『説文』「木」部贋作説

◆昨日すこしだけ触れた、『説文解字』について、関連することがらを書いておくことにしよう。まず、吉川幸次郎『人間詩話』(岩波新書,1957)には、次のようにある。

蔵書のうち最も得意なものを以て家に名づけることは、中国の蔵書家に、往往ある風習である。最近の例として、南京の〔登+阝〕氏が、群碧楼というのは、晩唐の詩人、李群玉の詩集と、おなじく唐の李中の詩集、「碧雲集」の、ともに宋版を蔵するからであり、北京の傅増湘さんが雙鑑楼というのは、「資治通鑑」の善本を二つ蔵するからであろう。
わが国でも、その風にならわれたのは、湖南内藤虎次郎先生である。先生は、京都大学東洋史学の教授として、一世の碩学であったとともに、その漢籍の収蔵は、量質ともに、もはや書生の蔵書ではなかった。はじめ宝馬盦(ほうばあん)と号されたのは、司馬遷の著である「史記」の、宋版を二つももっていられたからである。それがやがて宝左盦(ほうさあん)と改まったのは、「春秋左氏伝」の古写本を得られたからである*1晩年には更に宝許盦(ほうきょあん)と改まった。漢の許慎の著である「説文解字」の、唐の写本を得られたからである。(pp.105-06)

『説文』唐鈔本を湖南が得たという事実は、よく知られている。この唐鈔本は、むろん完本ではなく、所謂「木」部、しかもその一部(六葉)、僅か百八十八字にすぎない(「木」部には、総数四百二十一字が収められている)。『説文』全体からすると、約四十四分の一の分量にあたる。
湖南の『目賭書譚』(吉川幸次郎によればこれが湖南の遺著であるらしい)には、「唐写本説文残巻」という文章が収められているのだそうで、その一部が、白石將人「『説文解字』唐写本木部残巻の真偽問題についての何九盈氏論文の紹介」(『汲古』第51号所収)に引かれている*2
白石氏も、「(湖南が―引用者)入手の興奮冷めやらぬ筆致で書」いている、と記すように、たいへんな喜びようであったらしい。「宝許盦」と号したのも頷ける。
◆しかし、何九盈氏の論文は、『説文』「木」部残巻が唐代のものではなく、清代の贋作であると結論しているのである。『説文』「木」部の偽作説というのは、なにも何氏が初めて主張したことなのではなく、旧来いわれてきたことではあった。たとえば『中国語文』(一九五七年第五期)上において、〔心+軍〕天民(贋作派)、周祖謨(真作派)による真贋論争がおこなわれている。
何氏の論文によると、その論争よりもずっと以前に、孫詒譲(1848-1908)が『説文』「木」部を贋物と断言したのだそうだ(その父孫衣言もおなじく疑義を抱いていたという)。これが同治三(1864)年(日本の元治元年にあたる)のことであるという。しかるに、孫氏のその発言が世に知られるところとなったのは、2003年刊の『孫衣言孫詒譲父子年譜』(上海社会科学出版社)によってなのだそうだ。ということは、実に百四十年間も封印されていたことになる。
孫詒譲は、「木」部が偽作であることの証拠として、(1)二徐本(いわゆる「大徐本」「小徐本」)と行款の体例が相違していること*3、(2)王宗沂(1837-1906)が「同郷の小学に詳しい者の偽作である」と証言していること、それから、(3)米友仁(跋文を附している)による「木」部の真贋鑑定がキナ臭いこと、を理由に挙げているという(どうも政治的な問題とも無縁でないようなのだ)。
◆ところで周祖謨『問學集』に、「唐本説文與説文舊音」(1948.1)という論文が収めてある(pp.723-759)。これには、いささか不鮮明ながら「木」部の写真複製版が附されているのだけれども、その「序言」に、「木」部は「今爲日人内藤虎氏所得」*4、とある。いっぽう、これまた唐代の鈔本と目される「口」部の残巻二部については、「一爲日人平子尚氏所藏、存四字、未見。一爲日人某氏藏、存六行、十二字」云々とあって、後者の「某氏藏」の「口」部残簡の摸本も掲げられている(p.724)。「某氏」というのは、書家の故西川寧氏のことか(阿辻哲次『漢字の文化史』ちくま学芸文庫p.226)。
さて周氏によれば、「木部殘本毎行二篆。口部殘本毎行三篆」という体例を示しているから、孫詒譲の論拠(1)は、必ずしも妥当ではないということになる(何氏も原註で指摘している)。また、「木」部の書体の古さ(所謂「懸針體」)からしても大暦年間(766-779)以前のものにちがいない、と書いている(「唐本木部則懸針體、此必爲李氏*5以前説文舊式」p.727、とある)。しかし、王宗沂のいうように、小学に詳しい者による偽作だとすれば、この点は「真作派」の論拠としては弱くなる。それに、頼惟勤監修 説文会編『説文入門』(大修館書店,1983)などのように、(神田喜一郎の見解に随っているようだが)そもそも「唐鈔本は李陽冰校訂本とは別系統のものとすべき」だ(p.10)、という見かたもあるので、先後関係の攷証はたいへん困難なのである。
◆『説文』「木」部、その所有者の変遷は次の如し。張仁法(廉臣)→莫友芝(1811-1871)→端方→内藤虎次郎→杏雨書屋。

*1:湖南には、『宝左盦文』(大正十二=1923年)という著作もあるという(倉石武四郎『本邦における支那學の發達』汲古書院p.91など)。

*2:何九盈「唐写本『説文・木部』残帙的真偽問題」が論文として発表されたのは、『中国語文』(二〇〇六年第五期)においてである。

*3:二徐本は、部首字のみ改行、行頭から書かれる。唐代の石刻本なども同じ体例を示す。しかし「木」部は、毎葉三十六字であり、上下を分けて二列としている。

*4:湖南の歿後は、大阪の十三にある杏雨書屋が蔵することとなった。現在は国宝に指定されている。

*5:八世紀後半、李陽冰の校訂を経た『説文』が有り、ここではそれをさす。李陽冰は、「懸針體」を「玉箸體」に改めたとされる。「懸針體」「玉箸體」いずれも篆書の一種である。