石坂版金田一、四本め

うーむ困った。大事なCD-ROMが見つからない。また作業を増やしてしまった。
書きかけの論文を入れていなかったことが、不幸中の幸いか。
今日は、予定どおりには進捗しない「論文書き」、読書など。
小田桐誠『ドキュメント生協』(現代教養文庫)、伊達一行『沙耶のいる透視図』(集英社文庫)、山口瞳『江分利満氏の優雅なサヨナラ』(新潮文庫)、鎌田正『大漢和辞典と我が九十年』(大修館書店)など読む。昨日買った、長部日出雄『天才監督 木下惠介』(新潮社)も少しだけ読んだ。
『沙耶のいる透視図』、映画とはかなり違う。橋口と沙耶の出会いのシーンからして違う。沙耶の人物造型もずいぶん異なっている。しかし、神崎繁の人物描写は、「土屋昌巳」そのままである。神崎のいちいち理屈っぽい台詞を読むたびに、土屋昌巳のあの顔が目に浮かび、鼻にかかったような声が聞えてくる。三浦哲郎忍ぶ川』を読んでいるときに、加藤剛の独白が頭の中に響いてきたことを思い出して、ちょっと可笑しかった。
それにしても、『沙耶のいる透視図』(1986)の高樹沙耶は綺麗だった。これも、『善魔』(1951)の「三國連太郎」と同じように、デビュー作の役名がそのまま藝名となったパターンなのだろうか。
夜、市川崑悪魔の手毬唄』(東宝,1977)を観た。これで、「石坂版金田一」はひととおり観おえた……と思っていたら、『女王蜂』(1978)がまだだった。
犯人の動機が、原作よりも弱いような気がしたけれど、『病院坂の首縊りの家』(1979)の散漫さと較べると、よくまとまっていたとは思う。まあ『病院坂〜』は、原作が相当な大作なので仕方のないことだろうけど。
松田春翠、すなわち澤登翠の師匠が、「声」の出演を果しているのが邦画ファンにとっては嬉しいかぎり。クーパーとディートリッヒの『モロッコ』や、大河内傳次郎の『丹下左膳』が観られるのも楽しい*1。石坂版金田一シリーズには、そんなディテールの楽しみがある。たとえば、横溝正史自身が出演して「名言」(ときには自嘲的な「迷言」)を吐いたり、三木のり平が重要な役割を果たす傍役として出演していたりする*2

*1:はじめは、伊藤大輔『新版大岡政談』が使用されているのかと思っていたのだが、これは既にフィルム自体が失われているらしい。だから、同じ伊藤の『丹下左膳第一篇』(1933)が使われているのだろう。ともかく、「乾雲坤龍の巻」のエピソードであることは間違いない。

*2:三木のり平は、『病院坂〜』での「古本屋おやじ」が、まさに「ハマり役」でした。