漆山本春雨物語のこと

春雨物語論

春雨物語論

 新聞広告やブログで紹介されている高田衛氏の『春雨物語論』(岩波書店)は、まだ中身を見ていないが、それでおもい出したことがある。
 『漆山本 春雨物語』の岩波ブックサーチャーでの紹介文に、「いまだに(春雨物語の―引用者)完本は世に現われていない」、とあるのは、同書の「後記」(蝸牛會)に拠ったものとは云え、ちょっとまずいのではなかろうか。
 というのは、今日では、既に完本が発見されているからだ。
落葉籠〈上〉 (中公文庫)

落葉籠〈上〉 (中公文庫)

 森銑三著・小出昌洋編『落葉籠(上)』(中公文庫)には、『春雨物語』の完本が見つかるまでの経緯が簡潔に記されている。

 秋成の「春雨物語」のこれまで版になった数部を通観すると面白い。藤岡東圃校訂の「袖珍名著文庫」本が第一。重友毅氏校の岩波文庫本が第二。共に富岡家蔵の不完本に拠った。すべて十篇あるべき筈のが五篇しかなく、その五篇も、最も興味のある「樊噲」の後がない。正しくは四篇半である。
 中村幸彦氏校の単行本が第三。これには洩れた諸篇が附加えられたが、断簡はどこまでも断簡なのが物足らぬ。
 漆山天童氏旧蔵本に拠った岩波文庫の第二種本が第四。この本で収載篇数が八に殖えた。しかし「樊噲」と、それに次いで面白い「捨石丸」とがこれには欠けている。
 丸山季夫氏校の「古典文庫」本第五。従来何人も知らずにいた桜山文庫本に拠ったので、十篇が完備している。「樊噲」と「捨石丸」とは、この本で初めて読むことが出来るようになった。この完本を紹介せられた丸山さんの功績は大きい。東圃の校本の出た明治四十年から四十三年を経た昭和二十六年に丸山氏の校本が出たのである。
 更にその後に小津桂窓の西荘文庫本が小津家から出て天理図書館に入り、「春雨物語」の写本の完全なものは、二部存在することになった。しかし新出の西荘文庫本*1も、文章は桜山文庫本と殆ど同一であるらしい。(pp.80-81)

 私は、岩波文庫版は漆山本しか所有していないので、それ以前に重友毅校本が出ていたことは、森のこの文章を読むまで知らなかった。
 『春雨物語』諸本について、さらに詳しく述べているのが、日本古典文学会編『訪書の旅 集書の旅』(貴重本刊行会1988)所収の浅野三平「春雨物語」(pp.247-50)である*2
 浅野氏のこの文章によれば、戦前に漆山が『春雨物語』の写本を発見したのは「上野広小路の古本屋」だという。続けて次のようにある。

 墨が紙に滲んで読みづらい「天保十四年竹内弥左衛門写」とある『春雨物語』を、十余年かけて校訂された漆山氏は、同(昭和―引用者)二十二年に世を去られた。遺著のごとく岩波文庫の一冊として、ついに二十五年、漆山本『春雨物語』が刊行された。これによって、「二世の縁」「死骨*3の咲顔」「宮木が塚」「歌のほまれ」の四編がはっきりし、かつ「捨石丸」の題名もわかり、『春雨物語』の全貌は判然とした。
 文化五年の識語を有する漆山本が世に出るや、以後、堰を切ったように他の写本が発見されている。不思議といわねばなるまい。(p.248)

 文中、「二十二年に世を去られた」とあるのは、「二十三年〜」の誤り*4であるが、浅野氏も強調するように、漆山が「天下一本」と自負した『漆山本 春雨物語』こそ、全十篇の表題および排列を明らかにしたということも、閑却されてはならないとおもう。

*1:「新出の西荘文庫本」を紹介したのは中村幸彦であるらしい(「小津桂窓旧蔵春雨物語について」『典籍』1952.10)。後述の浅野氏の文章で知った。

*2:初出は、「日本古典文学会々報」(1975.4)。

*3:「死首〜」とする説も。

*4:「漆山本」の自序は「昭和二十三年六月」となっており、息女遠藤文子氏の「天童漆山又四郎略歴」には、「昭和二十三年八月、上總一ノ宮に於て歿す。歳七十七。」とある。