文字・活字文化の日

今日は、「文字・活字文化の日」なので、『讀賣新聞』が「本から始まる」という特集を組んでいる。
以下、気になった言葉。稲泉連「そうして紆余曲折の末に彼(バスチアン)が元の世界へ帰るとき、『はてしない物語』は読者である僕を同時に我に返らせた。そして、受験という“現実”が立ち上がってくるのを感じつつ抱いたのが、『物語』というものに対する信頼にも似た気持ちだった。それは、『読書』の持つ力の一つを知った瞬間でもあったと、今では思っている」。
角田光代「若者の活字離れが言われていますが、誰にでも、思春期のころには活字から離れる時期があると思うんです。現実の方が忙しくなって。でも、小さい時に絵本でも童話でも、その面白さを知った人は、大人になったら必ず、本の世界に戻ってくる。だから小さな時に活字に触れることが大事だと思います。それと、おごった言い方になってしまいますが、活字の世界を楽しめないと、不幸だなあと思うんです」。
しりあがり寿「自分の存在のあり方や、世界の仕組みを客観的に了解するには、いろんな事象を分類して整理する『棚』を頭の中に作る作業が必要で、それは読書によって自然にできるものなんです」。
立川談四楼「まず作家に会う。そこから作品に入る。順序が逆という気もするが、談志の弟子になったお陰である。そんな環境に感謝している」。
朝日新聞』も特集を組んでいたらしいが、どのような内容だったのだろうか。
週刊新潮』には、福田和也氏による『争議あり』(荒井晴彦青土社)の評が。「いま、どこに、ここまで批評的な文章があるでしょうか」と結んでいる。この前に置かれた引用文には、私もぐっときたものだ。
橋口侯之介『和本入門』(平凡社)読了。特に面白く読んだのは、菊岡沾凉『江戸砂子』の出版経過についての文章。
稲垣足穂一千一秒物語』再読。そろそろ、挫折した『弥勒』に再挑戦してみたい。

何ごとにつけても一家言をもつ杉山(太郎。著者の高校時代の同級生―引用者)は、『一千一秒物語』など小手先の入門編にすぎず、真に偉大なのは彼の『弥勒』という短編であると宣言した。負けず嫌いのわたしは『弥勒』に飛び付いた。それは十七歳の空想好きの少年が、なぜか年端もいかないのに終末論に捕らえられ、ものごとが終わろうとするさまを見ると、心が忙しく感じられてくるという話である。彼は偶然に弥勒菩薩の半跏思惟像を知って、その美しさに奇妙な胸騒ぎを体験する。それから何十年もの歳月が経過し、少年の周囲はことごとく変化している。だが彼は相変わらず昔のままで、食べるものにも事欠く極貧の生活のなかで、子供染みた空想をやめないでいる。あるとき彼は銭湯からの帰りしなに、突然に自分が五十六億七千万年のちに兜率天から降り来るはずの弥勒であることに気が付き、奇妙な安心立命を得るのである。
杉山はこの『弥勒』に心酔しているように見えた。できることならこんな風に生きたいものだと、彼は遠くを仰ぎみるかのようにいった。(四方田犬彦『ハイスクール1968』新潮社,P.116)