「小説」の考案者?

◆OMMへ行って来た。購入した本については後日。
四方田犬彦『先生とわたし』(新潮社)より、引用。メモ。

(吉田―引用者)賢輔はその後も著述に長け、『外篇』(『西洋旅案内外篇』のこと。1869年刊―引用者)に続いて『物理訓蒙』上中下巻(1871、73)や『万国道中記』(須原屋伊八の発行、1872)を著したばかりか、同じ年に『英和字典』を江湖に問うている。ちなみにこの時期は英和辞典のラッシュ期にあたり、『和訳英辞林』(薩摩辞書)、『英和対訳辞書』(開拓史辞書)といった類書が次々と出版されていた。由良君美はそのなかでも『英和字典』において創案された訳語が与えた影響を強調し、明治期の思想文学や翻訳を研究するさいに、この辞書が必携であることを強調している(『みみずく偏書記』)。日本語で最初に「小説」なる言葉を考案した者が誰かをめぐっては諸説があるが、由良君美はこの点に関しては『英和字典』が初出であると主張し、この辞書の意義を強調していた。(pp.97-98)

「日本語で最初に「小説」なる言葉を考案した」とは、ようするに、「訳語としての小説」を考案したということを意味するのだろう。
たとえば興膳宏『平成漢字語往来―世相を映すコトバたち』(日本経済新聞社)には、「近代における「小説」の歴史は、坪内逍遥(一八五九‐一九三五)が英語のノベルの訳語にこの語をあてたところから始まる。逍遥は近代以前の「戯作」や「稗史」とは根本的に異なる新しい文学の創成という理想をこめて、この「小説」という語を世に送りだした」(p.60)、とある。

(吉田―引用者)彌平は生涯を師範学校教授として過ごした。彼はマックス・ミューラーの比較言語学を早速参照し、日本文法の編成に心血を注いだ。簡単にいえば、戦前の中学校で公式文法とされた、有名な「吉田文法」の創始者である。彌平の著作はもっぱら中学生、高校生のための教科書やアンソロジーに限られている。彼は『国文典教科書』『仮名遣教科書』を松邑三松堂から、1902年、03念に相次いで刊行し、その後も光風館書店から『現代文鈔』『中学日本文典』を刊行している。彌平は老いて太古という号を好んで用いた。老いるにつれて若者の言葉遣いにうるさく、女性に向かって「この野郎」という罵倒はおかしい、「この女郎(めろう)」というべきだと、孫の君美にむかって話したりもした。(p.99)

(由良哲次が―引用者)1937年『歴史哲学研究』を上梓したとき、ただちにそれを一読して共感の手紙を認めた者のなかに、国語学者山田孝雄がいた。哲次はこの山田と深い親交を結び、それが縁になって彼が学長を務めていた神宮皇學館で、1943年から集中講義に赴くことになった。(p.114、この後「南北朝正閏論」についての記述あり)

吉田清子は1905年、東京牛込に吉田彌平の娘として生まれた。東京高等師範附属小学校第二部(現在でいうなら二組)から日本女子大附属高等女学校へ進んだ。このとき同級で同じ進学コースを歩んだのが、上田富美であった。富美の父親である萬年(かずとし)は東京帝国大学教授であり、奇しくも吉田彌平と同じ国語学を専攻していた。読書好きの二人の少女は親しく交わり、清子は後に富美が女学校を退学し、やがて円地文子として作家活動を始めると、その作品の愛読者となった。(p.122)

由良君美は後に『読書狂言綺語抄』(沖積舎、1987)のなかに「くばり本の効用」という一章を設け、「人名辞典などに名の載らない、しかし副次的に極めて重要と考えられるような人物事跡」を調べようとする際に、古書界から馬鹿にされ、めったにカタログに掲載されることのない、こうした私家版の出版物の意義を力説した。(p.124)

ちなみに extraterritorial をかつて「脱領域」と訳してみせた由良君美は、ここ(『メタフィクション脱構築』文遊社1995年刊―引用者)でも deconstruction という新しい理論的用語のために、「脱構築」という巧みな新語を考案している。(p.152)

以下のはアクロスティック

ゆめをかたることは
らくないとなみだろうか
きびしさをかくごで
みずからのみちをゆく
よのうきしずみをよそに
しぶとくしかもしなやかに
矢川(澄子―引用者)の詩作品に親しんできた人ならただちに気付くだろうが、この詩は各行の頭の音だけを拾ってゆくと、「ゆらきみよし」という言葉が構成されるようになっている。(p.177)

「これから大きな仕事にとりかかろうと思っていた由良君美にとって、病床にあることは慙愧の思いであったとわたしは推測する」(p.179)の「慙愧の思い」は、「残念な思い」の義で使われているようだがどうか。そういえば、作家の某が「わたし、怒ってます」ということを表現しようとして、「慙愧(の念/思い?)にたえない」云々と発言して、失笑を買ったことがかつてあった。
p.100 にもあるが、吉田彌平の次男の俊男は、「山の上ホテル」の創業者。由良君美の伯父にあたる。
pp.94-95に引かれる「《ルビ》の美学」は、『紙つぶて』でも絶賛されていた記憶がある。
p.118に、「哲次はその後、日本浮世絵協会で理事を務め、北斎こそが写楽に他ならないという学説を唱える」とあるが、これは、中野三敏写楽』(中公新書)によると、昭和四十三年のことらしい。それ以前(昭和三十八年)に、「写楽北斎」説を発表したのが横山隆一なのだそうだ。「フクちゃん」の横山隆一である。