ことし生誕百年を迎えた橋川文三(1922-83)の著作を、このところじっくり読む、あるいは読み返すなどしている。ちなみにいうと、「文三」の読みは両様あるようだが、「ぶんぞう」ではなく「ぶんそう」が本来ではないかと思われる。この五月に講談社と丸善ジュンク堂との合同企画で復刊された、橋川の『柳田国男―その人間と思想―』(講談社学術文庫)の奥付の著者名の読みが「ぶんぞう」だったので、念のために記しておく。なおこの文庫は、橋川の生前(1977年)に刊行されているが、その初刷りでも「ぶんぞう」となっていた(復刊に際して新たに組み替えられているが、そのままだった)。
わたしが橋川の著作を読みはじめたのは古い話ではなくて、中島岳志編『橋川文三セレクション』(岩波現代文庫2011)がそのきっかけだった。今もおもい出すが、ひどく寒い日の夕刻のことで、或る人がやって来るのを待つ間、京都・四条河原町のブックファースト(現在は閉店)にて、当時出たばかりのこの本を平台に見いだして購ったのである。橋川の名は渡辺京二氏などの著作によって、あるいは『日本の百年』(ちくま学芸文庫2007-08)の編著者の一人として知っていたし、橋川の「乃木伝説の思想」は、レポートを書く必要から読んだことはあった*1ものの、さまで関心はなかったが、中身をぱらぱら見てみると、どうやら「竹内好」「太宰治」「三島由紀夫」などについての人物論やら回想記やらを収めているらしかったので、興味を懐いて買ってきたのだった。
帰宅後、冒頭の「歴史意識の問題」からして引きこまれるように読んだ。文体はあくまで明晰、とは云え正直にいって、此方の力量が不足している所為もあって、一読しただけでは趣意をくみ取りにくい文章もあったが、「西郷隆盛の反動性と革命性」の先見性には驚かされたものだし、「昭和超国家主義の諸相」を読み了えたときには、かつてこんなにすごい思想家がいたのか、とさえおもった。いま改めて考えてみると、「思想家」というよりはむしろ、そこにアカデミズム史学的な手さばきを看取したのかもしれない。そして何より、それまで誰もが忌避してきた人物を学問的な対象とした点こそが、橋川の真骨頂であるように感じた。そういった学問的態度は、政治思想史の方面では、たとえば故松本健一氏、中島岳志氏らがその衣鉢を継いでおり、また社会学の方面では、佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書2004)、竹内洋・佐藤卓己編『日本主義的教養の時代―大学批判の古層』(柏書房2006)*2などの研究に継承されていると感じる。
こうしたゆくたてがあって、橋川の著作を入手したくなったわけだが、岩波現代文庫に入った橋川の『黄禍物語』(2000年刊)もすでに版元品切れのようだったし(結局、2016年ころに古書肆で購った)、当時新本で入手できたのは『日本浪曼派批判序説』(講談社文芸文庫1998)、『昭和維新試論』(ちくま学芸文庫2007)くらいのものだった。古本でも、未來社の『増補 日本浪曼派批判序説』はよく見つかるものの、その他の著作はなかなか見つけられずにいた*3。全十巻の著作集(増補版)も幾度か見かけたが、おいそれと手が出るような値段ではなかった。ところがその後、『昭和維新試論』(講談社学術文庫2013)、『西郷隆盛紀行』(文春学藝ライブラリー2014)、『ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫2015)、『幕末明治人物誌』(中公文庫2017)……と、橋川著の復刊や文庫化が(『幕末明治人物誌』は文庫オリジナル)相次いだのであった。またこの間には、宮嶋繁明氏の『橋川文三 日本浪曼派の精神』(弦書房2014)、『橋川文三 野戦攻城の思想』(弦書房2020)という決定的な評伝も刊行された*4。
そしてこのほど、気鋭の批評家である杉田俊介氏が「すばる」誌上で2年弱にわたって連載した記事をまとめた、『橋川文三とその浪曼』(河出書房新社2022)も出た。同書は、保田與重郎、丸山眞男、柳田国男、三島由紀夫と橋川との「対決」を論じており、「橋川と竹内好、西郷隆盛、北一輝との思想的な対決について論じ」た続篇的な『橋川文三とその革命(仮題)』もいずれ出す(「あとがきにかえて」)とのことなので、こちらも愉しみに待ちたい。
今回わたしが再読したもののなかには、「昭和超国家主義の諸相」も含まれる。これはもともと、橋川文三編『現代日本思想大系31 超国家主義』筑摩書房1964)の解説として書かれたものだが、橋川文三著/筒井清忠編・解説『昭和ナショナリズムの諸相』(名古屋大学出版会1994)の冒頭にも収められて、独立した論考としてますます評価を高めた文章である*5。
