を探る』(叢文社)函帯とどく。
八月某日
Kで松本清張『高台の家』(PHP文芸文庫)を購う。清張作品には敏感なつもりの私であるが、これはチェックしてなかった。
八月某日
Aで山村修『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫)、東京大学教養学部国文・漢文学部会編『古典日本語の世界〔二〕 文字とことばのダイナミクス』(東京大学出版会)を買う。こないだ山村さんの『禁煙の愉しみ』が二度めの文庫化となり、そのときも『遅読のすすめ』のことをおもい浮かべたので、このたびの文庫化はうれしい(でも新潮社ではなかった)。またTで山崎努『俳優のノート 凄烈な役作りの記録』(文春文庫)帯200。新刊を空港内の本屋で買い逃して以来、ずっと探していた。意外と手に入れにくくなっている。
八月某日
出たついでにHで、石垣謙二『助詞の歴史的研究』(岩波書店)、『白芙蓉―新村出歌集』(初音書房)各200。Aで遠藤嘉基『訓點資料と訓點語の研究(改訂版)』函500。この改訂版では、元版にあった「母の靈に」という一文(研究室ではじめて見たとき目頭が熱くなった)が省かれている。それがちょっと残念なのだが、書評等があらたに収められている(また、約30箇所に訂正が施されているという)。さらにKで、J.S.ミル 竹内一誠訳『大学教育について』(岩波文庫)を購う。
八月某日
最近、長沼毅さんの本を電車の中などで読んでいるのだが、新刊『形態の生命誌―なぜ生物にカタチがあるのか』(新潮選書)が出ていることを雑誌広告で知ったので、某所からの帰りにKで買う。そしたらこれがまた、たいへん面白い(連載中はほとんど読んでいなかった)。乗り過ごしそうになってしまったではないか。
八月某日
Sからの帰りにBで坪内稔典編『漱石俳句集』(岩波文庫)、小沼丹『椋鳥日記』(講談社文芸文庫)、小沼丹『小さな手袋』(講談社文芸文庫)各105。
八月某日
Bへ行く前にFで本川達雄『生物学的文明論』(新潮新書)、四方田犬彦『ゴダールと女たち』(講談社現代新書)を買う。本川氏といえば中公の『ゾウの時間〜』。『遅読のすすめ』にも登場した。そういえば、山村さんのこの本の影響で、北村薫『詩歌の待ち伏せ1〜3』(文春文庫)も書棚から引っ張り出してきて再読している。うむ、やはりこれは名著だ。
八月某日
Aに行く前、Fで興膳宏『仏教漢語50話』(岩波新書)。同時に出た、むのたけじ『希望は絶望のど真ん中に』には、黒岩比佐子さんへの言及(pp.141-43)がやはりあった。それにしても、「ドイツは〜」という十年一日の表現はいかがなものかと。
八月某日
Aからの帰りに、Jで寺田寅彦 千葉俊二/細川光洋『地震雑感/津浪と人間―寺田寅彦随筆選』(中公文庫)、笹原宏之『漢字の現在―リアルな文字生活と日本語』(三省堂)を買う。寅彦のこの随筆集は、坪内祐三さんの「文庫本を狙え!」が取上げていた。最近、講談社学術文庫、角川ソフィア文庫と、各社オリジナルの随筆選集が立て続けに文庫化されているが、どれをえらぶのがよいだろうか。「天災と国防」、「災難雑考」、「震災日記より」、「流言蜚語」、「津浪と人間」――と、このあたりはいずれも(三冊とも)収録している。学術は、「静岡地震被害見学記」、「厄年とetc.」などが岩波文庫の随筆集にもないから文庫版としては目新しいところか。中公は、「事変の記憶」、「石油ランプ」、「地震の予報はできるか」などが目新しいか。角川は、ほとんどが岩波文庫の随筆集で読めるので残念だが、「颱風雜俎」が読みどころとなるか(もっとも、青空文庫ではかなりの随筆が読めるのだけれど)。なお角川に収める「日本人の自然観」(これは岩波の随筆集第五巻で読める)、その文中で触れられる「神話中に暗示された地球物理的現象の特異性」については、寅彦自身が、別のところに書いた、と言っているのだけれども、それは「神話と地球物理学」(岩波の随筆集は第四巻に収める)という文章で、角川には入っていない。学術には入っているのだが、角川版はこういう細かいところを気にしてほしかった。
八月某日
IのKでノーム・チョムスキー 福井直樹・辻子美保子訳『生成文法の企て』(岩波現代文庫)を買う。少々ハッタリぽいところも含めて刺戟的だ。長沼さんの本にも出て来たチューリングへの言及もある。長沼さんはそこで生成文法にも触れていた。
