ふたたび恐妻家

◆もう二年前のことになるのだが、ここの前半部で、「恐妻家」について書いた。「恐妻家」ブーム(?)は、1930年代と1950年代とにおおきなヤマがあったと見ている(二年前とはかんがえが変わったわけです)。まず1930年代には、星野貞志(サトウハチロー)作詞・古賀政男作曲「うちの女房にゃ髭がある」が大ヒットし、これが日活によって映画化されたわけだし、成瀬巳喜男『女優と詩人』や、澁谷實のデビュー作『奥様に知らすべからず』(じつはこのあいだ観たばかり)という「恐妻映画」も製作されている。
1950年代の再ブームについては、リンク先にも書いているとおりなのだが、東映東京で『懐かしのメロディー うちの女房にゃ髭がある』(未見)という作品が映画化されていることもつけ加えておかねばなるまい。
「恐妻家」ということばの出自に関しては、謎が多い。たとえば日置昌一『ものしり事典 言語篇』(河出書房、1952)には、「この『恐妻』という新らしい言葉は昭和十三年(皇紀二五九八 西暦一九三八)の春ごろ、徳川夢聲が映畫俳優の藤原釜足と逢つたとき、その當時は各種の共濟組合が設立されていたのを、もじつて『どうです、ひとつ吾々のあいだで、恐妻組合てなものをつくろうではないですか』と駄洒落を飛ばしたのがはじまりだといわれている」(p.84)とあるし、榊原昭二『昭和語―60年世相史』(朝日文庫、1986)には「大宅壮一の造語」(p.144)であって、「阿部(眞之助―引用者)や源氏鶏太によって広められた」(同)とある。
また、ついこのあいだ入手した阿部眞之助『恐妻一代男』(文藝春秋新社、1955)には、「言葉の發明者が誰であるか、いまのところ分明でない。徳川夢聲の説によると、いまから十年、いや二十年も前かも知れない。その時代誰いい出したともなく、彼等の仲間で恐妻という言葉が使用されたことがあつたという。しかしそれは彼等のグループで一時的に用いられたのみで、一軒燒けのボヤのように消滅してしまつた。ボヤにもせよ起源が夢聲の仲間にあつたというところから、夢聲を仲間の代表として、恐妻始祖の尊稱を奉つても、必ずしも不當でないであろう」(pp.7-8)、とある。
たしかに、1930年代に製作された映画のタイトルには「恐妻」を冠したものがないので、「恐妻」は「新らしい言葉」といえるのかもしれない。しかしリンク先にも書いたように、三田村鳶魚の「春日局の焼餅競争」(『公方様の話』所収、大正十三年)に、「二代将軍も随分な恐妻家であります」とあるのだそうだから、話がややこしいことになって来る。鳶魚の使用例は、散発的なものなのだろうか。
ところで、こういうことばかりに興味を示していると、「もしや恐妻のケがおありで?」と疑問をお持ちになる方があるかもしれない。しかし決してそうではないのだ。やや大袈裟なことをいうと……。近代史を語るうえでは、権威主義的かつ独裁的な夫あるいは父親像を措定することはたしかに重要なのかもしれない。けれども、あまりにそればかりを強調しすぎると、そこからこぼれ落ちてしまうなにかがあるのではないか、とおもうのだ。その例のひとつとして、「恐妻家」という存在を考えてみたいのである(しかもこれは、女性の社会的地位に対するアリバイ的言辞として利用された概念ではないようだし)。「鬼嫁」ブームよりもずっと以前に、「恐妻」ブームがあったということを、いまここで強調しておきたいのである。
日置昌一でおもい出した。日置という姓のヨミは、『ものしり事典 言語篇』の奥付では「ひおき」、となっている。これが正解だとおもわれるが、徳川夢声の『いろは交友録』(鱒書房→ネット武蔵野)では、何故か「へぎ しょういち」となっている(このことも以前書いた)。かくも人名はむつかしい。あの佐久間英氏も、「日本の人名はややこしい。それは文字の上からも音の上からも、日本語の悲劇といえるかもしれません」(『お名前拝見』ハヤカワ・ライブラリ1964,p.235)、と書いているではないか。
荻原魚雷『古本暮らし』(晶文社)所収の「図書館のアルバイト」にも、その「日本語の悲劇」が描かれている。

たとえば、「上坂」という名字の作者がいる。「うえさか」なのか「かみさか」なのか「こうさか」なのか、こちらとしては判断のしようがない。「東」は「あずま」と「ひがし」、長田は「おさだ」と「ながた」で迷う。「河野」も「かわの」か「こうの」かわからない。「小原」も「おはら」か「こはら」かわからない。多田は「おおた」か「ただ」か、菅野は「かんの」か「すがの」か、角田は「かくた」か「つのだ」か、古山は「ふるやま」か「こやま」かで迷う。谷沢は「たにざわ」なのか「やざわ」なのか、どっちなんだ?(pp.177-78)

他に例をあげると、小津安二郎の『宗方姉妹』は「むなかたきょうだい」ではなく「むねかたきょうだい」だし、『小早川家の秋』は「こばやかわけのあき」ではなく「こはやがわけのあき」、なのである。
姓にかぎらず、名もまた然りである。「実」は「みのる」か「まこと」か、「浩次」「晃嗣」は「こうじ」か「ひろつぐ」「あきつぐ」か、「真子」は「まこ」か「まさこ」か、どっちなんだ? 
両様(あるいはそれ以上)に読めるものとして、具体例をひとつあげておくと、月の輪書林店主、ソフトバンクホークスの選手、NHKアナウンサー、夭折した伝説のレーサーは「高橋徹(たかはしとおる)」だが、東大文学部の元教授は「高橋徹(たかはしあきら)」、なのである。
しかし、「悲劇ということばにかくれてはいけない。平素よく出合う名字が、どういうふうにまちがえられるか、そいうツボをあらかじめ心得ておくこと」(佐久間前掲,同)がまあ大事なのだろう。もっとも、読む側にばかり負担がかかるのもどうかとおもうが。