いまこれを読み返してみて、まず感じたのは、予見に充ちた文章であるということだった。それは『昭和維新試論』などの著作群も同様だが、論考の今日的な意義がなおも失われていないことを意味するのだろう。たとえば次のような箇所。
もちろん、テロリズムは、国家主義にのみ結びつく行動ではなく、政治にのみ特有の現象でさえない。それは、人間存在のもっと奥深い衝動とひろく結びついた行動であり、一般的にいえば、人間の生衝動そのものに根源的にねざした行動とさえいえるはずである。人間という恐るべき生物が、絶対的な自己表現にかりたてられる場合に、しばしば選択する手段の一つといってよい。そして、人間が絶対の意識にとらえられやすい領域の一つが宗教であり、他の一つが政治であるとするなら(もう一つ、エロスの領域があるが)、テロリズムは、その二つの領域に同時に相渉る行動様式の一つとみることもできるであろう。そしてまた、それが人間行動の極限形態として、自殺と相表裏するものであることが認められるとするなら、その両者の様式を規定するものとして、テロリズムの文化形態(カルチュア)ということを言ってもかまわないであろう。(「昭和超国家主義の諸相」『橋川文三セレクション』所収:139)
しかしドストエフスキーにおける戦争思想もまた、北(一輝―引用者)の場合と同じように、謎めいており、神秘的でさえあった。彼にとって、いわばロシアの戦争は戦争一般とは異質であり、人類救済という特別の意味を与えられたものであった。なぜなら、ロシアの神は、一般・普遍の神ではなく、まさにロシアの神だからである。この奇怪な論理は、『悪霊』の論理の中の超民族主義者シャートフとスタヴローギンの対話の言葉を聞けば、いくらか理解することができよう。(同p.177)
よく知られていることだが、「昭和超国家主義の諸相」は、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」に異議申し立てをしている。この丸山論文は、1946年5月号の「世界」に掲載された記念碑的文章で、近年では杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー2010)にも収められたし、また、丸山(1914年生)の生誕百年を記念して刊行された、丸山眞男著/古矢旬編『超国家主義の論理と心理 他八篇』(岩波文庫2015)でも手軽に読めるようになった。ここで丸山は、昭和の超国家主義について、それが「凡そ近代国家に共通するナショナリズムと」区別されるのは、「そうした(武力的膨張の)衝動がヨリ強度であり、発現のし方がヨリ露骨であったという以上に、その対外膨脹乃至対内抑圧の精神的起動力に質的相違が見出される」(岩波文庫版pp.13-14)からだと述べたうえで、その「質的分析」に話を移しているのだが、これに対して橋川は、
それはいわば日本超国家主義をファシズム一般から区別する特質の分析であって、日本の超国家主義を日本の国家主義一般から区別する視点ではないといえよう。ないしは、日本の超国家主義的支配と、その明治絶対主義的支配との区別に対応するような、日本ナショナリズムの運動の変化を解明するにはあまりにも包括的な視点であるといえよう。(前掲p.137)
と反駁を加えている。ここで恐らくは、「日本の国家主義一般」「明治絶対主義的支配」に対して、橋川が何らかの積極的な意義を見いだしているのではあるまいか、と若干の疑念を懐く読み手も出て来ることだろう。たとえば、いわゆる司馬史観などと親和性のある「思想」を橋川が開陳し始めるのではないか、と。しかし、橋川が周到なのは、つづけて、
こうした疑念を私がいだくのは、丸山のアプローチによっては、明治以降における日本ナショナリズムのいわば健全で進歩的なモメントが無視されてしまうのではないか、というような理由からではない。(p.137)
と書いているからだ。もっとも、宮嶋繁明氏によれば、これは「橋川一流のレトリックの彩(あや)」だろうという。「すぐ後ろの丸山への反措定を強調しようとする主旨があったのは事実であろうが、一方で、このパラグラフは、橋川の希求する「あたたかい思想」につながる志向性を内包していた、とわたしには思われる」(『橋川文三 野戦攻城の思想』弦書房:158)。一体どういうことか。
すなわち、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」などの日本ファシズム論に対する批判に抗する丸山自身の弁明に配慮した発言と思える。なぜなら丸山は、『日本の思想』(一九六一年)の「あとがき」で、日本ファシズムや日本ナショナリズムに関する自分の分析は、日本の精神構造なり日本人の行動様式の欠陥や病理の診断として一般に受け取られていて、明確な誤解は、「もっぱら欠陥や病理だけを暴露したとか、西欧近代を「理想」化して、それとの落差で日本の思想的伝統を裁いた」といったたぐいがあると、強く反発した。