八月某日
Fで松尾剛次(けんじ)『葬式仏教の誕生―中世の仏教革命』(平凡社新書)、菊池章太(のりたか)『葬儀と日本人―位牌の比較宗教史』(ちくま新書)を買う。ほぼ同時期に出た本。
八月某日
Kに行く前、Tで渡辺温『アンドロギュノスの裔』(創元推理文庫)を買う。これもノーマークだった。(※これものちに坪内祐三さんが「文庫本を狙え!」で評した。)「可哀相な姉」はちくま文庫などで読めたが、入手難の作品も詰めこんであって、これはお買い得だ。
九月某日
Sから、児島正長『秉燭或問珍』(天・地)届く。安かった。いわゆる「或問」形式の書である。当時の「科学/非科学」の境界がわかって興味ふかい。たとえば「釜鳴」については「怪しきを見てあやしまざればあやしみかへつて破るとかや、心に恐れてあやしめばそれに感じて妖をなすと知べし」(濁点の一部、読点は引用者)、と迷信説を採る。所が「轆轤首」(ここでは飛頭蛮のようなものをさす)については、平気で、その現象を「食を求(め)、水を飲んがためなり。全く人を恨て他の閨に通ふにあらず」と解していたりして面白い。
九月某日
Tへ行く途次、ツイン21の古本市へ。Sで山田野理夫・文、小原剛太郎・絵『信濃化けもの秘録』(ナカザワ)300。これはなかなか珍しい本。刊記がないが、草川隆『幽霊と妖怪の世界』の記述(や妖怪名)と類似した箇所が幾つかあり、どちらかがどちらかを参照したとおぼしい。SYで中岡俊哉『東西夜話百選』(宮川書房)400。中岡氏の初期の著作。これまた珍しい。Yで新村出『南蛮更紗』(改造社)函500。さらにKにて、荒川惣兵衛『外來語辭典』(冨山房)裸本1000。角川版はよく見るが、これは森 洋介さんが教えてくださった本で、森氏の蔵儲にかかるものと同じ七版であった。
九月某日
午前中空いていたので、I市Kの古本カフェへ行く。全品100円なのが嬉しい。そうゆっくりもできないので、棚をざっと流す。伊藤整『氾濫』(新潮文庫)、藤原審爾『三人姉妹』(東邦出版)、阿部吉雄『漢文の研究』(旺文社)、高峰秀子『いいもの見つけた』(潮出版社)、カート・ヴォネガット 飛田茂雄訳『ヴォネガット、大いに語る』(サンリオSF文庫)、獅子文六『父の乳』(新潮社)、中村敏雄『オフサイドはなぜ反則か』(三省堂選書)、河上徹太郎『旅・猟・ゴルフ』(講談社)。これがすべて100円なのである。『オフサイド〜』は、平凡社ライブラリー版になったとき、ちょっと食指が動いたが、いつの間にか版元品切になっていて、元版共々手に入れにくくなっていたから嬉しい。『旅・猟・ゴルフ』は、ひと目で見てすぐにそれと分かる佐野繁次郎装本。
九月某日
Kからの帰り、土居守 松原隆彦『宇宙のダークエネルギー 「未知なる力」の謎を解く』(光文社新書)を買う。宇宙関連の本は、もちろん入門書どまりだがたまに読む。最近(といっても二箇月前)読んで特に面白かったのが、村山斉『宇宙は本当にひとつなのか』。(国内にそんな大規模な施設があったのか、と知ることになるだけでも面白い。)これは新書大賞受賞作の『宇宙は何でできているのか』(特に後半三十頁!)に較べると格段に分かりやすかったが、こんど出た土居・松原両氏のこの本は、まずは理論・観測を明確に分けたうえで説明しているため、さらに分かりやすそうな印象をあたえる。科学にしろ哲学にしろ、もちろん、分かりやすければそれでいいというものでもないが、私のような者にとって、こういう啓蒙書の存在はありがたい。
九月某日
Aからの帰りに、Jで念願の高田時雄編 尾崎雄二郎筆録『小川環樹 中國語學講義』(臨川書店)を入手。「映日叢書」という叢書の一で、「これから出る本」で見かけて以来、ずっと欲しかったもの。倉石武四郎『本邦における支那学の発達』(汲古書院)のような補注を施した講義録とはちがって、原文にあえて手を加えないという方針をとっており、それもまたいい。「ですナ」「ですネ」という表記は若干気になるものの、〈小川調〉をしのぶよすがともなろう。まだ、音韻史のあたりにざっと目を通しただけだが、六十年前の講義とはおもえないほど新鮮な記述もあって、時折ハッとさせられる。