「蓑田胸喜」の時代

竹内洋「帝大粛正運動の誕生・猛攻・蹉跌」
福間良明「英語学の日本主義―松田福松の戦前と戦後」
何れも、竹内洋佐藤卓己編『日本主義的教養の時代―大学批判の古層』(柏書房)所収の論文。
日本主義的教養の時代―大学批判の古層 (パルマケイア叢書)
竹内論文*1は、蓑田胸喜の小伝としても読める。「蓑田=文化犯罪者」とレッテル貼りをする行為は、「過去をすべて蓑田たちにおっかぶせて過去そのものを葬り去ろうとすることにすぎない」(p.13)。
竹内氏は、『日本経済新聞』(2006.1.29付)の立花隆天皇と東大』(文藝春秋)評において、「しかし、天皇機関説糾弾などの仕掛け人蓑田胸喜の思想を病気(狂気)にのみ還元してしまうのは、安易で、断定の根拠も薄弱ではないかと?をつけてしまうのだが」と書いているが、本論考の「註8」では、立花氏の著作に対してさらに厳しい批判を加えている。「この程度の根拠で『真正の狂人』と判断するなら左右を問わず、アジビラの書き手やアジ演説をする社会運動家はなべて『狂人』ということになる」(p.46)。
本論考のうち、とりわけ興味深いのは「瀧川事件をめぐるねじれ」である。当初、蓑田や宮澤裕(政友会)らが槍玉にあげていたのは、美濃部達吉・末広厳太郎・牧野英一・瀧川幸辰を中心とする帝大法学部の教授の面々であったが、その追放劇は瀧川を中心に展開してしまうのである(犠牲者を仕立て上げ、収束に導こうとする文部省の意図があったからだと竹内氏は推測している)。つまり蓑田は、瀧川を主な攻撃目標としていたわけではなかった。「もちろん瀧川事件の火付け役は蓑田ではあり、しだいに瀧川を単独攻撃するようにはなるが、もとからみれば、事態はあらぬ方向に展開したことになる。にもかかわらず、結果的には『(蓑田胸喜)怖るべし』と脚光を浴びる。当初の意図は違っていたが、結果は蓑田にとって『勲章』のようになってしまった。これが第一のねじれである。しかし、そのことによって東京帝大法学部教授追放の機会を取り逃がしてしまった。これが第二のねじれである。蓑田にとって瀧川事件は、二重の意図せざる結果ではあった」(p.32)。
福村論文では、斎藤(秀三郎)文法→市河(三喜)文法という流れが、英文解釈を中心とした「英学」から、英語を言語として研究する「英語学」へ、という転換*2に重なるということが述べられている。
斎藤の弟子であった松田福松は、英文解釈の方法論として斎藤文法を再評価する立場であった。その様に周縁の極北にあったから、「正統的な英語学、ひいては正統的な学術への違和感」(p.150)を醸成することになった。それが「原理日本主義」への接近を容易にしたのだという。松田が英語圏のテクストから、「自由主義」ではなく、「イギリス精神の本質」としての「保守主義」を読み込んでゆくという過程を証明するくだりは面白い。

*1:この論文は、『丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム―』(中公新書)の第一章等をもとに加筆したものであるから、内容的にはかなり重なる部分があるが、『丸山眞男の時代』では、蓑田胸喜縊死後のマスコミの反応、あるいは丸山の反応なども描出されている。

*2:その後、大岡育造や杉村楚人冠らの英語教育廃止論が出る。