楚囚之詩

きのうTで購った(八百円也)、『定本 庄司淺水著作集 書誌篇 第二巻』(出版ニュース社)を読んでいたら、北村透谷『楚囚之詩』のことが出て来た。
この稀覯書にまつわるエピソードは、本好きの間ではわりと有名であろう。

透谷の『楚囚之詩』(明治二十二年刊)は、かつてその存在が一部しか知られず、児玉花外の『社会主義詩集』とともに、明治の詩歌書のうち、第一の稀本といわれた。その後、数部発見されたが、いぜん、稀覯本たるにかわりはなく、市価七十万円を呼んでいる。(「明治本あれこれ」『紙魚のたわごと』,p.155)

過ぎし日に起こった蒐書にまつわる愉快な奇蹟の話が、いろいろ伝えられている。時価二十五ポンドはする、サマーセット・モームの『人間の絆』の初版本(一九一五年刊)を、地方の小さな町の小さな古本屋で、わずか一シリングで手に入れた男、時価七十万円もする北村透谷の『楚囚之詩』を、三十円均一本のなかから探しだした一学生、…(「書物蒐集のわき道」『蒐書の心』,p.219)

ほかのところでもちょっとふれたが、北村透谷の処女詩集『楚囚之詩』(明治二十二年刊)は、発売当時少しも売れず、『万物画譜』という石版刷の和装本の入紙に使われ、残存するものきわめて少なく、戦前はその存在が一部しか知られず、明治の詩歌書のうち、第一の稀本といわれたほどだ。その後、数部発見されたが、稀覯本たるに変りはなく、昨今、市価は七十万円(昭和五十四年現在は二百万円)を呼んでいる。
この『楚囚之詩』を戦後まもなく、早稲田の一学生が、神田の古本屋の店頭で、三十円均一の山の中から掘り出したことはすでに述べた。紙表紙横とじの片々たる小冊子、形態だけからすれば、当時、三十円均一の山の中にもぐり込んでいても、すこしもおかしくないしろものだった。
(「書物蒐集のわき道」『蒐書の心』,p.233-34)

あれ? このエピソードは、「戦後」の話ではなくて、たしか「戦前」の話であったはずだ……。そう思いながら、例えばごく最近に読んだ出久根達郎『本のお口よごしですが』(講談社文庫)を見てみた。

本のお口よごしですが (講談社文庫)
若くして自殺した明治の詩人・評論家、北村透谷に『楚囚之詩』という詩集がある。発行寸前に透谷は自信をなくし、手元に一冊を残したきり、あとは廃棄処分にした。日記にそう記してあったので、この本は世に二冊とないと思われていた。
ところが四十二年後の昭和五年に、この幻の本が古書展に三十五銭で売りにでた。見つけたのは大学生で「世紀の大ほりだし」と騒がれた。これを出品した古本屋はいちやく有名になったが、店主は知識の不明を恥じ、発奮、猛勉強をして、のちに近代文学書専門の一流店になった。因縁のふしぎさは十年後、再び同人が三冊めを入手、今度は気ばって八十円で売ったという。(中略)ちなみに『楚囚之詩』がほりだされた会場に編者の石川(巌―引用者)氏がいあわせていて、くだんの大学生に十円で譲れと迫った。(「ほりだしもの」,p.24)

八木福次郎『書国彷徨』(日本古書通信社)が、このエピソードについて書いているそうで、その本によれば『楚囚之詩』は、昭和三十六年の業者の交換市にも出たのだという。詳細は、ここに書いてあるが、リンク先には、庄司淺水が述べていたようなことは書いていない。また、出久根著とも若干の相違があって、石川巌は発見者である大学生に「五円で譲れ」と迫ったことになっている。