平澤一『書物航游』(中公文庫)*1は繰り返し読んでもいっこう飽きない本で、これを読んでいなければ、『暁烏敏先生講話集』を手に取って見ることはきっとなかったろうし、木下杢太郎(太田正雄)に関心を寄せることもなかったであろう。杢太郎については、「木下杢太郎と植物」という独立した章がもうけられているが、「古本屋列伝」にも、その著作に言及した箇所がある。
その頃(昭和三十六年頃―引用者)、私は杢太郎の本を手にしない日はなく、古本屋に入れば、必ず彼の本はないかと書棚の本の背に眼を走らせた。(略)京都の古本屋では、『食後の唄』は、とうとう、みつからなかった。『えすぱにや・ぽるつがる記』とグワルチエリの『日本遣欧使者記』は、少し高いのを我慢すれば手に入った。『芸林輭歩』、『其国其俗記』や『木下杢太郎選集』などは、五、六軒も店をまわれば、必ずあった。『日本吉利丹史鈔』が三百円であった。戦後に出版された『葱南雑稿』(昭和二十一年九月発行)は、五十円か百円で、時には見切り本の中に入っていたりした。(pp.284-85)
このような心情はよく理解できる。私の場合についていうと獅子文六の本がそうだ。このところ、「りぼん」附録の『悦ちゃん』(獅子文六原作、つのだじろう作画)という本さえ、安く見つけて購ったりしている。
さて前回のエントリでは、古本市のことを書き、『葱南雑稿』にも言及したが、実は、上の一節が念頭にあったのである(今では、『葱南雑稿』『日本吉利丹史鈔』はいずれも大体数千円で、相場は殆ど違わないのではないか)。
平澤氏の本は、このほかにも、「叢書札記」「クックの航海記」「ティー・クリッパー・レースの物語」など印象に残る文章を多く収め、洋の東西を問わずこれでもかとばかりに繰出される話題に触発されるところ多く、まさに「古本屋に走りたくなる」一冊となっている。
さらに、そこここに見られる挿話がまた面白い。たとえば、「白氏五妃曲の発見者」(長澤規矩也の覆製本解題では触れられない或る事実が語られる)に出て来る島田翰のエピソード。著者は伏見の春和堂に、木活字本の太田方(全斎)『韓非子翼毳』(この本には整版はなく、天理図書館が自筆稿本を収める*2)を見せてもらいにゆくのだが、その「初見秦篇第一」の余白に島田翰の蔵書印ならびに読書之印、巻末には島田による朱筆の後記がしるされているのを目にする。それについて春和堂主人の若林氏はかく言う――「翰は人の本でもかまわずに、この『島田翰読書之印』を押したらしく、昨年のホーレーさんの売立ての時にも、こういう本がありました」(p.250)、と。これを初めて読んだのはもう何年か前のことになるが、失礼なことながら、「S先生と書物」(森銑三『新編 明治人物夜話』)の「S先生」は島田翰のことにちがいない、と独りのみこみをするほど、印象的な挿話であった(その後、「S先生と書物」を再読、「S先生は、漢学界切っての蔵書家だった」、「(S先生は)書入れもせられない。蔵書印を捺すこともせられなかった」等の記述によって、ようやく誤解はとけたのだが)。
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『書物航游』には、『精神病約説』*3で知られる神部文哉の生涯を描いた「西洋精神医学事始」「わが国最初の西洋精神医学書」という章もある。呉秀三とか『ドグラ・マグラ』とかに少しでも興味があれば、面白く読めるのではないかとおもう。
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ここで触れた、岩波文庫版の『武玉川』四冊が揃った(だいぶ安いものだったので助かった)。『柳多留』と同じように、気の向いたところから目を通してはいるものの、想像ばかりで補わず、ここはやはり適当な入門書や解説集のほしいところ。
まずは、田辺聖子の『武玉川・とくとく清水―古川柳の世界―』(岩波新書)は読んでみたい。渡邊十絲子『新書七十五番勝負』(本の雑誌社)にこの書評が収められていて(pp.55-57)、渡邊氏は「田辺聖子の読みが魅力的。丁寧に文献にあたる謙虚さ(これがじつにすばらしい仕事)と、『いやあ、センセイ方はそうゆうてはるけど、こっちの考えのほうがええのんちゃう……』という大人の判断(?)のバランスがすばらしい」(p.56)と評している。
田辺聖子には、『古川柳おちぼひろい』という著作もあって、こちらは向井敏による書評がある(『書斎の旅人』中公文庫)。向井氏は、小島政二郎の『私の好きな川柳』を「八っつぁん熊さん相手の隠居の駄弁か、いいところ田舎宗匠の講釈にすぎない」「愚書」(p.131)などと斬って捨て、そのいっぽうで、『古川柳おちぼひろい』を「選句のたしかさ、考察の冴え、語り口の練達はすばらしい」(同前)、と称揚する。
んー。これはぜひ読んでみなければ。
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昨秋、クリストファー・デル 松平俊久訳『世界の怪物・魔物文化図鑑』(柊風舎)という本が出た。朝の情報番組でも紹介されたものだが、最近になってようやく大型書店で見ることを得た。さすがに二百点超の写真は迫力満点で、稀覯本からキールティムカ*4、百鬼夜行図に至るまで様々なものを扱っているが、文字情報がすくなく、ちょっと高い。加えて、中国の書物をまったく扱っていないのが残念だ。そのことは訳者も心得ていて、訳者あとがきに「『山海経』や『淮南子』など、中国の代表的な「怪物書」に関する記述こそないが」云々と、確かそんなふうに述べていた。少なくとも、『山海経』の図を一点くらいは掲げて欲しかった。中世ヨーロッパの怪奇画に先んじている面もあるのだから。
ちなみに『山海経』は、簡便なものに平凡社ライブラリー版があるが、学者(および好事家)向けの本として、馬昌儀『古本山海經圖説』(山東画報,2001)という研究書が挙げられる。これは10種のテクストから図版を採っているが、さらに6種のテクスト(その中には日本の『怪奇鳥獣図巻』も含まれている)を追加して図版を充実させたのが、『〔増訂珍蔵本〕古本山海經圖説(上・下)』(広西師範大学出版社,2007)である。
今月には、勉誠出版から志村有弘編『日本ミステリアス 妖怪・怪奇・妖人事典』というのが出るそうで、これもぜひ見てみなければ、と考えて居る。
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*1:数百円で出ているのを時々見かけるから、手に入れにくい本ではけっしてないはずだが、某古書肆ではなんと1,800円(!)をつけていた。単行本ではなく、中公文庫版に、である。
*2:なお洋装の『韓非子翼毳』は、冨山房の「漢文大系」に入っているので簡単に見られるし、「うわづら文庫」によってウェブ上でも見ることが出来るようになったが、この本はもともと太田が苦労に苦労を重ねて約二万字の活字を買い、極貧のなか家族総がかりで二十部刷られたものにすぎない。それでも、蒲坂円(青荘)『韓非子纂聞』など、『翼毳』の出現によって新たに編まれた書もあり、後世に多大な影響を及ぼした。
*3:リノールズ『内科全書』下巻に収められたヘンリー・モーズレイ『精神の生理学と病理学』の要約を翻訳したもの。
*4:キールティムカについては、立川武蔵『聖なる幻獣』(集英社新書ヴィジュアル版)に詳しい。こちらは価格もお手頃である。