橋川は、丸山のこれらの反発を意識して、「昭和超国家主義の諸相」を書く際に、上述の「欠陥や病理だけを暴露した」との受け取られ方、つまり、「健全で進歩的なモメントが無視される」のとは異なった箇所からの「疑念」であることを、強調したかったのではないだろうか。(略)
ここで橋川が、あえて論理の陰に隠しこんでしまったともいえる前掲の発言の裏側には、橋川の論理以前の感性、心情としての丸山への違和感が潜んでいた。つまり、橋川においては、超国家主義あるいは日本のナショナリズムに、一方で、「健全で進歩的なモメント」を、求めようとしていたことは否定すべくもないことだと思われる。(宮嶋前掲pp.158-59)
橋川の文章独特の「わかりにくさ」、趣意のくみ取りにくさの由来は、そういうところにもあるのではないかと考える。
さて、さらに丸山が超国家主義の発現形態について、
天皇は万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。欽定憲法は天皇の主体的製作ではなく、まさに「統治の洪範を紹述」したものとされる。かくて天皇も亦、無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っているのである。天皇の存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖皇宗もろとも一体となってはじめて上に述べたような内容的価値の絶対的体現と考えられる。天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。(略)
「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を強めて行く――この循環過程は、日清・日露戦争より満州事変・支那事変を経て太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって行った。(岩波文庫版pp.35-37)
と結論し、あくまで明治期以来の「連続性」を強調したことに対して橋川は、
あの太平洋戦争期に実在したものは、明治国家以降の支配原理としての「縦軸の無限性、云々」ではなく、まさに超国家主義そのものであったのではないか、ということになるであろう。(前掲p.138)
と述べ、明治期以降の国家主義とは完全に「断絶」されたものとして、昭和の「超国家主義」を位置づけてみせたのであった。
ただし橋川はその五年前(1959年)には、「『戦争体験』論の意味」*6(中島岳志 杉田俊介責任編集『橋川文三 社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える』河出書房新社2022:196-213)で、前引の丸山論文の「天皇を中心とし、…縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである」というくだりを紹介し、
そのような国家存在の論理構造に対応して、国民の心理においては「縦軸の無限性」への依存が、一種の無限戦争のイメージを作り出していたと考えられる。(略)太平洋戦争は「無限の縦軸」としての国体理念が、そのまま戦争体制として凝結したことを意味した。さきに明治維新において、国民諸階層のエネルギーが個体としての国家に集約したと述べたが、敗戦は、国体という擬歴史的理念に結晶したエネルギーそのもののトータルな挫折を意味した。(pp.211-12)
云々と丸山理論を援用しているので、五年間で大きく立場を変えたことになる。そしてそれはちょうど、橋川と丸山とが思想的に「訣別」する時期に重なっている*7。
では、その「超国家主義」は、どういった担い手によってなされたか。橋川はいう。
ごく大雑把に図式化していえば、私は日本の超国家主義は、朝日(平吾)・中岡(艮一)・小沼(正)といった青年たちを原初的な形態とし、北一輝(別の意味では石原莞爾)において正統な完成形態に到達するものと考え、井上日召・橘孝三郎らはその一種中間的な形象とみなしている。その基準は何かといえば、明治的な伝統的国家主義からの超越・飛翔の水準がその一つであり、もう一つは、伝統破壊の原動力としての、カリスマ的能力の大小ということである。(前掲「諸相」p.156)
これが当該論文のひとつの結論である。橋川は、これらの人物のうち特に朝日、井上、北、橘らのパーソナリティーについて分析を加えたうえで、超国家主義を「現状のトータルな変革をめざした革命運動であった」(p.159)と捉え*8、「いわゆる超国家主義の中には、たんに国家主義の極端形態というばかりでなく、むしろなんらかの形で、現実の国家を超越した価値を追求するという形態が含まれている」(同p.199)と概括することになるのだが、たとえば朝日のパーソナリティーにかんしては、ラスウェルの言説などをもとに「父親憎悪」といった動機を見いだしていく。
