文学部唯野教授

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)
昨日は某先生の歓迎会があり、二次会まで参加したので、帰ってから「はてな」を更新する気力がありませんでした。
ひさしぶりに七時間ほど寝たので、今日はすこぶる体調が良い。
さて昨日、ある先生と、筒井康隆について少しお話しする機会があったのですが、非常にうらやましく思ったことがあります。まあ当然ではあるのですが、それは先生が筒井康隆の全盛期をご存じだということ。私は、「断筆宣言」の頃に筒井康隆を知った世代の者で、『文学部唯野教授』を単行本(岩波書店)でも同時代ライブラリーでもなく、岩波現代文庫で読みました。創刊ラインナップに入っていたので、石母田正『神話と文学』とともに購入したのです。
文学部唯野教授のサブ・テキスト (文春文庫)
実は、それ以前に、『文学部唯野教授のサブ・テキスト』(文春文庫)を読んでおり*1、「唯野教授」の当意即妙の回答(「文学部唯野教授に100の質問」)に、なにか心ひかれるものがありました。なにを隠そう、私が後期試験で文学部を受験しようと決意したその最後の「ひと押し」は、『文学部唯野教授』を読んだことによってもたらされたのでした。
ところで、後に知りましたが、『文学部唯野教授』は、著者の誤解にもとづいた部分が幾つかあって、問題となったらしい*2
それはたとえば次のような部分(引用は岩波現代文庫版による)。

さて、ソシュールによれば、言語は記号です。記号のシステムです。そしてこの記号というのは記号でもってあらわしたもの、たとえば猫ということば、それから、記号が示しているもの、たとえば実際の猫、このふたつが結びついたものです。これをソシュールシニフィアンつまり能記、シニフィエつまり所記と呼んだの。猫ということばがシニフィアンで、実際の猫がシニフィエです。(p.273-74)

このことについては、言語学者の黒川新一さんが次のように指摘されていました(これを読んで、あわてて『文学部唯野教授』を再読しましたっけ)。

言語は記号の体系という部分を持っていて、ソシュール翁が捉えられた言語観とはまさにそう言うものであろう。雑多な記号が一見乱雑に散らばっているようで、実はそれぞれの差異を頼りに支え合って存在していて、それらが langue という体系を成している、というやつである。しかししかし、言語は記号そのものではないから、「言語は記号です」という宣言文の、筒井翁に良かれと指向する善意から発する解釈はもう「春はあけぼの」しか思いつかぬ。(中略)記号を構成するのがシニフィエシニフィアンとすると、シニフィエはちまたの誤解に見られるように、「指されるもの」ではなくて、平たく言えば「意味内容」である。猫なら猫と言う語彙について我ら日本語話者が与える意味解釈である。それだけのことだ。シニフィアンは「指すもの」ではなく、猫という語のもつ音韻である。音声ではなく音韻だから、実際の音ではなく、言語機能における抽象的な言語音の表示だ。(中略)だから、猫と言う語彙がシニフィアンで実際の猫がシニフィエだ、と言うような解釈はもう言語を「人の外にあるもの」として捉える日常的子供解釈以外の何物でもないのだ。人の外にあるものがシニフィエならば、ユニコーンなどと言う語彙はシニフィエを持たないことになってしまうのである。
「理想化をめぐる山口百恵としての栗原小巻」(1999)より(以下おなじ)。

ただし、黒川氏は次のように書いています。

(「言語は記号」という誤解について―引用者)これまたしょーもないひょーろんかがここぞとばかりに突っ込んでいたのは悲しかった。文学に理論的一貫性を求めたり学問の教科書代わりに読もうなどとは、読者の首を絞める行いではあるまいか。

これはまさにその通りだ、とおもいます。

筒井翁の誤解について書いたが、悪意はござらぬ。作品としては「文学部唯野教授」は間違いなく面白いし、筒井翁にしか書けぬたぐいの傑作であると信じているのだ。かの作品が有名であり、典型的な術語の引き寄せ解釈による誤解を提示してくれているので便利だから引っ張ったわけである。

また黒川氏は、「長年来の筒井ファンである」「少年期に出会い、以後ずっと良き読者たらんと努めてきたファンである」とも書いていて、ここでも私は「ああ羨ましい」とおもったものです。
さて、最初の話に戻ります。私は院生ですが、まだまだわかいほうなので、先輩がたにしばしば「若くて羨ましい」と言われます。また世代間の文化的なギャップを感じることもままあります。しかし私は、むしろ先生がたや先輩がたが羨ましい。私よりも、過去を少しでも多く体験されてきたということが、たいへん羨ましいのです。それゆえに、その作家のこの作品はリアルタイムで読んだ、とか、この事件の生中継はテレビで見ていた、とかいった経験をうかがうことがひじょうに楽しいのです。
中島義道さんの表現をかりている積りはないのですが、私は、「一片も存在しない未来」よりも、「確実に存在した過去」のほうが好きです。多分、昔の女優が好きだったりクラシックが好きだったりするのは、その心性によるところが大きいのだろうとおもいます。

*1:文学部唯野教授の女性問答』(中公文庫)は未読。

*2:今回はふれませんが、いわゆる「猫騒動」も知らなかった。