飲み会

昨日、今日と急に冷え込んだ。
書籍部で、レヴィナス 熊野純彦訳『全体性と無限(上)』(岩波文庫)を購う。今日は序文だけ読む。
Mさん宅にて鍋料理をいただく。スポーツ大会の打ち上げを兼ねてのもの。
午後十一時ころにMさん宅を出たが、Iさんに、もう少しだけ飲みませんか、と誘われたので、駅附近のTに入る。女性と、しかもふたりで、膝をつき合わせて飲むなどという経験は初めてのことだったので、ひどく緊張する。たいへん恥ずかしいことに、膝ががくがくするのを止めることが出来なかった。
Iさんは、邦画をよくご覧になっている方なので、それで、どうやら私と話が合うと思い誘ってくれたらしい。
私は終電に間に合うように帰ったが、平気だといっていたIさんは、終電を逃したようだ。
終電には間に合うのかと、何度も訊きはしたのだが、まだありますからと応ずるのを真に受けていた。
彼女はかなり酩酊していただけに*1、もう少し気を遣うべきだったのだ。申し訳ないことをした。
ところで私は、「飲んでも変わらないですね」と云われることがしばしばあり、昨日も似た様なことを云われたのだが、そうではない。「正体をなくすほど飲まない」だけなのだ。
しかし、飲んだ後は、どうも寝つけず、それが心配なのである。これを書いている今日(十八日)も、朝早く目が覚めてしまい、その後何度も寝ようと試みたのだが、無駄であった。今日は大事な発表を拝聴しなければならないので、途中で眠気におそわれはしまいかと不安である。
夏木広介『わかったようでわからない日本語』(洋泉社新書y)を読んだが、随想みたような感じで、期待した内容とはちょっと違った。第二章の真中あたりはまあ面白く読んだけれど、たとえば「子供/子ども」表記とか、「人々/人びと」表記とかについては、もっと突っ込んだ論評を加えて欲しかった。
ところで、全体的なスタンスからすると、「ら抜きことば」を「受け身」と「可能」の分離から認めようとする態度は意外に思える。このテの本は、えてして、「ら抜きことば」を頭ごなしに否定するもののように思うからだ。
私は、フォーマルな場では、なるべく「ら抜きことば」を使わないように意識しているが、家族内では、「デレル」(出れる)「タベレル」(食べれる)「オキレル」(起きれる)*2でとおっている。

*1:同じことを何度も訊かれた。

*2:九州では、可能を意味する場合、ふつうは「〜(シ)キル」を用いて、たとえば「オキキル」という。