もっともこれだけでは、在り来りな(そして、ややうさん臭い)俗流の心理学的解釈にとどまるといえるだろう。しかし、ここで橋川は、これにつづけて、
しかし朝日の行動がどのような深層心理的動機にもとづいたものであったにせよ、そのことと「死の叫び声」(朝日の遺書を指す―引用者)に表現された思想とは直接関係はなさそうである。彼がいかにいかがわしい人間であったにせよ、「死の叫び声」がその後の日本超国家主義の歴史に「もっとも早い先駆」としての地位を占めることは疑いえないはずである。(同前p.151)
と記しているのであって、橋川の史学者としての眼は、この様な記述からもうかがい知ることが出来る。ただ、そのことに自覚的でありながら、橋川のこの論文は、朝日や井上の思想を政治思想史の流れのなかに位置づけることに成功しているとは必ずしもいえない。
こういった「限界」については、杉田俊介氏が次のように評している。
けれども「諸相」論文の段階では、橋川の超国家主義論が十分うまくいったとはいえなかった。(略)「諸相」論文での橋川は、問題をあまりにも心理主義的にとらえ過ぎ、それを精神病理学的な問題、あるいは同時代の青年たちの実存的煩悶の問題として片付けてしまったのであり、その結果として、超国家主義の「思想」をも疑似カリスマたちの特異なメンタリティの次元に回収してしまうのである。あたかも、橋川自身の丸山眞男というカリスマへの心酔の根深さ(そしてその批判の重要性)を逆説的に示すかのように。
それは次のような致命的なアポリアを告げてもいるだろう――近代日本においては、近代的天皇(国体)以外に人民統合のリソースを創出しえなかったのであり、その裏面として、ファシズムが「下」からの大衆運動として広範に展開することすらなく(右翼的思想集団が軍部や官僚となし崩しに野合する、というパターンに収束してしまう)、あとは、疑似カリスマたちの人格性に依拠したそれ自体が疑似的な革命を夢見ることしかできなかった、と。(『橋川文三とその浪曼』河出書房新社:151-52)
この指摘は、同著pp.238-39でも言葉を変えてなされているが、杉田氏は、橋川のこの様な限界は、思想的な成熟を経て、『昭和維新試論』である程度は克服されたとみている。
それでも、「昭和超国家主義の諸相」の問題提起がきわめて斬新なものであったということに変りはないだろうし、後世に与えた影響も大きかったようである。
たとえば、『昭和ナショナリズムの諸相』の編者である筒井清忠氏は、筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(上)』(ちくま新書2022)の第1講「丸山眞男と橋川文三―昭和超国家主義論の転換」*9で、『日本浪曼派批判序説』「乃木伝説の思想」「小泉三申論」と併せてこの「諸相」をも取り上げており、「こうして橋川は超国家主義の再検討を通して丸山的な近代主義的研究視角をブレイクスルーしたが、その影響は大きく、これ以降の超国家主義研究は評者も含めて(『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館、二〇一四)橋川に大きく負うことになったのであった」(pp.29-30)と書いている。
さらに筒井氏は、近著『天皇・コロナ・ポピュリズム――昭和史から見る現代日本』(ちくま新書2022)の「第8章「大正デモクラシー」から「昭和軍国主義へ」」でも橋川の研究に言及しており、「筆者の視点も基本的にはほぼこの延長線上にある。明治の伝統的な国家主義は、大正期を経て昭和になると明確に変質した新しいナショナリズムになったという視角を保持しておかないと、昭和の超国家主義は理解できないと思われる」(p.141)と述べ、「昭和初期の超国家主義運動の担い手の実態を知るためにはむしろ第二世代の人々のほうが研究対象として重要だ」(p.147)という観点から、橋川が「中間的な形象」と看做した井上・橘らを、北も含めて「超国家主義の第一世代」と位置づけ直している。
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橋川の『ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫)も、今のところ新本で入手可能のようだ。『ナショナリズム』は、村上一郎(1975年に自刃)の慫慂によって書かれたものであるが、橋川自身は「敗退の記録」「中途半端な記述におわった」と述べ、失敗作と看做している。それにもかかわらず、橋川の著作のなかでも、これは格段に読みやすい本に仕上がっているとおもう。
