それは「仮説」なのか?

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険

 昨年末におもしろく読んだ本である。小谷野先生が、『中央公論』の五月号だったかで書評(「正直者の書評」)を書いておられたと記憶する。やはり興味を抱いたのは、第3章「3色の虹?――言語・文化相対仮説をめぐる問題」*1
 この本をおもい出したのは、
歴史学 (ヒューマニティーズ)

歴史学 (ヒューマニティーズ)

を読んだから。誤解されないようにあらかじめ述べておくと、私は佐藤卓己*2先生の著作がすきで、たとえば『言論統制』が出たばかりの頃、あれは名著ですね、と興奮しながら、K.A.氏や(同郷の)某先生と語り合ったことがある*3
 さてこの『歴史学』だが、佐藤先生の「研究遍歴」(や思想遍歴)を開陳して下さるとのことで、教えられることばかりだったのだが、ただ一点だけアレッと感じたのは、「たとえば、ある果物を日本語「りんご」、英語「アップル」、中国語「苹果(ピングオ)」のどれで呼んでもよいが、いずれにせよ「ことば」がなければこの果物を認識することはできない」云々(p.16)というくだり。前半はソシュールいうところの言語の恣意性というやつだが(ここらへん専門でないので結構テキトーです)、後半は所謂サピア=ウォーフ仮説、すなわち強い「言語・文化相対仮説」なのではないか? いや、かく言う私も、かつてはB.L.ウォーフ 池上嘉彦訳『言語・思考・現実』(講談社学術文庫)をおもしろく読んだことがあって、しかも完全には理解できなかったのだ(「編者解説」や「訳者解説」でさえむつかしかったのだ)。 しかし、その「学術文庫版のための訳者解説追補」*4を読んだり、祖父江孝男『文化人類学入門』(中公新書*5の第五章「言語――その構造分析」に、サピア=ウォーフ仮説は日本語の“特殊性”をめぐる議論とレヴェルが同じで「推測の域をでて」いない、「けっきょく『仮説』のままで終ってしまっている」とあるの(p.105)を読んだりしてから*6、「強い」言語相対仮説に胡散臭さを感じるようになったのだ。
 そして遂に、『オオカミ少女はいなかった』でダメを押されたという次第。
 佐藤先生の記述によれば、上引のような言語が認識を規定するという考え方は、「言語論的転回」のもとになっているということになるが、この「言語論的転回」が歴史学にも容易に適用され得たというのは、言語そのものに対する認識と、歴史事実に対する認識とがそもそも大きく距たっている(認識のレヴェルが違う)ということを意味しはしまいか? というか、歴史学にこそ適用されて然るべきなのではないか。つまり、歴史事実の認識を言語が支配するという場合、それはむしろ、言語による“思想”の(はっきり言うと意図的な)表出であり固定化だと考えることが出来そうなのである*7。受容する側は、その意図を読み誤らないようにしなければならない。
 なお、鈴木前掲書の第3章後半は、「線遠近法至上主義」について書かれていて、これもおもしろい。想起するのが、樺山紘一ルネサンスと地中海―世界の歴史(16)』(中公文庫)pp.212-18の「絵画――遠近法の発見」や、エルヴィン・パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』(こないだちくま学芸文庫に入った)、山本義隆『一六世紀文化革命』(みすず書房)で、そうやって記憶が呼び覚まされる読書体験というのは、なかなか得がたいが、実に愉しいものである。

*1:第2章の「サブリミナル効果」などは、もう何度も論破されているのに、あだかもゾンビの如く甦って、ドラマや映画で使われたりしている。「コロンボ」に使われていたと書評で書いておられた(他の本にも書いておられた記憶が…)のは小谷野先生だが、最近でも「キ○ナ」という刑事モノのドラマで利用されていた。

*2:「己」を名乗り字として「ミ」と読むのは、「巳」に「み」という訓があることによる。たとえば言語学者の松本克己(上代日本語八母音説に対して、それは「音韻の違いではない」と反論した人)、映画監督の西河克己(『若い人』、吉永版『青い山脈』、吉永&百恵版『伊豆の踊子』など)も「己」と書く筈である(「西河克巳」という誤植があったのは、たしか関川夏央『昭和が明るかった頃』〔文藝春秋〕。ただし文庫版は確認していない)。ついでに言うと、「己」「巳」「已」は手書きでも活字上でも区別されて来なかった字(「記」字など、旁に当該字を有するものもこれに准ずる)。たとえば珠光編『浄土三部経音義』(1590?刊)という音義には、「已 コ キ二音/イ音/シ音」とある。三字の字種としての区別は、字形そのものよりも文脈に依拠してなされたとおぼしい。

*3:『「キング」の時代』は、M君と競いあって読んだ。

*4:たしかに「訳者解説」は、Whorf仮説(のホーピ語の記述)に対するGipperによる批判に言及しているのだが(鈴木前掲書ではMalotki等による批判が紹介されている)、「両者の調査を隔てている二十年余りの期間におけるホーピ語自体の変化なのか、あるいは論点の整理上Whorfが意図的に省略したものなのか、あるいはその他の理由であるかはよく分からない」(p.315)とかなり慎重である。しかし、「訳者解説追補」は「最近の研究」に言及したうえで、仮説に対する検証の試みが本質的に成立しがたい(つまり「仮説」とさえ言い難い)、それどころか、仮説の「そもそもの問題提起としての意味に疑問を投げかけることになる」(p.328)と述べている。

*5:中公新書の森 2000点のヴィリジアン』では、城戸久枝氏のエッセイ(p.9)や、辻井喬氏の回答(p.77)に書名があがっている。ちなみに、同名書として石田英一郎文化人類学入門』(講談社学術文庫)―「日本の研究教育機関における文化人類学」の章は必読―があるが、これはもと『文化人類学序説』という書名であった。文庫化の際に「勝手に」改題されたことについては、すずきゆたか氏が「“学術”の名に悖ると憤慨している」(『絶版文庫の漁誌学』青弓社p.14)と書いておられた。

*6:鈴木前掲書によると、心理学の教科書ではいまだに「ほぼ正しいこととして」扱われている(p.72)のだという。

*7:それが「問答無用の感情的対立」(佐藤前掲p.30)を引き起こしてしまうのではないか。