『雷親爺』を観る、その他

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用
今さらながら、アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著 田崎晴明ほか訳『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波書店)を読んだ。黒木玄氏のウェブサイト(こちらは確か「すっとこどっこい言語学」経由で知った)、東浩紀『郵便的不安たち#』(朝日文庫)所収の「ポストモダン再考――棲み分ける批評Ⅱ」*1などを読んでから、ずっと気になっていた本ではあった。
日本では例えば、ポストモダニズム本『知の技法』*2に対して、「知に技法などない」と言い放った石川某氏、「『奥』もなければ『深さ』も見えない」(これはその編著者に対しての評であるが)と笑った飯島某氏*3などの存在から考えて、『「知」の欺瞞』は新興の保守勢力による著作なのではないか、と身構えてしまう人もあったみたいだけれど(そして本国でもそう揶揄されたらしいが)、ソーカルは「ばりばりの左翼」なのだそうだ。そこがまた面白いところではある。
かつてトマス・ホッブズは、『リヴァイアサン』において、「比喩、隠喩その他の修辞のあや」を適切な語のかわりに使用することが、「背理 absurdity」に陥る原因のひとつであると述べていた(水田洋訳,岩波文庫版(一)p.90)。つまり適切な語(諸名辞)について、まずは「定義あるいは説明」することから始めるのが重要なのである、というわけで*4ホッブズ自身は、「国家」を説くために、まずはその構成員たる「人間」を再定義してみせたのだった。『「知」の欺瞞』で批判されているラカンクリステヴァボードリヤールらも、「科学用語」を「メタファー」として使っている余地がないではない。ソーカル自身もその点を勘案して予防線を張っているのだが、その場合でも、「正当化」や「説明」という手続きを踏むことが重要であると繰り返し述べている。
ソーカルらのやり方があまり上品なものでなかったとしても、ホッブズも危惧した問題(スコラ学派への呪詛に支えられた部分を差引くとはしても、だ)があるひとつの時代潮流を形づくるのに荷担したということは、決して見過ごされてはならないだろう。
昼間、矢倉茂雄『雷親爺』(1937,P.C.L)を観た。タイトルは、アルフ・グールディングの同名映画を意識したものか(島津保次郎にも同名の作品がある)。徳川夢声主演。夢声は『いろは交友録』で、この作品について以下のように述べている。

いろは交友録
デコちゃん(高峰秀子―引用者)と私の初対面は、昭和十二年十月『雷親爺』撮影中のある一日だった。矢倉茂雄監督のPCL映画第一回作品で、私としても本格的、第二回主演映画であったから、スタッフ一同なかなかの緊張ぶりだった。然し、出来上がりは微温的で、あんまりパッとしなかった。
私は主人公の雷親爺に扮し、デコは私の末娘に扮した。
「ダメだねえ大人の役者は。みんな型が古くてモダーン性がないよ。そこへいくと、あの女の児は巧いね。全部食われてるぜ」
と、獅子文六先生が、私に言った。まだ、そのころの彼女は単なる“あの女の児”だったのである。文六先生は、タカミネ・ミエコは知ってたろうが、タカミネ・ヒデコなんて初めて見たわけだ。
もっとも、映画ファンであれば、蒲田映画の名子役、ヒデコの名は知っていたろう。『雷親爺』は、彼女がPCLに入社して、第一回の出演だった。なんでも、彼女が十四歳か十五歳のときである。佐伯秀夫*5(私の長男に扮す)の抱えたギターに合わせて、デタラメ・ダンスを彼女はやったが、それがとても巧いのであった。
徳川夢声『いろは交友録』ネット武蔵野,pp.214-15)

もっとも、高峰秀子自身の回想によれば、彼女の東宝入り(高峰はその前身たるP.C.L時代もこれに含めているようである)第一回出演作品は、山本嘉次郎『良人の貞操』(1937,原作は吉屋信子)なのだそうで、千葉早智子(当時は成瀬巳喜男の妻だった)の妹役として出演したという(高峰秀子『わたしの渡世日記(上)』文春文庫,p.190)。しかも、『雷親爺』出演時は、まだ十三歳だったのだそうだ(同前,p.202)。
確かに、『雷親爺』の高峰は、その多忙さを想像することができないくらい明るくハツラツとしていて、大人たちが完全に「食われてる」。「デタラメ・ダンス」もやたらと可愛い。
それでも、夢声のいうように、作品自体が「あんまりパッとしなかった」わけでもなく、なかなか面白く観たのであった。「雷親爺」と呼ぶには、いささか迫力に缺ける徳川夢声(まだ眼鏡をかけていない壮年期の夢声は、二代目中村吉右衛門桂ざこばを足して二で割ったような顔をしている)。しかし、そのキャラクターがぴたりと嵌っているのである。あるときは一徹者だが、あるときは妥協して適当にごまをする。その商人性(と云っては語弊があるが)を見事に体現した小市民を、なんだか等身大に演じているような気がして可笑しかった。「雷横丁」(と、若者たちは呼んでいる)のセットもディテイルまで凝っているので楽しい。
それから個人的には、初期の成瀬作品でわりとシリアスな役柄が多かった御橋公のハジケっぷりが嬉しかった。宿酔でヘロヘロになったり、子供が生れたと云って(男児か女児かも確認せず)はしゃぎまわったりする彼の姿に、おもわずエールを送りたくなった。

*1:東氏は、「ポストモダン」「ポストモダニズム」を分けて考えるべしと述べ、ソーカル事件とこの『「知」の欺瞞』が、むしろ「ポストモダニズムが徐々に終わっていた曖昧な九〇年代後半の時期をこそ終わらせた」(p.32)ということにその意義を求め、ポストモダニズム一般を「一種のイデオロギーとして再整理すること」(p.34)が必要であると説いた。

*2:そういえばこの本は、当時「はなきんデータランド」で取上げられたほど、売れていたのだった! 正直に告白しておくと、私も、受験生という多感な時期にこの本を読んだ一人なのであった。

*3:この文章は、終始激越な調子ながら面白かった。

*4:ホッブズがその例外を「幾何学」に限定してしまうのには、さすがに時代を感じさせるが。

*5:但しクレジットは「佐伯秀男」。