ところで、橋川と村上とは、しばしば対蹠的な人物として比較される。たとえば竹内洋氏は、村上一郎『岩波茂雄と出版文化―近代日本の教養主義』(講談社学術文庫2013)の「学術文庫版イントロ 村上一郎と『岩波茂雄』」で、
わたしは、そのころ(1960年代初頭―引用者)傾倒していた橋川文三(政治思想史家、一九二二~八三)から社会科学的なものを引き算したのが村上一郎で、村上はそのぶん情念の炎の温度が格段に高いが、逆に橋川文三の文体と論理は冷たく燃えているなどと思ったものである。そんなわけで当時のわたしは必ずしも村上の著作の熱心な読者とはいいがたかった。(p.8)
と述懐しているし、渡辺京二氏は、村上一郎『幕末―非命の維新者』(中公文庫2017)の「解説 草莽の哀れ」で、
しかし村上さんは、のちには三島割腹事件にただならぬ共感を示したお方であり、この文庫本に収録されている対談を読んでもわかるのように(ママ)、国学的ナショナリズムの権化とでも言うべき保田與重郎と、最後までコミットした人であった。橋川文三さんは戦時中は熱烈な保田信者であった人だが、戦後は『日本浪曼派批判序説』を著わして、己れの内なる政治的ロマン主義を克服した。彼は村上の著作集の解説の中でも、村上の保田への傾倒にふれ、「要するに私は日本ロマン派=保田與重郎とは、どういったらいいか、ともかく切れていたいのである」と書いている。
私はそういう村上さんの右翼に通じかねない国学的ナショナリストの姿勢、おなじく武断に通じかねない東国ますらお振りを一貫して敬遠していて、これまでその系統の著書も読んで来ていない。この『幕末』も依頼を受けたときまだ読んでいなかった。ためらいはそういう事情から生じた。この人の熱い、あるいは熱すぎる心にシンクロできる自信がなかったのである。(p.292)
と述べている*10。
*1:それに触発されて、森鷗外「興津弥五右衛門」を読んだのだった。ちなみに鷗外の方は、今年「歿後100年」を迎えた。
*2:竹内・佐藤編著は、まともな学問対象としては見なされてこなかった「蓑田胸喜」について考察している。
*3:単なる依怙地にすぎないが、ネット古書肆ではなく足で見つけたかったのだ。
*4:宮嶋氏には『三島由紀夫と橋川文三』という著作もある。同書が2005年に出ており、2011年に新装復刊されたということは、そこから遡及する形で知った。
*5:この『昭和ナショナリズムの諸相』は、今年五月に名古屋大学出版会の「リ・アーカイヴ叢書」の一冊として復刊されており、新本としての入手も容易になった。
*6:初出:『現代の発見』第二巻、春秋社1959。『橋川文三著作集5』に収む。
*7:「丸山は、一九六一年十月から六三年四月まで、東京大学から、米国、カナダ、イギリス、スウェーデン、スペイン、フランスへの出張を命じられる。この丸山の不在中に、吉本隆明の「丸山真男論」が、一九六二年から六三年にかけて発表された。丸山のスランプ発言は、一九五八年のことだが、それが、表現媒体に如実に表出してくるのは、一九六〇年代の前半で、外遊で不在だったこともあり、顕著に書かれたものが減少している。そして、スランプに陥った丸山と入れ替わるようにして橋川の活躍が始まる。/このあたりを境にして、橋川と丸山との明確な思想的な訣別が加速する」(宮嶋前掲p.136)。ただし、宮嶋氏が次のように書いていることにも注意。「(橋川は)丸山の鬼っ子ではあったが、しかし、本来、思想の継承とは、批判的に乗り越えていくものだとすれば、丸山シューレの面々よりも橋川のほうが、本当の意味での、丸山の思想的継承者であったといえるかもしれない」(同p.143)。もっとも、橋川はたとえば『昭和維新試論』で、丸山の「個人析出のさまざまなパターン――近代日本をケースとして」による分析を好意的に取り上げるなどしており(講談社学術文庫版pp.109-19)、もちろん、そのすべてに対して批判的であったわけではない。
*8:ただし、橋川は「もちろん、ここで「革命」というのは、価値判断なしにいわれて」いる(p.159)とつけくわえている。
*9:「近現代史ブックレビュー【第8回】橋川文三の学問・思想の全体像を明らかにした書」『Wedge infinity』2021.10.15付をもとにした文章だという。
*10:ちなみに渡辺氏は、橋川文三『ナショナリズム―その神話と論理』(ちくま学芸文庫2015)の「解説 抑制と暗い炎」で、橋川の文体について、「端正・温和で、論述のしかたも、扱う問題について客観的に広く展望・紹介するといった風でありながら、その底には苛烈で、時とすればほとんど魔的と形容したい断定が匿されていた。彼の抑制された外面の蔭には、歴史つまり人びとの生きて来た事実の亀裂にのぞく深淵を見てしまった者の、暗い炎が激しく燃えさかっていたのである」(pp.248-49)と評している。竹内氏の「冷たく燃えている」という評言と響き合うようで、興味ふかい。