「大漁」

くうざん本を見る経由できょうのことばメモを見て、思い出したこと。
その画像にみえる欄外の「名文・名句」は、金子みすゞの『大漁』からの引用である。わたしはこの詩を、たしか小学六年生のときに習ったと記憶している。その全文を挙げるならば次の如くである。

朝焼小焼だ 大漁だ
大羽鰮の 大漁だ。

浜は祭りの やうだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらひ
するだらう

教科書に載っていたものなのか、或いは教師が口頭で説明したものなのか忘れたのだけれど、その教師が、「海のなかでは」以降を強調して何度も朗読していたことはよく憶えている。だが私は、この詩に「何となく」違和感を抱いていた。ひねくれた小学生だったのかもしれない。
後年、新藤謙『流れ者歌謡考』(ブロンズ社,1971)を読み、その違和感の正体が、ぼんやりとではあれ、わかったような気がした。

ましてや、人間にとっては大漁でめでたいことかもしれないけれど、いわしにとっては悲しい葬式だという発想はこどものものではない。作者はこれをヒューマニズム童謡とよぶかもしれないけれど、こういうヒューマニズムが童謡を毒してきたのである。童謡には、こういう悪しきヒューマニズムはすくないが、おりこうさん的ヒューマニズムならいっぱいある。このヒューマニズムに足をとられ、こどもの情念の沼地を踏みわけることができなかったのである。
専門詩人による童謡が日本語の美しさ、繊細さを掘り起し、発見し、こどもの感受性を鋭くさせ、情操を豊かにした功積(ママ)は大きい。しかし、そこからこどもの悪童的活力が失われたことは、やはりさびしい、といわなければならない。(p.17)

また呉智英氏は、この詩について以下のように述べている。

危険な思想家 (双葉文庫)
福田恆存はその初期の名論『一匹と九十九匹と』で、秩序の中にいる九十九匹のためにあるのが政治、秩序からさまよい出た一匹の羊のためにあるのが文学と喝破した。確かに金子の『大漁』は美しい。九十九匹の名も無き漁民たちの暮らしを、魚を殺めることによって成り立つ多数派庶民の暮らしを、侮蔑し差別していてもなお美しい。否、逆にそれ故にこそ、一匹の金子みすゞは美しい。しかし、人権イデオロギストたちは、いったいどういう根拠でこの差別的な作品が民主主義の道徳の教科書に採録されることを祝福できるのだろうか。
呉智英『危険な思想家』双葉文庫,pp.75-6)